橋の上の騒ぎから一夜明けた朝は、眠気より先に「嫌な予感」だけが目を覚まさせた。
制服の襟元を整えながら、俺は鏡の中の自分を見て、教師という仮面が今日もよく似合っていると嘯く。
似合うかどうかなんて本当はどうでもいいが、仮面は割れる時に一番面倒な破片を撒き散らすからな。
昨日の襲撃は、露骨にこちらの動きと反応を測る形だった。
やり口は違うのに、視線だけは確実に「闇の書」と同じ方向へ伸びている。
転生者から得た断片の情報は、事件の輪郭を掴むには十分で、逆に言えば輪郭が掴めた分だけ怖さも増した。
闇の書は「勝手に災厄へ育つ」種類の代物で、誰かの都合と結びついた瞬間に最悪の速度で牙を剥く。
そして今の不安は、その誰かが転生者なのか、姿を現さないディエンドなのか、あるいは両方なのか分からない点に尽きる。
海東大樹という男は、舞台装置を動かす側に立った時ほど、妙に礼儀正しい。
礼儀正しい泥棒ほど始末に負えないものはなく、被害者が「何を盗まれたか」すら理解できないまま終わる。
それに加えて転生者は、情報を渡すくせに核心に触れる時だけ言葉を濁す。
善意と保身が混ざった目をしている人間の言葉は、刃物より折れやすく、折れた先が自分に刺さることもある。
だからこそ、今日は慎重に動く。
昨日みたいに敵の盤面に乗せられて、分かりやすく熱くなるのはデルタだけで十分だ。
俺は俺で、教師としての時間を守り、事件が勝手に学校へ侵食するのを食い止める必要がある。
何より、この町には「巻き込まれる側の子ども」が多すぎる。
校門をくぐると、いつもの空気がある。
朝の挨拶の声、靴箱の匂い、廊下を走る足音、その全部が「平穏」の形をしている。
平穏は脆いが、脆いからこそ守る意味があると、俺は知っている。
その平穏を守るために俺が何者かを隠すのは、別に優しさじゃない。
ただ、真実はいつだって見せ方を間違えると毒になる。
職員室に入ると、机の上に一枚の紙が置かれていた。
転校生の受け入れ資料で、名前を見た瞬間に喉の奥が少しだけ乾く。
「フェイト・テスタロッサ」
事件の中心に近い匂いがするのに、本人はその匂いに気づかない顔をしている子だ。
担任として対応しろと言われれば、断る理由はない。
むしろ断った瞬間に「何かを知っている」と自白するようなものだから、俺は無難に受け取る。
無難に受け取ったはずなのに、紙の重みが少しだけ手に残るのが気に入らない。
「門矢先生、こちらが転校生の資料です。保護者の方も一緒にいらしていますよ」
事務的な声に頷きながら、俺は椅子を引いた。
椅子の脚が床を擦る音が、妙に大きく聞こえるのは、俺が無駄に神経を尖らせている証拠だ。
職員室の入口に視線を向けると、そこに小柄な少女が立っていた。
金髪のツインテール、赤い瞳、そしてどこか「逃げ道」を探しているような立ち姿。
隣にいる女性は表情を崩さないが、保護者というより管理者の匂いがする。
俺は内心で舌打ちしそうになりながら、教師らしい顔だけを貼り付けた。
「門矢士だ。君がフェイトか」
声は淡々と、態度は少し尊大に、しかし押し付けがましくならない程度に空気を掴む。
相手が身構えていると分かっている時ほど、こちらが過剰に優しくするのは逆効果だ。
優しさは疑いの余白を増やし、疑いはそのまま恐怖へ育つ。
フェイトは小さく頷いた。
その頷きの角度が、誤魔化すためのものではなく、許可を求めるためのものに見えてしまう。
「……はい。フェイト・テスタロッサです。今日から、お世話になります」
声は硬いが、礼儀はある。
礼儀がある子ほど、誰かに仕込まれている可能性もあるから、油断はしない。
「うちのクラスは騒がしいが、慣れれば悪くない。まあ、嫌なら遠慮なく言え」
言葉は投げるようにして、受け取るかどうかは相手に任せる。
このくらいの距離感の方が、俺の“食えない”雰囲気は保てるし、教師としても扱いやすい。
保護者の女性が形式的に挨拶をし、必要な書類が机の上を滑る。
俺は書類に目を通しながら、フェイトの視線が何度も俺の手元に落ちてくるのを感じた。
警戒というより、確認だ。
彼女は今、俺が味方かどうかを測っている。
測られるのは嫌いじゃない。
測られた上で、こちらが測り返すだけだ。
「席は窓側がいいか、廊下側がいいか。好みくらいは聞いてやる」
俺がそう言うと、フェイトは少しだけ驚いた顔をして、すぐに視線を落とす。
「……どちらでも、大丈夫です」
その返事は、選ぶことに慣れていない返事だ。
選ぶことに慣れていない子どもがこの町に来る理由は、だいたい良くない。
俺はペンを回しながら、わざと軽い調子で言う。
「どちらでもいい、は便利な言葉だが、便利な言葉は後で自分を縛る。今日は窓側にしておけ、景色くらいは見た方がいい」
フェイトは戸惑いながらも、また小さく頷いた。
その頷きが少しだけ柔らかくなったのを見て、俺は心の中で一つだけ息を吐く。
この子は俺がディケイドだと知らない。
知らないままでいい。
教師と生徒の線を守れる限り、余計な真実はただのノイズだ。
しかし問題は、線を守らせない連中がいることだ。
闇の書は勝手に線を踏み越える。
海東は線を引いたつもりの場所に、別の線を上書きしてくる。
転生者は線の外側から「ここが危ない」と指差すだけで、自分は線の内側に入ってこない。
俺は書類を閉じ、立ち上がった。
「案内する。職員室は迷路みたいなもんだ、初日から迷子になっても笑えない」
尊大な言い方をしたのは、フェイトの緊張を受け止める器として、俺が少しだけ大きく見えた方がいいからだ。
それに、教師が卑屈だと生徒は余計に不安になる。
廊下へ出ると、校舎の窓から春の光が差し込んで、床に白い帯を作っていた。
その光の中を歩きながら、俺はフェイトの歩幅を自然に合わせる。
合わせていると気づかれない程度に合わせるのがコツで、気づかれたら負けだ。
「門矢先生」
フェイトが小さく俺を呼ぶ。
「なんだ」
「……この学校は、安全ですか」
質問の形は単純なのに、背後にあるものは単純じゃない。
俺は一瞬だけ考え、答えを選ぶ。
正直に言えば、世界はどこだって安全じゃない。
嘘をつけば、彼女の勘が「この大人は信用できない」と囁くだろう。
「安全かどうかは、俺が決める」
俺はそう言って、少しだけ口角を上げる。
「少なくとも、お前がここにいる間はな」
言葉は大きいが、約束の形としてはちょうどいい。
守れる範囲を明言し、守れない範囲を曖昧にしない。
それが俺のやり方で、俺の食えない雰囲気の正体でもある。
フェイトは驚いたように目を見開き、次に少しだけ視線を逸らした。
その仕草に、安心と困惑が同居しているのが分かる。
安心していいのか分からないから困惑する、という表情だ。
俺は廊下の角を曲がりながら、胸の奥で別の不安を転がす。
この約束は、海東にとって「破りがいのある宣言」になる。
転生者にとっては「予定を狂わせる変数」になる。
闇の書にとっては、そもそも関係のない言葉として踏み潰される可能性がある。
だから慎重に動く。
慎重に動いて、それでも踏み越えてくるなら、その時は仮面の出番だ。
教師の仮面が割れる音は、できるだけ生徒に聞かせたくない。
だが、割れるべき時に割れない仮面は、ただの臆病だ。
教室の扉の前で俺は立ち止まり、フェイトに視線を向ける。
「初日だ。変に気合いを入れるな、目立つのは面倒だぞ」
フェイトは小さく頷いて、息を吸い込んだ。
その瞬間、彼女の中で何かが決まった気配がして、俺は僅かに眉を動かす。
扉の向こうでは、いつもの日常が騒がしく待っている。
日常の裏側で、闇の書は静かに呼吸をしている。
そして見えない場所で、ディエンドがどんなカードを切るのか、俺にはまだ分からない。
分からないからこそ、目を逸らさない。
俺は扉に手をかけ、教師の声で、しかしどこか芝居がかった間を置いて言った。
「さあ、転校生の登場だ。お前たち、余計なことはするなよ」
その言葉が、誰に向けたものなのか。
俺自身にも分からないまま、教室の扉は軽い音を立てて開いた。