廊下に出ると、居間の明かりが少しだけ背中に残った。
はやての笑い声にヴィータの尖った返事、そこへシャマルのやわらかい声が重なって、鍋の蓋がことりと鳴る。家の中は、前に来た時よりずっと音が多い。静けさが悪いわけじゃないが、こういう音の増え方は嫌いじゃない。
「ふふっ、こっちこっち」
ゼータが先に曲がり角を抜けて、俺を縁側に近い廊下の端へ連れていく。
振り返った顔はいつも通り涼しいのに、目だけは少し笑っていた。はやての家で見せる顔としては、前よりずっと自然だ。
「呼び出しの用件、ようやく話す気になったか」
「話さないままでも、気づくでしょ。ツカサは」
そう言われて、返事の代わりに外へ意識を向ける。
庭先を越えた先、道路の向こう、電柱の影。見張るにしては間合いが遠く、通りがかりにしては視線が残りすぎる。ひとつだけじゃない。時間差で、気配の置き方が変わる。
「……ゼータ、気づいてるんだろ」
ゼータは廊下の柱に肩を預けたまま、短く頷いた。
「気づいてるよ。ずっと前から、たまにね。近づく日と、遠巻きの日がある」
「一人で追うな」
「分かってる」
「今は、この家にいるはやて達が先だろ」
「うん。それは同意」
言いながら、ゼータの視線が一瞬だけ居間の方へ流れる。
その一瞬に、あいつの気の置き方が出る。外を警戒している目じゃない。家の中の灯りを確認する目だ。
「……情が移ったな」
からかうつもりで言ったわけじゃない。事実を置いただけだ。
ゼータは肩をすくめて、否定もしない。
「否定はしないよ。あの子、慣れてる顔をしてるから余計にね」
その言い方でだいたい分かった。
はやてが一人で暮らしていた時間の話は、俺も聞いている。金は入る。生活は回る。だが、それで埋まるものと埋まらないものは別だ。
「叔父は資金の支援だけ、だったか」
「うん。悪人って感じじゃない。ただ――」
ゼータは言葉を切って、指先で湯のみの縁をなぞるみたいな仕草をした。手元に何もないのに、癖でやる動きだ。
「手も目も声も、ここには残らない。だから、あの家の静けさが長かった」
居間の方から、はやての「ゼータお姉さーん?」という声が一度飛んできて、すぐにヴィータが何か言って笑いに変わる。
ゼータの口元がわずかに緩む。ほんのわずかだが、見慣れた俺には十分だった。
「まったく、子どもを一人にするような奴が後見人とはな」
吐き捨てるほどの声量にはしない。
責めても今さら何かが戻るわけじゃないし、ここで必要なのは別の話だ。
外の気配が、またひとつ動いた。
今度は塀の外、植え込みの死角を使って位置を変えたらしい。手際だけは悪くない。家の中の賑やかさに紛れて、観察を続けるつもりか。
「趣味がいいのか悪いのか、ずっと見てる奴がいるな」
ゼータが小さく息を吐く。笑ったわけじゃない。
「前に闇の書を狙ってきた連中と、匂いは少し違う。けど、見方は似てる。盗る前の目だよ」
「ゼータ。お前が言ってた気配ってのは、そいつらだけか」
問いかけた瞬間、家の中の音がやけに遠く聞こえた。
ゼータはすぐに答えず、外ではなく、いったん居間の明かりを見た。それから視線を戻す。
「……断言はまだしない。もう一つ、薄いのがある。近いのに、輪郭が曖昧だ」
俺も呼吸を浅くして拾い直す。
道路側の視線とは別に、たしかにもう一層ある。家の外に貼りつくというより、周囲の空気に混じるような気配だ。
「……気配を拾ってるのは、俺とゼータだけか」
独り言みたいに落とすと、ゼータが小さく頷いた。
「今のところはね」
俺は廊下の先、居間の光と、その向こうの外の闇を見比べる。
はやての笑い声がまた聞こえた。だから判断は早い。
「いや、この場合は――はやてと守護騎士に気づかれないなら、それでいい」
ゼータがこちらを見て、少しだけ目を細める。
賛成の時の顔だ。
「了解。じゃあ、まずは家の中の空気を崩さないように動く」
その返事の直後、居間の戸が開いて、はやてが顔だけ覗かせた。
「二人とも、内緒話長いでー? ごはん、ほんまに冷めるって!」
ゼータが先に振り向いて、「今行く」と短く返す。
俺は外の闇から目を切った。見られているのは分かった。なら、次は見返す番だ。