路地の匂いが、まだ新しい。
雨上がりの水膜に混じった金属の味が、舌の奥に引っかかっている。街灯の白が濡れたアスファルトを照らし、さっきまでの騒ぎを「なかったこと」にしようとしているみたいだった。
角を曲がると、ゼータが壁際に寄りかかっていた。
肩に残った雨粒を指で払って、ふっと息を吐く。ベルトの輪郭が見え隠れするのに、隠す気配も誇る気配もない。いつもの、あの無駄のない立ち方。
こっちの足音に気づくと、視線だけが寄った。
警戒の鋭さはそのままなのに、目の奥の力が少しだけ抜ける。あれは、慣れだ。戦場じゃなく、俺だと分かっている目。
「遅い」
言い方は冷たいのに、口角がほんの僅かに動く。
責めてない。いつもの挨拶に近い。
「教師は忙しいんだよ」
返すと、ゼータの視線が一度だけ俺の襟元を撫でる。制服の乱れを見ているようで、そうじゃない。生きて帰ってきたか、の確認だ。
「……まあ、無事ならいい」
その言葉が、余計に分かりやすい。昔は言わなかった。言えなかった。
路面の黒い筋を横目で追い、ゼータが肩をすくめる。
「この辺さ、夜が静かすぎる。だから余計に目立つんだよね」
雑談みたいに言って、指先で空をなぞる。さっき火花が散った高さ。
「……それで、静かな夜を割りに来た奴がいた。変な趣味」
「転生者か」
聞き返すと、ゼータは小さく頷く。
「うん。宝探し気分。悪くないけど、狙いが悪い」
言って、ちらりと家の並ぶ方へ目をやる。窓は暗い。
「八神はやて。あの子が持ってる本……闇の書。ページは封印されてて、開けないのにさ。“本そのもの”に執着してた」
名前を出すときだけ、声の底が少し硬くなる。
放っておけない、という種類の硬さだ。
「で? 追い払った?」
言いながらも、答えは半分見えている。ゼータがこうして立っている時点で、線は守られている。
「追い払った。……完全に片づいた、とは言わないけど」
肩をすくめる。勝った顔をしない。相手の手札を数える顔だ。
「呼び出してたの、ツカサが前に話してた追加戦士。あれ、知識があると嫌になるね。数の圧が雑」
その言い方が、旅の途中の夜と同じだ。
危ない話を、危なくない言い方で片づけて、次の段取りに移す。長年の癖。俺の癖でもある。
「護衛するつもりか」
一応聞くと、ゼータは目線を戻して、さらりと言う。
「する」
即答。
そのあと、間が空く。ほんの短い間。
「……って言うと、ツカサが嫌な顔するかなと思ったけど」
「しない」
即答を返す。ここで茶化すと、ゼータは反射で引く。引かせたくない。
「文句はない。ただ、無理はするな」
言い終えると、ゼータの目が一瞬だけ細くなる。刺されたみたいな顔じゃない。温度が上がりそうになるのを、押さえる顔だ。
「分かってる」
短く返して、視線を外す。
外した先は路面の水膜。街灯の光が揺れて、そこに自分の影が薄く映る。
「慣れてるって言っても、今日は例外だよね」
ぽつり。さっき俺が言った言葉を、少しだけ形を変えて返してくる。
同じ言葉を回し合える距離。旅の仲間の距離。
「例外にしていい日もある」
言うと、ゼータが小さく息を吐く。吐いた息が、夜の冷たさで白くならない程度の温度を持っている。
「……ツカサってさ」
言いかけて、止まる。
言葉が喉で転がっているのが見える。珍しい。言い切るのが得意なはずなのに。
「何だよ」
促すと、ゼータはほんの少しだけ眉を緩めた。
「そういうところ、ずるい」
照れ隠しみたいに言って、すぐ平然とした顔に戻そうとする。戻し切れていない。
「……こっちが勝手に、頑張っていい気になる」
胸の奥が、静かに軽くなる。
嬉しい、とは言わない。言うと雑になる。
代わりに、喉の奥で笑いそうになって、飲み込んだ。
「頑張るのはいい。気になるなら、戻ってこい」
言葉を短く整える。命令でも慰めでもない。帰る場所の話だ。
ゼータが俺を見る。
視線が、少しだけ長い。
それから、頷く。いつもより深い。
「……まぁ、私がツカサの所に戻るのは当たり前じゃん。だから」
一拍置いて、付け足すように言う。
「その代わり、ツカサも無茶しないで。教師なんでしょ」
皮肉に見せた気遣い。
それが、ゼータの“好意”の出し方だと、もう分かる。照れ臭さを鎧にして、でも伝える。
「まぁ努力する」
軽く返すと、ゼータの肩がわずかに緩んだ。
路地の奥から、遠い生活音が聞こえる。
換気扇の低い唸り。どこかの部屋の水道。眠りに落ちる前の、街の呼吸。
この呼吸を乱さないように、俺たちは並ぶ。