黒板にチョークが当たる乾いた音を聞いていると、この世界の平穏が嘘じゃない気がしてくる
私立聖祥大附属小学校の教室には、紙と木と消しゴムの粉が混ざった匂いがあり、子どもたちの呼吸がそれを温めている
分数の授業で手が止まった子が眉を寄せたので、こちらは急かさず、ノートの端に小さな円を描いて見せた
「ピザにしたら分かる」
「先生それ好きやな」
笑いが起きて、机の脚が床を小さく鳴らす
その音の軽さを確かめるように視線を巡らせると、窓際の子が外を見ているのが分かった
校庭の向こうはいつもと同じなのに、空気だけが薄く引っ張られている
授業が終わり、廊下へ出た途端に、その引っ張りが輪郭を持つ
見ている視線があるのではなく、見ている癖のある視線が、校門の外に残っている
電柱の影、植え込みの奥、車の止め方の不自然さ、どれも同じ距離の取り方をしていて、視線の置き方だけが慣れすぎていた
「……また増えたな」
声に出すのは一度だけにする
口にした瞬間、相手の呼吸が変わることがあるのを、旅の中で嫌になるほど見てきた
校門の向こうには、仮面の男たちがどこかに潜んでいる気配がある
仮面と言っても顔を隠しているわけじゃない、役割の仮面を被っている連中の匂いがする
放課後、職員室の机で資料を整理していると、窓の外に小さな手が見えた
ユーノが控えめに手を振っていて、その隣に見知らぬ女性が立っている
校門の外の視線が一瞬だけ濃くなり、それから何事もなかったように薄くなる
ユーノの案内で外へ出ると、女性は丁寧に一礼した
落ち着いた所作で、声も派手じゃないのに、目だけが周囲をよく見ている
「はじめまして、エルナです」
「ユーノの知り合いか」
「遺跡の発掘で少し協力してもらっていて、先生にも一度見てもらいたい資料があるんだ」
資料の束は土の匂いがする紙で、指に触れるとざらつきが残った
エルナの言葉は整っているのに、視線が“相手”ではなく“価値のあるもの”を測るみたいに動く瞬間があった
ほんの一瞬で、次の瞬間には穏やかな顔に戻っているのが余計に気になる
「先生、変な人に見えるかもしれないけど、遺跡の文様って学校の授業の図形にも似てるんだよ」
「似てるからって、危ないものを近づけるなよ」
冗談に見せて釘を刺すと、ユーノは困ったように笑い、エルナは小さく頷いた
その頷きが早すぎて、こちらの言葉の重さをもう知っているようにも見える
校門の外の視線が、街の灯りではなく、土の匂いのする方へ薄く流れた
19:43 海鳴市・遺跡
遺跡の石は、昼よりも冷たく、影の輪郭がくっきりと立っていた
懐中電灯の光が壁面を滑り、刻まれた文様の凹凸が一瞬だけ生き物みたいに見える
エルナは手袋越しに石をなぞり、呼吸の速度を落としたまま、資料の図と現物を見比べている
「ここ、記録と違う」
「え、どこが」
ユーノが身を寄せると、エルナは説明しようとして口を開きかけ、途中で言葉を飲み込んだ
言い換えた声は穏やかなのに、元の言葉の方が本音だった気がして、背中が少しだけ冷える
「亀裂の入り方が違うだけです、でも入口があるかもしれません」
そのとき、壁の奥で金属が回るような気配がした
音ではなく、輪が空気を撫でていく感触だけが、短く残った
エルナは振り向かず、指先の動きだけを止め、次の呼吸でいつもの速度へ戻す
「……焦らない、焦らない」
誰に言ったのかは分からないが、その言葉の端が少し冷たい
光の届かない隙間で、黒い影が一瞬だけ揺れ、何かが“こちらを量る”気配を置いて消えた
ユーノが気づく前に、エルナは顔の筋を整え、微笑みに近い表情を作り直している
「ユーノさん、ここです、たぶん通れる」
「ほんとに君の勘はすごいね」
ユーノが嬉しそうに言うのを聞きながら、エルナの視線は、文様ではなく亀裂の奥を見ていた
懐中電灯の光が届かない場所に、何かがあると知っている目だった
その目が一度だけ細くなり、次の瞬間には何事もなかったように戻る
公園のブランコが、風もないのに小さく鳴った
高町なのはは足を止め、夜気の冷えに紛れた異物の気配を拾い上げる
肌の上を滑る冷たさが、ただの寒さじゃなく、距離を詰めてくる圧に変わっていた
「……この感じ」
言い切る前に、空間が割れるような踏み込みが来た
剣の軌道が月明かりを切り取り、火花みたいな光が一度だけ弾ける
なのはは反射でバリアを張り、間合いを取るより先に相手の目的を測ろうとした
相手の動きには殺意が薄いのに、奪うための完成度だけが高すぎる
踏み込みは鋭く、狙いは急所ではなく、魔力の流れを断つ位置へ向けられている
その癖のある動きが、ただの魔導師ではないと告げていた
「……何が目的なの」
返事はなく、代わりに圧が増し、地面が低く鳴った
なのはは歯を噛み、相手の腕の角度を追うが、妙に視線が“獲物”を探すように揺れているのが見える
戦っているのに、別のものを探している目だと分かった瞬間、背中に冷たい汗が浮いた
遠く離れた場所で、胸の奥が重くなる感覚がした
授業の疲れとは違う重さで、空気が一段だけ沈む
この街は静かな顔をしているのに、夜の底だけが忙しすぎる
携帯端末が震え、ユーノから短い通知が届いた
遺跡で資料にない動きがあったという文面は、丁寧なのに焦りが隠せていない
襲撃と遺跡と、校門の外の仮面の視線が、同じ線上で重なり始めている気がした
確定できない情報ほど危険だと知っている
それでも、確定するまで待つと手遅れになる夜があることも、同じだけ知っている