箸休め回。短めです。
病院の白い天井は、もう視界にはなかった。
代わりに広がるのは、薄く曇った空。
吐き出した息が、ひどく軽い。だが胸の奥だけは、まだ重たい。
人気の少ない公園の隅。木の匂い、遠くの街の音。
九郎は黙って地面に両手をつく。
腕立て伏せ。
一回、二回――思っていた以上に、自分の身体は素直じゃなかった。
筋肉は残っている。
だが“戦える身体”と“動くだけの身体”は違う。
ほんの少しの遅れ、わずかな鈍さ。
それが命取りになる世界を、あの夜、嫌というほど思い知らされた。
「……クソ」
小さく吐き捨てる。
弱さに怒っているんじゃない。
守れなかった未来を一瞬でも考えた自分が、許せない。
迅花の泣き顔。
それでも必死に立とうとした背中。
震えながらも笑って迎えてくれた由衣。
自分を信じて、待ってくれた目。
勝利のルーンは――勝つ。
その代償は、確実に身体へ刻まれる。
なら、その分は自分で補わなければならない。
腕立て伏せから腹筋へ。
腹筋から懸垂へ。
ただ、黙々と動く。
筋肉が悲鳴を上げるたびに、頭の霧が晴れていく。
“間に合わなければ終わっていた”
その現実だけが、喉元に刺さったまま抜けない。
守ると決めた。
背負うと決めた。
――なら、立ち止まる理由なんてない。
「……まだ足りねぇな」
誰に聞かせるわけでもなく零れる呟き。
呼吸が荒くなる。
汗が滴る。
だが、それが“生きている実感”だった。
―――
境界に立つなら、常に“戦場に置いてある身体”でなければならない。
最後のセットを終え、乱暴に汗を拭った。
少しだけ、胸の重さが軽くなる。
少しだけ、手の震えが止まる。
そして九郎は、静かに笑った。
「……よし。まだ行ける」
風が吹き、汗の冷たさが心地よく肌を撫でた。
止まらない。
もう二度と、迷わない。
―――――――――
朝、アラームが鳴るより少し早く目が覚めた。
枕元に伸ばした手が空を切る。
そこにいるはずの男の温もりは、当然ながらどこにもない。
「……おはよう、私」
誰もいない部屋に、苦笑交じりの声が沈んでいく。
九郎が帰っている時は、朝はいつも慌ただしい。
彼の体温と汗の匂い、散らかった衣服。
静かな朝は、安心でもあり、同時に少しだけ不安でもある。
大学は今日も普通だ。
いつも通り、普通のふりをした世界が広がっている。
「佐倉さん、今日ゼミ後空いてる?」
「由衣ちゃん、この前言ってたカフェ行かない?」
「なぁ佐倉、サークル飲みどう?女足りねぇんだよ〜、君が来てくれたら華やぐって」
軽く笑って返す。
拒否するでも、調子に乗るでもなく。
いつも通り、柔らかく、穏やかに。
――モテる。
それは嫌でも自覚している。
派手な美人ではない。
けれど、目を合わせて話すと、「落ち着く」と言われることが多い。
守りたくなる、と言われたこともある。
……ただ、彼女は知っている。
“守られる女”として生きてはいけない世界があることを。
昼休み。
教室の窓から見える青空は、異界の血の色よりずっと遠い。
隣の席の友達が、最近できた彼氏のノロケを話している。
笑って聞く。頷く。
時々、茶化す。――いいな。
普通でいられる恋。
その感情は確かに胸に浮かぶ。
だけど、引っかかりは一瞬だけで、すぐに飲み込む。
私が選んだのは普通じゃない男だ。
この手で抱いて、引き戻して、帰らせると決めた男だ。
帰り道。
ナンパに呼び止められるのも、もう慣れた。
「ねぇお姉さん、時間ある?」
「連絡先だけでもさ」
笑って断る。
肩に触れられそうになれば軽くかわし、
しつこければ目だけで殺す。
――男を見る目は、前より格段に良くなった。
一瞬で分かる。
この男は浅い。この男は薄い。
この男は、後ろに鈍い闇なんて持っていない。
それを知った世界で、九郎を選んでしまった。
だから、後悔はしない。
バイト先。
店長がさりげなく肩を叩く。
「佐倉さん、最近疲れてる?無理すんなよ。
あとさ……時間あったら、今度ご飯でも――」
優しい人だ。
普通に暮らす世界なら、こういう人を選ぶのが正解だと思う。
でも――
「ありがとうございます。
でも……私、大事な人がいるんです」
ふわりと微笑んで頭を下げる。
店長は一瞬だけ残念そうにして、すぐ笑った。
「……そっか。幸せにしてもらえよ」
――幸せ、か。
九郎といる未来を思う。
血の匂いと、戦いの影と、それでも笑って帰ってくる背中を。
幸せかどうかなんて、まだ分からない。
ただ、胸の奥のどこかで確信がある。
“帰ってくる場所”であり続けるなら、きっと大丈夫だ。
夜。
部屋に戻ると静寂が満ちる。
ニュースの音、時計の針、電子レンジの作動音。
生活音だけが、世界に由衣の存在を証明している。
食卓に二人分、無意識に箸を置いてしまい、少しだけ笑う。
「……癖になっちゃってるな」
携帯を見つめる。
通知は来ない。既読も増えない。
それでも、信じている。玄関の鍵が回る音を。
重たい足取りを。
大きな身体がソファに沈む気配を。
そして――
ため息混じりに「ただいま」と言う声を。
由衣は灯りを消さない。
この家の中の、夜だけは暗闇にしない。
止まり木は、迷子の鴉が帰る場所であるべきだから。
―――――――――
朝の通学路は、以前と同じはずだった。
制服の襟を整え、鞄を肩に掛ける。
見慣れた住宅街、同じ顔ぶれの学生達、同じ始業時間。
誰も知らない。
――この足が、異界で走り、血の匂いと絶叫の中を駆け抜けたことを。
胸の奥で、何かが静かに軋む。
でも、前に進む。
走れる足は止めない。止めたら、多分、崩れる。
教室の空気は、無理やり「平常運転」を演じていた。
笑い声。くだらない動画の話。
昨日のテレビ。テストどうする、進路どうする――そんな会話。
空席がいくつかある。
張り替えられた掲示。
教卓の上に置き去りにされたままのプリント束。
視界の端にそれが映る度、喉がひくりと鳴る。
ここにいた。
昨日まで笑ってた。
でも今はいない。
友達の春奈が小声で囁く。
「……今日、皆、明るくしようとしてるだけだよね」
「……分かってる」
迅花は笑って返した。
笑顔は意外と簡単に作れる。
心を止めればいい。
しかし、クラスの視線の一部が自分に向けられているのを感じる。
“あの時一緒にいた子”
“助かった側”
“けど、何も出来なかった側”
直接言葉にされなくても、空気は残酷だ。
机の縁を、指がぎゅっと握る。
――あの時、戦えた。
――あの時、守れた。
でも、全員は救えなかった。
それが、胸のどこかで燻り続ける。
昼休み。
屋上への扉が開く風の音が心地いい。
風が制服の裾を揺らし、遠くの空を流していく。
ここに立つと、少しだけ息がしやすい。
「師匠⋯⋯九郎さんだったらどうしてたんだろ」
自然と呟きが漏れる。
九郎のことを考えると、胸の奥が不思議と落ち着く。
勝利のルーンで命を削りながら、
それでも笑って生き残って帰ってくる、あの馬鹿みたいに強い背中。
思い出す。
医務室の白い匂い。
震える自分の肩に置かれた、あの大きな手。
“泣くなら生きてる間に泣け。
死んだら泣く暇ねぇぞ”
ふざけてるようで、真っすぐな言葉。
胸の奥に刺さって抜けない。
迅花は唇をきゅっと噛んだ。
私は、あの背中の弟子だ。
守られるだけで終わる女じゃない。
放課後。
部活には戻っていない。
トラックの上を走る資格を、自分で降りた。
速すぎるこの足は、競技場よりも戦場の方が似合ってしまったから。
だから代わりに、川沿いの土手を走る。
全力ではなく、呼吸を確かめるように。
体温が上がっていく。肺が焼ける。心臓が痛い。
でも、気持ちいい。
“まだ走れる。まだ戦える。私は――止まっていない。”
走り終えて膝に手をつき、空を見上げる。
淡い夕焼け。
街の灯りが一つ、また一つと増えていく。
その全ての下で、人は普通に生きている。
知らないまま死んでいく世界があることなんて思いもしないで。
それを知ってしまった自分は、もう戻れない。
戻らないと決めた。
夜。
家の灯りが温かい。
母が「おかえり」と笑う。
無理に踏み込んでこない。
でも、心配してくれているのが分かる。
「……ただいま」
晩ご飯を食べて、シャワーを浴びて、布団に潜る。
天井を見つめる夜は、まだ少し長い。
瞼を閉じると、時々まだ、血の色の夜が甦る。
悲鳴が、廊下が、冷たい風が、追いかけてくる。
その度、男の声を思い浮かべる。
――“立て。まだ終わってねぇだろ、弟子。”
胸が熱くなる。涙は落ちない。
もう、泣いている暇はない。静かに笑う。
「……師匠。私、ちゃんと前に進むから」
枕をぎゅっと抱いて、ようやく眠りが降りてくる。
迅花の日常は、確かに戻ってきた。
けれど同時に――
彼女は、戦いの世界の住人として進み続けることを選んだのだ。
―――――――――
机の上に温かい夕飯が並ぶ。
九郎が箸を持った瞬間、もう米が減っていく。
「……やっぱり早い」
迅花が呆気に取られて呟く。
由衣は湯気を眺めながら、苦笑しつつ見守る。
「そんな急いで食べなくても良いのに。ここ、戦場じゃないですよ」
「癖だな。」
短く答えながら、九郎は止まらない。
噛むというより、流し込むに近い速度。それでも姿勢だけは綺麗なままだ。
「昔な。飯は“食事”じゃなく“補給”だった」
口数少ないのに、言葉はストンと落ちる。
「“早飯、早糞、早着替え”。戦場の基本動作ってやつだ。
飯は一瞬で詰め込む。出すもんは一瞬で出す。着替えは音も立てずに済ませる。――それが出来ねぇ奴から、運を失っていく」
瞬間、部屋の空気が少しだけ重くなる。
冗談じゃないという現実が、その言葉の奥に沈んでいた。
由衣が静かに言う。
「……そうやって、ずっと生き延びてきたんだね」
九郎は茶をすすり、肩を竦めた。
「生き残るために身体に叩き込んだ癖ってのは、案外抜けねぇんだよ」
迅花は少し俯いて、ぽつりと呟く。
「……私は、怖いです。“普通”に戻れなくなるのが。戻れなくなるくらい戦い続けるのが……」
由衣が優しく笑う。
「戻らなくていいよ。“戻る場所”があれば、それでいいんだから」
九郎は一瞬だけ視線を落とし、
そして、珍しく――ほんの僅かに笑った。
「……悪くねぇ考えだ」
そのまま最後の一口を飲み込み、茶碗を置く。
「ごちそうさん」
「早っ!」
迅花のツッコミに、由衣の笑いが重なる。
戦場の男の癖を抱えたまま。
それでも――ここは戦場じゃない。
“鴉が羽を休める止まり木”の、静かな夜だった。
―――――――――
都内の雑居ビルの四階。
エレベーター横の錆びたドアを開けた先に、
霊能事務所の雑多な空気が広がっていた。
安っぽいソファ。
淹れっぱなしで冷めたままのコーヒー。
書類と除霊道具が半分喧嘩して散らかるデスク。
その中心で、代表の男――穂村は渋い顔で顎に手を当てていた。
「…………助かったのは、助かった。だがなァ……」
机の上には分厚いファイル。
学校異界事件の報告書だ。
横の椅子に座る女性霊能者がぼやいた。
「でも事実よ、穂村さん。あの人が来なかったら、私たち……
全員、アッチ側だったと思う」
隣の若い男の霊能者が、苦く笑う。
「“レイヴン”って呼ばれてる理由、よく分かったわ。
静かに現れて、静かに地獄を片付けて――」
「……英雄ってのは、いつも割に合わねぇな」
穂村がぼそりと呟く。
「しかも依頼じゃない。正式契約でもない。ただ“私情”で突っ込んできて――結果これだ」
報告書には、
【生徒多数救出】
【重大な代償】
それだけが淡々と記されている。
沈黙。
やがて、女性霊能者が小さく息を吐いた。
「私、嫌いじゃないけどね。あの人、不器用な顔してるくせに……
ちゃんと“助ける”人だから」
若い男が苦笑する。
「でも怖いだろ、正直。“戦闘屋”って肩書のくせに、
霊能の現場に割って入ってきて、怪異よりよっぽど化け物してるとかさ」
穂村はわずかに目を細めた。
「……そうだな。
人の領域の戦闘力で、怪異の領域へ踏み込む奴なんて、普通は長く生きられねぇ」
しかし――続く言葉はほんの少しだけ優しい。
「それでも“戻ってくる気で行く”奴だけが、最後まで戦場に立つんだろう」
全員黙る。
空気が少しだけ重くなった時――机の上のスマホが震えた。
表示された名前を見て、
女性霊能者が眉を上げる。
「……来たわね。――レイヴンから」
室内の空気がわずかに緊張する。
穂村が受信ボタンを押す。
『穂村か。……借りが残ってるままだと寝覚めが悪い。
一件、仕事を回せ。多少ヤバくても構わねぇ』
淡々とした声。
しかし、背負ってるものの重さが滲む声。
穂村は鼻で笑った。
「言うと思ったぜ、あんた」
女霊能者も、男も、気づけば小さく笑っていた。
「本当に……面倒くさい人ね。でも、嫌いじゃない」
穂村は天井を見上げ、短く息を吐いた。
「しゃーねぇ。借りは借りだ。だったら――遠慮なく使わせてもらうだけだ」
事務所の空気が少しだけ引き締まった。
“戦闘屋レイヴン”への信頼と、同業者としての敬意と、少しの笑いがそれが確かにここにはあった。
プロ戦闘屋でも畑が違うので普通は怪異と戦いません。
人の領域 戦闘屋、喧嘩屋、護り屋、殺し屋等
魔の領域 退魔師、祓い屋、霊能者、魔術師等