夜を歩く鴉と、待つ女たち   作:鉄猿

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難産でした


《勝利》の代償

 

 

  

 

 

廊下の壁に叩きつけられた衝撃が、まだ身体の中で鳴り止まない。

肺が潰れたみたいに息が吸えない。

喉が勝手に鳴るだけで、空気が入ってこない。

 

(……っ、くそ……!)

 

肩が焼けるほど痛い。

背中は氷みたいに冷たいのに、皮膚の下は炎が走ってる。

視界の端で、春奈が震える唇で名前を呼んでいるのが見える。

でも、もう返事ができない。

 

―――それでも立ち上がろうとした。

床に手をつく。手のひらに何か温いものが滲む。

血か汗かもう分からない。

立て。立て。立て。

必死で命令するのに、脚が言うことを聞かない。

 

その間にも――人体模型が歩み寄ってくる。

ドン。

ドン。

と、一歩ごとに床が鳴る。

ただ近づいてくるだけなのに、

処刑が近づく音 にしか聞こえない。

逃げたい。背中を向けたい。

でも――それは“負け”じゃ済まない。

 

(……春奈がいる……!)

 

それが、唯一の重りだった。

逃げるという選択肢を砕き続ける鎖。

奥歯を噛み締め、脚に力を叩き込む。

立ち上がる。膝が笑ってる。

身体中のバランスが崩れて、世界が斜めに傾いて見える。

 

模型の動きが速くなる。

ただの備品だったはずの“筋肉”が、人間より人間らしい力を発揮する。

拳が振り下ろされる。

反射で避けた――間に合わなかった。

視界が焼き切れた。

頬骨の奥が割れるように痛い。世界が一瞬でぐにゃりと曲がる。

床を転がる。肩が軋み、背中が跳ねる。

身体の感覚が、いくつか途中で千切れたみたいに消えていく。

 

(……っ……!

なんで、……私の、攻撃じゃ……足りねぇんだよ……)

 

さっきまで入っていた手応えが、全部無意味だったかのようだ

確かに効いていた。殴れば揺れていた。

蹴ればぶつかっていた。なのに―― 倒れない。

圧倒的な現実が、心臓を掴んで握り潰す。

 

(勝てない……?私……コイツに――勝てない……のか……?)

 

胸の奥で、冷たい何かが広がった。震えが止まらない。

怖いとかそういうんじゃない。身体の芯が凍っていく。

模型の影が覆い被さる。

振り上げられた腕。

叩き潰す動作。

ただそれだけで “死” の形が完成する。

喉が鳴る。  声が出ない。

 

(――まだ……死にたくない……)

 

手が無意識に前へ伸びる。

意味がないって頭では分かってる。

でも拒絶だけはしたかった。守るためじゃない。

ヒーローみたいな動機でもない。

ただ。生きたい。

奪われたくない。ここで終わりたくない。

 

(嫌だ……嫌だ……嫌だ……!)

 

涙が滲む。

自分の弱さが悔しくて――

それでも、立ち上がれない現実が悔しくて。

それでも――足は、次の一歩を踏み出せなかった。

模型の腕が降りる。

 

終わる。

 

視界いっぱいに迫る、模型の白い拳。

春奈の悲鳴すら、遠のいていく。

“終わる”という理解が、心臓を冷たく締めつけ――

次の瞬間。

 

 

―――世界が破裂した。

           

 

轟ッ――――!!!

空気が爆ぜる。床が割れる。

爆発じゃない。銃声でもない。

“空気そのものが殴られた音” が響いた。

 

瞬間、模型の巨体が――視界から消えた。

 

理解が追いつく前に、廊下の壁が粉砕される音が続く。

石膏片が雨みたいに降り、鉄骨が悲鳴を上げ、粉塵が煙のように噴き上がる。壁の向こうへ――吹き飛んだ。

圧縮された衝撃波が遅れて襲い、

迅花の髪と制服の裾を荒々しく煽る。

 

床が震え、空間そのものが脈打ったように感じた。

時間が、ようやく動き出す。

粉塵の中、何かがゆっくりと前に踏み込んだ。

足音は軽い。だが、踏むたびに床板が軋む。

 

一人の男が、そこに立っていた。

背は高くない。

服装も地味。

顔立ちも普通。

派手な装備も纏っていない。

ただの、どこにでもいるような男――九郎がいた。

 

息が荒い。額に汗。怒りを無理に押し殺している顔。

けれど――視線だけは迅花に向かっていた。

責めるでもなく、軽蔑するでもなく。ひどく、優しい目で。

ひどく、暖かい――けれど、戦場を知る男の目。

 

胸が音を立てて崩れ落ちた。

喉から嗚咽がこぼれそうになる。

必死で噛み殺す。でも、涙は勝手に溢れた。

九郎が息を一つ吐いた。肩が、僅かに落ちる。

遅れた罪悪感と、追いついた安堵と、

それでもまだ戦いの中にいる緊張が入り混じった――

人間らしい呼吸だった。

そして、いつもの声で言う。

低く。短く。

でも、絶対的に信じられるトーンで。

 

「……悪い。間に合った。もう大丈夫だ、迅花」

 

その言葉が胸に入った瞬間、

張り詰めていた何かが、限界を超えて崩れ落ちた。

胸の奥が、決壊した。涙が溢れる。

悔しいのに。情けないのに。

 

(――助かった)

 

そんな言葉、プライドが邪魔して絶対に認めたくなかった。

でも、感情は正直だった。

生きたいと泣き叫んでいた心が、ようやく “居場所” を見つけた。

涙が止まらない。でも、悔しさだけじゃない。

震えながら息を吸い、

喉が熱くなりながら――

それでも、生きている実感が胸を満たす。

 

九郎が、ほんの少しだけ笑った。

戦場の男が見せる、“ここからは俺の仕事だ” という顔。

瓦礫の向こう、砕け散った壁から模型が這い出てくる。

その表情は相変わらず無表情。

互いに向かい合い拳を握る

 

瞬間、人体模型が駆動する。初速から最高速にいたる人外の駆動。

模型の拳が振り下ろされる瞬間、空気が潰れたみたいに重くなる。

逃げられない。避けられない。

ただ殺すための質量が落ちてくる。

 

その前に――九郎が一歩、踏み込んだ。

静かに息を吸う。そして、低く呟く。

 

「ᚦ(ソーン)… ᚢ(ウル)… ᚱ(ラド)… ᚨ(アンスール)……」

 

耳慣れない響きが廊下に流れ込む。

意味は分からない。

 

ただ――“力のための言葉”だと本能が理解する。

床の闇が震え、空気が熱を帯びる。

最後に、静かな声で言葉を結ぶ。

 

「――ᚱᚢᚾᚨ。

    ⋯勝利を」

瞬間。

九郎の拳が“灯った”。

指先から手首まで、黄金の光が走る。

燃えるでもなく、爆ぜるでもなく、

ただ“揺らめく王冠”みたいに拳を包み込む。

廊下の影が黄金の輝きに押し流される。

 

模型の拳と九郎の拳が――衝突した。

 

音が、消えた。

一拍あと。

世界が遅れて破裂する。模型の胸部が内側から弾け飛んだ。

骨格の支柱が粉砕され、四肢が千切れ、

石膏の破片が爆散し、廊下に白い嵐が吹き荒れる。

 

たった一撃。

ただ拳を伸ばしただけ。

それだけで――怪異としての核までも砕き切った。

黄金の光が消えるのと同時に、模型の残骸は黒い靄を吐き、

力を失ったただの残骸として床に崩れ落ちた。

静寂。

 

その中心に、九郎が立っている。

拳を下ろすまで、誰も息をすることすら忘れていた。

迅花は目を見開いたまま、喉が鳴る。

何が起きたのか理解できない。

誰もまだ言葉を取り戻せないまま――

ただ、唖然と見惚れていた。

“強い”とか、

“すごい”とか、

そんな浅い言葉で括れるものじゃない。

――『圧倒』。

ただそれだけ。

背中だけで世界を押し止めたみたいな男が、

何事もなかったみたいに肩を回し、

ふっと力を抜いた。

そして振り返る。

少しだけ困ったように笑う。

 

「……立てるだろ。もう大丈夫だ」

 

その言い方があまりに普通で、

この地獄じみた光景の方が嘘みたいに思えてくる。

胸の奥が締めつけられる。

怖い。

悔しい。

でも――救われた。

迅花は唇を噛みしめ、震える指を強く握る。

彼の拳に灯った黄金の光が、

まだ幻みたいに瞼の裏に焼き付いて離れない。

迅花は、喉を鳴らしながらも無理やり言葉を作る。

 

「⋯⋯⋯はい⋯助かりました」

 

九郎は息を整えるでもなく、ただ一度、肩だけを軽く回す。

張り詰めていた空気が、ようやく音を取り戻した頃。

迅花は、自分の鼓動の速さをまだ受け止めきれず立っていた。

九郎は一瞬だけ目を細め――

 

「泣くのは帰ってからにしろ。今は立て」

 

その言い方は乱暴なのに、不思議と突き放す冷たさはない。

戦場でしか使われない種類の優しさ。

唇を噛み、自分の足に力を入れる。

 

「……泣きません。ここで泣くほど……弱くないです」

 

九郎はふっと、ほんの僅かに口元を緩めた。

「強がりでも、それくらいで丁度いい」

それだけ言って、もう前を向く。

 

その背中は、派手でも雄弁でもない。

ただ、――“守る側の覚悟”だけが淡く滲んでいる。

その空気に、合流してきた霊能事務所のメンバーが一瞬言葉を失った。

「……間に合って良かった……!」

「生存者確認! 迅花さんも立てるか?」

 

彼らが安堵を取り戻していく中で、

迅花は九郎の背を見つめた。

心臓が、静かに熱を持つ。憧れとも違う。

恋とも違う。依存でもない。

――ただ、“追いつきたい”と思った。

その感情に、自分自身が少しだけ怯えた。

でも目は逸らさなかった。小さく息を整え、前を向く。

 

「……行けます。まだ終わってませんから」

 

九郎は振り返らないまま、一言だけ。

 

「そうだ。ここは、まだ戦場だ」

 

彼の声が、再び彼女の足を現実に繋ぎ止める。

震えを隠すためではなく――進むために。

粉々になった人体模型の残骸が、ようやく“ただのゴミ”へと落ち着いた頃。

沈黙していた空気が一気に緩む。

 

「……助かった、助かった……!」

「本当に……本当に来てくれた……!」

 

恐怖で白くなっていた顔に血色が戻り、

震えていた脚が、地面を掴み直す。

春奈が堰を切ったように泣き出し、

男子生徒は歯を噛みしめて肩を震わせる。

泣き叫ぶでも、取り乱すでもなく――

ただ「生きていい」と許された反動の涙。

 

その中心で、九郎は何事もなかったように佇んでいた。

勝利を誇りもしない。

守った事を語りもしない。

ヒーローの顔でも、救済の顔でもない。

そこに立っているのは――“ただ、仕事をした男”。

それだけで、場にいた全員が悟る。

その存在感が、生徒達の震えを止める。

 

「す、凄かった……」

「なんなんだあの人……」

 

それは称賛というより“畏怖”に近い。

九郎はその声に一切応えず、

ただ淡々と現実へ引き戻す。

 

「動ける奴は立て。まだ終わりじゃない」

 

その声音は冷たいのに、

不思議なことに――安心する。導く声に似ていた。

 

迅花も、胸を張って立とうとする。

だが、そこで違和感が胸に刺さった。

九郎がほんの一瞬だけ息を吸い損ねた。

その僅かな乱れに、誰も気づかない。

霊能事務所の隊員も、生徒達も、安堵の余韻に飲み込まれている。

 

けれど――迅花だけは見逃さなかった。

彼の肩が、ほんの一瞬だけ“落ちた”。

何かを必死に誤魔化すように、拳を軽く握る。

 

(……今の……何?)

 

喜びの余韻が、胸の奥で冷やされる。

九郎がこちらを振り返る。

いつもの無愛想な顔。いつもの悪態を吐く前の空気。

だが、――目の奥だけが違う。

深いところで、かすかに色が抜けたような、少しだけ“遠い”。

 

「迅花。お前はよくやった」

 

短い言葉。それだけで十分なのに――

胸の奥で正体のない不安が膨らむ。

迅花の嗅覚が、微かに違和感を拾った。

血の匂いではない。怪異の瘴気でもない。

――燃え尽きた空気の匂い。

 

(…………?)

 

理解の端だけが、冷たく触れる。

はっきりと言葉にはならない。証拠も、確信もない。

けれど――彼は無傷のまま勝ったわけじゃない。

“何かを削って勝たせた”。

その事実だけが胸に突き刺さり、

喜びと安心の影で、静かな恐怖が膨らんでいく。

それでも、彼は平然と歩く。背中は崩れない。歩幅は揺れない。

いつも通り、前だけを向いて進む。

――守る側の顔のままで。

 

迅花は唇を噛む。

言葉にしない。騒がない。問いもしない。

ただ、心の奥で強く刻む。

この背中に甘えるだけの存在ではいられない。

そして――

微かな不安を抱いたまま、彼の背を追いかけた

静寂が痛いほど降り積もる廊下で、

 

 

―――――――――

 

 

 

「生存者、こっちに――! 怪我してる子から!」

 

 

泣きながら駆け寄る女子生徒。

腰を抜かしたまま動けなかった男子生徒も、

仲間に支えられながら合流する。

 

誰かが嗚咽し、誰かが叫び、誰かが必死で強がり、

誰かが崩れ落ちる。

――生還した人間の“重さ”が、ようやく戻ってきた。

九郎はその喧噪の中でただ黙っていた。

迅花は振り返る。彼の横顔が視界に入る。

落ち着いた顔。いつも通りの無造作な態度。

 

でも――

その背中が、誰よりも“戦場の男”のものだという事を、

迅花は骨の奥で理解してしまっていた。

彼がいなければ、ここにいる誰も立っていない。

胸の奥がぎゅっと締めつけられる。

震える息を吸い、迅花は前を向いた。

まだ終わっていない。戦いは続いてる。

迅花は生存者達の方へ駆け寄った。

 

 

―――――――

 

 

赤い夜の学校に、人間の声が戻った。

割れた窓から吹き込む冷たい風の中、体育館の裏手でひとり壁に座りこんでいた少女が、弱く瞬きをする。

濁った息が漏れた。

 

「……美怜……!?」

 

最初に声を上げたのは、涙で顔をぐしゃぐしゃにした女子生徒だった。

次の瞬間には雪崩のように足音が押し寄せる。

 

「生きてた……!ほんとに……ほんとに、生きてたんだ……!」

 

肩を掴む者、抱きつく者、震える手で触れるだけの者。

皆泣いていた。

それは、ここに来てから初めて“人間らしい音”だった。

 

「……ごめん……っ、ごめん、みんな……わたし……っ」

 

美怜の喉が掠れる。

謝罪しか出てこない。

涙に濡れた顔が俯く。

 

「いいから!謝るなよ……謝んなよ……!それより……生きてて、よかった……!」

 

震えながら笑う声。

誰かが堪えきれず嗚咽を漏らす。

――その輪の少し外で。

霊能者たちが周囲を固め、緊張を解かない。

そして、その中心にいる男――レイヴンは壁に片肩を預けたまま、静かな目で光景を見ていた。

小柄な体格。

どこにでもいそうな顔なのに、ここでは異物のような存在感。

安堵に揺れる生徒たちの声を聞いていても、彼だけは呼吸を乱さない。

ただ一瞬だけ、ほんの一瞬だけ視線が柔らかくなる。

 

(……よく生き残った。けど――まだ終わりじゃねぇ)

 

霊能事務所の隊員が耳元の通信に小声で報告する。

 

「生存者確認、複数確保。……だが、やはり脱出口は確認できず。

異界の構造、完全に“向こう”の掌の上だ」

 

別の隊員が顔をしかめた。

「シズエさん……まだ“遊び”を終わらせる気ねぇってことかよ……」

 

その瞬間――笑い声が落ちてきた。

天井から垂れるように、どこからともなく、

校舎そのものが喉を鳴らしたみたいに。

 

――ねぇ、まだ逃がさないよ。

 

空気が冷えた。灯りが一瞬だけ暗転する。

赤い世界の色が濃くなる。

生徒達の背筋から一斉に震えが走った。

誰かが美怜の手を握る。美怜も必死に握り返す。

レイヴンが舌打ちした。

 

「……クソ。やっぱり、ここはまだ“あいつの庭”だな」

霊能者の一人が声を張る。

 

「全員、隊列を崩すな!集団行動を維持しろ!

散ったら殺されるぞ!!」

 

生徒達が一斉にレイヴンの近くへまとまる。

彼がいる場所が、唯一の“少しだけマシな場所”だと誰もが本能で理解していた。

 

だが、安心ではない。これはまだ救助ではない。

ただ“死の中心から一歩外に立っただけ”。

誰かが泣きながら言った。

 

「……助かったんじゃ、ないの……?」

 

レイヴンは前を睨んだまま、短く吐き捨てる。

 

「“死ぬ順番を後ろにずらした”だけだ。

勘違いすんな。ここは、まだ地獄の中だ」

 

美怜はその言葉に、小さく息を呑んだ。

それでも――仲間の体温がある。

手の温もりがある。名前を呼ぶ声がある。

希望は細くて弱くて、簡単に折れそうで。

それでも確かに、ここにあった。

 

 

 

 

赤い夜の学校は、黙って彼らを見下ろす。

まだ遊びは終わらない、とでも言うように。

体育館に似た、しかし床は割れて赤黒く染み、天井の照明は揺らぐ焔のように歪んだ空間。

シズエさんは笑っていた。

少女より少し小さな赤いワンピースの影。その口元だけが裂けたように弧を描く。

 

――ねえ、まだ逃げるでしょう? まだ遊びましょう?

 

その声が空気を抉る。

それだけで、生徒の何人かが腰を抜かし、座り込んだ。

迅花は立っていられない膝を必死に支えながら、春奈を抱き寄せていた。

身体は震えている。だがそれでも折れていない、

ただ――限界だった。

 

レイヴンは、生徒達の前に立っていた。

ただ、一歩。それだけ前に出ただけで、空気が変わる。

シズエさんの笑みが僅かに止まる。

レイヴンは笑わない。怒鳴らない。

ただ静かに息を吐く。

 

「……もういい。ここまでだ」

 

声は低いが、震えている。

焦燥とも怒りとも違う、もっと深いもの――“守りたいものを失いかけた時の男の声”。

迅花の喉が痛む。

その背中を見ているだけで、胸が締め付けられた。

 

「遊びは終わりだ。勝手なルールで人間巻き込んで、好きに弄んで……」

 

左手の拳が震え、その拳にうっすら血が滲む。

握りすぎて皮膚が裂けていた。

 

「俺は、そういうのが一番嫌いだ」

 

黄金色の光が、レイヴンの周囲に浮かび始める。

霊能者たちが同時に動いた。陰陽師の男も、眼鏡の霊能女子も、静かに札と術式の準備を始める。

結界が展開される。祓いの紋。鎮魂の呪。

異界に楔を打ち込み、現実へ引き戻す術式。

 

しかし――

 

「ふーん……」

 

シズエさんは、肩をすくめるように笑った。

――つまんないなぁ。

その声には怯えも恐怖もない。

あるのはただ、“興ざめ”だけ。

――せっかく作った世界なのに。

――せっかく皆で遊べる場所なのに。

――大人が来ると、つまらなくなるんだよね。

 

霊能者たちの術式が軋む。

世界が引き裂かれそうな音を立て、異界が抵抗する。

 

レイヴンが前に出る。

拳を握る。

血が滲むほど強く。

 

「俺は奪わせねぇよ」

 

静かな声。

 

「こいつらの人生も、未来も、“安全な場所に帰る権利”も。

 お前みたいな理不尽な遊びで踏みにじらせない」

 

静かに息を吐く。

唇が動く。

迅花は息を飲む。

知らない。見たことがない。

だが――感じる。

これは、“世界を殴りつける力”。

 

九郎が低く刻む。

 

「――――――《SIGR・RÚN》勝利はここに。

 敗北は砕け散れ。俺の前で――“負け”は存在しない」

 

黄金のルーンが空間に焼き付く。

霊能者たちの術式と結びつき、世界に圧力が走る。

異界が、押し戻される。

 

シズエさんはその光景を見て――

ただ、大きくため息をついた。

 

――ああ、やっぱり。

退屈そうな声。

――こうなると、もういいや。

――ここまで壊されたら、続けても楽しくないし。

足元の影が静かに溶ける。

――返してあげるよ。

――今日は、ここまででいい。

 

ただそれだけを言い残し、彼女は背を向けた。

去り際、振り返りもせず。

 

――また遊びたくなったら呼んでね。

――今度は、もっと長く遊べるようにするから。

 

霊能事務所の隊員達が息をのむ。

迅花の目が大きく見開かれる。

赤い影が霧散する。

世界が――崩れ始めた。

異界の床が剥がれ、廃墟が修復され、赤黒い空が破れ落ちる。

現実が浸食する。結界が世界を繋ぐ。

霊能者たちが叫ぶ。

 

「今だ!一気に押し返すぞ!」

 

術式が最大まで解放される。

レイヴンの黄金の光がそれに重なる。

世界が反転した。

光が爆ぜた。

 

そして――世界が――砕けた。

 

生徒達は“現実の学校”に吐き戻されるように転移した。

泣き声。崩れ落ちる身体。

体育館の割れた床が修復されるように直り、赤い空が剥がれ落ち、闇が流れ落ちる。廃墟が静かに戻っていく。

 

安堵の声と泣き声。抱き合う腕。

霊能者達が生徒を抱えて叫ぶ。

ただひとつだけ、そこに倒れている影を除いて。

九郎が崩れ落ちていた。

膝から崩れ、床に手をついたまま動かない

迅花は震える足で駆け寄る。

春奈が泣きながら後ろからついてくる。

背中が動かない。

 

「九郎さん! 九郎さん!」

 

返事はない。額に触れる。熱い。

なのに肌は冷たい。彼はただ、目を閉じていた。

安心したような顔で。

静かに――意識を手放していた。

 

迅花の喉が詰まる。

涙がこぼれそうになる。

 

「……なんで……」

 

守る側の男は、当然のような顔で倒れていた。

勝利の代償を、誰にも言わずに背負って。

 

迅花は、唇を噛んだ。

泣きそうな顔で、それでも必死に声を絞り出す。

 

「……最低ですよ……もう……」

 

しかしその声は、震えていたのに――

泣いているのに――どこか、誇らしげだった。

彼が守った“現実”の空気が、ゆっくりと戻っていく。

 

 

現実の空気が戻る。晴れた空。風。音。

止まっていた時間が動き始める。

やっと――彼らは帰還した。

床は現実に戻ったのに、空気だけがまだ死の色を残していた。

冷たい。

それでも、どこか鉄の味がする。

泣く声。

叫ぶ声。

喉の奥で詰まった嗚咽。

 

その中で――霊能者たちが急いで担ぎ上げる。

担架に乗せられた九郎は、危険なほど静かだった。

 

「魔力欠乏、レベル4――いや、下手すると5だ!!」

 

霊能医療スタッフの叫びが、空気を裂く。

周囲の霊能者達が一瞬だけ動きを止めたほどの声だった。

 

「詠唱の逆流痕あり!魔力完全解放後の燃え殻反応!

 こいつ――限界を踏み抜いてる!」

 

「脳波落ちてる!

 生命活動は維持……だが回復しない、このままだと魔力核が萎む!」

 

言葉の意味なんて知らない生徒達にも、その声色だけで状況の異常さが伝わる。

ただの“気絶”じゃない。

寝てるわけでもない。

――命の灯が、削れている。

迅花の胸の奥が跳ねた。

 

「嘘……そんな……っ」

 

足が勝手に動く。

担架の横に縋りつく。

春奈の手が震えながら迅花の袖を掴む。

 

「連れていけ!区分S搬送! “普通の病院”じゃ死ぬ!!

 霊力供給設備のある専用病院だ!!」

「霊結界の維持!

 このまま魔力が抜けたら魂まで崩落する!!」

 

呪文にも似た専門用語が飛び交い、

結界布が幾重にも重ねられ、

術式の光が縫うように九郎の身体を囲う。

それでも――九郎は、眠る死人のように静かだった。

 

眼鏡の霊能女子が歯を噛む。

「……よくここまでやるよ、あの人……

普通なら途中で投げるのに」

 

声は震えていた。

感謝でも、賞賛でもない。恐怖に近い尊敬だ。

 

迅花は辛うじて立っていた。

――知ってる。

――あの人は、こういう人だ。

走馬灯みたいに、バカみたいに他人の為に戦う姿が脳裏に浮かぶ。

その結果がこれだ。

 

「……死なないよね」

春奈の声は幼児のように小さかった。

 

迅花は、喉が潰れそうなほど力を込めて答える。

「死ななない。あの人は……そんな所で、終わる人じゃない」

 

搬送車が横付けされる。普通の救急車じゃない。

扉に符術の刻印。青白い霊灯。

閉じるだけで“現世”と切り離すための、異様な医療装置。

 

スタッフが叫ぶ。

「心霊結界起動! 生命波固定、魔力核に仮供給開始!!」

九郎の胸元の術式が光った。

しかし――ピクリとも動かない。

ほんの少し遅れたら、それだけで二度と戻らない。

そんな緊張が場全体に走る。

 

迅花の肩を、眼鏡の女が掴んだ。

 

「大丈夫に“する”。だから、任せて。あなたは……立ってて」

 

職業の声だった。

でも、その奥で自分を奮い立たせる音が聞こえた。

迅花は頷くしか出来なかった。

搬送車の扉が閉じる。術式が跳ねる音。

エンジンの低い唸り。

 

それでも――車は急発進しなかった。

慎重に走らなければ、命が壊れる。

それが分かっているから。

走り去っていく。

九郎を運ぶ、その光だけが遠ざかっていく。

残された生徒達が、ただ無力の中で見送る。

誰かが泣き崩れた。

誰かがただ呆然と立ち尽くす。

現実は戻った。

 

しかし、心はまだ戻れない。

迅花は、強く拳を握った。

――助けられた命。

――奪われた命。

――そして、命を削って守った背中。

 

サチコの夜は、終わった。

だが、代償はまだ終わっていない。

床が現実のそれに戻っても、空気だけはまだ異界の名残を引きずっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 






九郎は対人間に特化してるので、火力が届かない怪異や怪物が得意ではない。
普段は殺す準備をして確殺する。
ルーン付与する事で通す事は出来るが魔術師ではないので代償有り。






《勝利》のルーン ――――《SIGR・RÚN》
SIGR(シグル) … 古ノルド語で“勝利”
RÚN(ルーン) … 秘儀・秘奥・封じられた意味
直訳すると
「勝利の秘奥」=勝利という概念を直接操作する禁術級のルーン
詠唱全文
―――――《SIGR・RÚN》勝利はここに。
 敗北は砕け散れ。俺の前で――“負け”は存在しない。
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