巨体が、わずかに軋む音を立てた。
ファイブキングとしての姿を保ってはいるものの、その動きには明らかな“重さ”が混じっている。先程までの圧倒的な破壊の勢いは失われ、地を踏みしめるたびに、余分な力が逃げていくのが見て取れた。
魔力はまだ潤沢だ。
出力も落ちてはいない。
だが、制御が遅れている。
――認めたくない。
プレシア自身が、誰よりもそれを理解していた。
これは消耗ではない。敗北でもない。
“言葉”だ。
あの俺が放った一言。
「失ったものばかりを見るな」という、あまりにも簡単で、だからこそ否定し続けてきた考え。
それが、今になって胸の奥に残っている。
振り払ったはずなのに、消えない。
怒りで塗り潰すには、少しだけ静かすぎた。
プレシアは唇を噛み、視線を前に向け直そうとする。
だが、その瞬間――小さな影が一歩、前に出た。
フェイトだった。
攻撃の構えではない。
魔力を高める素振りもない。
ただ、真っ直ぐにこちらを見上げている。
それだけで、身体が硬直した。
「……下がりなさい」
声を張ったつもりだった。
だが、返ってきた音は思ったよりも低く、掠れている。
怒鳴り声には程遠い。
フェイトが動かない。
その瞳には恐怖がある。それでも、逃げない。
その事実が、プレシアの思考を一瞬、止めた。
――撃てない。
理屈では、簡単だ。
クローン。偽物。目的の障害。
そう定義してきたはずなのに、今は“標的”として認識できない。
視線が揺れる。
焦点が定まらない。
胸の奥で、何かが軋む。
それは怒りではない。
後悔でもない。
“理解しかけている”という感覚だった。
もし、この子の言葉を聞いてしまえば。
もし、この子を見続けてしまえば。
自分が積み重ねてきたすべてが、崩れてしまう。
だからこそ、怖い。
冷静になりかけている自分自身が、何よりも恐ろしい。
プレシアは一歩、後ろへ下がった。
それは距離を取るためではない。
感情から、逃げるための後退だった。
沈黙が落ちた。
戦場には不釣り合いなほど、音が少ない。
瓦礫が熱を失い、空気の振動が静まり、ファイブキングの巨体が生む重圧だけが、ゆっくりと場を支配している。
その中心で、フェイトは一歩、踏み出した。
足が震えている。
無理もない。
目の前にいるのは、母であり、敵であり、今なお理解できない存在だ。
それでも、止まらなかった。
「……お母さん」
その一言が、空気を裂いた。
名前でも、肩書きでもない。
ただの呼びかけ。
けれど、それはどんな攻撃よりも、正確にプレシアの心を撃ち抜いた。
「私は……偽物かもしれない」
フェイトの声は小さい。
だが、はっきりしていた。
「でも……一緒にいた時間まで、嘘じゃなかったと思ってる」
プレシアの指先が、ぴくりと動いた。
反射的な反応。
否定する前に、身体が覚えている。
「一緒に本を読んだことも……ご飯を作ってくれたことも……」
言葉が途切れる。
喉が詰まる。
それでも、フェイトは視線を逸らさない。
「全部……私にとっては、本物だった」
それ以上は言えなかった。
言葉にすれば、きっと泣いてしまう。
それでも、伝えたいことは一つだけだ。
“私は、ここにいる”。
プレシアは、完全に動きを止めていた。
魔力の流れが乱れ、怪獣の外殻が微かに軋む。
理解してしまう。
この子は、何も知らないから言っているのではない。
何も知らない“ふり”を、もうできなくなったから言っている。
それが、何よりも残酷だった。
「……黙りなさい」
声が震える。
否定の言葉なのに、拒絶として成立していない。
「あなたは……あなたは違う……!」
否定しなければならない。
そうしなければ、自分が壊れてしまう。
だがその瞬間、横から低い声が割り込んだ。
「……続けろ」
武器は構えていない。
だが、その立ち方には不思議な圧がある。
戦う者ではなく、選ばせる者の立ち位置。
「子供の言葉だ。拙いし、理屈も足りない」
淡々とした声。
断じるでもなく、慰めるでもない。
「それでもな……選択肢を無視する理由にはならない」
プレシアが睨みつける。
「あなたに何が分かる!」
「全部は分からない」
即答だった。
「だが、失ったものに縋って、今ここにいる人間を否定する痛みは知ってる」
フェイトは驚いたように、俺を見る。
その声音に、どこか聞き覚えがあった。
――先生みたいだ。
なぜか、そう思った。
プレシアの内側で、何かが限界を迎えた。
理解してしまった。
選べてしまう。
今なら、引き返せてしまう。
だからこそ。
「……私は……戻れないのよ……!」
叫びと共に、魔力が爆発する。
理性を焼き切るように、暴走するエネルギー。
フェイトを拒むために。
自分を否定しないために。
ファイブキングの外殻が再び光を帯び、周囲の空間が歪む。
――暴走。
それは怒りではない。
恐怖だ。
選ばなかった未来が、今にも手を伸ばしてくることへの、全力の拒絶だった。
壊れる音は、外からではなく内側から鳴った。
プレシアは理解してしまった。
フェイトの言葉が、論理でも感情論でもなく、「事実」だったことを。
一緒に過ごした時間。
笑った記憶。
怒鳴った夜。
手を引いて歩いた廊下。
それらは、作り物ではなかった。
それを認めてしまえば、自分は――
アリシアを取り戻すために、何を壊してきたのかを、直視しなければならなくなる。
「……違う……」
自分に言い聞かせるように呟く。
否定しているのはフェイトではない。
“認めてしまいそうな自分”だ。
「あなたは……アリシアじゃない……!」
声が震える。
否定の言葉に、確信が伴わない。
フェイトは、その揺らぎを見逃さなかった。
「……でも……」
一歩、踏み出す。
それだけで、プレシアの心臓が跳ね上がった。
近づくな。
それ以上、こちらを見ないで。
「私は……お母さんに……」
その言葉の続きを、プレシアは聞けなかった。
聞いてしまえば、
自分が“母親であった時間”を、全否定できなくなる。
「やめなさいッ!!」
叫びと共に、魔力が溢れ出す。
制御ではない。
逃避だ。
ファイブキングの外殻が軋み、怪獣の咆哮が周囲に響く。
だがそれは、威嚇ではなかった。
悲鳴に近い。
「私は……引き返せない……!」
その言葉には、決意も誇りもない。
あるのは、ただ一つ。
後戻りできないと信じなければ、壊れてしまう心。
「アリシアを取り戻すために……私は……」
――私は、正しくなければならない。
その思考が、すべてを縛っていた。
フェイトは、立ち尽くしていた。
母の叫びが、攻撃よりも重く胸に刺さる。
「……お母さん……」
呼びかけは、祈りだった。
だが、祈りは届かない。
プレシアは、耳を塞ぐ代わりに、世界を壊そうとする。
その様子を、仮面の戦士は静かに見ていた。
止めに入らない。
説得もしない。
ただ、プレシアが“自分で壊す選択をした”ことを、見届けている。
(……選べたはずだ)
心の中で、そう呟く。
選択肢はあった。
差し出された手も、言葉も、確かに存在した。
それでも彼女は、未来ではなく、過去を選んだ。
だから――
俺は、ゆっくりと構えを取り直す。
守るべきものは、もう決まっている。
フェイトは守る。
なのはも、ここにいる人間も。
そして――
壊れることを選んだ母親を、これ以上、子供に触れさせない。
それが、大人の役目だ。
ファイブキングが再び動き出す。
暴走ではあるが、狙いは明確だ。
拒絶。
否定。
切り捨て。
プレシアは、母であることから逃げるために、怪物になることを選んだ。
そしてその選択の前に、仮面の戦士が立ちはだかる。
戦いは、再開される。
だがそれは、力と力の衝突ではない。
“母であることを捨てた者”と、
“子供を守ることを選んだ者”の、静かな断絶だった。