夜の街は、昼間に比べて正直だった。
人の欲も、恐怖も、後ろ暗い感情も、全部まとめて湿った空気に溶け出している。街灯の下を歩くだけで、それが靴底から伝わってくる。
その先頭を、デルタが歩いていた。
鼻をひくひくさせ、犬みたいに――いや、犬よりもずっと真剣な顔で。
「……ある」
短く呟いて、また数歩進む。
誰に説明するでもなく、確認するでもなく、ただ「ある」と言い切る。
それだけで十分だ、とでも言うように。
後ろから見ている俺としては、毎回思う。
見た目は完全に「年上の姉ちゃん」なのに、中身は完全に「散歩中に面白い匂いを見つけた子供」だな、と。
ゼータが小声で言う。
「本当に、匂いだけで追えるんだな……」
「追える、じゃない。覚えてる、だ」
イータが即座に訂正する。
学者気取りの顔で言うが、目だけはちゃんと周囲を警戒している。
こういう時のイータは、冗談を言わない。
デルタは橋の下で立ち止まった。
潮の匂い、コンクリートの湿気、鉄錆。
普通なら全部混ざって区別がつかないはずの場所だ。
「……ここ」
言った瞬間、彼女の眉がひそっと歪む。
一歩、前へ。
二歩、横へ。
空気を嗅ぎ直す。
そして――首を傾げた。
「……消えた」
声に、怒りはない。
驚きもない。
ただ、納得できないという感情だけが、はっきり混じっている。
俺はその瞬間で分かった。
これは「見失った」顔じゃない。
これは「ありえないものを見た」顔だ。
「風向きじゃないな」
俺が言うと、デルタは首を横に振る。
「違う。風なら、残る。薄くなっても、逃げない」
「じゃあ?」
「……切れた」
その言い方が妙だった。
匂いが消えた、じゃない。
切れた。
ゼータが周囲を見回す。
「魔法の痕跡は?」
「ない。少なくとも、知ってる種類じゃない」
イータが即答する。
この二人が揃って首を傾げる時点で、だいたい碌でもない。
デルタはしゃがみ込み、地面に手を当てた。
犬の真似じゃない。
獣の真似でもない。
ただ、「確かめている」。
「ここまで、あった」
指で空をなぞる。
「続いてた」じゃない。
「あった」。
それが余計に気持ち悪かった。
俺は一歩前に出て、周囲を見る。
橋脚の影。
街灯の明滅。
水面に映る光が、微妙にズレて揺れている。
――ああ、これか。
胸の奥が、嫌な感覚を思い出す。
何度も見てきた。
何度も踏み込んできた。
「デルタ」
「なに?」
「それ、嗅覚の問題じゃない」
彼女が振り返る。
少し不機嫌そうだ。
「じゃあ、なに」
俺は答えながら、確信していた。
「匂いの続きが、この世界にない」
デルタは一瞬きょとんとした顔をして、次に――
「……ずるい」
と、心底嫌そうに言った。
その一言で、場の空気が少しだけ軽くなる。
だが、軽くなった分だけ、底に沈んでいるものの重さがはっきりした。
ここで切れている。
いや、切られている。
その事実だけが、夜の空気にべったりと貼りついていた。
橋の下は、夜でも妙に明るかった。
街灯の光が水面に裂けて、揺れて、跳ね返ってくる。普通ならただの反射だ。けど今日は違う。反射が、反射のくせに「遅れて」来る。光の動きが、現実のテンポから半拍ずれている。
こういうのを俺は知ってる。
世界が正気な顔で狂い始めたときの、いちばん嫌な兆候だ。
デルタがまだしゃがんだまま、鼻をひくつかせている。
「……納得いかない。消えるのは、卑怯」
「卑怯なのは俺らじゃない。こっちだ」
俺は橋脚のコンクリートを指で軽く叩いた。硬い。普通。
なのに、叩いた音がほんの少しだけ遅れて返ってくる。鼓膜の奥が気持ち悪い。
ゼータが眉をひそめる。
「これ、結界……?」
「結界なら、まだマシだ」
俺がそう言うと、ゼータは嫌そうな顔をした。
俺も嫌だ。結界なら壊せば済む。でもこれは、壊す対象がはっきりしない。
イータが視線を動かしながら言う。
「位相……ずれてる……? 観測……誤差じゃない……」
「誤差じゃない。世界の方がズレてる」
俺は、橋の向こう側を見た。
歩道のガードレールがある。そこに貼られた反射テープが、街灯の光を返してる。普通なら鋭い点になる。だが今日は、点が二重に見えた。ズレた点が、追いかけっこみたいに重なっている。
“ここ”が薄い。
薄くなって、裂け目ができかけている。
そう思った瞬間、背中の奥が冷たくなる。
昔から変わらない。オーロラカーテンを開く直前の、あの感覚。
喉の奥が乾くのに、汗は出ない。心臓だけが、やけに静かに強く鳴る。
「……ツカサ」
ゼータが俺の顔を見る。
たぶん、俺の表情が変わったんだろう。自分じゃ分からない。
「何か分かった?」
「匂いが“消えた”んじゃない。匂いの続きが“別の場所に逃げた”」
デルタが勢いよく立ち上がった。
「別の場所? どこ」
「この世界の外」
そう言った瞬間、デルタがすごく嫌そうな顔をした。
その顔のまま、腕を組む。
「……それ、追えない」
「追える。お前の鼻は、たぶん追ってる」
「追ってない。切れてる」
「切れてるのはこっちの都合だ。お前の鼻は“続き”を覚えてる。だからムカついてんだろ」
デルタは少しだけ口を開けたまま固まって、悔しそうに目を細めた。
「……うるさい」
小さい声だった。
子供が、図星を刺されて黙る時のやつだ。俺は内心、少しだけ笑いそうになって、すぐ引っ込めた。
笑ってる場合じゃない。
このズレ方は、まずい。
「この感じ……」
俺は水面に落ちる街灯の反射を睨んだ。
反射は揺れている。揺れているのに、揺れの芯が定まっていない。
まるで水じゃなくて、薄い膜を叩いているみたいだ。
「誰かが“穴”を開けてる」
「穴……?」
ゼータが呟く。
「空間に……ってこと?」
「そう。こっちの世界を、勝手に出入り口にしてる」
イータが少しだけ目を輝かせる。
この場面で目を輝かせるのは、だいぶ頭がおかしい。だがイータは昔からそうだ。危険なものを見ると、怖がるより先に「試したい」が出る。
「観測……したい……」
「するな。死ぬぞ」
「……死なない……たぶん……」
「たぶんで踏むな」
俺が言うと、イータはしぶしぶ口を閉じた。
それでも視線は、ズレの中心を舐めるように追っている。
デルタが急に歩き出す。匂いの続きを追うみたいに、橋の下のさらに暗い方へ。
その先は人がほとんど来ない。夜の水辺。転んだら普通に終わる場所だ。
「おい、デルタ」
俺が呼ぶと、デルタは振り返らずに言った。
「ここ、嫌な匂い。甘いのに腐ってる。お前、嫌い?」
「嫌いだ」
「じゃあ、行く」
理屈じゃない。
でも、こういう直感が当たるのも知ってる。
ツカサって人間は、旅をしてから“理屈で生きるのをやめた”部分がある。俺は俺で、それが少し怖い。
俺はデルタの肩に視線を投げた。
目だけで制する。足を止めろ、じゃない。速度を落とせ、の合図。
デルタは一瞬だけ肩を揺らして、ちゃんと減速した。
ゼータが俺の横に来る。
「……行くのか?」
「行く」
「危なくない?」
「危ない」
「じゃあ……」
「だから行く」
俺はそう言い切って、ポケットの中でカードケースの感触を確かめた。
世界が変な手口を使ってくるなら、こっちも変な手口で返すだけだ。
橋脚の陰。風が一段冷える。
その瞬間、空気が“鳴った”。
音じゃない。
鳴った、という感覚だけがある。
膜が、擦れて、軋んで、裂け目が息をするように震えた。
そこに――光が走る。
薄紫の、オーロラ。
夜景の光とは違う。月明かりとも違う。
ただ“世界の境目”だけが発光しているような色。
デルタが立ち止まり、ぽつりと呟く。
「……これ、匂いの切れ目」
「そうだ」
イータが息を呑んだ。
「……綺麗……でも……嫌……」
「綺麗なものほど、気軽に触るな」
俺は前に出る。
手を伸ばす。空を掴むみたいに。
指先が、熱くも冷たくもないものに触れる。
それなのに、皮膚の奥がぞわっとする。
“ここに通路がある”
その事実だけが、遅れて脳に届く。
ゼータが小さく息を吸う。
「ツカサ……それ……」
「黙ってついて来い」
俺は振り返らずに言った。
優しい言葉を選ぶ余裕はない。
でも、置いていく気もない。俺はこいつらを娘みたいに思ってる。だからこそ、一緒に地獄を見る。
オーロラが裂ける。
世界が、紙みたいにめくれる。
俺は一歩踏み出して――
足元が、消えた。
落下じゃない。
移動でもない。
ただ、次の場所が「最初からそこにあった」みたいに、景色が繋ぎ変わる。
背中で、ゼータが喉を鳴らすのが分かった。
デルタが嬉しそうに鼻を鳴らすのも分かった。
イータが何か呟いたが、聞こえなかった。聞こえない方がいい。
俺は目を細める。
この先にあるのは、匂いの続き。
そして――たぶん、フェイトの背後にいる“何か”に繋がる糸。
胸の奥で、冷たい笑いが浮かびかけて、俺はそれを噛み潰した。