悪魔と呼ばれ慣れて 3rd   作:ボルメテウスさん

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時空の向こう側

夜の街は、昼間に比べて正直だった。

人の欲も、恐怖も、後ろ暗い感情も、全部まとめて湿った空気に溶け出している。街灯の下を歩くだけで、それが靴底から伝わってくる。

 

その先頭を、デルタが歩いていた。

 

鼻をひくひくさせ、犬みたいに――いや、犬よりもずっと真剣な顔で。

 

「……ある」

 

短く呟いて、また数歩進む。

誰に説明するでもなく、確認するでもなく、ただ「ある」と言い切る。

それだけで十分だ、とでも言うように。

 

後ろから見ている俺としては、毎回思う。

見た目は完全に「年上の姉ちゃん」なのに、中身は完全に「散歩中に面白い匂いを見つけた子供」だな、と。

 

ゼータが小声で言う。

 

「本当に、匂いだけで追えるんだな……」

 

「追える、じゃない。覚えてる、だ」

 

イータが即座に訂正する。

学者気取りの顔で言うが、目だけはちゃんと周囲を警戒している。

こういう時のイータは、冗談を言わない。

 

デルタは橋の下で立ち止まった。

潮の匂い、コンクリートの湿気、鉄錆。

普通なら全部混ざって区別がつかないはずの場所だ。

 

「……ここ」

 

言った瞬間、彼女の眉がひそっと歪む。

 

一歩、前へ。

二歩、横へ。

空気を嗅ぎ直す。

 

そして――首を傾げた。

 

「……消えた」

 

声に、怒りはない。

驚きもない。

ただ、納得できないという感情だけが、はっきり混じっている。

 

俺はその瞬間で分かった。

これは「見失った」顔じゃない。

これは「ありえないものを見た」顔だ。

 

「風向きじゃないな」

 

俺が言うと、デルタは首を横に振る。

 

「違う。風なら、残る。薄くなっても、逃げない」

 

「じゃあ?」

 

「……切れた」

 

その言い方が妙だった。

匂いが消えた、じゃない。

切れた。

 

ゼータが周囲を見回す。

 

「魔法の痕跡は?」

 

「ない。少なくとも、知ってる種類じゃない」

 

イータが即答する。

この二人が揃って首を傾げる時点で、だいたい碌でもない。

 

デルタはしゃがみ込み、地面に手を当てた。

犬の真似じゃない。

獣の真似でもない。

 

ただ、「確かめている」。

 

「ここまで、あった」

 

指で空をなぞる。

「続いてた」じゃない。

「あった」。

 

それが余計に気持ち悪かった。

 

俺は一歩前に出て、周囲を見る。

橋脚の影。

街灯の明滅。

水面に映る光が、微妙にズレて揺れている。

 

――ああ、これか。

 

胸の奥が、嫌な感覚を思い出す。

何度も見てきた。

何度も踏み込んできた。

 

「デルタ」

 

「なに?」

 

「それ、嗅覚の問題じゃない」

 

彼女が振り返る。

少し不機嫌そうだ。

 

「じゃあ、なに」

 

俺は答えながら、確信していた。

 

「匂いの続きが、この世界にない」

 

デルタは一瞬きょとんとした顔をして、次に――

 

「……ずるい」

 

と、心底嫌そうに言った。

 

その一言で、場の空気が少しだけ軽くなる。

だが、軽くなった分だけ、底に沈んでいるものの重さがはっきりした。

 

ここで切れている。

いや、切られている。

 

その事実だけが、夜の空気にべったりと貼りついていた。

橋の下は、夜でも妙に明るかった。

街灯の光が水面に裂けて、揺れて、跳ね返ってくる。普通ならただの反射だ。けど今日は違う。反射が、反射のくせに「遅れて」来る。光の動きが、現実のテンポから半拍ずれている。

 

こういうのを俺は知ってる。

世界が正気な顔で狂い始めたときの、いちばん嫌な兆候だ。

 

デルタがまだしゃがんだまま、鼻をひくつかせている。

 

「……納得いかない。消えるのは、卑怯」

 

「卑怯なのは俺らじゃない。こっちだ」

 

俺は橋脚のコンクリートを指で軽く叩いた。硬い。普通。

なのに、叩いた音がほんの少しだけ遅れて返ってくる。鼓膜の奥が気持ち悪い。

 

ゼータが眉をひそめる。

 

「これ、結界……?」

 

「結界なら、まだマシだ」

 

俺がそう言うと、ゼータは嫌そうな顔をした。

俺も嫌だ。結界なら壊せば済む。でもこれは、壊す対象がはっきりしない。

 

イータが視線を動かしながら言う。

 

「位相……ずれてる……? 観測……誤差じゃない……」

 

「誤差じゃない。世界の方がズレてる」

 

俺は、橋の向こう側を見た。

歩道のガードレールがある。そこに貼られた反射テープが、街灯の光を返してる。普通なら鋭い点になる。だが今日は、点が二重に見えた。ズレた点が、追いかけっこみたいに重なっている。

 

“ここ”が薄い。

薄くなって、裂け目ができかけている。

 

そう思った瞬間、背中の奥が冷たくなる。

昔から変わらない。オーロラカーテンを開く直前の、あの感覚。

喉の奥が乾くのに、汗は出ない。心臓だけが、やけに静かに強く鳴る。

 

「……ツカサ」

 

ゼータが俺の顔を見る。

たぶん、俺の表情が変わったんだろう。自分じゃ分からない。

 

「何か分かった?」

 

「匂いが“消えた”んじゃない。匂いの続きが“別の場所に逃げた”」

 

デルタが勢いよく立ち上がった。

 

「別の場所? どこ」

 

「この世界の外」

 

そう言った瞬間、デルタがすごく嫌そうな顔をした。

その顔のまま、腕を組む。

 

「……それ、追えない」

 

「追える。お前の鼻は、たぶん追ってる」

 

「追ってない。切れてる」

 

「切れてるのはこっちの都合だ。お前の鼻は“続き”を覚えてる。だからムカついてんだろ」

 

デルタは少しだけ口を開けたまま固まって、悔しそうに目を細めた。

 

「……うるさい」

 

小さい声だった。

子供が、図星を刺されて黙る時のやつだ。俺は内心、少しだけ笑いそうになって、すぐ引っ込めた。

 

笑ってる場合じゃない。

このズレ方は、まずい。

 

「この感じ……」

 

俺は水面に落ちる街灯の反射を睨んだ。

反射は揺れている。揺れているのに、揺れの芯が定まっていない。

まるで水じゃなくて、薄い膜を叩いているみたいだ。

 

「誰かが“穴”を開けてる」

 

「穴……?」

 

ゼータが呟く。

 

「空間に……ってこと?」

 

「そう。こっちの世界を、勝手に出入り口にしてる」

 

イータが少しだけ目を輝かせる。

この場面で目を輝かせるのは、だいぶ頭がおかしい。だがイータは昔からそうだ。危険なものを見ると、怖がるより先に「試したい」が出る。

 

「観測……したい……」

 

「するな。死ぬぞ」

 

「……死なない……たぶん……」

 

「たぶんで踏むな」

 

俺が言うと、イータはしぶしぶ口を閉じた。

それでも視線は、ズレの中心を舐めるように追っている。

 

デルタが急に歩き出す。匂いの続きを追うみたいに、橋の下のさらに暗い方へ。

その先は人がほとんど来ない。夜の水辺。転んだら普通に終わる場所だ。

 

「おい、デルタ」

 

俺が呼ぶと、デルタは振り返らずに言った。

 

「ここ、嫌な匂い。甘いのに腐ってる。お前、嫌い?」

 

「嫌いだ」

 

「じゃあ、行く」

 

理屈じゃない。

でも、こういう直感が当たるのも知ってる。

ツカサって人間は、旅をしてから“理屈で生きるのをやめた”部分がある。俺は俺で、それが少し怖い。

 

俺はデルタの肩に視線を投げた。

目だけで制する。足を止めろ、じゃない。速度を落とせ、の合図。

デルタは一瞬だけ肩を揺らして、ちゃんと減速した。

 

ゼータが俺の横に来る。

 

「……行くのか?」

 

「行く」

 

「危なくない?」

 

「危ない」

 

「じゃあ……」

 

「だから行く」

 

俺はそう言い切って、ポケットの中でカードケースの感触を確かめた。

世界が変な手口を使ってくるなら、こっちも変な手口で返すだけだ。

 

橋脚の陰。風が一段冷える。

その瞬間、空気が“鳴った”。

 

音じゃない。

鳴った、という感覚だけがある。

膜が、擦れて、軋んで、裂け目が息をするように震えた。

 

そこに――光が走る。

 

薄紫の、オーロラ。

夜景の光とは違う。月明かりとも違う。

ただ“世界の境目”だけが発光しているような色。

 

デルタが立ち止まり、ぽつりと呟く。

 

「……これ、匂いの切れ目」

 

「そうだ」

 

イータが息を呑んだ。

 

「……綺麗……でも……嫌……」

 

「綺麗なものほど、気軽に触るな」

 

俺は前に出る。

手を伸ばす。空を掴むみたいに。

指先が、熱くも冷たくもないものに触れる。

それなのに、皮膚の奥がぞわっとする。

 

“ここに通路がある”

その事実だけが、遅れて脳に届く。

 

ゼータが小さく息を吸う。

 

「ツカサ……それ……」

 

「黙ってついて来い」

 

俺は振り返らずに言った。

優しい言葉を選ぶ余裕はない。

でも、置いていく気もない。俺はこいつらを娘みたいに思ってる。だからこそ、一緒に地獄を見る。

 

オーロラが裂ける。

世界が、紙みたいにめくれる。

 

俺は一歩踏み出して――

 

足元が、消えた。

 

落下じゃない。

移動でもない。

ただ、次の場所が「最初からそこにあった」みたいに、景色が繋ぎ変わる。

 

背中で、ゼータが喉を鳴らすのが分かった。

デルタが嬉しそうに鼻を鳴らすのも分かった。

イータが何か呟いたが、聞こえなかった。聞こえない方がいい。

 

俺は目を細める。

この先にあるのは、匂いの続き。

そして――たぶん、フェイトの背後にいる“何か”に繋がる糸。

 

胸の奥で、冷たい笑いが浮かびかけて、俺はそれを噛み潰した。

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