ペン先で机を叩く。
一回、二回、三回。
規則正しい音が、胸の内側の不規則を浮き彫りにする。
職員室の入口で足音が止まった。
軽いが迷いがない。
子どもの歩幅なのに、空気の踏み方が戦場のそれだ。
俺は顔を上げる前から察して、わざと面倒そうに言ってやる。
「覗き見が趣味なら止めないが、入るなら入れ。俺の机に用があるならな」
小柄な影がすっと入ってくる。
赤い服、短いツインテール、鋭い視線。
ヴィータは室内を一度だけ確認し、誰もいないのを確かめると、真っ直ぐ俺の机の前へ来た。
「……久しぶりだな、ツカサ」
「久しぶりってほどでもない。用件を言え。今日は忙しい」
ヴィータは歯を食いしばり、次に言葉を投げた。
「単刀直入に言う。闇の書に、魔力を入れてくれ」
その単語が落ちた瞬間、空気の温度が少しだけ下がった気がした。
俺は椅子にもたれ直し、表情を崩さない。
驚けば相手は焦る。
焦れば結論が乱暴になる。
乱暴な結論は闇の書の餌だ。
「理由を言え。お前が俺にそんな頼みをするってことは、はやての具合が良くないか、ページの進みが悪いか、その両方だ」
ヴィータの眉がぴくりと動く。
“はやて”の名前を口にされた、その一点で。
「……闇の書は、ページを集めなきゃなんねぇ。集めなきゃ、はやてが……」
言葉が詰まり、拳が固く握られる。
弱さを見せるのが嫌いで、隠し切れない時だけ指が震える。
その震えだけは、嘘じゃない。
「それで俺の魔力を入れたい、と」
俺が淡々と整理すると、ヴィータは一歩だけ踏み込んだ。
「ゼータのこと、知ってんだろ」
「知ってる」
短く返す。
余計な説明は要らない。
あいつは俺の近くにいるだけで、もう十分厄介だ。
ヴィータは言葉を続けた。
「ゼータの実力は分かってる。あいつ、やべぇだろ。隠れてても気配が消えねぇ」
「で、俺はそのゼータより強いって聞いたか」
ヴィータは悔しそうに口を歪め、それでも頷いた。
「……聞いた。ゼータが言ってた。ツカサは、あいつよりヤバいって」
ヤバい、か。
誉め言葉として受け取るには味が濃いが、否定する気もない。
まともに勝てるなら、そもそも俺は教師なんてやってない。
ヴィータは机の縁に手を置き、目だけで俺を刺した。
「だから、ツカサなら入れられる魔力があるだろ。頼む。はやてを助けたい」
俺は黙った。
闇の書に魔力を入れる行為が危険なのは分かっている。
ページが進めば、完成へ近づく。
完成すれば、暴走へ近づく。
転生者の断片情報は、その暴走が偶然じゃない可能性まで匂わせていた。
それでも、考えが一つ立ち上がる。
暴走の原因に手を伸ばすには、闇の書の内側へ侵入する必要がある。
内側へ侵入するなら、闇の書に「俺の魔力」という目印を刻ませるのが早い。
魔力は匂いで、痕跡で、座標になる。
闇の書が俺を覚えれば、俺はその覚え方を逆利用できるかもしれない。
そしてもう一つ。
俺は魔力がなくても戦える。
ディケイドに変身すればいい。
この世界の理屈に合わせて、手加減してやる義理はない。
口元だけで少し笑い、余裕の演技を作る。
「……面白い頼みだな、ヴィータ」
「ふざけてんのか」
短い返しが飛ぶ。
「ふざけてない。だから条件を出す」
俺は机に指を一本置き、釘を打つように言い切った。
「決して人を襲わないことだ。ページのために人を傷つけるなら、俺は協力しない。はやてを助けるために別の誰かを壊すのは、筋が違う」
ヴィータの目が揺れた。
反発じゃない。
痛いところを突かれた顔だ。
「……分かってる」
声が低くなる。
「アタシらは、はやてを守るためにいる。人を襲うためにいるんじゃねぇ」
「誓え。言葉にしろ。闇の書は言葉を食う。ならこっちも言葉で縛る」
ヴィータは一拍置き、拳を胸の前で握った。
「誓う。絶対に、人は襲わねぇ」
よし。
少なくとも今のヴィータは踏みとどまれる。
なら取引は成立する。
「分かった。渡してやる」
ヴィータが息を呑む。
期待と恐怖が同時に浮かぶ顔は、騎士らしくない。
俺は続ける。
「ただし、場所と量とタイミングは俺が決める。無制限は無しだ。闇の書に餌を与えるなら、餌の形も俺が選ぶ」
「……ケチくせぇ」
「賢いって言え。闇の書相手に気前よくする奴は、だいたい先に死ぬ」
ヴィータは悔しそうに唇を引き結んだが、頷いた。
「分かった。ツカサのやり方でいい」
俺は立ち上がり、椅子を戻す音をわざと大きく鳴らした。
「行くぞ。ここでやる気はない。職員室で何か起きたら面倒だ」
「どこでやるんだよ」
「人がいない場所だ。二人だけで済む場所にする」
廊下へ出ると、夕暮れの光が床を薄く切っていた。
校舎は静かで、部活の声も遠い。
俺は階段を降り、体育倉庫の裏手――風が止まり、音が死ぬ場所へヴィータを連れていく。
ここなら誰の目にも触れないし、誰の噂にもならない。
倉庫裏で立ち止まり、俺はヴィータを見た。
「闇の書はどこにある」
ヴィータは一瞬だけ迷い、それから短く答えた。
「……はやてのところだ。アタシが呼べば、反応はする」
「呼べ。ただし忘れるな。人は襲うな。お前が守護騎士なら、守り方くらい選べ」
ヴィータが目を閉じ、気配を立ち上げる。
闇の書を呼ぶための手順が、空気の圧を変えていく。
その変化を感じながら、俺は内心で確信していた。
闇の書に俺の魔力を刻ませる。
刻ませた痕跡を座標にして、闇の書の内部へ侵入する。
暴走の原因に辿り着けるなら、転生者の濁した核心を先に奪える。
ディエンドが笑う前に、笑う余地を奪える。
そして万一、闇の書が俺の魔力を餌として欲しがるなら――その時はその時だ。
魔力が枯れても、俺は戦える。
仮面をかぶるだけで、世界の理屈を踏み倒せる。
倉庫裏の影が濃くなり、紙が擦れるような音が耳の奥で鳴った気がした。