図書館の自動ドアが閉まると、紙の匂いが背中から剥がれ落ちた。夕方の冷えが頬を撫で、街の音が一気に戻ってくる。はやての車椅子が歩道の段差で小さく跳ね、ゼータは反射で手を伸ばした。
「ええって。うち、平気やから」
「車椅子じゃ大変だし、段差の少ない道で送るよ」
「押すん、慣れてるん?」
「慣れてない。だから慎重」
「変なお姉さんやなぁ。……図書館、よう来るん?」
「必要なときだけ。知らない土地は、まず本からだよ」
「へぇ。うち、あそこ好きやねん。本の匂い、落ち着くし」
軽口のまま車輪が回る。ゼータは横に並び、進む速度をほんの少し落とした。路肩のガラスに二人の影が映る。映り込みの奥、もう一つの影が同じ間合いで滑っている。視線が皮膚の外側を舐める感覚——ツカサの言葉が脳裏をかすめた。目で追うな。反射で拾え。
自販機の前で足を止める。缶の落ちる音が、追う気配の呼吸を乱すかを確かめるように。
「ココア、飲む?」
「あるん? ほな欲しいわ」
「はい。熱いから気をつけて」
「お姉さんも飲むん?」
「今日は甘い方にする」
「……なんや、意外と可愛いやん」
「黙って飲んで」
はやてが両手で缶を抱え、指先の力を抜く。気づいていない。気づかせない方がいい。ゼータは缶を自分にも買い、歩き出す角度だけ変えた。わざと遠回りの広い道。街灯の下で、背後の影が距離を保ったまま付いてくる。
「案内?それやったら任せてな。川沿い、段差少ないで」
「助かる。……気にしないで。ほら、こっち」
「ん? こっち、遠回りちゃう?」
「段差が少ない。車輪が楽だよ」
「そない言われたら、文句言われへんなぁ」
細い路地へ入る手前で、ゼータは一歩だけ遅れ、反射で追跡者の足元を確かめた。靴底の減り方。歩幅。躊躇のない追従。遊びじゃない。
「なぁ、お姉さん、仕事は?」
「今は調べ物。知り合いが小学校の先生でね」
「先生が味方って、ずるいわ」
「厳しいよ。けど、生徒は放っておかない」
「……ええな、それ」
玄関の明かりが見えた。はやてが「ここ」と顎で示す。ゼータは段差を越えさせ、ブレーキを確かめてから手を離した。
「着いた。今日はここまで」
「ほんまに送ってくれたんや。助かったわ」
「助けたつもりはないよ。送っただけ」
「それが助かるねんって」
笑いかけた口元が、すぐに控えめに引っ込む。遠慮の癖が残る。ゼータは言葉を選び直し、短く差し出した。
「名前を聞いてもいいかな」
「えぇ、うちは八神はやて。よろしくな、ゼータさん」
「門矢ゼータ。……無理しなくていい。案内だけでいいよ」
「任せてな。ほな、また図書館で」
「明日、何時頃?」
「夕方くらい。うち、時間あるで」
「分かった。無理はしないで」
「約束だよ」
「約束や」
「うん。気をつけて」
「そっちもな。変なお姉さん」
ドアが閉まる直前、背後の気配が街灯の外へ溶けた。追う影は消えたふりをする。なら、こちらも“合流”を急がない。ツカサたちを動かせば、影も動く。家の前の静けさを守るには、しばらく一人で足を使うしかない。
ゼータはポケットの端に触れたまま、端末を出さずに歩き出した。次に会う口実を、もう一つ作る。情報と安全は、日常の中で集める。