足を踏み入れた瞬間、遺跡の湿った空気が背中から剥がれ落ちた。
代わりにまとわりついてきたのは、乾いているのに重い、妙に古い闇だった。息を吸っても肺が軽くならない。音もおかしい。靴裏が地を踏んでいる感触はあるのに、足音だけが少し遅れて返ってくる。まるで、この場所そのものが俺を歓迎する気も拒む気もなく、ただ黙って値踏みしているみたいだった。
視界の先には、遺跡を裏返したような景色が広がっていた。
崩れた石壁は天井へ向かって伸び、通路だったはずの場所がひび割れた空へねじれている。床に見えるものも、近づいてみれば水面のように揺れ、その下で黒い何かがゆっくり蠢いていた。人の心の底が、見慣れた景色を借りて形を作ると、こういう気味の悪い世界になるのかもしれない。
「……趣味が悪いな」
独り言は、すぐには消えなかった。
言葉の残響が黒い空間の端に触れ、そのたびに、壁や床に貼りついていた影がわずかに脈打つ。そこでようやく分かった。
周囲を蝕んでいるこの黒い影は、ただの闇じゃない。あれそのものが、転生者の魂の染みみたいなものだ。エルナの中へ潜り込み、根を張り、じわじわと景色ごと食っている。だからこの世界は暗いんじゃない。あいつの存在で、少しずつ黒く塗り潰されている。
影が一つ、床から剥がれた。
次に二つ。三つ。
揺らいでいた黒が輪郭を持ち、獣の牙や、爪の形や、人とも虫ともつかない異形の節を組み上げていく。完全な姿になる前から分かる。あれはただの番犬じゃない。転生者の魂から零れ落ちた欲や執着が、そのまま魔物の形を取っている。財宝に飢えた目、奪うことをためらわない顎、他人の内側へ潜り込むことをためらわない影。どれも、さっきまでエルナの顔で笑っていたあいつの延長だ。
黒い獣が喉を鳴らす。
細長い蛇めいた影が、石の柱を舐めるように這う。
翼のある何かが頭上で音もなく旋回し、視界の外を埋め始める。
囲まれた、と理解した時には、もう遅かった。
前にも、横にも、背後にも、黒い魔物が立っている。距離の詰め方に迷いがない。こっちを殺すためというより、逃がさないために並んでいる陣形だった。中心に追い込み、削り、最後に本命が出る。そういう性格の悪さまで、よく似ている。
俺は足を止めたまま、ゆっくりと周囲を見回す。
慌てる理由はない。むしろ、ここで焦れば相手の思う壺だ。
魔物どもの目は、どれも同じ飢え方をしている。奪うことしか考えていない目だ。だったら話は早い。
こいつらは転生者の魂の欠片であり、同時に、その歪みそのものでもある。なら、斬るべき場所も、壊すべき順番も、自然と決まってくる。
「ようやく顔を見せたか」
構えを低く落とす。
黒い影が、いっせいに身を沈めた。次の瞬間には飛びかかってくる。
この世界の主がどこで笑っていようと、まずはこの鬱陶しい囲いを破るところからだ。
黒い魔物たちがいっせいに身を沈めた瞬間、空気の密度だけが先に変わった。
飛びかかってくる前の沈黙は短い。短いくせに、その一拍の中に爪の角度も、牙の開き方も、どこを噛みにくるかも、全部見える。
だったら話は早い。
最初に来たのは、犬にも蜥蜴にも見える黒い獣だった。
床を蹴った勢いのまま喉元へ噛みつこうとする。こちらは半歩だけ軸を外し、ローブの裾を滑らせるみたいに身を捻る。噛みつきは頬の横を抜け、遅れて届いた牙の音だけが耳元で弾けた。
そのままライドブッカーを開く。刃の角度を浅く保ったまま横へ払うと、黒い胴が真ん中から裂け、破れた影が火の粉みたいに散った。
一体潰したところで、囲いは崩れない。
右から細い蛇が伸びる。
左では翼のある影が、柱の上から首筋を狙って滑り込んでくる。
上も、下も、隙間はほとんどない。
「いい性格してるな」
吐き捨てながら、前へ出る。
下がれば囲まれるだけだ。
ウィザードの姿は重心が軽い。踏み込んだ瞬間の体の流れが、刃を振るためじゃなく、次の位置へ抜けるためにできている。だから止まらない。
蛇のような影の胴を、足を止めずに断つ。切り裂いた反動で肩を落とし、そのまま頭上から来た翼ある魔物の爪をかわす。
掠めた黒い爪先がローブの縁を引っかいたが、深くは入らない。
着地と同時に、逆手に持ったライドブッカーを振り上げる。
刃が下から走り、胸を割られた影が、鳴き声を上げる前にほどけて消えた。
だが、次がすぐ来る。
今度は人の形に近い。
腕だけがやたら長く、指先の関節が増えたような気味の悪い魔物が、左右から同時に間合いを詰めてくる。
片方を避けても、もう片方が刺さる角度だ。よく考えてやがる。
「なら――」
ベルトへ手を伸ばす。
黒い影の指先が、もう肩口へ届く寸前だった。
踏み込みの勢いをそのまま借りて、身体を低く滑らせる。刃は振らない。先に位置を奪う。
指先の群れが空を切り、そのまま重なった二体の足元へ潜り込む。
次の瞬間、低い姿勢から跳ね上がるようにライドブッカーを振り抜いた。
黒い胴が二つまとめて裂け、裂け目から溢れた影が、遺跡を裏返したような空間へ散っていく。
距離が一気に詰まったせいか、周囲の魔物たちが一瞬だけ怯んだ。
その怯みを見逃す理由はない。
右へ一歩。
柱を蹴って半身だけ浮かせ、頭上から落ちてくる影の群れを切り払いながら着地する。
石の床に火花みたいな赤い残光が走る。
赤い。
今の姿の色だ。火を抱いたまま沈んでいるような、ウィザードのフレイムスタイルに合う残り方だった。
けれど、数が多い。
斬っても斬っても、黒い影が周囲の壁や床からにじみ出てくる。
転生者本人の魂が、この空間そのものへ染み出しているなら、表面だけ削っていてもきりがない。
なら、もう一段深く叩く。
カードを抜き、視線を真正面へ据える。
魔物たちが、それを見た瞬間だけ距離を詰めた。
止めないとまずいと、本能で分かった顔をしている。
「遅い」
差し込む。
『FOAMRIDE WIZARD FLAMEDRAGON』
熱が、一気に立ち上がった。
フレイムスタイルの赤い宝石じみた意匠がさらに強く燃え上がり、肩から腕へ、胸から背へ、竜の意匠を思わせる力の線が走る。
黒を基調にしたローブの輪郭はそのままなのに、内側に抱えた火の量だけが別物になる。
静かな炎だった。暴れるんじゃない。押し潰すような、濃い熱だ。
魔物の一体が、距離を詰めきる前に跳ねた。
牙を剥いた獣。最初に斬ったのと似ているが、さっきより大きい。
真正面から来るなら、もう避ける必要はない。
踏み込む。
熱をまとったまま、ライドブッカーを縦に振り下ろす。
刃が落ちた軌道に、赤い火線が残った。
黒い獣は頭から真っ二つに割れ、切断面から炎に似た光を噴き上げながら崩れた。
続けざまに左右から来た影へ身体をひねり、片方を肩でいなし、もう片方の腹を横一文字に断つ。
さっきまでなら裂けるだけだった影が、今度は断たれた瞬間に焼けて消える。
これなら、囲いごと押し潰せる。
頭上で翼が鳴る。
見上げるより先に飛ぶ。
柱を一歩で駆け、空中で身を翻しながら、滑るようにライドブッカーを振るう。
赤い残光が弧を描き、群がっていた翼ある魔物たちがまとめて断たれた。
破れた黒が雨みたいに落ちる。
その中を着地した時、床に広がっていた影の海がわずかに揺らいだ。
効いている。
本体が、痛みを拾い始めた。
「出てこいよ」
低く言う。
「こんな欠片でいつまで誤魔化す気だ」
返事の代わりに、床の黒が大きく脈打つ。
壁際にいた魔物たちが、一斉に後退した。
逃げたんじゃない。道を開けた。
中心にいる“何か”のために。
ようやく、敵の正体に近いものが姿を見せ始める。
そう分かった瞬間、ライドブッカーを握る手に、自然と力が入った。
ここから先は、ただ囲いを散らす戦いじゃない。
このアンダーワールドを蝕んでいる根っこそのものを、叩き折る段階に入る。