悪魔と呼ばれ慣れて 3rd   作:ボルメテウスさん

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日常の陰

玄関の鍵が回る音は、やけに小さかった。古い集合住宅の廊下は、昼の名残りが抜けきらず、湿った石の匂いが残っている。はやてが車椅子を少し斜めに振り、狭い間口を器用にすり抜けた。

 

「ここやで。……狭いけど、上がってな」

「十分だよ。段差、ないし」

「せやろ? ここ、そこだけはええねん」

 

畳の端が少し浮いていて、そこにだけ生活の癖がある。壁際の棚には本が詰まっている。背表紙の色は揃っていないのに、並びはきっちりしていた。手の届く範囲で、できる限り整える。そういう家だ。

 

はやてが台所へ向かう。車輪が床を撫でる音に、ゼータは半歩遅れてついていった。視線は部屋全体に散らす。窓の鍵。カーテンの隙間。玄関のチェーン。危険が見えるわけじゃない。けれど、見落としが“出来る形”をしているのは分かる。

 

「ほんまに食べてくん? うち、たいしたもん作られへんで」

「案内の礼だよ。できるものでいい」

「ほな……あったかいのにするわ。冷えるしな」

「助かる」

 

台所に立つ背中が小さく揺れる。包丁は使わない。火を点ける音と、鍋底が小さく鳴る音。はやては慣れた手つきで、棚から器を出した。車椅子でも届く位置に置き直してある。工夫が積み重なっている。

 

ゼータは袖をまくり、流しの前に立った。手を洗う。水が冷たくて、指先が少しだけ白む。その冷たさが、背中の熱を落ち着かせる。

 

棚の一角に、布で包まれた分厚い塊があった。紐が二重に回され、ほどけないように結ばれている。古い本の形。けれど、ただの本じゃない。置かれているだけで、空気の匂いが少し変わる。紙の匂いに混じる、乾いた鉄みたいな匂い。

 

はやてが気づいた様子はない。視線は鍋に向いたまま。

 

「これ、味付け薄いかもなぁ」

「大丈夫。薄い方が好き」

「ほんま? 変なお姉さんやなぁ」

「それ、気に入ってる?」

「うん。なんか……安心するし」

 

軽い返事のあと、はやては一瞬だけ口を閉じた。言葉の後ろに、余計な音が出ないようにする癖。遠慮が染みついた間。

 

ゼータは鍋の蓋を取る。湯気が上がり、だしの匂いが広がる。台所が少しだけ明るくなる。ここで“いつも通り”を作れれば、外の異物を押し返せる。そういう理屈が、体に染みついている。

 

ポケットの内側で、小さな硬い角が指に当たった。カードケース。そこにあるはずのもの。今日まで、まともに使ったことはない。触れるだけで、薄く脈打つ気配がする。金属の冷たさとは違う。

ツカサの声が、思い出の底から浮かぶ。――迷うなら、先に場を選べ。変身は最後でいい。まず守れ。

 

守る。今は、それだけ。

 

ゼータは、台所の隅に置いた小さな紙包みを指先で押さえた。中身は粉のようなもの。匂いはほとんどない。旅の途中で手に入れた、“眠りを促す”ための処置。説明にできるほどの名前は付いていない。ただ、これを使うと決めた時点で、もう後戻りはない。

 

鍋の中へ落とさない。皿へも直接入れない。温かい飲み物にだけ、ほんの少し。混ぜる動作は一瞬で済ませ、手元を隠すようにカップを持ち替えた。隠したというより、見せる必要がない。はやてを巻き込まない、その一点のため。

 

「はい。先にこれ。あったかい」

「おお……ええ匂い。いただきます」

「熱いから、ゆっくり」

 

はやてが口を付ける。小さく息を吐き、肩を落とした。体の力がほどけるのが分かる。食べ物の力じゃない。安心が混ざっている。ゼータはその緩みを見て、胸の奥が少しだけ痛んだ。

 

料理は簡単なものだった。湯気が立つ椀。白い湯気の向こうで、はやてが目を細める。箸の動きが少しずつ遅くなる。声も、さっきより柔らかい。

 

「うまい?」

「うん。……うまい。なんか、ほっとするわ」

「よかった」

「でも……あれやな。急に、まぶた……重い」

「疲れたんだろ」

「そうかなぁ……なんやろ……ふわってする」

 

はやてが笑う。けれど笑いが途中で途切れた。眉の力が抜け、まつ毛が落ちてくる。カップを持つ手が少し迷い、テーブルに置くときに音が立った。本人は気にしていない。気にする余裕がない。

 

ゼータは椀を受け取り、静かに片付けた。洗い物の音は立てない。水も最小限。ここで派手な生活音を立てたら、外の耳に引っかかる。理屈じゃなく、身体がそう動く。

 

「……ごめん。うち、なんか……」

「謝らなくていい。横になろう」

「えぇ……でも……」

「大丈夫。歩かない。運ぶ」

 

ゼータは車椅子のブレーキを確かめ、はやての背中に手を添えた。腕を回すのではなく、支える位置を作る。軽く持ち上げる。体温が薄い。春先の夜みたいに冷える。はやては抵抗する力が残っていなくて、素直に体重を預けた。

 

「ほんま……意地悪やなぁ……」

「内緒って言っただろ」

「……変なお姉さん……」

 

寝室はさらに狭い。布団ではなくベッド。シーツがきれいに張られている。ゼータははやてをゆっくり寝かせ、枕の位置を直した。肩が冷えないように毛布をかける。髪が頬にかかっていたので、指でそっと払った。

 

はやての呼吸が少し深くなる。唇が一度だけ動いた。

 

「……明日……図書館……」

「行けたら行こう」

「……うん……」

 

返事はもう寝息に溶けた。ゼータはベッド脇で一歩下がり、部屋の空気を見渡した。棚の角。窓の鍵。カーテンの裾。異常はない。

 

――ない、はずだった。

 

台所へ戻る途中、廊下の窓ガラスが、外の街灯を薄く反射した。その反射の中に、もう一つの“動き”が混じる。人影ではない。動き方が硬い。距離を詰めず、同じ幅で横に滑る。

 

ゼータは足を止めずに、視線だけを落とした。玄関の鍵穴の位置。チェーンの金具。床に落ちた小さな砂。さっきはなかった。

それと同時に、遠くで、金属が擦れるような音がした。風鈴でも、配管でもない。息の混じらない音。音の尾が短い。

 

棚の一角、布で包まれた本の塊が、ほんの少しだけ沈む。重さが増したみたいに。

 

ページは封印されている。開けない。開けてはいけない。

それでも、“狙われている”という事実だけは、開かなくても分かる。

 

ゼータは息を吐き、ポケットの硬い角を指で押さえた。さっきより温度がある。カードケースの奥で、何かが目を覚ましかけている。

 

外の気配が、窓の反射から消える。

消えたのではなく、位置を変えた。玄関の方へ回った。

 

ゼータは音を立てずにキッチンの明かりを落とし、靴を揃えた。鍵はまだ開けない。

先に、耳を澄ます。

 

廊下の向こうで、短い、息を吹き込むような音がした。

ラッパみたいな、乾いた一音。

その一音で、空気の密度が変わる。

 

異変は、もう始まっている。

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