誕生日の飾り付けは、派手でも豪華でもない。
それでも部屋の空気が少し違うのは、テーブルの上に置かれた小さなケーキと、紙の飾りと、はやてが「今日は特別やねん」と何度も言うからだった。窓の外は雨上がりで、街灯の白が濡れた道路に伸びている。いつもの夜と同じはずなのに、薄い甘い匂いが混じるだけで、世界の輪郭が柔らかくなる。
ゼータは台所に立っていた。
スポンジを洗い、湯気の立つマグを二つ並べる。自分の手つきが家庭的だとは思わない。手順を覚えているだけだ。旅の途中でも、誰かが体を壊せば温いものを用意したし、寝不足が続けば甘いものの補給が必要だと知っていた。そういう知識が、ここでは「誕生日の準備」に化ける。
テーブルに戻ると、はやてが車椅子の上で背筋を伸ばして待っていた。
髪は寝癖ひとつなく整えられていて、頬が少しだけ紅い。緊張しているわけじゃない。嬉しさが、体の内側から浮いている。そんな顔を見せられると、ゼータは余計な言葉を探してしまう。
「準備、できた」
「うわぁ……ほんまに、やってくれたんや」
はやての声が弾む。目線がケーキに吸い寄せられて、すぐにゼータの方へ戻る。「ゼータさん、こういうの苦手ちゃうん? 顔、全然変わってへんけど、手ぇめっちゃ動いてたで」
「苦手っていうか……慣れてないだけ」
言いながらも、椅子を引いて、はやてが手を伸ばしやすい位置に皿を寄せる。気づかれない程度の距離感で、手助けができる角度。はやてはその動きを見て、にやりと笑った。
「はいはい、そういうところや。自然に優しいのに、言葉にせえへん」
スプーンを持ち上げ、わざとらしく咳払いをしてから、胸を張る。「ほな、始めるで。今日の主役はうち。異論ある?」
「ない」
返事は短い。けれど、はやての口元がさらに緩む。
ろうそくは細いのが数本。
はやてが数を数え、「これで合ってる」と頷く。誰が決めたわけでもないのに、その頷きが儀式みたいに見えて、ゼータは火を点けるタイミングを一拍だけ迷った。旅の夜に火を使うときは、いつも別の意味がある。今夜は違う。火は、守るためじゃなく祝うためにある。
火が灯る。
小さな炎が揺れて、ケーキの表面に踊る影ができる。はやてはじっと見つめ、指先を膝の上で落ち着かなく動かしてから、ゆっくり息を吸い込んだ。胸が小さく上下し、吐く息が炎に届く前に、ゼータが何も言わずに身を寄せる。風の通り道を作り、炎が静かに消えるように。
最後の一本だけが粘って残り、はやてが「あかん、これしぶとい」と笑った。
その笑い方が子どもっぽくて、ゼータは視線を外す。外した先で、窓の外の街灯が濡れた路面を照らしているのが見えた。そこに、さっきまでの戦いの気配はない。そういう夜にしたい、と自然に思う。
「……おめでとう」
言葉が短いのは癖だ。
それでも、はやては満足そうに頷いた。頷きの勢いで帽子でも被っていれば落ちそうなほどで、ゼータは反射で手を伸ばしそうになり、寸前で止めた。触れなくても伝わる距離にしておく。相手が甘えたいときは別だ。その判断だけは間違えない。
「ありがとう。うち、こんなん久しぶりや。誕生日って、誰かに『おめでとう』言うてもろたら、ほんまに部屋の色が変わるんやな」
はやてが言いながら、スプーンでケーキをすくう。丁寧に形を保ったまま、ゼータの前へ差し出す。「はい、あーん。今日だけ特別やで。拒否権なし」
「……拒否権って何」
口ではそう言いながら、ゼータは素直に口を開けた。甘さが舌に広がり、喉の奥が少しだけ温くなる。別に甘いものが好きなわけじゃない。けれど、こういう温度は嫌いじゃないと、どこかで知っている。
「ほら、食べるやん」
はやてが勝ち誇ったように笑う。「ゼータさん、ほんまに変やわ。冷たい顔して、たまにめっちゃ優しい。うち、最初会うた時、ちょっと怖かったのに」
「怖いって言うな」
そう返すと、はやては「ごめんごめん」と肩をすくめ、すぐに距離を詰める。
「でもな、今は違うねん。うち、ゼータさんのこと……お姉さんみたいやと思ってる」
声が少しだけ小さくなる。照れている、と言い切れるほどではない。ただ、言葉にした瞬間に、自分の胸の奥の形を確かめているみたいだった。
ゼータは返事を急がない。
急ぐと、雰囲気が壊れる。壊れた雰囲気は戻らない。そういうことを旅の中で何度も見た。
「……そう思うなら、そうでいい」
やっと言うと、はやてが大きく頷いた。
「うん。そうする」
そして、ケーキをもう一口すくい、また差し出してくる。「もう一回。今日は誕生日やし。ゼータさんも一緒に祝ってや。うちだけ楽しむの、なんかずるいやん」
ずるい、という言葉が、妙に胸に残った。
ツカサがよく使う種類の、軽口に見せた気遣いに近い。ゼータはそれを否定せず、もう一口だけ受け取る。甘さが増す。部屋の温度が、少し上がる。
食べ終える頃には、マグの湯気が細くなっていた。
はやては満足そうに息を吐き、椅子の背にもたれて視線を天井へ投げる。そこからふっとゼータを見て、「なぁ」と言った。
「今日、帰らんとって。ソファでもええ。うち、なんか眠れる気ぃせえへん」
言い終わってから、あわてて言い訳を重ねる。「いや、怖いってわけちゃうねん。ただ、こういう日って、静かになると逆に変な感じするやろ?」
ゼータは一拍だけ考える。
この街は平和で、ここはただの部屋で、今夜は誕生日だ。それでも、さっき窓の外を見たときの白い街灯が、どこか薄く冷たかったのを思い出す。守る理由は充分にある。
「……分かった」
短く答えると、はやてが袖を摘んだ。離さない、と言うみたいに。
その指が細くて、温かい。
「ほんま? やった」
頬が緩み、声が弾む。「ほな、うちは寝る準備する。ゼータさんは……その、そこにおってな」
「いる」
返事はそれだけ。
はやては「うん」と言って、車椅子をゆっくり寝室へ向けた。廊下の灯りが背中を淡く照らし、誕生日の夜の匂いだけが部屋に残る。ゼータはテーブルの皿を片づけながら、音を立てない位置に椅子を置く。寝室の扉と、玄関と、窓。全部を視界に入れる場所。癖は消えない。消さない。今夜だけは、それでいい。
静けさが落ちてくる。
換気扇の低い唸りが、最後の生活音みたいに部屋を支えていた。
その底で、紙が擦れるような気配がした。
空気が一段冷える。
甘い匂いが薄れ、古い本棚の埃の匂いが濃くなる。寝室の方だ。ゼータは立ち上がる。足音を殺し、呼吸も殺す。扉の隙間の闇が、妙に濃い。
「……はやて」
呼んでも返事がない。寝息も拾えない。
扉を押し開ける。
ベッドの上で、はやてが眠っている。頬が枕に沈み、指先がシーツを握ったまま。
その周囲に、四つの気配があった。
赤い髪の女が最初に見えた。鎧の輪郭、腰の剣、目の光。
青い髪の女は冷たい気配をまとい、背の高い金髪の女は無表情で立っている。子どもに見える影は、枕元へ身を乗り出していた。
ゼータがベッドへ飛び込む。
一歩で距離を潰し、はやてと影の間に身体を入れる。肩で息を押さえ、視線だけを鋭くする。
「……動くな」
赤髪の女が剣の柄に指をかけた。抜かない。抜ける角度だけを残している。
青髪の女の目が細くなる。子どもの影が唇を噛み、はやての寝顔を見て揺れる。
「我らは敵ではない」
低い声が寝室の空気を割る。「主の……」
「主とか、そういう言い方をするな」
ゼータの声は冷たい。短い。
「その子に近づく理由を言え。今すぐ」
腰の位置へ指が滑る。今は変身していない。
それでも切り替えられる感覚が、身体の内側にある。切り替えたら、部屋の静けさは割れる。割りたくない。けれど、割らせない。
赤髪の女と視線がぶつかった。
火花みたいな緊張が無音で散る。
誕生日の夜に残った甘さが、喉の奥で少しだけ苦くなる。
ゼータは視線を逸らさない。はやての寝顔を背に、四つの影を睨み切った。