街灯の白が、深紅の胸を押し返せずにいる。
濡れた路面に残る赤い円は、息を引くみたいに薄れていった。水の匂い。金属の匂い。遠くの換気扇が回る音。どれも、さっきまでの生活の続きだ。
その続きを、割らせない。
馬場がラッパを指先で弾く。乾いた音が跳ねた。
「へぇ……いいね、ベリス。じゃ、見せてよ」
三つの影が動く。
重い金の一歩が正面から来る。横は獣みたいな間合い。背の線には、ざらりと擦れる槍の気配。三方向の圧が、同じ拍で寄ってくる。
深紅の仮面は、肩を上げない。
腰のあたりで、細い刃を引き抜く。
ベリスバイザー。
深紅の細剣が街灯の光を細く裂き、刃先の冷えが指に伝わった。握りが乾いている。濡れていない。ここが助かる。滑らない。
「来い」
言葉はそれだけ。
返事の代わりに、金の拳が落ちてくる。
受けない。
刃を“当てる”。角度だけ合わせ、叩き落とす方向に流す。ガン、と硬い音が鳴りそうになって、鳴らない。金属同士が擦れて、短い火花がひとつ。鼻先に焦げた匂いが走った。
足が半歩ずれる。
踏んだ場所の水膜が薄い。音が増えない。呼吸も増やさない。短く吐いて、短く吸う。
横から銀が来る。獣の間合い。
肩の高さを変えるだけで、刃が頬を抜けた。冷気が首筋に刺さる。次の瞬間、槍の線が足元を掠め、水がちぎれて跳ねた。
「ふーん、守りが上手い」
馬場の声が軽い。「近接、好きなんだ?」
好きじゃない。必要だ。
深紅の刃は、相手の“体”を追わない。手首、足首、膝の向き。そこだけを見る。
金の追加戦士が踏み込む。
今度は、重さを押し付けてくる。刃で弾くと音が出る。弾けない。
だから、刺す。
刃先が金の肩の縁を浅く撫でる。
切るんじゃない。位置をずらす。重心が一瞬浮き、踏み込みの線が崩れた。
その隙に、銀へ返す。
銀の肘の内側へ、刺突を置く。浅い。痛みより先に、動きの“鈍さ”が出る。銀の影が、噛みに来る角度を失う。
槍の線が背後へ回る。
ざらりとした音が近い。背は見せない。見せたら、家の方へ押される。
深紅の足が、先に線を跨ぐ。
刃を低く置く。地面すれすれ。槍が差し込まれる前に、刃の“壁”が先にある。
ギィ、と嫌な擦れ。
槍の先が刃に触れて、火花が散った。湿った空気に金属の味が混じる。
「へぇ……それ、細いのに強いね」
馬場が笑う。「でもさ、数は数だよ」
ラッパが少し上がる。
指が穴を塞ぐ動き。合図の準備。ここを許すと、次が来る。増える。家の方へ押される。
深紅の刃が、すっと戻る。
抜き差しの音を立てない。体の内側だけで、動かす。
金がもう一度、正面から。
今度は刃で受けず、肘で“触れて”逸らす。装甲同士がぶつかる直前、刃がその間に滑り込み、金属の面をずらす。重さが横へ逃げ、足音が一つだけ大きくなった。
その一つが、嫌だった。
家の方の窓を見ない。
見なくても距離は分かる。音は、もっと分かる。
深紅の剣先が、路面の水を少しだけ払った。水滴が跳ね、街灯の白を一瞬映して落ちる。
同時に、視線が馬場の手へ刺さる。
ラッパ。
そこが“指揮”だ。
刃を一歩で届かせる距離ではない。
近づけば、三体の圧に飲まれる。守る線が崩れる。
だから、次。
ベリスバイザーが鞘のように腰へ戻る。
代わりに、もう一本。重い金属の塊が手に収まる。
ガッチャージガン。
冷たい。握りの溝が指に合う。銃口の向きが、夜の線を一本作った。
馬場が一瞬だけ、目を細くする。
「遠距離もやるんだ?」
「……合図を潰す」
引き金は軽い。
乾いた発射音が、街灯の下で短く跳ねる。派手に響かない。狙うのは体じゃない。手元。
弾はラッパの縁を掠め、金属を鳴らした。
チン、と小さな音。馬場の指が止まる。笑みの形だけが残った。
「へぇ……嫌な狙い」
そこへ、もう一発。
今度は足元の路面。水が弾け、冷たい飛沫が馬場の靴へ跳ぶ。踏み替えを強制する。体勢が一拍遅れる。
三体が動く。
金が押す。銀が噛む。槍が刺す。
銃口が振れる。
狙撃じゃない。割り込みだ。
銀の踏み込みの“前”を撃つ。
路面が弾け、銀の足が止まる。噛みつく距離が消える。次に、槍の線へ一発。槍が軌道を変え、空を刺す。金へは撃たない。重さは、撃つよりずらす。
深紅の足が、家と馬場の間へ固定される。
線を守る位置は動かさない。銃はそこから届く範囲だけを切り取る。
馬場が、ラッパを持ち直す。指が穴に戻る。
また合図が来る。
銃口が、先に来る。
一発。今度はラッパそのものではなく、手首の動きの“起点”。弾が空を裂き、馬場の指が反射で引っ込む。穴が塞がれない。
「……っ」
馬場が息を吐く。「君、ほんとに現場向きだね」
ベリスは返さない。
返事の代わりに、銃を下げない。目を逸らさない。音を増やさない。
三体の影が、再び同時に迫る。
重い音、薄い息、ざらりと擦れる線。
その全部が家へ返る前に、もう一度だけ、銃口が揺れた。
狙いは変えない。合図、進路、起点。倒すのは後。
ベリスの靴底が、水膜の薄いところを踏む。
小さな生活音の領域へ、戦いを寄せない。
街灯の白が、深紅の装甲にぶつかって散る。
濡れた路面は冷え切って、靴底が擦れるたび水膜が薄く鳴りそうになる。鳴らさない。鳴らしたら、家の方へ返る。
正面から重い圧。金の一歩が近い。
横から獣の間合い。呼吸が薄いのに距離が詰まる。
背の線には、ざらりとした擦れ音。槍が、隙間を探っている。
「へぇ……三つとも見えてるんだ?」
馬場の声は軽い。ラッパの縁を指で弾きながら、こっちの足元ばかり見ている。
「怖いね。そういう落ち着き」
返事はしない。
ベリスバイザーを低く構え、家と馬場の間に刃の線を置く。深紅の刃は細い。細いから、余計な音が出る。角度で黙らせる。
金の拳が落ちる。
刃で受けず、“当てて”流す。面と面がぶつかる直前、刃先がすべり込み、重さが横へ逃げた。火花がひとつ。焦げた匂いが鼻先に刺さる。
横から銀。噛む角度。
肩の高さを変える。頬の横を冷気が抜けた。次の瞬間、足首へ来る。獣の間合いは速い。
踏み替えを許さない。
浅い刺突を置く。切らない。止める。
銀の動きが一拍遅れ、水膜が跳ねた。音が増えかける。
背の槍が、そこへ差し込む。
ざらり。路面を撫でる音が近づいた。
「……うざいな」
口から出たのは、それだけ。短く吐く。
深紅の足が先に位置を変え、刃を地面すれすれに置く。壁を作る。槍先が触れ、火花が散った。湿った空気に金属の味が混ざる。
三方向。
同時に来られるほど、線が削られる。
削られた線は、家へ寄る。寄ったら終わる。
馬場がラッパを軽く持ち上げた。指が穴を探る。合図の準備。
その一瞬、視線が家へ滑る。つま先も、ほんの少しだけそっちを向く。
許さない。
ガッチャージガンを抜く余裕はない。近接のまま止める。
ベリスバイザーが低い位置から跳ね上がり、ラッパへ一直線――ではない。手首の動きの起点へ、刃先を置く。
「っ」
馬場の指が止まる。穴が塞がらない。
笑みだけ残って、目が少し細くなった。
「へぇ。いいね。……でもさ、数は数だよ」
そう言った瞬間、三体が同時に踏み込む。
金が押す。銀が噛む。槍が刺す。
連携が噛み合った形だ。こっちの“音を出さない戦い”だけが、じわりと狭くなる。
なら、盤面を割る。
数を、こっちの数で相殺する。
ベリスバイザーを一歩引いて収める。代わりに、ベルト脇のホルダーへ指先を滑らせた。
カードの角が冷たい。紙のはずなのに、金属みたいに硬い。
表向き。
召喚用。
馬場の視線が、カードに吸いつく。お宝を見る目だ。
「へぇ……それ、何? 新しいコレクション?」
「黙って見てろ」
カードを、ベリスバイザーへ。
差し込む指の腹に、抵抗が返る。
“カチ”を鳴らさない。鳴らさないまま、空気だけがはじけた。
『SUMMON RIDE GEMINI』
音声が街灯の下で輪郭を持つ。
路面に、赤い円がふたつ生まれた。魔方陣が双子みたいに並ぶ。濡れた水が赤を吸って、黒が濃くなる。
そこから、影が立ち上がる。
同じ輪郭。けれど、呼吸の癖が違う。片方は浅く、片方は妙に長い。
肩がぶつかる寸前で、すっと離れて二方向へ開く。分身じゃない。最初から二体だと言わんばかりの動き。
「……ジェミニ」
つぶやきは小さく、刃の先みたいに短い。
双子の怪人が走る。
正面の金へ、片方が斜めから割り込む。体当たりじゃない。間合いを奪う動き。金の踏み込みが一拍ズレる。
もう片方は銀へ。噛みに来る角度の“前”へ先に入る。銀が止まる。止まったせいで、槍の線が刺しにくくなる。
三体の連携が、ほどけた。
同時じゃなくなった。
一方向ずつ、に変わる。
「へぇ……いいじゃん」
馬場が楽しそうに笑う。声の温度だけが上がる。
「そういう“数の相殺”、好きだよ。盗む側としてもね」
盗ませない。
ガッチャージガンを抜く。
冷たい握りが指に噛む。銃口は馬場へ――じゃない。ラッパへ――でもない。
今は、足元だ。
一発。
路面の水が弾け、馬場の靴へ飛沫が跳ぶ。踏み替えが遅れる。
次の一発は、ラッパを持つ手の“前”。空を切って、音だけ置く。反射で指が引っ込む。穴が塞がらない。
「意地悪だなぁ」
馬場が肩をすくめる。
「でも、面白い。君、守るためならほんとに容赦しないね」
容赦の話じゃない。
線の話だ。
ジェミニの片割れが金を押し返し、もう片割れが銀を止める。槍の線が迷う。迷った一瞬、ベリスが前へ出た。
ベリスバイザーを抜く。深紅の刃先が街灯を裂く。
金の手首へ、浅い刺突。
銀の足首へ、浅い刺突。
切らない。音を増やさない。機能だけ奪う。
槍が刺しに来る。
刃を低く。壁を作る。火花が散る。匂いが焦げる。
その火花の向こうで、ジェミニが笑ったように見えた。片方だけ。もう片方は無表情のまま、淡々と立ち位置を変えている。
馬場がラッパを握り直す。
指が穴を探る。
視線が家へ――滑る。
ベリスの銃口が先に揺れた。
割り込む一発を、合図の“起点”へ置く。
乾いた音が短く跳ね、馬場の指が止まる。
「……へぇ」
笑みが薄くなる。
「それ、厄介だね。ほんとに」
厄介でいい。
夜の静けさが、まだ割れていない。それだけでいい。
深紅の装甲が、家の前に線を引き直す。
ジェミニが左右で影を張る。
街灯の白が、濡れた路面に薄く貼りついていた。
深紅の装甲に当たった光が、雨粒の膜で細かく割れる。金属の匂いが鼻の奥に残り、口の中にかすかな鉄の味が出た。
正面の重い一歩。
横から噛みつく間合い。
背をなぞるような、ざらりとした線。
三つが同じ拍で来るたび、家の方向へ押される。押されるほど、音が増える。増えた音は、眠っているあの子の夜に染みる。
「……越えるな」
声は低く、短い。
ベリスバイザーを腰の高さで滑らせ、刃先を“線”にする。切るためじゃない。通らせないためだ。
金の圧が落ちる。
刃で受けない。刃を“当てて”流す。重さの向きを変えるだけでいい。火花がひとつ散り、焦げた匂いが立った。
銀が横から来る。
息が薄い。足音も薄い。薄いのに近い。
肩の高さを変える。首筋を冷気が抜けた。
次の瞬間、足首へ。噛みつく角度。
深紅の刃が、浅く置かれる。
刺さる手前で止める。切らない。動きを遅らせる。銀の踏み込みが一拍ずれ、水膜がちぎれて跳ねた。
背の線が、その隙間へ差し込む。
ざらり。路面を撫でる音が近づき、嫌な予感だけが増える。
ベリスバイザーを低く。壁。
槍先が触れた瞬間、金属が擦れた音が短く鳴った。火花。湿った空気に、焼けた匂いが混じる。
植え込みの影で、馬場がラッパを弄んでいる。
穴を塞ぐ指が、ちょうど“次”を作ろうとしていた。
「口はいい。手を止めろ」
届かない距離。
近づけば三方向が噛み合う。線が崩れる。崩れたら、家へ返る。
だから割り込む。
ガッチャージガンが手に収まる。冷たい溝が指に噛み、銃口が夜の細い線になる。
狙うのは体じゃない。指の“起点”。
乾いた一発。
空気が跳ね、ラッパの縁がチンと鳴った。馬場の指が反射で引っ込む。穴が塞がらない。
「なるほど。そう来るか」
笑みは薄い。目だけが、刃物みたいに動く。
「合図を殺すんだね。嫌だな、それ」
二発目は足元。
水膜が弾け、靴が半歩だけ空回りする。踏み替えが遅れる。その遅れが、こちらの一拍になる。
三体の圧がまた来る。
金が押す。銀が噛む。槍が刺す。
受けると音が増える。
避けると家へ寄る。
歯を食いしばらない。そこから音が漏れる。
息を短く吐き、短く吸う。冷えた空気が喉を擦る。
「……数は数、って顔か」
馬場がラッパを持ち上げる。指が穴を探る。
視線が一瞬だけ家へ滑り、つま先までそっちを向きかけた。
許さない。
ガッチャージガンがまた鳴る。
今度はラッパそのものじゃない。穴へ行く前の指の動き。
乾いた音。馬場の手首が止まる。合図が遅れる。
「いいね。守る側の手癖だ」
言いながら、鍵束みたいな金具をちらつかせる。金属が擦れ、耳の奥が嫌に反応する。
「じゃ、別口で頂く」
別口。増える。
その前に盤面を割る。
ホルダーの縁に指を滑らせる。カードの角が冷たい。紙のはずなのに、硬い。
表向き。召喚の面。
ベリスバイザーへ装填する指の腹に、抵抗が返る。
カチ、と鳴らさない。鳴らさないまま、声だけが輪郭を持った。
『SUMMON RIDE GEMINI』
赤い魔方陣が二つ、路面に咲く。濡れた水が赤を吸い、黒が濃くなる。
そこから影が立ち上がった。同じ輪郭。けれど、呼吸の長さが違う。片方は浅い。もう片方は長い。
ジェミニが左右へ割れる。
金の踏み込みの“前”へ片方が入る。重い一歩が半拍遅れ、押しがズレる。
もう片方が銀の間合いを刈る。噛みつく角度が消え、足が止まる。止まった銀に槍の線が迷い、刺す場所を失う。
三方向が、同時じゃなくなる。
一方向ずつにほどける。
「そっちか。数で相殺」
馬場の声の温度が少し落ちた。
「欲しくなるね、その手札」
欲しくなる、で済ませるならまだ軽い。
次の動きが来る。鍵束が鳴る前に、終わらせる。
ベリスバイザーを抜く。深紅の刃先が街灯を裂き、光が細く折れる。
金の手首へ、浅い刺突。
銀の足首へ、浅い刺突。
切らない。音を増やさない。機能だけ奪う。
槍が差し込む。
刃を低く。壁。火花。焦げた匂い。
馬場がラッパを握り直す。指が穴へ戻る。
戻りかける。
ガッチャージガンの単発が、手首の起点を叩く。
空気が跳ね、指が止まる。穴が塞がらない。
「……やるじゃん」
馬場が息を吐いた。笑みが消える。
「でも、こっちも——」
「二度目は止める」
裏返したカードを、ベリスバイザーへ。
音声が短く切れる。
『ATTACK RIDE GEMINI』
赤い線が二本、路面を走る。水膜を避けるみたいに滑り、馬場の足元へ噛みついた。
爆ぜない。縛る。
靴底が半歩空回りし、膝が僅かに落ちる。
「止めるんだ。……なるほど」
馬場の声が乾く。
視線だけがまだ軽いまま、逃げ道を探る。
逃げ道は残さない。
残すと、また盗みに来る。
カードを再読込。
必殺の合図を、夜へ置く。
『FINISH RIDE GEMINI』
ジェミニが同時に動く。
片方が金を押さえ、もう片方が銀の間合いを刈る。槍の線が迷い、刺し込みが遅れる。
遅れた一拍で、深紅が踏み込む。
踏む場所は水膜の薄いところ。音を小さく。
回る。ひと回り。ふた回り。刃先が円を描き、街灯の白を細切れにする。
「……ベリスストライクフィーバー」
声は低い。説明しない。
刃の腹でラッパを打ち落とす。切らない。持てないようにする。
次に鍵束へ。刃先が触れた瞬間、金具が跳ね、湿った路面へ散った。ちゃり、と小さく鳴る。
馬場の瞳が一度だけ大きくなる。
驚きの前に、息が漏れた。
「……へぇ」
そこだけ、心の底から出たみたいな音だった。
膝が落ちる。片膝。
水がにじみ、ズボンの布が湿る。
召喚された圧が糸を切られたみたいに軽くなり、金と銀と槍の影が揺れて、粒になって夜へ散った。粒は一度、馬場の方へ吸い寄せられ、落ちた鍵束へ戻る。
「負けた、か」
馬場が肩で息を吐く。笑いはない。
「……お宝、遠いな」
「帰れ」
短い。
ベリスは家へ目を向けない。耳だけで確かめる。
窓は暗い。寝返りの布の音もない。台所のだしの匂いだけが、冷えた空気に薄く混じっていた。