あの日から数日。
はやての家を出てから、三つ目の角で足を止めた。
背中に残っていた灯りの温度はもう薄く、代わりに、塀の向こうや電柱の影に散っていた視線だけが、じわじわと位置を変えている。そのうちの一つだけが、近すぎず遠すぎず、妙に手慣れた距離を保っていた。
あれだ、と決める。
わざと歩幅を落とし、人気の切れた細い路地へ入る。
追う側は、獲物が気づいていないと思うと詰めが甘くなる。足音を消してついてくる気配が、曲がり角の手前で半歩ぶんだけ近づいた。そこを待って、身体を返す。腰のライドブッカーを抜き、開き、ガンモードへ。構えるまでに、迷いは要らない。
「動くな」
短く切った声の先で、影がびくりと跳ねた。
思ったより細い。勢いよく逃げるでも、反撃に出るでもなく、フードの奥で息を呑んだ気配が先に来る。敵意の濃い監視役なら、この一拍で別の動きを選ぶ。そうしない時点で、少しだけ嫌な予感がした。
「……っ、速っ……」
銃口は下げない。
壁際へ追い込み、逃げ道だけを塞ぐ。引き金にかけた指はそのまま、相手の肩口と足元の両方を視界に入れる。暴れれば腕を撃てる。飛び退けば脚を止められる。そこまで計算して、ようやくフードの中身を見た。
若い女だった。
驚いた顔のまま、両手を上げかけて、途中で止める。
止めた理由はすぐ分かった。脇に抱え込んでいたものがある。黒い表紙、擦れた角、閉じていても紙の匂いがにじむ――本だ。それを離したくないらしい。抱えたままの指先が白くなっている。
「待って。撃たないで」
「その台詞で引き金を止めるほど、俺は親切じゃない」
返すと、相手は唇を噛んだ。
怖がっているのは本当だ。だが、それだけじゃない。追い詰められた目の奥に、急がないと間に合わない種類の焦りがある。こういう顔は、嘘をつく時より、言うべきことが多すぎる時の方が出る。
「……八神はやてを、助けたいんです」
その名前が出た瞬間、喉の奥で何かが引っかかった。
はやてを狙う、と言われるより厄介だ。助けたい、は切り捨てにくい。しかも、ただの方便で口にした響きじゃない。真っ先にそこへ触れた時点で、こいつはあの家を見ていた連中の中でも、目的の質が違う。
だから余計に、警戒は解けない。
「助けたい、ね」
銃口をわずかに上げる。額の中心じゃない、眉間の少し外。怯えさせるには十分で、撃つにはまだ早い位置だ。
「だったら、どうして隠れてた。どうして本人に行かない」
相手は息を詰め、言葉を選ぶように一度だけ目を閉じた。
その拍子に、抱えた本の隙間から、紙がひとひら、勝手にめくれる。風はない。なのにページだけが微かに鳴り、路地の空気に、乾いた術式の匂いが混じった。普通の本じゃない。媒体だ。それも、かなり質の悪い部類の力を抱えている。
背筋が冷える。善意だけで済ませていい相手じゃない。
「私が直接、はやてに近づいたら……他にいる監視の連中に、たぶん潰されます」
声は震えていたが、言葉は切れていない。
「だから、あなたに先に会うしかなかった。あなたは、はやてに悪意がない。強い。ゼータさんも、あなたならって……」
ゼータの名前が出たところで、思考が一段切り替わる。
あいつに接触する前から、こっちを見ていた。なのに、ゼータの名まで知っている。家の近くを見張っていただけじゃない。もっと前から、この一帯の動きを追っていたことになる。
面倒の質が、また一つ変わった。
「名前は」
問いだけを投げる。
相手は一瞬ためらって、それでも逃げなかった。
「九鬼、美雷……です」
名乗ったあと、本を抱く腕に力が入る。
そこだけは譲らないらしい。助けたいと言う口と、危うい力を手放さない指先。その食い違いが、こいつの全部をよく表していた。善意は本物だ。だが、善意だけで預けていい種類の力じゃない。
こいつは、たぶん、事故ごと持ってくる。
引き金から指は外さないまま、息を吐く。
「話は聞く」
短く区切る。
「だが、信用はしない」
美雷の肩が、小さく落ちた。
助かったのか、まだ駄目なのか、自分でも分かっていない顔だ。そこへ、路地の入口の方で、別の視線が一つだけ動く気配がした。長くは使えない。なら、ここから先は場所を変えるしかない。
「続きは歩きながらだ。変な真似をしたら、今度は警告なしで止める」