カイト・エメロードにとって、世界は耐えがたいほどの無駄に満ちていた。
太陽が東から昇り、西に沈む。食事、睡眠、労働。すべての行動の裏に、彼は労力と時間の膨大なロスを見出す。その効率主義は、彼が孤児院を出てから住む、王都の外れのアパートの一室、小さな錬金術の作業台の上でも、徹底されていた。
「なぜ、こうも律儀に非効率な手順を踏むのか」
カイトは、真鍮製の錬金釜を見下ろし、小さく嘆息した。
このブリタニア王国において、錬金術は神から与えられた「調和の術」とされる。素材が持つ魔力の波長を正確に合わせ、釜の中で「相乗の儀」を行うことで、一つの投入に対して一つの成果物を生み出す。
王宮の錬金術師たちが何時間もかけて魔力の調整を行うのに対し、カイトの作業時間はいつも、彼らの十分の一以下だった。
彼は、脇に置かれた三種の薬草と魔力鉱石の破片を手に取った。これらは最も一般的な回復薬の素材だ。その隣には、カイトが「毒消し薬の補助剤」として使う、微かな毒性を持つ苔を並べる。
「回復と解毒。波長が相容れぬ素材を同時に扱う。これは、調和の術に反する禁忌。だが、その禁忌が、釜の演算を狂わせる」
彼は、回復薬のレシピが要求する魔力の波長を正確に満たした後、最後に苔をごく微量、指先で掬い取り、水面に触れさせた。
苔の毒性が、釜の「調和の計算」を一時的に中断させる。それは、異世界の錬金術師たちが「魔力の調和が取れた瞬間」と誤解する、ただの演算エラーの瞬間だ。カイトはその僅かな停止状態を利用する。
彼は溶解しきっていない薬草の茎を、一本だけ、まるで魔法のように抜き取った。
この世界の錬金釜の魔力制御機構は、「素材の不完全性」というエラーを感知すると、その時点で稼働中の魔力を全て消費し、強制的に作業を完了させるという、設計上の大きな欠陥を持っていた。
結果、釜は一つの回復薬を生成するはずだった場所から、残存する魔力を使い切るまで、回復薬を次々と複製し始めた。
水が湧き出すように、ガラス瓶が十個満たされていく。
「ふむ。一投入で十個。これで、本来必要な労働時間を大幅に削れた。快適な生活とは、不必要な労働を削ることによってのみ得られる」
カイトはこの手法を、己の頭の中で『円環複製(えんかんふくせい)』と名付けていた。周囲の錬金術師たちが、これを「素材の魂を操り、無限の増殖を可能にする古代の禁術」だと喧伝していることなど、彼にとって、どうでもいい他者の無益な解釈に過ぎなかった。
作業を終えたカイトが、自作の「強烈な覚醒作用を持つ苦い茶」を啜っていた時、扉がノックされた。
「カイト様。リアナ、参りました」
声の主は、王国の若き天才魔法剣士、リアナ・ヴァルキリー。彼女は、カイトの住むこの貧相なアパートの大家から「護衛」として無理やり押し付けられた娘だ。彼女はカイトの行動を、最も熱心に解釈し、崇拝している信者の一人だった。
「入れ。無駄に時間をかけるな」
カイトのぶっきらぼうな言葉は、彼が意識して丁寧な言葉遣いをしても、周囲には常に高圧的な命令口調に変換されてしまう。カイトは、これを「この世界の翻訳機能の欠陥」だと諦めていた。
リアナはすぐに作業台に目を向け、感極まったように静かに頷いた。
「やはり、行っておられたのですね。資源が枯渇する時代に、たった一回の釜で十個を生み出す叡智。カイト様こそ、伝説に謳われる『最適者』の再来でいらっしゃいます」
「最適者?ああ。茶を飲め。集中力の維持に役立つ」
カイトは無造作に茶を差し出す。
リアナは畏まった様子でカップを受け取り、その異様に苦い液体を静かに喉に流し込んだ。
「ありがとうございます。カイト様の『覚醒の雫』。この強烈な苦味は、私の魔力回路の不純物を洗い流し、戦場での集中力を極限まで高めてくれます」
リアナは真剣に言っている。彼女が騎士団で鍛錬してきた常識では、こんな単純な野草から抽出した液体が、これほど強い覚醒作用を持つことはありえない。だからこそ、カイトの茶は古代の秘薬なのだと信じている。
「それで、今日の用件は何だ。まさか、お茶請けの相談ではないだろう」
カイトが単刀直入に尋ねると、リアナはハッとして、懐から羊皮紙を取り出した。
「はい。錬金術師長からの緊急の伝言です。『聖騎士団の鎧に使用する特殊な強化薬と、聖地の深部に眠る希少な素材が緊急で必要。カイト殿の叡智を借りたし』とのことです」
このブリタニア王国を脅かす最大の敵は、大陸の東部から湧き出す逢魔生体アビスと呼ばれる魔物群である。王国は、このアビスとの戦いの最前線にある。
アビスの魔力は、この世界のあらゆる資源を汚染する特性を持つため、聖騎士団は、その汚染から身を守るための特別な装備と、強力な浄化薬を必要としていた。
今回求められている「聖地の希少な素材」は、アビスの汚染を唯一受け付けないと言われる鉱石『起源の結晶』であり、この結晶が採れるのは、王国の南に位置する「嘆きの聖地」の深部のみだった。
聖地は、かつて神々が大地を浄化した場所とされるが、実際には魔力の流れが極端に乱れており、魔力波長の乱れが激しい場所だった。
「聖地の希少な素材、か。ああ、あの魔力波長の乱れが激しすぎて、空間処理が不安定になるエリアに出る素材だな」
カイトはすぐにピンときた。魔力の流れが極端に乱れるエリアでは、「魔物出現の演算」が正常に行われず、特定の座標に立つと、システムが魔物の配置を再計算するループに入り、レアな魔物が連続して湧き続ける。
彼に言わせれば、これは素材集めのための放置狩りの絶好のスポットだ。彼はそのスポットで素材を飽きるほど集め、既に自宅の戸棚に山と積んでいた。
「あの素材ならもう十分にある。なぜ今さら騒ぐ」
リアナは目を見開いた。起源の結晶は、王国の年間採集量がわずか20個に満たない、騎士団の命綱とも呼べる資源だ。
「カイト様が…もう十分な在庫を? まさか、既に無限に湧き出す魔力の源泉を構築されたのですか」
カイトは、無駄な会話を切り上げるため、戸棚を開けた。中から、彼は重さのせいでカチャカチャと音を立てる布袋を取り出し、机の上に放る。
「数えてないが、100個は超えているだろう。これで足りるか?」
リアナは、光を放つ宝石のような結晶の山を見て、息を呑んだ。
「これは……! 間違いありません。賢者の『誘引陣(ゆういんじん)』を完成させたのですね。この地に満ちる魔力潮流を一点に集中させ、魔物を呼び寄せる古代の秘術……王国の危機を救う、まさに神の恩寵です」
カイトは、ただ「魔力波長の乱れを利用して寝ていただけ」だ。しかし、この誤解のおかげで、煩わしい採取労働から解放される。
「危機、ね。面倒な仕事をさっさと終わらせるぞ」
カイトは錬金釜の準備を始めた。
カイトが王宮から求められたのは、聖騎士団の鎧に使用する特殊な強化薬だ。彼は、これを最高の結果で仕上げる必要があると判断した。
「失敗作を騎士に渡して、後で手直しを命じられるのは、最も非効率な状況だ」
彼は、最高の結果、つまり「全ての強化効果が最高の状態で付与される」まで、作業をやり直す手法を実行に移す。
この世界には、『時の回廊』という、術者が特定の魔力を用いて過去の状態を再現し、未来を変えるという秘術がある。もちろん、カイトが知っているのは、そんな大層な魔法ではない。
彼は、部屋の隅に描いた魔力回路図(カイトには、ただの「作業開始直前の状態を保存するための、魔力バックアップ装置」にしか見えない)に魔力を流し込んだ。
「魔力の流れを固定。現在の状態を記録(セーブ)しました」
彼は強化薬を作成し、その性能を確認した。結果は、平凡なものだった。付与された強化効果が、低い数値に収束している。
「最悪だ。リセットするしかない」
彼は迷わず、再度魔力回路図に魔力を注いだ。
眩い光が部屋を満たし、次の瞬間、カイトは錬金釜の前に座っている2時間前の状態に戻っていた。素材は無傷で、時間だけが巻き戻されていた。
「リセット。これで無駄な装備は作らなくて済む」
カイトは、これが単なる「作業のやり直し(リロード)」という、非効率を回避するための基本技だと思っていた。
しかし、外で待つリアナの視界には、彼の部屋が「一瞬で光の粒子となり、時間を巻き戻した」ように映っていた。
「(二度、空間が崩壊し、時が逆行した……! これが、運命さえも書き換え、最高の『可能性』を具現化する『時空回帰の鍛冶術』……!)」
リアナは、この偉大な賢者の前で、恐怖と崇拝の念に打ち震え、深く頭を垂れた。
カイトは再び素材を釜に入れながら、考える。
「最高の強化効果が出るまで、あと十回はリセットが必要か。ああ、なんて無駄な時間だ。早く終わらせて、誰にも邪魔されない快適な隠居生活を始めたいものだ」
彼の追求する「効率」は、異世界で「伝説」となり、そして彼の望む「スローライフ」は、その伝説によって、最も遠い場所へと追いやられようとしていた。
二日後。
カイトが「最良の結果」が出るまでやり直しを繰り返した末に完成させた、一瓶の強化薬と、大量の起源の結晶は、リアナの手によって王宮へ届けられた。
リアナは、錬金術師長、バルカスの執務室の重厚な扉を叩いた。
「錬金術師長、カイト様の叡智が、危機を救いました」
白髪と豊かな髭を持つバルカスは、眼鏡の奥の目を細めた。彼は、カイトの常識破りな錬金術を信用していない、旧体制の権威そのものだった。
「ふん。あの小僧が作ったという、まがい物か。リアナよ、お前もあの小僧の口車に乗せられたか。錬金術は、調和と経験の積み重ね。バチバチと音を立てるような粗野な手法で、真の薬が作れるわけがない」
バルカスは、リアナが差し出した強化薬を鼻先で笑い、その横に置かれた起源の結晶の山を眺めた。
「そして、この起源の結晶はなんだ。いくらなんでも量が多すぎる。盗品ではないのか?」
「いいえ!」リアナは強く反論した。
「これはカイト様が誘引陣によって聖地から引き寄せたものです。そして、この強化薬こそ……」
リアナは強化薬の入った瓶を静かに机に置いた。瓶の液体は、通常の強化薬では見られない、虹色の微細な光を放っていた。
「カイト様は、時空回帰の鍛冶術によって、この強化薬が持ちうる最高の可能性を引き出したと伺っています。失敗を許さず、最高の成果のみを王国の騎士に捧げる。これが最適者の叡智です!」
バルカスは不愉快そうに、虹色の薬を手に取った。
「時空回帰だと?ふざけたことを。時の魔法は神代の秘術だ。そんなものが、あの小僧に扱えるわけが……」
バルカスは、薬の成分を解析するために魔力を流し込んだ。
次の瞬間、バルカスの顔から血の気が引いた。
「な、なんだ、これは……」
彼の知る強化薬の成分表は、『筋力上昇値:最大5』、『耐久強化:最大3』が限界だった。しかし、彼の目の前の薬から検出された数値は、常識を遥かに超えていた。
{筋力上昇値:} +15
{耐久強化:} +10
{魔法耐性:} +5
「馬鹿な……ありえない。これは、神話に出てくる『神の鎧』を強化するために使われたとされる、伝説の薬と、完全に一致している……」
バルカスは、震える手で薬を机に置いた。彼の数十年におよぶ錬金術師としてのキャリア、そして常識が、今、目の前で崩れ去った。
「リアナ、この結晶と薬を、すぐに第一騎士団へ届けろ。これほどの力があれば、我々はアビスとの戦いの戦局を覆せるかもしれん」
バルカスは、カイトを詐欺師だと疑っていたことを激しく後悔した。彼は自分の無知を恥じ、カイトこそが、この世界に再び現れた神代の賢者なのだと確信するに至った。
一方、カイトはアパートで、次の作業に取り掛かっていた。
「騎士団に渡す強化薬はこれで完了。次は、アパートの老朽化対策だ。隙間風を防ぐための、魔力的な簡易防水防風壁を作る。これもまた、無駄な手間を減らすための、優先度の高い作業だ」
王国の運命を左右する神代の秘薬を作った後で、彼が取り組むのは、ただのアパートのDIYだった。彼の追求する「効率」は、今日もまた、異世界で、彼の意図とは全く異なる「伝説」を紡ぎ続けていた。