夜を歩く鴉と、待つ女たち   作:鉄猿

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放課後のシズエさん

 

 

 

 

放課後の教室は、まだ人の気配を残していた。

掃除の雑音が遠くで響き、窓の向こうでは部活の掛け声が風に乗って流れてくる。

 

「ねぇ、知ってる?」

 

教室の隅。

机を囲んだ女子数人の輪の中で、その一言が落とされた。

何でもない調子で。なんでもない話題みたいに。

けれど、声の奥だけが妙に弾んでいた。

 

「……“放課後のシズエさん”。」

一瞬、笑いが漏れる。

 

「またそういうやつ?」

「怪談? チェーンメール系?」

「今どき流行らないよ、そういうの」

 

軽くあしらう声が多かった。

でも――完全に否定する笑いじゃない。

誰もが、少しだけ興味を持ってしまっている。

噂というのは、 信じている人間よりも、 “笑いながら聞く人間” の方がよく育てる。

 

「ただ走るだけなんだって」

その言葉に、数人が顔を上げた。

 

「放課後の教室で、みんなで走り回るだけ。

笑いながら。“楽しい鬼ごっこ”って思い込んでると……」

 

そこで話した子は、わざと間を置いた。

誰かが息を飲むのが聞こえた。

 

「“向こう”が混ざってくるんだって」

からかい半分に笑う子もいる。

 

「向こうってどこだよ」

「そういうのって大体“何も起きませんでしたー”で終わるやつじゃん」

 

しかし。

ひとりの女子が、ぽつりと呟いた。

 

「……でも、話したくないだけかもよ」

空気が、裂けるみたいに静まる。

 

その子は視線を漂わせたまま、声を落とした。

 

「“成功した子は、戻ってこれないんだって”」

 

誰も冗談で笑わなくなった。

戻らない理由は誰も知らない。

死んだとも、失踪したとも言われていない。

ただ “いなくなる”。

そして——残った教室だけが、おかしくなる。

 

夜、人影が歩く音がする。

存在しない足跡が廊下に残る。

鏡に“知らない女子”が映る。

そして最後に、必ず聞こえるのだという。

 

トン……トン……トン。

 

廊下を踏み鳴らす音。──“誰かが走っている音”。

 

「……それが“シズエさん”。鬼の役なんだって」

 

名前が口にされた瞬間、

何か、形のない嫌悪が落ちてきた。

口に出しただけで、

“こちら”に気づかれたみたいな感覚。

 

「でもさ」

声が一段軽くなる。

 

「やってる最中に“怖い”って思わなければ大丈夫なんだって」

「笑ってれば……平気。

“楽しい鬼ごっこ”のまま終われるらしいよ」

 

女子たちは顔を見合わせる。

怖い話のはずなのに——

簡単すぎて、笑えてくるルール。

だからこそ、 挑みたくなる。

だからこそ、 馬鹿みたいにやってみたくなる。

そしてそれが、 地獄の入り口になる。

どこからか見ていた 水野美怜 が、 机にもたれ、ゆっくり笑った。

 

「……ね。やってみたら、本当に分かるかもよ?」

 

その笑顔が冗談だったのか、

ほんの少しだけ本気だったのか。

その時の誰にも、きっと判断できなかった。

 

ただ——その場にいた十人の運命だけが静かに決まった。

放課後の教室。

窓から差し込む夕方の光は、まだ普通の色をしているのに――

空気だけがどこか濁っていた。机を端に寄せて作られた空間。

輪の中心に立つ水野美怜。それを囲む十人ほどの同級生。

そして、壁際に寄りかかるようにして立つ迅花。

腕を組んだまま、その様子を黙って見ていた。

 

「ほんとにやるんだ……?」

横にいる友達が、声を潜める。

笑ってはいるけど、笑い方が硬い。

その笑顔は、ほつれた糸で無理やり顔に縫いつけたみたいだった。

 

迅花は答えない。ただ胸の奥で、

嫌なものがゆっくり形になるのを感じていた。

 

(――嫌な匂いがする)

 

それは、理屈じゃない。経験で覚えた“危険の気配”。

美怜は軽い調子のまま言う。

 

「大丈夫だって。“シズエさん”はただの噂だし。

怖い人は無理して見なくていいから」

 

その声には、自信があった。

“自分だけは安全圏にいる”と思っている人間の声だった。

 

その瞬間――迅花は、口を開いた。

 

「……やめた方がいいよ」

 

教室の空気が、少しだけ止まる。

いつも冷静で、余計なことを言わない迅花が、

珍しくはっきり口を出した。

 

「こういうの、“笑って済む怪談”じゃなかったらどうするの?」

 

冗談めかした声じゃない。

本気の、冷たい声。美怜が、わずかに眉を動かした。

 

「なにそれ。本気で信じてるの?」

 

教室に微妙な空気が流れる。

誰かが笑い、誰かが目を逸らす。誰かが安心したいだけの言葉を探す。

 

「大丈夫だって。うちの学校、毎年誰かやってるし。

“本当に出たらニュースになってるって”」

 

「……“出なかった奴”だけが、

毎年ちゃんと帰ってるだけじゃないの?」

 

迅花のその言葉に、数人の顔色が変わった。

美怜だけは、笑顔を崩さない。

 

「怖いなら帰っていいよ、迅花ちゃん。見物だけして“怖い怖い”って言うの、一番つまんない人だから」

 

挑発じみた柔らかい声。

周りが、笑いで緊張を誤魔化す。

 

(――届かない)

迅花は悟った。

“止まらない”この場の空気は、

もう既に “一度走り出した遊び” になってしまっている。

そして――嫌な予感が、胸の奥で重く沈む。

 

(最悪だ)

 

黒板に書かれる。――しずえ

ただの平仮名。なのに、その瞬間、教室の温度が、

一段下がった。音が沈む。色が鈍る。

誰もまだ何も言っていないのに、喉の奥がひとりでに硬くなる。

 

「……え?」

 

誰かが呟いた。夕焼けが――夕焼けじゃなくなる。

窓の外の空が、ゆっくり、静かに、赤黒く染まっていく。

街の音が消えた。車の音も、風の音も、鳥の声も。世界が、

“ここ”だけ切り離されたように、音をやめた。

 

扉を開けた男子が、足を踏み出したまま固まる。

廊下は壊れていた。壁が剥がれ、床はひび割れ、

天井から蛍光灯がぶら下がって揺れる。

――数分前まで、普通の学校だった場所。

 

「う、うそだろ……」

 

乾いた声で、誰かが言う。笑い声は生まれなかった。

冗談も飛ばなかった。“理解”が、静かに広がる。

遊びじゃない。儀式は成功した。

“呼んではいけないもの”は、本当にいた。

迅花は、指先を強く握った。

 

(――やっぱりだ)

止められなかったという現実が、

骨の内側まで響く。横で友達が震えながら袖を掴む。

 

「迅花……帰れるよね……?ねえ、帰れるよね?」

 

迅花は、答えられなかった。答えになる言葉が、

どこにも見つからなかった。

 

その時――コツン。

 

遠くで、足音がした。

 

コツン……コツン……

 

ゆっくり、ゆっくり、近づいてくる。

 

誰も何も言わない。言えない。息を殺して、ただ聞く。

そして一人一人が理解する。近づいてくるそれは――

“こっち”に、興味を持っている。

 

胸の奥で、何かがゆっくり崩れ始めた。

迅花は息を吸う。叫びたいのに、叫べない。

走りたいのに、動けない。

 

(――もう戻れない)

 

そう思った瞬間、世界が、完全に異界へ落ちた。

 

 

 

最初に悲鳴を上げたのは――誰だったか覚えていない。

ただ、教室の空気を破るように、細く裂けた悲鳴が上がった瞬間、全員が一斉に崩れた。

 

「いやああああああっ!!」

「帰れない帰れない帰れないって、

ちょ、ふざけんなって……!?」

「なんだよこれ、ドッキリだろ!? テレビ!?」

 

机が倒れ、椅子が鳴り、誰かが走り出そうとして転ぶ。

扉へ殺到する数人。廊下を見て、すぐに引き戻る。

 

「無理無理無理無理無理!!! 壊れてる! 学校が……学校じゃねえ!!」

 

壊れた廊下。剥がれた壁紙。錆びた血のような色のシミ。

 

―――そして、窓の外。見慣れた町並みは、どこにもなかった。

真っ赤な夜空。何かが胎動しているみたいに、

ゆっくり揺れている雲とも煙ともつかない赤黒い膜。

街並みは黒い影のように溶け、

遠くのビルは倒壊途中のまま止まっている。

 

「……ここ、どこ……?」

 

誰かの声が震える。でも、誰も答えられない。

 

突然、廊下を走る足音。

――タタタタタタッ……!

 

「誰かいる!!!」

 

叫びが上がる。

違う。違う。“人の走り方じゃない”。

それは床をこするように、引きずるように、

そして……時々、四つ足で走るみたいな気持ち悪いリズムを混ぜながら近づいてくる。

 

「来るな来るな来るな来るな!!」

 

廊下の曲がり角から――犬のような影が顔を出した。

だけど、それは犬じゃなかった。畜生の口と牙を持ちながら、

人間じみた歯並びが混じり、

そして――顔の中央に、人間の“目”と“口”がついていた。

 

笑っていた。

人間の顔が、犬の体に貼り付いたみたいに歪んで。

 

「ひ……ッッッ!」

 

教室全体が悲鳴に包まれる。

それが狂ったように走り出した。

 

「やばいやばいやばいやばい無理だろこれ!!」

 

男子二人が廊下に飛び出す。

人面犬が、笑いながら追いかける。

 

――きゃはははは、きゃははははっ!!

 

笑い声なのか、鳴き声なのか分からない叫びが木霊する。

一瞬で視界から消えた。そして――鈍い音。悲鳴。

 

「誰か、助け――」

 

声は、途中で潰れた。

血の匂いが風に乗って教室にまで届く。息が詰まった。

 

教室に残った生徒達は、完全に壊れ始めていた。

床に座り込んで泣く女子。机に縋って「夢だ」と繰り返す男子。

 

「うそだろ……

俺、普通に帰ってゲームして寝る予定だったのに……」

 

誰かの弱すぎる独白。

 

そんな中――美怜だけが、青ざめた顔で立ち尽くしていた。

彼女の足は震えているのに、膝は折れない。

その姿は、信じた儀式が“本物すぎた”現実を

まだ認めきれていない意地のようだった。

 

(……止められなかった)

 

迅花の喉がきつく締まる。

自分の判断が遅れたわけでもない。

声も上げた。止めようともした。

それでも――“届かなかった”。その結果がこれだ。

胸の奥に、重い石が沈む。

 

友達が震える手で迅花の袖を掴んだ。

 

「迅花……これ、どうしたらいいの……?ねえ、ねえ……!」

 

迅花は息を吸った。怖い。もちろん怖い。

 

でも――

(震えてる暇なんか、ない)

 

もう一度廊下から音。今度は、笑い声だけじゃない。

重い、何かを引きずる音。

ズルッ……ズルッ……

誰かを、引きずっている音。

それに混じって、

 

小さく――

「……たすけて」

 

聞こえた気がした。教室の空気が、完全に折れた。

誰も、現実から目を逸らせなくなった。

“地獄”はもう始まっている。

 

そして――

これが“最初の犠牲”でも“最後の恐怖”でもない事だけは、

誰の胸にも、はっきりと理解されてしまっていた。

廊下の奥に消えた悲鳴は、もう二度と戻らないと思っていた。

だって、あんな声を上げて消えたんだ。助かるわけがない。

――そう思っていたのに。

 

「……ねえ」

誰かが震える声で言った。

「……足音、してない?」

 

静寂に怯え切った教室の空気を裂くように、

――コツ、コツ、と

軽い靴音が近づいてくる。

 

まるで、ただの放課後みたいな、普通すぎる足音。

 

「帰ってきたんだよ!助かったんだって!」

 

誰かが叫ぶ。希望に縋る声。掴めそうな現実。

しかし迅花だけは、それが“おかしい”と瞬間で理解した。

 

(……遅すぎる)

 

あんな悲鳴を上げた人間が、

落ち着いた足取りで戻れるはずがない。

それでも――扉の前まで、足音は止まらずに近づく。

 

――コン。

ノック。

 

教室中の心臓が一斉に跳ねた。

 

「お、おい……お前、無事なのか……?」

 

男子が震える声で近づき、

扉に手を伸ばす。やめろ。開けるな。迅花の喉が熱くなる。

声を出すより先に――扉が、ゆっくり開いた。

 

――そこにいたのは、さっき逃げていった男子生徒。

確かに“彼”だ。制服も、髪も、顔も。

ただ――どこかが、おかしい。

血で汚れているのは分かる。

それならまだ理解できる。

 

問題は――笑っていた。

顔の筋肉だけを無理やり“笑い”の形に引っ張ったような、

貼りついた笑顔。

 

「……よかった……生きて――」

 

誰かが言いかけた瞬間、その少年の首だけが、がくん、と傾いた。

力が抜ける動きじゃない。紐で吊る人形みたいに、

間接を無理に折るみたいな、不自然な角度。

そのまま彼は――

ズル……

ズル……

“誰かに背中を押されるように”

教室に一歩踏み込んだ。

足は震えていない。でも、

身体は自分のものじゃないみたいに揺れている。

 

「……あの……」

女子が泣きそうに呼びかける。

 

少年の口が動いた。

「……みんな……だいじょうぶ……だった?」

声だけは、確かに彼の声。でも――抑揚がない。

 

台本を読んでいるみたいに平坦で、喉の奥で何かが擦れている。

そして、“喉元”が動いた。

 

制服の襟の隙間から覗いた首筋に、

深く抉れた“噛み裂かれた跡”。

皮膚は破れ、肉は見え、

何本かの白い線――筋――がずれて揺れた。

 

「ひっ……!」

 

女子の悲鳴を遮るように、少年の口角が、

ぐにゃあ、とさらに引き上がった。

笑顔が、笑顔じゃなくなっていく。

 

「……いっしょに……いこ……?」

 

その言葉と同時に――廊下の奥で、また“あの音”が笑った。

 

――きゃははははははははは!!!

 

少年の身体が、

まるで糸を引かれるように前へ踏み出す。

教室にいる誰かを掴もうと、ゆっくり手を伸ばす。

助けを求める手じゃない。連れていく手。

 

「来るなッ!!」

 

男子生徒が恐怖に任せて椅子を投げた。

それが少年の肩に当たり、骨が砕けるような音が響く。

腕が、逆方向に折れた。でも――少年は倒れない。

痛がらない。笑ったまま、

また一歩。

ズル……

ズル……

無理やり“歩かされて”いるみたいに。教室全体が悲鳴に包まれ、

誰かが逃げ出すように窓へ、誰かが扉の反対側へ。混乱が爆発する。

そんな中――迅花だけは、

ただ一つの事実に気づいてしまっていた。

 

(――この世界は、ただの “怪談” じゃない)

 

“死んだ者を、死んだまま歩かせる世界”。

 

その冷たい現実が、腹の底へ染み込む。

そして少年の手が――ついにクラスメイトの肩に触れた瞬間。

教室の照明が、一瞬だけ全部消えた。

赤い闇だけが、世界を満たした。

 

掴まれた女子生徒の肩が、ぐちり と音を立てる。

悲鳴。

 

「やめて!! 痛い!!いやだ、いやだ、離してよ!!」

 

少年の顔は笑ったまま。声だけが優しくて、

そこに“人間の心”がないのがはっきり分かる優しさ。

それが――最悪だった。

 

「だいじょうぶだよ……すぐだから……一緒に……いこう……?」

 

教室の空気が凍る。誰も近づけない。誰も止められない。

 

「迅花……どうしよう……」

隣で友達の結衣が涙声で縋る。

 

迅花は――分かっていた。

気づきたくなかった現実を、もう何度も見てきた。

“人じゃない”ものが“人の形”をして、

“優しさに似た何か”で殺しにくる世界。

 

(知ってる……“迷ってたら間に合わない”ってこと)

 

怖い。正直、まだ怖い。手が震えているのは、未熟だからじゃない。“恐怖を知ってて立っている”から震える。

それでも――迅花は一歩、踏み出した。

 

「――離せ」

 

教室の視線が一斉に向く。

止める声が飛ぶ。

 

「迅花やめろ!!」 「無理だって!!」 「死ぬよ!!」

 

そんな言葉は、もう聞き慣れた。

九郎に言われた言葉が、胸の奥で蘇る。

――“お前は強い。でも、それだけじゃ足りねえ。

 怖くても前に出る奴だけが、本当に守れるんだ。”

 

(分かってるよ、師匠)

 

少年の前に立って、真正面から睨みつける。

笑った死人の目と目が合った瞬間、

背筋を氷で撫でられたみたいな悪寒が走る。

それでも言う。

 

「……相手間違ってる。そっちじゃない。来るなら――」

胸を張って踏み出す。

「あたしだろ。こいよ」

 

少年の笑みが、“気づいた”笑みに変わる。

 

「……みつけ、た」

 

その声と同時に、重く、速い腕が伸びてくる。

速い。重い。同時に、分かる。

 

(――掴まれたら終わり)

 

だから迷わない。床を強く踏む。腕を滑らせて受け流し、

肩でバランスを殺し――正面に身体を捻る。剛腕が唸る

 

「ッらああッ!!」

 

拳を叩き込む。骨が軋む手応え。顔が横に吹き飛ぶ。

異能で強化された拳は並の人間なら一撃で撲殺する威力が含まれていた。

それでも倒れない。笑ったまま、

まるで人形の首みたいに不自然に戻ってくる。

つい息を呑んだ。

 

(――やっぱり、“人間じゃない”)

 

教室の空気が一層冷える。

でも。ここまでやって、下がる選択はもうない。

胸が焼けるように熱い。

怖い。だけど――

 

(ここに師匠はいない。代わりに前に出るのは、自分だ)

 

迅花はもう一歩、前へ。初めてじゃない。

でも、毎回“初めてみたいな重さ”の一歩。

それでも、迷いなく踏みしめる。

――これが、九郎の弟子として立つ覚悟。

 

少年霊の頬を殴った衝撃が、まだ拳に残っている。

瞬間、教室の空気は、別の意味で凍りついた。

理由は分からない。

でも、全員の本能が同時に理解した。

――“ここから先は、さっきまでの“怪異ごっこ”とは違う”

 

空気が…裂ける。音はないのに、

耳の奥で ベリィッ と破れる音が鳴った気がした。

床が鳴るわけでもない。何かが落ちたわけでもない。

ただ“世界の方が歪んだ”。

教室の壁が静かに軋む。

赤黒い窓の外がぐにゃりと歪む。

 

誰かが息を飲む音すら聞こえた。

 

「……来る……」

 

知らずに迅花の喉から洩れた。

 

次の瞬間。――“匂い”が変わった。

鉄と、湿った布と、古い血の臭い。

“長い間、誰にも触られず、忘れられた少女の匂い”。

それだけで吐き気がするほど重い。

視線を動かす勇気が、教室の誰にもなかった。

それでも、誰もが分かる。

 

“この教室に、何かが“入ってきた”わけじゃない。

 

逆だ。

“この教室の方が、その“何か”の領域に落ちた。”

 

黒板のチョークの文字が、ぐずりと涙みたいに溶け落ちる。

天井から吊るされた蛍光灯が僅かに揺れ、

教室全体が“何か大きな息を吸った”ように沈黙する。

 

「……シ……ズエ、さん……」

 

誰かが掠れ声で呟いた瞬間――

教室の空気が、きしんだ。名を呼んだだけで、

“機嫌を伺ったみたいに”空間が反応する。

呼ぶな。その名を軽く扱うな。そんな“意思”が、

言葉にならない圧としてのしかかる。

 

少年霊が――動かなくなった。

迅花の目の前で、彼は笑みの形だけを残したまま、

震えるみたいにぴたりと硬直する。

 

その顔が――“恐怖で引き攣っていた”。

 

(……こいつも、怖いの……?)

 

ゾッとした。

“人間じゃない側”が怯えている。

なら、その上位に来る存在は――何なのか、考えるまでもない。

 

―――コツン。

 

音がした。遠くでも、近くでもない。

教室の“どこか”から響く、女の子の靴音。

 

コツ。コツ。コツ。

 

ただそれだけの音なのに、

背骨の奥が氷で撫でられたみたいに冷たくなる。

歩いてくる。姿はまだ、どこにも見えない。

なのに“歩みが近づいている”のが分かる。

 

――コツ。

――コツ。

 

呼吸音すら敵になる沈黙の中、

女子の一人が耐え切れずに泣き声を洩らした。

次の瞬間。“見えない誰か”がその喉を掴んだように、

声がぶつりと止まる。泣き声が“殺された”。

女子生徒の肩がびくりと跳ね、

口だけが開閉して音の出ない悲鳴を繰り返す。

誰も助けに行けない。

 

(くそ……!)

 

迅花は歯を食いしばった。

怖い。怖すぎる。

全身が、この存在を前に戦うのは“おかしい”と叫んでいる。

それでも、踏み出す理由は――もう、知ってる。

 

(やるしかない。――やらなきゃ、全員死ぬ)

 

足が床を踏む。音が、やけに大きく教室に響いた。

 

コツン。

 

それに――重なるように、

ゆっくりと、確実に近づいてくる少女の足音。

 

――コツン。

 

“誰かがこちらへ笑って顔を向けた気配”が走る。

姿は、まだ見えない。でも、

その“笑顔だけが先に首だけで覗き込んだような気配”が、はっきりと分かった。

 

ああ。これが――シズエさん。

最初に来たのは、声だけだった。

 

――ねぇ。

 

誰かが名指しされたわけじゃない。

ただ“教室そのもの”が喋ったみたいに、空気が震えた。

女子が息を呑む音。男子の喉が鳴る音。全員が分かった。

ここに、“いる”。

姿は無いのに、確実に。

 

――どうして、来たの。

 

甘い声なのに冷たい。優しいのに、怒ってる。

笑っているのに、泣いている。

そして次の瞬間。音が変わった。空気ごと重くなる。

教室が軋む。黒板の上。天井の中央。

 

「そこ」だけ、濃度が違う。

 

見るな、と思う前に――全員、見てしまっていた。

ぐしゃ、と世界の端が歪み。

 

少女の“形”が、落ちてきた。

天井から、静かに。吊るされるでもなく。

降りてくるでもなく。重力だけを信じた“落下”。

 

赤いワンピース。

濡れたような黒髪。

首の角度がおかしい。

笑っているのか泣いているのか分からない顔。

 

なのに――子供の体温を全く感じない。

床に触れる直前、ふっと止まり、

そこに“立っている”状態に変わる。

瞬間、教室の全員が理解した。

 

この存在は、歩く・立つ・呼吸する――

そんな“人間の動き”を必要としていない。

ただ、そこに置かれているだけだ。

少女は、微かに首を傾けた。

骨が鳴る音が、やけに大きく響いた。

 

――ねぇ。遊ぼう?

 

笑う。

赤い世界の中心で。鬼ごっこが、始まった。

 

誰が最初に走り出したのか、分からなかった。

ただ――「逃げろ」という衝動が、

教室の中で同時に弾けた。椅子が倒れる。机が軋む。

 

悲鳴が空気を裂く。

十数人の足音が一斉に動いた瞬間――赤い世界が“拒絶”した。

 

最初にドアへ突っ込んだ男子が、取っ手に手を伸ばす。

ガチャガチャと乱暴に揺らす。鍵は掛かっていない。

なのに開かない。次の瞬間。

 

ドアが――内側に叩きつけられた。

 

「うぐッ――!」

 

男子の身体が、紙人形みたいに弾かれる。背骨が机に直撃し、

椅子を薙ぎ倒して転がる。

他の生徒たちが悲鳴を飲み込む間もなく、

 

―――コツン

 

軽い音が教室に落ちた。

 

彼の前に、いつの間にいたのか分からない少女が立っていた。

赤いワンピース。白い、年齢不相応に古い肌。

首だけ傾けて笑う、壊れかけの人形みたいな顔。

近い。近すぎる。男子の顔が恐怖で固まる。

 

少女が、手を、伸ばした。

 

掴んだのは“顔”。

 

小さな女の子の手のはずなのに――

その指は鋼鉄のクランプみたいに男子の頭蓋を固定する。

 

「や、やだ、やめ――」

 

言葉は最後まで続かなかった。

少女が、軽く首を傾ける。ただそれだけの仕草で、

男子の顔が“捻じれた”。ぐしゃ、と、生々しい音。

目が違う方向を向く。顎がズレる。

喉の奥で潰れた音が漏れ――少女は笑って、床に叩きつけた。

 

混乱の中で、迅花の背筋を冷たい痛覚が這い上がる。

現実の殴り合いでもない。裏社会の殺しでもない。

これは――理不尽そのものだった。

 

少女が、楽しそうに小さく声を漏らした。

 

“壊れたおもちゃを見せびらかす子供”の顔だった。

 

次の瞬間、赤いワンピースがひらりと揺れる。

ターゲットを探すように、教室をゆっくり見回す。

その視線が、生徒一人一人を“選別する”みたいに舐める。

 

指を一本、唇に当てて。――まだ、いる。

囁く声が、耳ではなく脳に直接落ちたように感じられた。

逃げ出したいのに、足が動かない者。

泣き崩れる者。意味もなく机の影に隠れる者。

そして――迅花の心臓が、バクン、と嫌な音を立てた。

 

これは戦いじゃない。勝負でもない。

ただの“遊戯”だ。

そんなものに人は太刀打ちできない。

迅花は奥歯を噛みしめた。

 

散り散りに廊下へ飛び出した瞬間、空気が変わる。

匂いが違う。

湿った鉄と、乾いた埃と、どこか甘い腐臭が混ざった“死んだ建物”の匂い。

 

床は割れ、壁紙は剥がれ、

掲示物は色を失って垂れ下がり、窓の向こうには――相変わらず、赤い夜。

 

それでも、生徒たちは考えるより先に走った。

誰かが叫びながら階段を駆け降り、

誰かが泣きながら別の廊下へ曲がり、

誰かは転び、誰かは怒鳴り、誰かは名前を呼ぶ。統制なんて存在しない。この場には教師も救助もいない。

頼れるのは自分の脚と運だけだ。

 

迅花の手を握る友達の指先は、氷みたいに冷たい。

必死で握り返しながら、迅花は走りながら考えていた。

――戦うのは、今じゃない。

――守る。逃がす。まずそれが正解だ。

 

強い。

それは分かってる。

けど、“勝てない瞬間”があることも、

九郎の隣で学んだ。だから、判断は速い。

 

「こっち――!」

 

声を張る。

泣き声に溺れないように、はっきりと。引く。振り返らない。

ただ走る。

 

 

廊下の奥で、影が揺れた。人影に似ているのに、

“人”ではない何か。声も出さずに、ただ“こちらを見ている”。

全身の皮膚が総毛立つ。

友達の息が、喉で詰まる音が聞こえた。

迅花は迷わない。進路を変える。曲がる。

階段を選ばない。狭い場所は死ぬ。

頭は冷えているのに、

心臓だけが無理やり叩き付けられてるみたいに早い。

 

後ろから、悲鳴が――跳ねた。

誰かの足音が消える音。

誰かがつまずいた音。

誰かが助けを求める声。

その全部が、振り返れば壊れる、戻れば死ぬ、

そんな確信を伴って耳に刺さる。

 

「……ごめん」

迅花は、胸の奥でだけ呟いた。

 

手は離さない。走りを止めない。

今守るべきものは――隣の命だ。それだけは、迷わない。

 

角を曲がった瞬間、空気が裂けた。

――ガンッ。

ただの音じゃない。

廊下の床が割れ、金属を叩き付けるみたいな、

嫌な響きが腹の奥まで刺さる。

友達が息を呑んだ。

 

「今の……何……?」

答えるより先に――それは、見えた。

 

廊下の奥。

暗闇の中で“何か”が地面を叩きながら、にじり出てくる。

最初、それを“人”だと思えたのは――頭と胴があったからだ。

けれど。

そこには“腰から下”がない。

代わりに、

鉄骨を叩きつけるみたいな音を鳴らして、

両腕で床を打ち付けながら前へ跳ねてくる。

 

「……は、」

声が漏れる。

 

暗がりが揺れ、赤い夜の残光が、そいつの全貌を照らした。

髪は血で束になり、顔の半分が裂けていた。

骨が覗き、口は泣いてるみたいに歪んで、

それでも笑ってるみたいに吊り上がっている。

肩から先が異様に太い。

床を叩く度、コンクリが割れ、破片が跳ねる。

 

そして――

動くたびに、

てけ、てけ、てけ――

機械じみた音が廊下に鳴り響く。

 

それが、こちらを見た。視線が合った瞬間、

冷たい爪で後頭部を掴まれたみたいに、首筋が固まる。

逃げろ、と頭が叫ぶより早く。

 

そいつが突っ込んできた。

 

ボールじゃない。銃弾じゃない。

“質量のある暴力”が真正面から飛んでくる。

床が抉れ、破片が飛び散る。

友達の悲鳴が跳ねた。迅花は反射で友達を抱き寄せ、

体を横へ弾いた。頬を掠める風が痛い。

遅れて、壁が粉砕される音。

 

――速い

 

考える暇なんてない。

さっきまで“人だったもの”とは思えない、 獣の速度。

 

もう一度、腕が床を叩く。

 

てけてけてけ――

 

距離が詰まる。

 

友達の肩が震えている。呼吸が浅い。声が出ない。

迅花は歯を噛んだ。逃げたい。怖い。

膝が笑いそうだ。

けど――“止まる方が、死ぬ”。

 

「下がって!」

 

叫ぶ。

友達の背中を廊下の影へ押しやる。

てけてけが跳ねた。無造作な、でも殺意だけはむき出しの跳躍。

来る。腕が振り下ろされた。

迅花は足を踏み込み、

床を蹴る。

腕を掠める金属の音。

すぐ横で廊下が抉れた。反射で振り返ると、

てけてけが――顔を歪めてこちらを追ってくる。

笑ってるのか、泣いてるのか、分からない。

声もないくせに、

その顔だけが“生々しく、呪ってる”。

 

喉が焼ける。

怖い。

でも足は止めない。止めていい世界じゃない。

――逃げなきゃ。

――生かさなきゃ。

それだけが、頭に張り付いたまま。

てけてけの影が、また迫る。

 

―――鬼ごっこは、もう始まっている。

 

 

 

 

―――――――――――――――

 

 

 

 

夕暮れの街は、ただ普通に流れていた。

サラリーマンの列、信号の音、遠くで鳴くカラス。

日常。どこにでもある風景。

 

その中で――九郎の“日常”だけが、唐突に落下した。

 

ポケットの中に入れている石がある。

ただの石じゃない。迅花と繋がる石だ。

彼女に持たせた、警戒用のルーン石。

 

何かが起これば、微かに胸骨の裏側へ触れるように共鳴する。

強く危険なら鋭く響く。軽度なら、衣擦れのようにくすぶる。

いつも、そこに“音”のない脈動があった。

 

――常に、微弱に生きていた。

今まではそれが当たり前だった。

 

だが。

その感覚が――突然、消えた。

音を失った世界のように。

空気が止まった瞬間のように。

 

「……あ?」

 

歩みが勝手に止まる。

胸の奥で掴んでいたはずの存在が

手の中から、砂のように零れ落ちた感触。

落とした記憶なんてないのに、無い。

 

共鳴が、

振動が、

繋がりが――完全に沈黙した。

 

石を握る。握っている感触はある。

ただ“ただの石”になっていた。

 

「壊れた……?」

 

言葉にしてみる。

だが、違うとすぐ分かる。

壊れたなら、壊れた“痕跡”が残る。

焼け焦げた匂いとか、魔力の残滓とか。

 

だがこれは――なにもない。まるで、最初から

 

“繋がりなんて存在してなかった”

 

と言われたように、綺麗に、跡形もなく。

胸の奥が、ひどく冷える。

 

スマホを出す。

発信ボタンを押す。

呼び出し音。

鳴っている。

だが、出ない。

もう一度。変わらない。

その間も、胸の中は静かすぎる。

“いる”という感覚が一切返ってこない。

 

――迅花が消えた。

 

そう言うしかない異常だった。

言葉にした瞬間、背骨を氷の指で撫でられたみたいに寒気が走る。

 

「…………チッ」

舌打ち一つで誤魔化す。

 

だが実際は誤魔化せていない。

理解の範囲外。理屈が組めない。状況が見えない。

それが、いちばん嫌いだ。

唯一、掴める現実だけがある。

 

――この時間、迅花は学校にいるはず。

 

そこしか拠り所がない。だったら行く。

考えるより先に、足が地面を蹴った。

信号も人混みもどうでもいい。ただ一直線に。

胸の中は空洞のまま。共鳴は戻らない。

だからこそ、九郎は歯を食いしばる。

 

「……絶対、ただじゃすまねぇ」

 

誰に向けてでもない言葉を吐き捨て、

消えた“繋がり”の代わりに、

怒りだけを燃料にして――学校へと駆けた。

 

 

 

 

 

 

 






都市伝説型怪異 《放課後のシズエさん》

異界隔離型
学校に伝わる“遊び半分で触れてはいけない”都市伝説。
放課後の教室で特定の儀式を行うと、教室単位で“異界の学校”へ転移する。

そこは夜でも昼でもない、赤い空に染められた廃墟化した校舎。
その世界で始まるのは―― 「帰れるまで終わらない鬼ごっこ」。
その中心にいる存在が “シズエさん” である。

発祥(学校に流れてる噂)
昔、この学校で行方不明になった女子生徒がいた。
名前は シズエ。
“放課後の教室から帰らなかった”とだけ記録に残る。
──それだけなら、ただの事件だ。
だが。
しばらく経ってから学校に広まった噂がある。
「放課後の教室で、シズエさんを呼ぶと“遊んでくれる”」
誰が最初に言い出したか分からない。

異界の中にいるシズエさん以外の怪異は
「シズエさんとは関係が無い」




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