倉庫裏の影は、夕暮れの色に溶けるふりをしながら、確かに“頁”の形でこちらへ伸びてきていた。
ヴィータが目を閉じて気配を立ち上げた瞬間、空気の密度が変わり、ただの校舎裏が異界の入口みたいに感じられる。
俺は喉の奥で息を殺し、教師の仮面を外さないまま、闇の書という厄介な本に対してだけ意識を尖らせた。
「来いよ、闇の書、俺の都合でページをめくれ」
そんな横暴な言葉が通るほど世界は優しくないが、横暴を通すのが破壊者の仕事だと割り切っている。
ヴィータの気配が呼び水になり、影の中心が薄く開いて、そこから黒い本の輪郭が“見えないのに見える”形で浮かび上がる。
視界の端が微かに歪む感覚があり、視線を合わせた瞬間に、胸の奥が冷たい指で撫でられた気がした。
闇の書は生き物に似ている。
生き物に似ているから、飢えもあれば、好みもあれば、学習もする。
その飢えに対して、俺は自分の魔力を差し出すわけだが、慈善ではなく取引であり、侵入のための目印作りでもある。
「量は少なめにするぞ、ヴィータ、お前の都合で暴走させる気はない」
俺がそう言うと、ヴィータは視線を逸らしながらも、短く頷いて緊張を押し殺した。
「分かってるよ、余計なことはしねぇ、アタシだって馬鹿じゃない」
俺は手のひらを闇の書へ向け、魔力の流れを“意識的に細く”絞った。
流すというより、糸を通す感覚に近く、体内の熱が一本の線になって抜けていくのが分かる。
ページがめくれるような擦過音が一度だけ耳の奥で鳴り、闇の書が俺の匂いを覚える気配が濃くなった。
魔力が抜けていく感覚はあるが、意外なほど身体は軽いままだった。
息切れもしないし、視界が暗くなることもなく、胸の鼓動もいつも通りのテンポで刻んでいる。
俺がなのは世界の住人なら、魔力を抜かれた時点で何かしらの不調が出てもおかしくないが、俺は“別の理屈”で動く側だ。
闇の書は満足したのか、あるいは次の餌を期待しているのか、影の輪郭が落ち着き、空気の圧が少しだけ緩んだ。
ただ緩んだだけで、危険が消えたわけではなく、むしろ危険がこちらを覚えた分だけ増えたとも言える。
俺はその感覚を飲み込み、何事もなかった顔で手を下ろす。
ヴィータが俺の様子を横目で見ながら、警戒と呆れを混ぜた声を出した。
「話に聞いたけど、ピンピンしているな、おまえって変なやつだよな」
俺は肩をすくめ、わざと尊大な調子を崩さずに返してやる。
「俺は別に魔力なしでも生活出来るからな、お前の常識で測るなよ」
ヴィータは鼻を鳴らして、悔しそうに視線を逸らすが、どこか安心しているのが分かる。
協力してくれた相手が倒れたりしたら、守護騎士として責任を感じるのだろうし、そういう律儀さは嫌いじゃない。
俺は軽口のまま場を繋ぎつつ、視線だけで闇の書の気配を追い、内部に溜まる魔力の“量”を推し量った。
正直に言えば、かなり集まっている。
ページの欠片みたいなものが、闇の底で重なり始めていて、完成へ向けた偏った熱量が育っているのが嫌でも分かる。
このまま集め続ければ、はやての身体がどうなるか以前に、闇の書そのものが「答え合わせ」を始めるだろう。
「そう言えば、お前達は本の事についてはどこまで知っているんだ」
俺は唐突にそう切り出し、ヴィータの反応をあえて揺らしてみせた。
ヴィータは一瞬だけ眉を上げ、警戒が戻りかけた顔で返す。
「いきなりどうしたんだよ、そんな話を今する必要があるのかよ」
俺は笑いを含ませつつも、誤魔化さない声音で続ける。
「ただ気になっただけだ。こういうのは色々と知っておく事が解決の糸口になるかもしれないだろ」
ヴィータは唇を噛み、何かを言い返そうとして、結局は肩を落とした。
「……まぁ、協力してくれたんだしな、話せる範囲なら話すよ」
その一言だけで、ヴィータが少し素直になったことが分かる。
守護騎士の素直さは貴重で、闇の書に対抗する上で、その貴重さが命綱になることもある。
ヴィータは足元の小石を蹴り、言葉を短く区切りながら説明を始めた。
「闇の書はページを集めるために動くし、アタシらはそのために作られてる。ページが揃えば、闇の書は完成する」
彼女はそこで一拍置き、視線を鋭くする。
「けど完成したら、はやてが助かるって話ばかりじゃねぇ。昔は暴走したって記録があるし、アタシらもそれを知らされてる」
俺は黙って聞き、転生者から得た断片と照合していく。
細部の言い回しや認識の角度は違っても、土台の構造は一致していて、情報としての信頼性は高い。
つまり、この場で聞いた話は“間違いない”と判断していい。
「暴走の原因は分かっているのか」
俺が問いを挟むと、ヴィータは悔しそうに首を振った。
「そこまでは知らねぇ。アタシらは集めろって命令されてるだけで、原因の解析なんて担当外だ」
担当外、という言葉の冷たさが、闇の書の非情さをよく表していた。
俺は鼻で笑い、教師のふりをしたまま、余計に嫌味な結論を落とす。
「便利な道具扱いってわけだ。道具が道具のままなら、いずれ誰かの手が滑る」
ヴィータが反発しかけた顔を見せたので、俺は手を軽く上げて制した。
「怒るな、俺はお前を責めてるんじゃない。仕組みが腐ってるって言ってるだけだ」
ヴィータは唇を引き結び、しばらく黙った後で、ぽつりと本音を零した。
「……はやてを助けたいだけなんだよ、アタシらはそれだけなんだ」
その本音はまっすぐで、まっすぐすぎて危ういが、まっすぐだからこそ守る価値がある。
俺は一度だけ目を閉じ、闇の書の気配と自分の胸の内を切り分けた。
情報が間違いないと理解した一方で、別の疑問が濃くなっていく。
海東大樹は何を考えている。
あいつが昨日みたいに盤面を眺めて笑うだけならまだしも、今日の俺は闇の書へ魔力を渡した。
つまり、海東にとっては「盗みやすい動き」を俺自身が選んだことになる。
その疑問が形になる前に、背後から軽い拍手が一つだけ落ちた。
倉庫裏の静けさを嘲笑うみたいに、薄い音が空気を切って、二人だけの空間に第三者の輪郭を作る。
「へぇ、わざわざ力を分けたんだ。物好きだねぇ、君も案外やさしいんだね」
その声は軽薄で、優しさをからかうためだけに存在しているみたいに耳へ刺さる。
俺は振り返る前から正体を確信し、反射的に言葉を返すための温度を作った。
「今のは物好きじゃなくて、合理的な取引だ。見物料でも払うつもりなら歓迎してやる」
そう言いながら振り返ると、そこには海東大樹が立っていた。
いつもの怪盗然とした余裕はそのままに、服装だけが場違いなほど整っていて、組織の匂いを纏っている。
俺の口から、思わず言葉が漏れた。
「こいつは管理局っ……おい、冗談だろ」
同時に舌打ちが出たのは、驚きよりも、嫌な予感が当たり前みたいに積み重なったせいだ。
ヴィータが一歩前へ出ようとするのを、俺は片手で止めた。
条件は守らせるし、無駄な衝突は闇の書の餌になるから、ここで派手に火花を散らすのは下策だ。
海東は俺の制止を見て楽しそうに目を細め、わざとらしく肩をすくめた。
「どういうつもりだ、泥棒がそんな組織に入って」
俺の声は低いままだが、喰えない余裕だけは削がずに保っている。
問い詰める声に聞かせながら、実際には情報を引きずり出すための餌を投げているだけだ。
海東は笑って、まるで天気の話でもするみたいに答えた。
「君には関係ないだろ。僕がどこに所属しようが、君の授業には出席しないしね」
軽口に見せた返答が、逆に本気の匂いを強めていた。
俺は目を細め、闇の書の気配と海東の気配が、微妙に噛み合っているのを感じ取る。
海東が管理局に“入った”のか、それとも管理局の顔を“盗んだ”のか、その違いは致命的だ。
どちらにせよ、闇の書の謎を追う上で、海東の現在の所属が新しい変数として盤面に乗ったのは間違いない。
「関係あるかどうかは俺が決める。お前がその制服でここに立ってる時点で、もう関係は出来てるんだよ」
俺がそう言うと、海東は唇の端だけで笑い、視線をヴィータへ滑らせた。
ヴィータが歯を見せて睨むのを、海東は面白そうに眺め、まるで舞台の役者を並べ替えるみたいに言葉を落とす。
「闇の書も、守護騎士も、そして君の魔力の痕跡も、全部いい具合に揃ってきた。あとは誰が最初に踏み外すかだね」
踏み外す、という単語は、忠告じゃなくて期待だ。
期待されているなら、裏切るのが礼儀だろうと、俺は心の中で冷たく笑った。