街灯の白が、濡れた路面を薄く焼いている。
水膜の上を風がなぞり、冷えた匂いが鼻の奥へ入り込んだ。指先にだけ、だしの香りが残る。家の中の温度を、まだ手が覚えている。
背中は建物へ向けない。
向けたら、線が緩む。
植え込みの影から、男が出てきた。歩幅が軽い。逃げる足じゃない。散歩の足。手にはラッパみたいな道具。金属の縁が街灯を噛み、すぐ離した。
「へぇ。外まで出てくるんだ?」
「用件」
「本。……車椅子の子の家にあるやつ」
呼び方が雑だ。名前を削る呼び方。
喉の奥が擦れる。そこだけ熱い。
「はやてだ」
「へぇ、ちゃんと呼ぶんだね」
「呼ばないなら帰れ」
「帰る理由、ないな。狙うのは人じゃなくて“本”だし」
馬場 城戸の視線が、建物の暗い窓へ滑った。玄関の位置。階段の段数。距離。
測っている。盗む目だ。
「闇の書。封印されてる。ページは開けない」
馬場がさらりと言う。
「でもさ、封印って便利だよね。中身を隠しても、器は隠れない。寄ってくる。人に」
言葉が軽いのに、内容だけ尖っている。
街灯の下で、影が少し濃くなった。
ゼータは靴裏で水膜の薄い場所を探る。音が出ないところ。そこへ体重を置く。
息は止めない。止めたら硬さが伝わる。
馬場がラッパを口元へ上げた。短い吸気。乾いた一音。
夜の空気が割れる。
影が凝る。輪郭が立つ。金の反射が走る。
足が地面を踏んだだけで、重い音が出た。硬い。鈍い。路面が小さく震える。家へ返りそうな質の重さ。
(……金の追加戦士)
ツカサの声が、頭の奥から遅れて落ちる。
“途中から増えるやつは、歩き方で分かる。空気が変わる。”
ゼータは一歩も引かない。角度を変える。
拳が来る。受けない。風圧が頬を撫でた。冷たいのに熱い。肩の布が鳴りそうで鳴らない。
「知ってるんだ? そういうの」
馬場が笑う。
「スーパー戦隊ってやつ」
ゼータの口が、勝手に短く動く。
「……キョウリュウゴールドか」
「へぇ、当てるんだ。面白いね」
重い一歩がもう一つ。金属が路面を叩くみたいな音。
避ける。水膜を擦る。靴底が鳴りそうで鳴らない。ぎりぎりのところを踏む。
家の方向へ押し返される感覚が、じわりと背中に来る。
馬場がラッパを下ろし、今度は指で縁を弾いた。乾いた二音。
街灯の外、影の縁がすっと伸びる。動きが軽い。音が薄い。なのに距離が詰まるのが速い。
路面の水が、かすかに跳ねた。
足音の代わりに、息が近い。獣の近さだ。視界の端に銀が走る。
(軽い……でも、噛みに来る)
ゼータは体を半歩ずらし、肩を落とす。
頭の位置をずらすだけで、風圧が首の後ろを抜けた。冷気が刺さる。
次の瞬間、横から“重い”のが来る。金が押し、銀が噛む。
「二枚使いか」
「下見だよ。お宝は丁寧にね」
ゼータの舌が乾く。短く吸って、短く吐く。
余裕じゃない。音を割らないための我慢だ。
「……ガオシルバー」
馬場が楽しそうに頷いた。
「いいね。君、詳しい」
詳しくない。教わった。必要だったから。
必要だったのは、世界じゃなくて――目の前の線だ。
攻撃が重なる。重い圧が前から。獣の圧が横から。
路面の水が跳ねるたび、音が増えそうで、ゼータの背筋が冷える。
当たれば音が割れる。割れた音は、あの子の夜へ染みる。
馬場が、ふっと笑った。
「ねえ。君、変身しないんだ?」
「……さぁ、どうだろうね」
「余裕あるんだね」
馬場の言葉は軽い。
足元は軽くない。圧は増える。増えた分だけ、家の方向へ押し戻される。
乾いた三音。
今度の音は、少し長く尾を引いた。金属の縁が震えたみたいに。
街灯の下に、もう一つ“線”が入る。
細い。鋭い。貫く種類の気配。足音が、擦れる。鱗が路面を撫でるような、ざらりとした音。水膜が薄く裂ける。
(……刺すやつ)
重い金が押す。獣が噛む。
そこへ“槍”が差し込まれる。
避けるために下がると、家が近づく。避けないと、音が割れる。
胸の奥が、きゅっと縮む。
縮んだまま、吐く。
「……リュウソウゴールド」
「正解」馬場が笑う。「三枚。見せ札としては上出来でしょ」
上出来じゃない。
家へ返る一歩が、あと数歩で来る。
馬場がラッパを下ろし、三体の動きを一瞬だけ止めた。
止まった空気の中で、つま先の向きが変わる。
家の方へ。
それだけで、線が踏まれる。
狙いが本でも人でも関係ない。つま先がそっちを向いた瞬間、守るものは決まる。
「そこから先は通さない」
「へぇ。宣言するんだ」
ポケットへ手が入る。硬い角。冷たい留め具。ケースの縁が指の腹を押し返す。
固い。固いから、決められる。
留め具を外す。音は出さない。
銀の縁、水色のヘキサゴンが覗く。街灯の白を噛んで、青が一息だけ滲んだ。指先が冷える。冷えが正確さを連れてくる。
腰に当てる。位置を探る。視線は逸らさない。逸らしたら、また家へ向く。
カードを取り出す。紙のはずなのに重い。金属の角みたいな圧が掌に沈む。
三体が同時に動こうとする。
重い一歩、獣の間合い、槍の線。
音が割れる前に、こちらが先に切る。
「……変身」
カードを差し込む。
鳴らないのに、空気だけが弾けた。
『CHEMYRIDE HORSE CHANG BERITH』
音声が夜を裂くはずなのに、妙に近い。耳元で輪郭だけが立つ。
足元に赤い円が生まれた。魔方陣。濡れた路面が赤を吸って暗くなる。街灯の白が一段負ける。
身体がふっと軽くなる。上昇。
衣擦れを止めるように裾を押さえ、息を揃えた。静けさを守るために、最後まで音を殺す。
赤い円から装甲が伸びる。深紅が先に来る。次に銀の線。
冷たい風が弾かれ、皮膚の上を滑っていく。視界が一度だけ狭くなり――次に、くっきり開いた。
着地。
靴底が水を踏む。音は小さい。
それだけで、成功だと思った。
街灯の下に、深紅の仮面ライダーが立つ。
派手なポーズは取らない。息を一つ整える。最初の一歩は馬場へではなく、家と馬場の間へ置いた。身体で線を作る。
馬場が口角を上げる。
「へぇ……仮面ライダーか。面白い」
深紅のライダーは、短く言い切る。
「私は仮面ライダーベリス」
名乗りは自己紹介じゃない。
遮断だ。夜を切り分ける刃だ。
三体の影が、また動き出す。
重い音、薄い息、ざらりと擦れる線。
その全部が家へ返る前に、こちらが先に止める。