オーロラカーテンを抜けた、その一歩目で、俺は眉をひそめた。
空気が、薄い。肺に入る量が足りないわけじゃない。そうじゃなくて、吸ったはずの空気が、どこかに逃げていく感覚がある。まるでこの場所そのものが「呼吸」という行為を信用していないみたいだった。
足音が遅れて返ってくる。
いや、返ってくるというより、忘れた頃に思い出したように追いついてくる。
距離感が壊れている。近いはずの壁が遠く、遠いはずの天井が妙に迫ってくる。視覚と感覚が噛み合わず、世界が一拍ずつズレて動いている。
「……ここ、拠点だな」
呟いた声は、すぐに消えた。反響しない。吸い込まれたみたいに、何も残らない。
自然にできた異世界じゃない。結界でもない。誰かが「使うために」整えた場所だ。通路の角度、床の素材、光の当たり方。その全部が、人の都合で組まれている。
デルタが鼻をひくつかせた。
匂いは、確かに続いている。フェイトの匂い、そして――それに重なる、嫌な違和感のある別の何か。甘くもなく、腐ってもいない、けれど生き物の匂いをしていない“残り香”。
「……奥だな」
俺は頷く。
ただ、その「奥」が素直に奥であるはずがないことも、同時に理解していた。
歩くたびに、床の感触が微妙に変わる。硬さが揺らぎ、重心が安定しない。足を置く位置を間違えれば、簡単に転びそうだ。それでも、転ぶ気がしないのは――この場所が、まだ本気で排除する気がないからだ。
歓迎でもない。拒絶でもない。
ただ、見られている。
カメラの視線じゃない。
生き物の視線でもない。
もっと厄介で、もっと冷たい、「機能としての視線」。
「……気に食わねえ」
理由は単純だった。
この拠点は、侵入者を拒む構造じゃない。
侵入することを前提に作られている。
そして、その前提の中心に、自分が含まれている――
そんな嫌な確信が、じわじわと背中に張り付いて離れなかった。
違和感は、予感に変わるまでが早かった。
通路の照明が一斉に落ちる。闇ではない。暗転ですらない。光の質が変わっただけだ。白から無機質な青へ、温度を失った色へと切り替わる。それだけで、この拠点が「起きた」ことは分かった。
床が、鳴いた。
低く、腹の底に響くような振動音。警報にしては感情がない。注意喚起にしては淡々としている。これは警告じゃない。作業開始の合図だ。
「来るぞ」
俺がそう言った瞬間、通路の構造が変わった。
壁がスライドする。天井が割れる。床がせり上がる。物理法則を無視しているわけじゃない。ただ、最初からそのつもりで作られていただけだ。人が歩くことも、逃げることも、戦うことも――全部、計算済み。
ゼータが一歩前に出ようとした、その刹那だった。
透明な隔壁が、音もなく落ちた。
「……チッ!」
反射的に叩いた拳が、見えない壁に弾かれる。衝撃は柔らかい。硬度を誇示する防壁じゃない。隔てるためだけの壁。戦わせる気はない。ただ、分けたいだけだ。
視界の端で、イータが向こう側へ押し流されるのが見えた。
床が傾き、重力の向きが一瞬だけ変わる。抗おうとする前に、彼女の姿は通路の曲がり角の向こうへ消えた。
「イータ!」
呼びかけは届かない。音が遮断されているわけじゃないのに、声が途中で薄れる。まるで空間そのものが、言葉を必要としていないみたいだった。
次はデルタだった。
床が開く。落とし穴じゃない。輸送口だ。捕まえようとした俺の手を、ゼータが引き止める。
「ツカサ、無理! 構造が……!」
言い終える前に、デルタの姿が下へ消えた。悲鳴はない。あいつは落ちることを恐れない。むしろ、楽しんでいる可能性すらある。それが分かっているからこそ、余計に歯がゆい。
残ったのは、俺とゼータだけだった。
いや、正確には――それも一瞬。
通路の先が、歪む。
空気が折れ曲がり、景色が二重に見える。立っているはずの床が、次の瞬間には「別の床」になっている。ゼータの姿が、半歩分、ズレた。
「……っ!」
手を伸ばす。しかし、届かない。
ゼータはそこにいる。確かに見えている。それなのに、同じ場所に存在していない。位相が違う。重なっているのに、触れられない。
「ツカサ!」
呼ばれた声は、すぐ近くから聞こえた。
それが余計にタチが悪い。
「大丈夫だ。落ち着け」
自分に言い聞かせるように、俺は言った。
分断は目的じゃない。手段だ。相手は、こちらを各個にしたいわけじゃない。もっと単純で、もっと悪趣味な理由がある。
――選ばせたい。
誰が、どこへ行くのか。
誰が、誰と会うのか。
そして、誰が“当たり”なのか。
通路の先で、ゼータの姿が完全に消えた。
音も、光も、痕跡も残さず。
俺は一人になった。
そして同時に、確信する。
これは、最初から俺を――
どこかに誘導するつもりだった。
「……上等だ」
一人になった途端、空間はやけに静かだった。
静かすぎて、耳鳴りがする。自分の呼吸音と、靴底が床を擦る微かな音だけが、やけに大きく聞こえる。
俺は歩き出した。
迷いはない。正確には、迷わせる意味がないと理解したからだ。
通路はまっすぐだ。
曲がり角も、分岐もない。逃げ道も、隠れる場所も用意されていない。まるで「ここを進め」と言わんばかりの直線。あまりにも露骨で、だからこそ笑いそうになる。
「……これは、最初から俺をどこかに誘導するつもりかっ!」
声に出した瞬間、わずかに空気が揺れた。
返事はない。だが、否定もない。
床に刻まれた幾何学模様。壁に走る淡い光のライン。どれもが視線を自然と前へ、前へと押し出す配置になっている。心理誘導としては、教科書通り。だが、相手はそれを隠す気すらない。
――俺“だけ”だ。
分断の瞬間を思い出す。
デルタは下へ。イータは横へ。ゼータは位相の向こうへ。
そして自分は、この一本道。
偶然じゃない。
戦力分散でもない。
これは指名だ。
「管理局……じゃないな」
管理局なら、こんなやり方は取らない。
彼らは秩序を保つために動く。記録し、分類し、危険度を測る。だが、ここにあるのはもっと個人的で、もっと歪んだ意思だ。
相手は俺を知っている。
それも、噂や観測レベルじゃない。選ぶ理由を持っている。
通路の先、視界がゆっくりと開けていく。
広間だ。無駄に広く、無駄に天井が高い。研究施設というより、舞台装置に近い。誰かが“立つ”ことを前提に作られた空間。
俺は、足を止めた。
胸の奥で、長年の旅で培った感覚が囁く。
――ここだ。
――ここから、話が変わる。
これまで幾つもの世界を渡ってきた。
王に会ったこともある。神を名乗る存在と相対したこともある。自分を利用しようとする連中も、排除しようとする連中も、山ほど見てきた。
だが、今回のこれは少し違う。
敵意だけじゃない。
警戒でもない。
期待だ。
「……面白い」
自然と、口元が歪む。
相手の思惑が分かった途端、逆に視界が澄んだ。誘導されていると理解した瞬間から、主導権は半分こちらに戻る。
誘導されるのは構わない。
だが、どこまで誘導されるかは俺が決める。
ライドブッカーに指を掛けながら、俺は一歩、広間へ踏み出した。
罠の中心。
視線の集束点。
“観測者”が待つ場所。
「さあ……出てこい」
声は低く、静かだった。
挑発でも、怒りでもない。ただの事実確認。
――俺を呼んだのは、誰だ。
広間の奥で、空気が変わった。
何かが現れた、というより――そこに在ったものが、ようやく輪郭を持った、そんな感覚だ。
俺は一目で悟った。
この女は、ここに至るまでの全てを知っている側だと。
「……やっと来たわね」
「てめぇは、あのフェイトの親か」
「プレシア・テスタロッサよ。まぁ、その言い方は気に入らないわね」
その声には驚きも警戒もなかった。まるで予定通りに役者が舞台へ上がったのを確認するような、淡々とした響き。
俺は足を止め、間合いを測る。
変身はしない。
する必要がないと、今は判断した。
「随分と回りくどい歓迎だな。入口で全員まとめて迎えれば良かっただろ」
皮肉を込めた言葉にも、彼女は眉一つ動かさない。
それどころか、わずかに――確信めいた笑みを浮かべた。
「いいえ。あなた“だけ”で良かったのよ」
その言い方が、気に入らない。
俺の背中に、ぞくりとした悪寒が走る。
「あなたは、ここに来るべき存在だった。最初から」
「……は?」
プレシアは一歩、前へ出た。
距離を詰めるというより、答えを押し付ける動きだ。
「あなたは“イレギュラー”なんかじゃない。そんな曖昧な言葉で片付けられる存在じゃないわ」
視線が、突き刺さる。
研究者の目だ。人を人として見ない、結果だけを見る目。
「あなたは――アルハザードの住人よ」
その断定は、疑問形ですらなかった。
仮説でも推測でもない。結論だ。
一瞬、俺の思考が止まる。
アルハザード。
「何を言っているんだ?というか、アルハザードって、どういう意味だよ」
笑おうとして、できなかった。
プレシアの目には、迷いも期待もない。ただ“確認が取れた”という安堵だけがある。
「次元世界の狭間に存在し、今は失われた秘術の眠る地。ここにあるはずの時を操る魔法と復活の魔法を使う事っ!」
その一言に対して、俺は。
「・・・そういう事かよ」
同時に、それに対して、俺は納得するが。
だからこそ。
「そんな場所はもうないよ」
それが俺の答えだった。