ゼータは足を止め、息を吐いた。夕方の空気が肌の上で冷えていくのに、首の後ろだけ薄く熱い。指先は平静を装うようにコートの端をつまみ、視界の端で人の流れをなぞった。
「……本当に変な感じが多いねぇ」
言葉は独り言の形を借りた。表情は崩さない。崩すと、気配に餌をやる。
周囲を見渡す。歩道の向こう、角の手前、信号待ちの列。人の目は普通ならただの視線として流れていく。けれど今日は、種類が混じっていた。
ひとつは、女の輪郭にまとわりつく、ねっとりした視線。視線の速さが遅い。値踏みの間合いで止まる。気持ち悪い、と判断するより先に、ゼータは距離と角度を計算していた。はやての車椅子が、死角に入りやすい位置にある。
もうひとつは、本に刺さる視線だ。背表紙ではない。はやての膝の上、ページの端、袋の口。顔を見ない。見ない代わりに“物”だけを見る。人間への興味が薄い目だ。むしろ、人間は運搬具扱いに近い。
はやてが車椅子の上で首をかしげる。缶の温もりを両手で抱えたまま、軽い調子で覗き込んできた。
「どないしたん、ゼータさん?」
「何、少し気になることがあるだけ」
「気になること?」
「内緒」
「えぇ、いじわるやなぁ、ゼータさん」
「かもしれないよ」
軽口を返しながら、視線の使い方を分ける。はやてには“普通の目”。安心させる目。追う気配には“刺す目”を返さない。刺した瞬間、相手がこちらを“敵”と認識して動き出すことがある。
だから、視線ではなく足で守る。歩く位置を半歩ずらし、車椅子の外側をさりげなく壁にする。段差の少ない道を選ぶのも、優しさというより、奪われにくい導線を作る作業だ。
「それじゃ、今日ははやての料理のご馳走になろうかな」
「えっ、ほんまに? それにしても、ええん? その……急にやで?」
「気にしないで。元々、結構放任主義の家だから。……まあ今度、機会があったら――いや、止めとこう」
「ん? なんやの、それ」
言いかけた先で、脳裏にデルタとイータの顔が浮かび、ゼータは言葉を飲み込んだ。あの二人を“家”に近づける発想は、火種を抱えて寝るに等しい。今は余計な波紋はいらない。必要なのは、はやての生活の輪郭に自然に入り、明日もここに立てる口実を増やすこと。
「それじゃ、行くとするか」
「うんっ。ほな、こっちやで」
車椅子の車輪が回る音に、追う気配の靴音が重なる。重なり方が不自然に揃って、ゼータの背中の奥が一瞬だけ固くなる。目の前の少女は何も気づかない。気づかせたくない。
(こんな子に対して、世界はあまりにも残酷過ぎないか)
問いは胸の中で形になり、すぐ角を削られる。残酷だ、と言い切るだけなら簡単だ。けれど、言い切ったところで守れない。守るなら、今この歩幅、この角、この沈黙だ。
ゼータははやての斜め後ろに影を落とし、誰かの視線が届く前に、先回りして道を選んだ。