遺跡の奥に満ちた湿り気は、さっきまでよりも重くなっていた。
ディアバウンドの影が床へ散ったあとも、黒い残滓だけが生き物みたいに蠢いていて、エルナの喉元へ寄せられた刃のような先端が、わずかに赤い筋を作っている。
ユーノは拘束を解かれたあとも一歩を踏み出し切れず、指先を強く握り込んだまま、目の前の“知っている顔”から視線を外せないでいた。
「やめろ……その身体は……!」
転生者は、そんな反応を面白がるみたいに口元を歪める。
余裕ぶっているのは分かる。だが、こっちが慌てると思っている時点で甘い。
「本当に面倒な真似をする」
そう言って、ライドブッカーを閉じる。
刃を引いたのを見て、ユーノの顔が強張った。助ける手を止めたように見えたんだろう。
だが、狙う場所が違うだけだ。
「ディケイド……何を」
「外から斬っても終わらない」
短く返して、ディケイドライバーへ手をかける。
「だったら、中にいる方を引きずり出す」
転生者の笑みが、そこで初めてわずかに浅くなった。
喉元の刃先に力が入る。エルナの身体を盾にしている以上、こちらは強く出られない。そう踏んでいたはずだ。
だが、その身体ごと守ったまま、内側に潜られる可能性は考えていなかったらしい。
カードを抜く。
指先に伝わる感触は冷たいのに、遺跡の空気だけがじわりと熱を帯びた。
ベルトへ差し込み、正面から目の前の敵を見据える。
『KAMENRIDE WIZARD』
マゼンタの輪郭がほどけ、別の魔法陣の光が装甲の上を走る。
黒を基調にした長いローブめいた線が腰の後ろへ流れ、胸と頭部の赤い宝石じみた意匠が、遺跡の暗がりの中で鈍く光を返す。銀の縁取りは冷たく、けれど火を抱いたまま静かに燃えているようにも見えた。
ディケイドの直線的な威圧とは違う。そこに立ったのは、炎を内側へ折り畳んだみたいな、黒と赤の魔法使いだった。
「な……」
ユーノが息を呑む。
転生者の目が、大きく見開かれる。
「ディケイド……お前、まだそんな真似が」
「真似じゃない」
言い切って、腰を落とす。
「お前をここで終わらせる方法だ」
右手をかざす。
空気が一枚だけ鳴り、見えない膜が指先に触れた。
そのまま、もう一枚カードを抜く。今度は迷いなく、静かに。
『ATTACKRIDE ENGAGE』
音声が響いた瞬間、エルナの額の前で空間が円形に歪んだ。
波紋みたいに揺れる光の奥から、乾いた闇の匂いが漏れる。遺跡の湿った匂いとは違う。もっと内側、もっと個人的で、誰にも見せたくないものが沈んでいる場所の匂いだ。
アンダーワールド。こいつが巣食っている本当の戦場が、ようやく口を開いた。
「やめろ!」
転生者が初めて怒鳴った。
エルナの顔のままなのに、その声だけが剥き出しの焦りを帯びている。
喉元へ向けていたディアバウンドの刃がわずかに揺れる。その揺れだけで十分だった。余裕は崩れた。
「ディケイドっ、待て! エルナまで――」
「傷つけない」
ユーノの声を切るように言う。
「お前は外を見てろ。中身だけ叩く」
ウィザードの手を、エルナの額へ伸ばす。
触れる直前、転生者が後ろへ退こうとした。だが、自分で人質にした身体が邪魔をして、大きくは動けない。
逃げ道を狭めたのはそっちだ。
指先が触れた瞬間、世界の輪郭が軋んだ。
遺跡の湿り気が一気に遠ざかり、音だけが遅れて引き剥がされる。
視界の端でユーノの顔が強張るのが見えたが、もう関係ない。今から叩くのは、エルナの身体じゃない。
その奥に潜って、好き勝手に未来を漁っている転生者本人だ。
「そこで待ってろ、ディケイド……!」
負け惜しみみたいな声が、歪みの向こうから響く。
俺は答えず、一歩、暗い円の中へ踏み込んだ。