九郎は怪異と相性が悪い
校門をくぐった瞬間、空気が変わった。
夕暮れの薄い暖かさの下で、校舎の一角だけが不自然に冷えている。
四階、教室の窓のひとつが――塗り潰したような黒に沈んでいた。
影じゃない。夜でもない。
そこだけ、現実が抜け落ちている。
九郎は舌打ちを噛み殺し、歩を速めた。
正面玄関前には、霊能探偵事務所のメンバーが陣を敷いている。
符と塩、簡易結界の器具。緊張した空気。
誰も無駄話をしていない。
その中で、見覚えのある女が二人、こちらを見て固まった。
――あの夜、路地裏で口裂け女を“殴り倒した男”を見ていた二人だ。
一人が小さく息を呑む。
「……ウソ。あの時の……」
もう一人も目を見開いたまま、囁く。
周りの事務所メンバーは、ただの男が来たと思ったらしい。
だが二人の反応に、何人かが怪訝そうに視線を向ける。
「知り合いか?」
室長が低く問うと、女の一人が肩をすくめた。
「知り合いっていうか……この人、鴉《レイヴン》ですよ」
空気が、一瞬で重くなる。
別の一人が、呟きに近い声を漏らした。
「……鴉《レイヴン》……?」
その名前は、ここにいる全員が“噂”としてだけは知っていた。
荒事ならたとえ怪異絡みだとしても顔を出す、生粋の戦闘屋。
関わりたくないが、関わると心強い、“そういう名前”。
女二人は、ちらりと九郎の横顔を見て、確信を込めて言う。
「その鴉、本人」
九郎は名乗らない。興味も示さない。
視線はひたすら四階の黒い窓を見据えたままだ。
「状況」
短い一言で、責任者の意識がこちらに向く。
室長が、短く息を吐いて説明を始めた。
「四階の教室一つが、異界層に取り込まれている。
内側は完全遮断。こっちからの干渉はごく一部だけだ」
女の片割れが言葉を継ぐ。
「原因は学校怪談。“放課後のシズエさん”。
生徒が儀式をやった。運が悪い事に、“本物”が来た」
「生徒は?」
「十一人。全員、あの教室に居た」
九郎は僅かに目を細める。
「名簿」
要求に、室長がファイルを差し出す。
九郎は雑に受け取り、指で紙を弾き、欲しい名前を探した。
「……鷹宮 迅花」
その名前を見つけた瞬間、ファイルの端が小さくきしむ。
「俺の弟子だ」
女二人の顔が引き攣る。
――あの化け物じみた戦闘屋が、わざわざ“弟子”と呼ぶ相手。
そんな人間が、よりによって今、この異界に閉じ込められている。
「……入る手段は?」
室長は、一瞬だけ言葉を探した。
「入り口をこじ開けることは出来る。
ただし、戻ってこられる保証はない。精神汚染、時間のズレ、存在の削れ……助け出せたとしても、“同じ状態”とは限らない」
「上からは、生存者ゼロも想定しろと言われてる」
淡々とした言葉の端に、苦さが混じる。
九郎は、そこでようやくファイルを閉じた。
無造作に室長へ返し、黒い窓をもう一度見上げる。
「いい」
短く、それだけ。
女霊能者が思わず口を挟む。
「ちょっと待って。中に何がいるかも分からない。
“シズエさん”がどのレベルのやつかも――」
「関係ねえよ」
九郎は肩越しにだけ視線を流した。
「俺の女が中にいる。それで十分だ」
その言い方が、あまりに単純で、あまりに乱暴で、
けれど妙に納得がいく響きだった。
女二人は顔を見合わせ、苦笑に近い表情を浮かべる。
室長が、腹を括ったように頷いた。
「こちらで“道”は作る。
ただし、一度入ったら、こっちからはあまり手が出せない。
それでも行くか」
「質問を変えろ」
九郎は息を一つ吐き、口元だけで笑う。
「――“どこから入れるか”だろ」
その軽口の裏に、焦燥も恐怖も押し込めて。
四階の黒い窓が、軋むようにわずかに揺れた気がした。
世界の端に、獣の口が開きかけている。
霊能事務所の面々が、それぞれの位置で準備に動く。
その中心で――
“レイヴン”は、ただひとつの教室だけを見据えていた。
学校の廊下に、禍々しい夜気が滲み込むような冷気が走った。
校舎の一角だけ空気の色が違う。見慣れた建材と蛍光灯の光の奥で、「別の層」がぶくりと泡立つように膨らみ、世界が二枚に裂けていく。
霊能事務所の面々が円陣を組み、御札と符を広げ、線香の匂いが漂った。詠唱混じりの声が重なり、現実と異界の境界をねじ伏せていく。
「――開けるぞ! 長くは持たせられない、急げ!」
室長の低い声。
陰陽師の女は額に汗を滲ませながら噛み締める。
「中の構造は“学校のまま”だけど、向こう側は完全に別世界。私たちの常識は通じない、気を付けて――」
言い切るより早く、九郎が一歩前に出た。無言ではない。
だが感情だけ研ぎ澄ませて切り落としたような声だった。
「開いたら、すぐ行く。後ろは任せる。必ず繋げ」
霊能者たちは彼を止めなかった。止められる空気じゃなかった。
裂け目の向こう――空の色が“赤”だ。
血を薄めたような、どこまでも不吉な朱。
学校の廊下はそのままなのに、建物全体が死体のように冷たく、壁は古びて、ガラスは割れ、床は濡れた影のように黒ずんでいる。
音がない。
世界から“生活音”の概念ごと抜き取られたような静寂。
「……チッ」
九郎は短く舌打ちし、境界を踏み越えた。
背後で女霊能者の一人が思わず叫ぶ。
「レイヴ――!」
名を呼びかけて、言葉が途中で千切れた。
九郎は振り返らない。ただ低く言う。
「俺についてくるなら、死ぬ覚悟で来い。足引っ張るなら、入ってくんな」
彼は弟子がいる方向を、迷わず見るでもなく“嗅ぎ取るように”感じ取って走り出す。
異界に入った瞬間から、彼の「任務中の顔」に切り替わっていた。
その背中を追う形で、事務所の戦闘要員――
式神を従えた男、護符を指に挟んだ女、もう一人は鉄骨のバールを持つ霊媒体質の屈強な青年――が続く。
境界の穴は背後で軋み、今にも閉じそうにひしゃげている。
室長の怒号が現実側から響く。
「行ける奴は全員行け! 限界まで支える! ――生きて帰ってこい、いいな!!」
異界の廊下で、九郎の足音が規則的に響く。
その音だけが、この世界で唯一“生者”の証明のようだった。
彼は拳を握る。心臓の奥で、焦燥が冷たい火のように燃えている。
(迅花――待ってろ。絶対、間に合う)
異界の闇が、飲み込むように彼らを包んだ。
――突入完了。
―――――――――
異界に呑まれた校舎は、まるで廃棄寸前の肉体だった。
壁は赤黒く膨張し、廊下には血を乾燥させたような粉塵が漂っている。
窓は割れ、風も吹かないのにカーテンだけがゆらゆら揺れ、
どこからともなく――人間の喉の奥を掻き毟るようなノイズだけが鳴り続けていた。
その不快な静寂を、
鋼を爪で抉るような音が――唐突に切り裂いた。
ギリ……ギギギ……――――ギャァン!!
霊能事務所の戦闘班が、一瞬、同じ呼吸をした。
身体が勝手に硬直する。
「……来るぞ」
誰かが低く呟いた瞬間、それは“姿”になった。
廊下の最奥、闇の底。床を――這う影。
次第に輪郭が生まれる。まず、腕が見えた。
人間には有り得ない長さの、細い骨と異様に張った腱。
指先は、包丁の刃のように鋭く尖っている。
そして、胴――女の上半身。
骨と皮だけの肋骨が浮き、青黒い皮膚が張り付いていた。
腰から下は存在せず、裂けた肉の端だけが床を引き摺っている。
それでも――信じ難い速度で、迫ってくる。
床を弾き、壁を蹴り、天井を滑り……
視界が追いつく前に、目の前にいた。
――ドンッ!
床石が砕け、粉塵が舞う。
テケテケの腕が、地面を叩き割った音だ。
前衛の霊能者が叫ぶ。
「展開!!」
護符が弾け、結界が発動する。
光の幕が前に張られ――削られた。
結界が、“削り取られて”いく。
「は……?」
理解よりも、恐怖が先に胸に落ちた。
弾丸のような連撃が叩き込まれる。
霊能者の一人が壁に叩きつけられ、肺の中の空気を吐き飛ばされた。間髪なく追撃。
顔を上げる暇もなく、テケテケの影が覆い被さる。
別の隊員が護符を叩きつける。
紫電が走り、怪異の身体を焼く……悲鳴は、ない。
代わりに。笑った。
口が、音を伴わずに裂けた。
人間の“笑顔”という記号だけを真似した、冷たい化け物のそれ。
遊ばれている。
狩られる側の距離で、獲物の反応を楽しんでいる。
「距離を取れ! 接近は――」
言い終える前に、壁が破裂した。
テケテケが宙を裂く。天井、壁、床、壁、天井。
まるで廊下そのものが奴の遊び場のように、縦横無尽に駆け回る。
一人の首を――かすめた。
血が微かに散り、ただそれだけで肉が裂けた。
悲鳴を――飲み込む。
声を出した瞬間、殺されると本能が理解している。
圧迫感が場を支配した。
“勝てない”という確信が、喉を掴んで離さない。
その時だった。
異界の空気を、別種の重さが踏み潰した。
前に出ていた男がいた。九郎だ。
霊能者達が振り返るよりも前に、
――静かにナイフを抜いた。
黒い刃。反射の少ない鈍い光。
だが、刃が露わになった瞬間、
廊下の空気が、一段階だけ“冷たく”落ちた。
テケテケが、九郎の前で止まる。
二つの異界が、向き合うようだった。
裂けた口が、にちゃり、と歪む。狩りを前にした捕食者の笑み。
九郎は、ごく低く、吐き捨てる。
「……生徒の前ならまだしも。
大人ばっかの場所でイキる怪異なんざ――調子に乗りすぎだろ」
次の瞬間――
世界が“入れ替わった”。
速いのは、怪異ではなかった。九郎だった。
一歩。
ただ、それだけ。
けれど、その一歩は
距離という概念を踏み潰す歩幅だった。
刹那、刃が肋骨の“隙間”を通る。
外さない。迷わない。
人を殺すプロが、“最短で止めるためだけ”に積み上げた動き。
テケテケの口から、笑みが剥がれ落ちる。
刃が返る。首筋、肩、肩甲骨の付け根、腱の支点。
すべて“壊すためだけ”の角度で。そこに感情はない。
必要がないから。怪異が悲鳴を上げるより早く、
九郎の足が、みぞおちを踏み抜いた。
その瞬間だけ――刃の根元で、《断絶》のルーンが淡く光る。
霊の身体であるはずなのに、“折れる音”がした。
概念が砕ける音。テケテケの身体が、罅割れた陶器のように崩れ始める。胴体が裂け、腕が砕け、
黒い霧が散り、砂のように床へと溶けて――消えた。
静寂。
霊能者達が、呼吸を思い出すまでに数秒かかった。
九郎は振り返らない。ナイフに残った黒い痕を、
ただ無造作に拭い取る。鞘に戻す音すら、小さく響いた。
「時間、無駄にしたな。ここより……奥だ。まだ、終わってねぇ」
声は低いが、揺れていない。
彼の視線の先――迷いは一つもなかった。
迅花。ただそれだけを胸に、
鴉は赤黒い廊下を、静かに踏み進んだ。
―――――――――
走っていた。
どれだけ走ったかなんて、覚えていない。
異界の学校は、見慣れたはずの構造をしていながら、
まるで内臓を捻じ曲げた生き物の中を進んでいるみたいだった。
曲がっても、降りても、登っても――
出口はなく、同じような廊下が続く。それでも、ただ走った。
隣で、同じクラスの女子の泣き声が響いていたはずだ。
声が喉の奥で嗚咽に変わり、やがて息だけになる。
「――っ……ここ……まで来れば……」
ようやく廊下の影が切れ、
視界の奥に、死角の少ない踊り場が見えた。
迅花は、少女の手を強く引く。壁の影に背中を押し付け、
そのまま二人でずるずると崩れ落ちる。
床は冷たい。だが、その冷たさがありがたかった。
ようやく――呼吸が身体に戻る。
喉から空気が乱暴に出入りする。肺の奥が痛い。
それでも生きてると分かる痛みだった。
手が震えている。
拳を握ってみる。
震えが止まらない。
握りしめたはずの指先が、汗でずるりと滑った。
(……まだ、走れる。走れるし、戦える。怖くなんて――)
言い聞かせる言葉と、膝に残る“抜けた力”が、噛み合わない。
ついさっきまで真正面にいた“それ”の感触が、まだ身体に残っている。
音がまず怖かった。ギギ……ギギギ……と、
廊下を削るあの不快音が、骨の奥にこびりついて離れない。
速さも怖かった。
視界の中からいきなり消えて、
次の瞬間、ほぼ目の前にいた。
もし、一歩判断が遅れていたら。
もし、足が滑っていたら。
もし、手を離していたら。――死んでいた。
それを理解した瞬間、胃の奥がひっくり返る。
呼吸が浅くなる。心臓が速すぎて、痛みになりかけている。
女子が肩で泣いていた。声を出せないまま、震えている。
迅花はそれを見て、
自分の唇も、同じように震えている事に気づく。
(……私、こんな……震えるんだ……)
九郎の側に立つなんて言ったくせに。
異能がある、戦える、平気だなんて口にしたくせに。
目の前にあったのは――あの世そのものみたいな現実。
人間じゃないものに追われ、
人間じゃない動きで殺されかけた。
それでも――迅花は、顔を上げた。
怖い。怖くて仕方がない。でも――止まれない。
止まった瞬間、自分は“ただの女子高生”に戻ってしまう。
あの日、泣くだけしか出来なかった“弱い自分”に。
それだけは、絶対に嫌だった。
震える膝に、力を込める。
自分の心臓の速さを、無理矢理押し込むように息を深く吸う。
「……まだ、終わってない。全員……逃げられたわけじゃない」
自分に言い聞かせるように呟く。
震えは消えない。恐怖も消えない。
それでも――彼女は立ち上がった。
異界の闇はまだ終わっていない。
校舎のどこかで、友達が悲鳴を堪えている。
そして――
(……来て。絶対、来てよ――)
ほんの僅か、胸の奥で一人の男の姿が浮かんでいた事に、
迅花自身はまだ気づいていなかった。
―――――――――
廊下が赤い。
夕焼けでも非常灯でもない。
異界に染まった校舎全体が、どこまでも血の匂いを孕んだ赤に沈んでいた。遠くで誰かが泣いている。
階段の向こうで誰かが喚いている。
誰かの走る音が途切れ、床に崩れ落ちる鈍い音が響き――そのあと、静寂。
“それだけ” が続く世界は、想像以上に人の心を壊した。
ガラガラガラ……
校内放送のスピーカーが、腐った喉を無理に鳴らすみたいな音を立てる。
誰もがその音にビクリと肩を跳ねさせ、顔を上げた。 逃げる足が止まり、泣き声が喉奥に貼りつき、その場にいた全員が「聞きたくない」と願いながら、しかし聞き逃す事も出来ず、同じ一点を見上げる。
そして、校舎中に―――あの声が、落ちてきた。
「……はい、じゃあ――放課後です」
女の声だ。 穏やかで、柔らかくて、教師の授業開始みたいな、どこか“優しい”声。それが、余計に怖い。
「これより、“放課後のシズエさんごっこ”を始めます」
「参加してるのは、教室に残ってた人たちだけ」
「途中参加は出来ません。途中棄権も出来ません」
淡々と、事務的に、まるで学校の連絡事項みたいに。
廊下のガラスが一斉にひび割れる。
どこかの教室のドアが勝手に閉まり、錆びついた金属音が夜の校舎に爪を立てるように響いた。
「みんな走ってるみたいですね」
「でも、走ると……シズエさんの声、すぐ近くまで聞こえちゃうよ?」
天井のスピーカーが、ひとりずつ笑うみたいに、順番にくぐもった音を立てる。
一つ、廊下。
一つ、階段。
一つ、トイレ。
一つ、理科室。
まるで“この校舎に逃げ場所は無い”と告げるように。
「ゲームのルールを、ちゃんと守ってくださいね」
「――“名前”を呼ばれたら、返事をしてください」
「無視したら、怒ります」
空気が凍る。
誰も息を飲めない。
呼吸をしたら見つかる気がして、喉が動くことすら怖くなる。
「“見つけた”って言われたら、逃げてください」
「上手に逃げられなかった人は――ここでは、人じゃない」
どこかで、「やだ……やだやだやだ……」と誰かが震え声で繰り返す。そして、声が優しく笑う。
「時間は……朝まで」
「朝までに“みんな”がちゃんと遊べたら、終わり」
「途中で壊れた子は、教室に戻せません」
そこで、一拍。
放送の雑音が止む。静寂。
何も起きない。その静止した時間がいちばん怖い。
そして、スピーカーからわずかな吐息が零れた。
距離が近い。息が耳元を撫でるみたいに近い。
「――それじゃあ」
「“放課後”を、始めましょうか」
ぱちん、と。
校舎全体の空気が、「遊び」のスイッチが入ったみたいに、別の何かに切り替わった。
視界の端で影が走る。 階段の踊り場で、誰かが笑った気がする。 窓の外の赤空がぐにゃりと歪む。
そして――遠くの廊下で、最初の“名前”が呼ばれた。
「――ねぇ、佐藤くん」
声は優しい。
優しいのに、逃げ場をすべて封鎖する音だった。
―――――――――
息を殺す――という言葉は知っていた。
でも、本当に「息が出来なくなる」瞬間があるなんて、誰も思っていなかった。
廊下の隅、教室の影、階段裏。
バラバラに逃げ散ったクラスメイトたちは、それぞれが薄暗い場所で固まって動けなくなっていた。
どこに隠れても“校舎”が近い。
壁が生き物みたいに迫ってくる。
空気がずっと嗤ってる。
――呼ばれた。
遠くの廊下で、優しい声が落ちた。
「……ねぇ、佐藤くん」
一瞬で息が止まる。誰だ。どの佐藤だ。
呼ばれた本人、そして同じ苗字の奴、全員が心臓を握りつぶされたみたいな顔になる。
返事をするか。返事をしないか。
返事をしたら、終わる気がした。
でも――返事をしなかったら、“もっと”終わる気がした。
廊下の向こうから、コツ、コツ、とヒールの音が響く。
歩いてくる。遠いのに、耳元みたいに近い。
「……佐藤くん。聞こえてるでしょう?」
返事をするべきだと、頭のどこかが言ってる。
でも口が開かない。
震えた声が、小さく上がった。
「……っ、い、いません……」
声が裏返る。
返事、というより、謝罪みたいな声だった。
ほんの一瞬、校舎中の空気が静かになる。
そして――優しく、満足そうに笑う。
「――みーつけた」
世界が赤く跳ねた。
廊下の奥で、誰かが喉を裂くような悲鳴を上げる。
逃げていた足音が、床を叩く音が、家具が倒れる音が次々に混ざる。
誰かが転び、誰かが誰かを踏みつけ、意味もなく教室の扉を叩き、鍵のかかった窓を殴る。
助かりたい。助けてほしい。叫びたいのに喉が潰れる。
――その瞬間。“見えた”者がいた。
廊下の向こう――赤い世界の真ん中を、ゆっくりと歩いてくる女。
髪が長い。スカートが揺れている。
顔は――見えない。
ぼやけている。
目の焦点が合わない。
ただそこにいるだけで、空気が冷える。
そして、逃げ惑う人影の中――佐藤が引きずり出された。
「やだっ……やだ、やだ、やだ……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさ……!」
何かに首を掴まれ、足をジタバタさせながら宙に吊られている。
女の手は触れていない。
でも掴んでいる。
見えない“何か”が、喉元を強く締め付けていた。
骨が鳴る音がした。舌が飛び出しかける。
爪が血が出るほど首を掻く。
「返事は正しかったよ」
優しく褒める声。
「でもね――“ちゃんと遊べなかった”ね?」
首が更に締まる。
佐藤の両足が、鼠の尻尾みたいに必死に床を掻く。
やがて動きが弱くなり――べしゃり、とくたびれた人形みたいに、床へ落とされた。音だけが重たい。動かない。
誰も、近づけない。
誰も、声をかけられない。
ここでは、「死んだ」を認めた瞬間に、自分も“そっち側”へ引きずられる気がした。
だから誰も言わない。誰も泣かない。ただ震える。
ただ呼吸を浅くして、ただ「自分じゃなかった」という惨めな安堵と、いつ自分が呼ばれるか分からない恐怖を、同時に飲み込む。
その時――放送が、また鳴った。
「はい、よく出来ました」
「これで“ひとり”」
「まだまだ、遊べますね?」
校舎が、喜んでいる。
“放課後”は、まだ始まったばかりだった。
――――――――――――
走るしかなかった。
真っ赤に染まった窓と、色の抜けた廊下。
人のいたはずの学校が、ただ“生き物みたいに”軋んでいる。
体育館へ向かう途中――足音が三つ。
迅花。その腕を掴んで走る友達――春奈。
そして、ついて来るしか出来ない男子が一人。
「ま、待って……! 足……っ!」
春奈の声が震えていた。
息が荒い。泣く寸前の呼吸。
迅花は振り返らない。
立ち止まったら、飲み込まれる気がした。
“この学校に”。……その瞬間だった。
――カツン。
乾いた小石を蹴ったみたいな音が、廊下の奥で響く。
三人が同時に足を止めてしまった。
暗がりの先――
曲がり角の床に、小さな白いボールが転がっていた。
いや、違う。それは……子供の頭だった。
真っ白に乾いた皮膚。
口だけが妙に笑って、歯をむき出しにしている。
眼球がなく、穴の奥で何かが蠢いた。
春奈の喉が、悲鳴にならない悲鳴を上げる。
「やだ……やだ……なに、あれ……」
転がった“それ”は、床をコロ、と回り――
三人に顔を向けた。
笑った。
間延びした、幼い声が廊下に落ちる。
「あーそーぼ」
男子が喉を潰したような声で叫んだ。
「無理無理無理無理無理無理無理――!」
逃げようとした瞬間、
――足を掴まれた。床から伸びた、小さな手。
子供の腕。腐った皮膚。いくつも、いくつも。
「―――っ!!」
笑っている。全部笑っている。
遊ぼうよ。ねぇ、一緒に遊ぼうよ。
ずっと、ずっと、ず――っと。
目も耳も塞ぎたくなるほどの無邪気さで。
男は泣きながら助けを求めた。
「助けて!! やだ! 死にたくない!! 」
春奈が崩れ落ちる。
「ムリ……ムリだよ……帰りたい……帰りたい……っ」
迅花は震える膝を睨みつけるようにして、無理やり立たせた。
強く、でも優しく。力ずくで現実に引き戻す。
「落ち着け。走れる。走れるだろ?」
「でも、でも……」
春奈が、唇を噛んで首を横に振った。
その時――床に転がっていた“子供の頭”が、また笑った。
「じゃあ、あそぼ?」
次の瞬間。廊下の影という影から――
子供の足音がいくつも響いた。
コツ、コツ、コツ、コツ。
壁から、小さな手が複数突き出る。
天井から、逆さの子供が覗く。
廊下の奥――何十人もの“遊び友達”が走ってくる。
無邪気な笑顔で。心の底から楽しそうに。
春奈の手を握る。
「――走るぞ」
今度は、迷わない。
迅花は春奈を引き、赤い校舎を蹴った。
その背後で――
「まてー」 「こっちだよー」 「あそぼー」
笑い声が追いかけてくる。
学校全体が、“鬼ごっこを始めた”。
―――――――――走っているのに、逃げ切れている気がしない。
笑い声は離れない。
影が追ってくる。どこまでも、どこまでも。
廊下の窓は割れ、外には“空じゃないもの”が見えた。
赤黒い膜みたいな世界が、じわじわとうごめいている。
息が切れ、春奈の足取りが鈍る。
「……やだ、もう走れない……」
「止まったら終わりだって!」
迅花は手を引く。
それでも――限界は近かった。
その時だった。
――キィ……
校内放送のスピーカーが、ひとりでに鳴った。
赤い世界に、乾いた音が広がる。
「――みなさん。」
空気が止まった。
走る音も。泣き声も。遠くの足音も。
ただ声だけが教室の天井から降る。
「わたし、シズエさん。
今日は“あそび”に来ました。」
春奈の肩が大きく跳ねる。
迅花の手に、汗が滲む。
男子が股間が縮む
声は柔らかかった。
優しい。
担任教師が困った顔で微笑む時みたいな、温度を持っている。
なのに――骨の奥が、冷たく削がれていく。
「でもね、みんな……にげてばかりじゃ、つまらないの。」
“子供の笑い声”が、どこかで弾けた。
天井から、壁から、足元から――「ねえ」 「ねえ」 「ねえ」
声が重なる。
「だから、きめました。」
放送の向こうで、誰かが微笑んだ気がした。
「“鬼ごっこ”を、ちゃんとしましょう。」
ゴン、と鈍い音。瞬間――
校舎の外の“赤空”が、脈打つみたいに揺れた。
世界が、ルールを飲み込む。
「三十分、にげてください。」
廊下の窓に黒い数字が浮かんだ。
30:00
「それまでにつかまった子は――」
天井から垂れ下がる、無数の影。
首を垂らす、子供のシルエット。
笑っている輪郭。ぶら下がる足。握られた手。
「“こちら側”のおともだちになります。」
カチリ。
数字が動き始めた。
29:59
29:58
29:57
心臓が、嫌な音を立てる。
春奈の指が、ぎゅっと食い込んだ。
「た……助からないって、こと……?」
震える声。
涙で滲む瞳。
迅花は、喉を鳴らす。怖い。怖くてたまらない。
でも――逃げない理由が、そこにいる。
「……走るよ。」
自分でも驚くほど、静かな声が出た。
「絶対助かる。生きて帰る。だから――離さないから。」
春奈の手を掴み直す。今度は、握り返される。
放送が最後に、優しい声で告げた。
「それじゃあ、はじめましょう。
みんな――いい笑顔で、がんばって。」
廊下の奥――影の群れが、一斉に動き出す。
カツ、カツ、カツ、カツ。軽い足音。嬉しそうなステップ。
地獄みたいな遊びの始まり。
―――――――――
走っても走っても、終わりがない。
「こっち! こっち来て!」 「やべぇだろこれ……夢だろ……!」
男子三人と女子二人。
廊下を曲がり、階段を降り、意味もなく別の階へ逃げ込む。
赤黒い窓。剥がれた壁紙。打ち捨てられた机。
配管のむき出しになった天井。
――ここは学校じゃない。
似ているだけの、どこか別の“どこか”。
「誰か……誰か大人……いないのかよ……!」
叫んだ男子が、すぐに口を噤む。
返事がないから。
人の気配すらないから。
あるのは――遠くから聞こえる笑い声と、
床を叩く何かの走る音。
ドクン。
誰かの喉が鳴る。
「時間……あと二十五分くらい?」
女子の一人が震え声で言った。
腕時計は止まっているのに、頭の中に“数字”が貼りついて離れない。
30分逃げ切れば助かる。
捕まれば“あちら側”。
さっきの放送の声が、まだ耳の裏にこびりついている。
「これさ……ほんとに、助かる……のかよ」
ひとりが呟いた瞬間だった。
――コンコン。静かなノック音が響く。
全員が硬直する。どこからか分からない。
教室のドアじゃない。窓でもない。
壁そのものが、叩かれている。
「……っ」
息が止まった、その瞬間。
ドン。
壁が内側に、大きく膨らんだ。
「ひっ……!」
次の瞬間、壁が破れた。
落ちる石膏。
舞う粉塵。
そこから這い出してきたのは――
子供の形をした、顔の無いもの。
顔の位置にあるのは、ぐちゃりと潰れた赤黒い塊。
制服を着ているのに、胸から上だけが別物みたいだった。
「な、なんだよこれ――!」
もう一体。
そして三体目。
どん、と床を踏んで入ってくる。
不自然な笑い声が、どこからともなく重なる。
「みーつけた」 「あそぼう」 「にげて、にげて」
女子の喉が張り裂けるような悲鳴を上げた。
崩れた机を蹴飛ばし、男子が走る。
通路に飛び出す。それ以外、選択肢なんてない。
ただ――遅れた者が一人いた。足がもつれ、転んだ。
顔のない子供が、すぐそこに立っていた。
その“首の無い笑顔”が、すぐ目の前。
「――つかまえた」
掴まれた腕が、ぐにゃりと逆方向へ折れた。
「ぎゃああああああああああああ!!」
悲鳴じゃなく、断末魔。
誰も助けに戻らない。戻れない。
振り返った瞬間――顔のない子供の頭が、ぱかりと縦に割れた。
中から出てきたのは――赤い笑顔。
理解してはいけないもの。
見るだけで心臓が削り取られる、“あちら側”の笑み。
「おかえり」
奴の手が、首に添えられた。
折れる音。身体が崩れ落ちる
。
……立ち上がった。
先ほどの男子の形をして。
制服を着て。赤黒い顔をつけて。
そして――笑った。
「嘘、だろ……」
誰かが呟いた。
仲間だった者が、無言で首を傾げる。
もう“人間じゃない”
それを見て、残った全員の理性が完全に砕けた。
涙で前が見えなくなる。
ただ逃げるしかなかった。
心臓が焼けるほど走りながら、誰かが喉を裂くように叫ぶ。
「地獄だろこれええええ!!!」
遠くで、校内放送が笑う。
「うん。すごく、すごくいい。その顔、大好き。」
鬼ごっこは、まだ始まったばかり。
―――――――――
廊下の奥から、湿った爪音が近づいてきた。
“カツ……カツ……ズル……”
速くない。
だが、わざと“間”を置いてくる足音。
闇の奥で、光る二つの目。
次の瞬間――
犬が、床に顔を擦るように頭を低くして姿を現した。
犬の胴体。人間の顔。
皮膚は灰色がかり、目は妙に湿って大きい。
笑っているのか、歯を見せたまま、唇だけがぬるりと動く。
――喋った。
「……見ィつけたァ……」
背筋が、氷の爪で撫でられるように冷たくなる。
霊能事務所の術者が結界札を構えたが、手が汗で滑る。
「や、やば……っ、これはマズ――」
「喋るな」
九郎の声は低く、短い刃物のように鋭かった。
心臓が速い。息が荒い。
理性はギリギリ。だが、止まらない。
(――時間ねぇ。立ち止まったら終わる)
人面犬が笑う。
「女の子……とってもいい匂いだった……
走ってる時の匂い。
怖がってた……うん……美味しそう……」
――迅花の匂いを嗅いでいた。
その瞬間、九郎の苛立ちが、確かな“怒気”に火を付けた。
「……もう喋んな」
足が前に出る。ナイフが滑る。視界が狭まる。
人面犬は、犬らしからぬ俊敏さで横へ跳ねた。
舌が笑うように唇を舐める。
「おぉ……速いねぇ、人間のくせに……でも――」
次の瞬間には、天井へ跳ね上がり、逆さの顔で笑っていた。
霊能者の一人が悲鳴を上げる。
人面犬の顎が裂ける。
人間の形をした口が、獣の牙を真横に並べる。
「噛むのはこっちだよォ」
飛び降りた。
九郎が腕を上げた。肉が裂け、血が飛ぶ。
「ッ……!」
その苛立ちを、痛みが押し広げる。
左足で床を踏み締める。
重心を落とす。視線を殺し、呼吸だけを合わせる。
人面犬が次の動きへ移る瞬間。
喉奥で濁った笑いが漏れた。
「逃げられると思――」
“ガン”
九郎の前蹴りが、犬の胴体を壁へ叩きつけた。
肺の空気が爆ぜ、人間の顔が歪む。
逃げる暇を与えない。ナイフを縦に滑らせ、その喉元を裂く。
血が噴き、喉が潰れた人間の声が悲鳴とも呻きともつかない音を出した。
それでも――這って逃げようとする。
九郎の眉間に深い皺が寄る。
「まだ動くかよ……しつけぇんだよ」
怒りは静かだ。だからこそ怖い。
背中を踏みつける。骨が悲鳴を上げる。
人面犬が、血の泡を吐きながら振り返る。
「助けて……嫌だ…死にたくない…俺……昔は、ただの犬で――」
「知らねぇよ」
容赦はない。
ナイフが頭蓋へ深く突き立った。抵抗が消える。
廊下が、再び静かになる。
九郎は血を払う代わりに、しばらくナイフを握り締めたまま拳を震わせた。
息を整える。焦燥は消えない。
(早く見つける。間に合わねぇなんて――考えたくもねぇ)
振り返る。
霊能者達は、言葉を失ってただ立ち尽くしていた。
九郎は短く吐く。
「行くぞ。立ち止まるな」
そして、走った。焦りを、置き去りに出来ないまま。
―――――――――
廊下を走るたび、肺の奥が焼けるみたいに痛い。
埃を吸い込んでむせそうになるのを堪えながら、
迅花は春奈の手首をしっかり掴んだまま前に引く。
「は、春奈、転ぶな。足見て走れ」
言葉に余裕なんてない。
ただ、それでも言わないと折れてしまいそうだった。
春奈の息はもう悲鳴に近い。
「……ごめん……! でも……怖い……!
さっきの、あれ……絶対、人じゃなかった……!」
分かってる。迅花だって同じだ。
廊下の先、窓の外は血みたいな色をした空。
校舎は廃墟のように黒ずみ、
誰もいないのに、ずっと誰かに見られている。
その感覚が一番気持ち悪い。
(ここは学校じゃない。
学校の形をしてるだけの“どこか”だ)
足を止めたら殺される。
後を走る男子生徒の山本は制服は埃まみれで、膝が擦れて血が滲んでいる。息は荒く、涙と汗でぐしゃぐしゃの顔。
「……人じゃなかった。
笑ってた。首、無いのに。
……追われたら、足が……震えて動かなくて……
それで……誰か、捕まって……でも助けられなかった……」
最後の方はもう言葉にならず、喉が詰まる。
春奈の肩がびくっと震えた。
迅花は、ほんの少し息を吸い、無理やり声を出す。
「……いい。
今、生きてるなら、それでいい。
ここじゃ、正しいとか間違ってるとか、言ってる余裕ない」
男子は、縋るように顔を上げる。
三つの影が並び、再び歩き出す。
赤い光に染まる廊下。
遠くで、笑うような声がした気がした。
誰も笑っていないのに。春奈が小さく迅花の背に寄りかかる。
「……迅花」
「なに」
「……大丈夫だよね……?どこかに出口……あるよね……?」
迅花は少しだけ目を伏せてから、前を睨む。
強い声は出せない。でも、弱い声も出したくなかった。
「……見つける。見つけなきゃ死ぬ。
――だから、生きて出口まで行く」
春奈が強く唇を噛み、男子が小さく息を呑む。
三人の歩く靴音だけが、
静まり返った廊下に規則正しく響いていく。
……その先で待つ“何か”の音に、まだ気づかないまま。
廊下の空気が、壊れかけた肺みたいにひくひくと震えていた。
湿った埃の匂いと、どこからか滲んでくる鉄臭さが混ざって、喉の奥がざらつく。
――コツン。――コツン。
足音だけが、やけに澄んでいる。
“人間の歩き方”と似ていて、でも決定的に違う。
骨と骨が擦れる音が、直接耳の中を指でこすられているみたいに気持ち悪い。
曲がり角の闇が割れた。そこに、いた。
関節の嵌め直しを途中で放り出したみたいな 人体模型。
白いはずの身体は、手垢の色と、乾いた何かの色でまだらに汚れている。
顔には「顔」という概念だけを雑に貼りつけたような笑い――
線で描かれたはずの口元が、暗い廊下で微妙に歪み、笑っているのか、見下ろしているのかすら分からない。
そして、その肩にぶら下がっていた。
制服のままの、人間の……首のない死体。
春奈の喉から音が漏れる。声と呼べない、呼吸の途中で壊れたみたいな声。男子は脚から崩れ、壁に手を伸ばして空を掴み損ね、そのまま座り込んだ。
模型が、肩の死体の髪を優しく、優しく撫でた。
可愛いペットでも触っているみたいな仕草で。
次の瞬間、その手から 生首が投げられた。
ドン、と空気が殴られる音。
生首はただの“肉”の質量ではなく、意志を持つ弾丸みたいにまっすぐ飛んでくる。
「下がれッ!!」
叫びより早く体が動いていた。
迅花は二人を胸で押し倒し、背中で衝撃を待った。
壁に叩きつけられる湿った音。
砕けた骨の音が、石を割ったみたいに冷たい。
鼻の奥に、生々しい匂いが突き刺さる。
模型が、ゆっくり顔をこちらへ向けた。
――コツン。――コツン。
歩くたび、床がきしむ。
何も急いでいない。
“捕まえられる”と知っている相手の歩き方。
男子の歯がカチカチ鳴る。
「む、無理だって……こんなの……もう、終わりだろ……」
春奈は迅花の袖を掴み、そのまま握り潰すように強く握ってくる。
隠そうとしているのに、指先の震えが全部伝わる。
迅花は振り返らない。拳を握り、吐息を一つ落とす。
“正解”は、とっくに理解してた。
逃げろ。ここは戦場じゃない。
護衛でも任務でもない。
ただの生徒と、自分――それでも足が止まらないのは、
理屈じゃなかった。
(誰かの後ろに隠れて死ぬのは……嫌だ)
模型の拳が、振り上がる。影が覆いかぶさる。
空気が重い。空気そのものが敵になる感覚。
迅花は踏み込む。
腕で受けた瞬間――意識が弾け飛びそうな衝撃。
床ごと叩きつけられた身体が滑り、背中が壁に叩きつけられる。
肺の空気が、全部外に逃げた。
「ッ……は、ぁ……!」
自分が出した声かどうかも分からない。
春奈が泣く声が、遠くで水音みたいに揺れる。
模型は間を置かない。“仕留める”という発想がない。
ただ、壊すために歩いてくる。
(遅いのに……遅いくせに……一歩が死ぬほど重い)
足が勝手に動いた。
膝へ、ローキック。骨を蹴る感触じゃない。
硬い棒を蹴ったみたいな“偽物の人体”。
痛みだけが、自分がまだ生きてる証拠みたいに鮮明だった。
拳を叩き込む――皮膚が裂ける。
手の甲に血が滲む。
効いていない。模型の“顔”が、こちらの位置に 合う。
次の瞬間、頭を掴まれた。冷たい。
本当に最低限の温度だけを持った、死んだ手の感触。
握力が増すたび、頭蓋が鳴る。
眼球が外側に押されるみたいに圧迫される。
耳鳴りが増幅され、世界が遠くなる。
(……あ)
落ちる。その言葉が浮かんだ瞬間、
頭の中に別の映像が割り込んだ。
鉄の檻みたいな試合会場。
鉄腕の拳。
砕ける音。
観客の、狂った歓声。
――おもしれぇ!
――もっとやれ!
――壊せ!
あの時、自分は確かに折れた。
それを“認めたくない”だけで、どうしようもなく壊れていた。
(また……また同じ所に連れて行かれるのか)
嫌だ。
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ――
喉の奥が熱くなる。
涙が込み上げる。
でも――
拳だけが、まだ動いた。意味なんかない。
勝てないのも知ってる。
ただ――ここで諦めて潰されるのは、
“あの日の自分”を肯定することだ。
それだけは――死ぬほど、吐き気がするほど、許せなかった。
「……ふざけんなよ」
声が零れる。
模型は構わず握り潰そうとする。
「ふざけんなって言ってんだよォ!!」
床を蹴り、渾身の膝蹴り。
模型のバランスがほんの一瞬だけ 崩れた。
掴んでいた力が、ほんの少しだけ緩む。
空気が戻る。肺が、最小限だけ息を吐き出す。
春奈と男子の方を見ない。
見ると、心が折れる気がした。だから叫ぶ。
「まだ立ってる!!
終わってねぇから、泣くのはあとにしろ!!」
春奈の嗚咽が止まる音がした。
男子の震え方が、少しだけ変わる。
模型の顔が、“こちらだけを見る顔”に変わる。
――コツン。――コツン。
また近づく。勝てない。分かってる。
でも。ここで逃げて背中を差し出す生き方だけは、
もう二度としたくなかった。
拳を握り直す。呼吸を合わせ――
模型の影が、再び覆いかぶさった瞬間。
世界が、ぐしゃ、と潰れかける。
誰も助けに来ない。出口なんてない。
それでも――
迅花だけは、歯を食いしばって 前へ出た。
戦いはまだ終わらない。終われない。
この夜は、まだ 底 がある。
そして――その底で、何が待つのかを、誰も知らなかった。
Q、霊能者弱くね?
A、異界の怪異は現世の怪異よりも数段強い