夜を歩く鴉と、待つ女たち   作:鉄猿

20 / 24
蒼い哀歌

 

 

 

 

夕暮れと夜の境目。

一日の熱気と、これから始まる夜の冷たさが、まだ決めきれずに空中で混ざっている時間帯。

その真ん中――

駅前広場の風の流れが集まる一点に、蒼井セリナは立っていた。

 

長く伸びる蒼がかった髪が、街灯の光を掬って揺れる。

輪郭は柔らかく、目元はどこか優しく垂れ、肌は夜に馴染むように白い。

やけに胸元のラインが目を引くのに、それを武器として振り回す気配がまるでない。

 

ただ、そこに “いる”。

それだけで、視線が吸われてしまう。

小さなスピーカーとマイク。

それだけの素朴な準備で、彼女は静かに息を吸い――歌い始めた。

 

その瞬間、駅前の音が一段だけ遠ざかる。

電車のアナウンスは確かに鳴っている。

誰かの笑い声も、誰かの靴音も、雑踏のざわめきも確かに存在している。

なのに、妙に薄い。

音が全部「背景」に押しやられていく。

彼女の声が、街の真ん中に落ちた水滴のように、静かに広がる。

強くない。叫ばない。押しつけない。

ただ、胸の奥を指でそっと撫でられたようなやわらかさで、心の内側に入ってくる。

意味よりも前に、感覚として染み込んでいく声。

 

スーツ姿のサラリーマンが足を止める。

買い物袋を提げた主婦が振り返る。

イヤホンを外す学生。

寄り道のつもりだった若者が立ち尽くす。

 

“聴こう”として聴いているのではない。

ただ――離れられなくなっていく。

理由はない。説明もいらない。

ただ、その声が“手”のように感じる。

胸を抱かれたような安心感と、

胸を締めつけられるような寂しさが同時に押し寄せてくる。

何人かの目が潤む。何人かの唇が震える。

悲しい歌ではない。絶望の歌でもない。

なのに、涙が出る。

セリナ自身は気づいていない。

そんなつもりで歌っているわけでもない。

ただ“歌う事が好きで、届けられる事が嬉しいだけ”。

それだけのはずなのに、

人の心が、少しだけ揺らされていく。

 

歌が終わる。

拍手が起こる。

けれどそれは、騒がしい喝采ではなく――

余韻を壊すのが惜しいとでも言うような、静かな拍手。

 

セリナは少し照れたように笑い、小さく頭を下げた。

その笑顔は、安心させる。

抱き締めたくなる。守りたくなる。

広場は温かい空気に包まれる。

 

――ただ、その温度を共有しない者たちがいた。

拍手の輪より、ほんの少しだけ外側。

群衆の陰に滲む、いくつかの「静かな視線」。

そこだけ空気が冷たい。

感動もなく、共鳴もなく。

ただ、観察する目。

評価する目。

測る目。

“存在”ではなく、“価値”を見ている目。

彼らは拍手をしない。

表情も変えない。

ただ、静かにそこにいるだけで世界の温度差を作る。

 

セリナは、まだ知らない。

知る必要もない――今は、まだ。

 

彼女はもう一度だけ、丁寧に礼をした。

夜が完全に落ちる直前。

街灯が濃く世界を照らし始める時間。

温かな拍手の輪の外で、

別の世界が、ゆっくりと彼女の方へ歩み寄っていた。

 

 

 

―――――――――

 

 

 

静かな夜だった。

窓の外は都会らしい灯りがまだ残っているのに、この部屋の中だけは世界から少し切り離されたみたいに落ち着いている。

食事を終えたばかりのテーブルには、温もりの残る湯気だけがゆっくり消えていく途中。

テレビも点けていない。

 

柔らかな照明の下、ゆるい静けさが三人を包んでいた。

その空気を破ったのは、ソファでスマホを弄っていた迅花の小さな声だった。

 

「……あ、これ、今ちょっと流行ってるんですよ」

 

彼女らしくない、ほんの少し浮ついた調子。

どこか弾むような声音に、九郎は眉を少しだけ上げる。

 

「はいはい。どうせまた“今話題の〇〇”とかだろ」

 

ぶつぶつ言いながらも、拒否はしない。

伸ばされた画面を、面倒くさそうな顔をしつつ受け取る。

指が画面をなぞる。

再生。

 

夜の駅前広場。

冷たい照明の白ではなく、街灯の少し黄味がかった光に照らされた輪の中心。

そこに――女がいた。

青みを帯びた長い髪が、風に撫でられて揺れる。

ただ立っているだけなのに、不思議と“絵になる”。

そして、歌が始まる。

その瞬間、部屋の空気が、ほんの一段柔らかく沈んだ。

言葉より先に「心地いい」と身体が反応してしまう種類の声。

強く押しつけてくるわけでもなく、感情を過剰に煽るわけでもない。

ただ、寄り添う。

ただ、聴く側の心の奥にそっと触れてくる。

何も言わず、由衣も画面へ視線を寄せる。

自然と、三人の視線が同じ一点に吸い寄せられた。

一分ほど流れただけなのに、ずっと聴いていた気さえする。

 

九郎は静かに息を吐いた。

 

「……普通に、上手いな」

 

本心から出た素直な感想。無理に飾らない言葉。

 

「“普通に”じゃなくて、“だいぶ”ですよ」

 

迅花は、少し得意げに笑う。

年相応のミーハーな笑みは、戦場に立つ時の顔とはまるで違う。

 

「蒼井セリナって言うんです。

 SNSで流れてきて……一回聴いたら、なんか止まらなくなっちゃって」

 

由衣もうなずいた。

 

「大学でも名前、よく聞くよ。わりと本気で『次に売れる』って言われてる」

 

九郎は肩をすくめ、テーブルの上にスマホを戻した。

 

「まぁ……売れるだろ。顔いいし、声いいし。

 “分かりやすく人を惹きつける”タイプだ」

軽い口調。本当にただの感想。

 

迅花は、また画面を見返した。

そこには戦う少女ではなく、普通の女の子らしい憧れがあった。

 

「なんか……いいんですよね。

 聴いてると元気になるっていうか……ちょっと綺麗すぎてムカつきますけど」

「嫉妬かよ」

 

九郎が鼻で笑う。由衣が控えめに吹き出した。

部屋に笑い声が落ちる。

それは、とても平和で、温かい時間だった。

 

──ただ。

九郎は最後に、ほんのわずか視線を残す。

言葉にするほどの違和感ではない。

ただ“妙に頭に残る声だった”という程度。

だが、その“ひっかかり”が何を意味するのかを、

この時の彼はまだ知らない。

 

「ま、俺には関係ねぇ世界だ。芸能は芸能で勝手にやってくれりゃいい」

 

水を取りに立ち上がる。

足取りには焦りも、使命感もない。

由衣は画面を眺めながら呟いた。

 

「……生で聴いてみたいな」

 

迅花は嬉しそうに頷く。

 

「行きましょうよ、今度。近くでも歌ってるみたいですし」

 

“軽い未来の約束”。

九郎は、それを笑って流した。

今はただの雑談。ただの流行りの話題。ただの、美しい歌の話。

まだ誰も知らない。

 

それが――地獄の入口の、ほんの手前だったことを。

 

 

 

 

―――――――――

 

 

 

 

 

それは、“はっきりした何か”ではなかった。

ただ、ここ一週間ほど、胸の奥にずっと沈殿している――言葉にならない重さ。

理由が分からない不安ほど、始末に負えないものはない。

 

蒼井セリナは、ベッドの上に座ってスマホを抱えたまま、深く息を吐いた。

フォロワーは毎日増えている。

動画の再生数も、コメントも。

街で歌えば、人が足を止めてくれる。

応援してくれる人もいる。笑ってくれる人もいる。

それは、夢にじかに触れているみたいな幸福のはずだった。

ずっと欲しかった舞台。ずっと目指してきた場所。

――なのに。

 

「……なんで、こんなに胸、重いんだろ」

 

独り言の声は、弱い。

明るい笑顔でファンと話すときに見せる表情とは、まるで別物。

最近、歌っていると、視線を強く感じる。

ただ見ているだけじゃない――獲物を測るみたいに、値踏みする目。

しかも、ひとりやふたりじゃない。

あの駅前での路上ライブ。

曲が終わった瞬間の静寂の中で、数人がこちらを見て、微笑っていた。

 

けれど、それは“ファンの微笑み”とは違っていた。

少し冷たい。少しぬめる。

心を掴んで離さない種類の目。それに、変なトラブルも増えた。

些細な事からの 口論、言い合い、押し合い。

歌っている後ろで、突然喧嘩が始まったりする。

誰も怪我はしなかったけど――空気は明らかにおかしかった。

 

「私のせい……じゃないよね」

 

言いながら、笑おうとする。

けれど、笑顔は途中で止まった。昔から怖がりだ。

だけど、優しい人でいたいといつも思っている。

傷ついた人にも、疲れている人にも、少しでも寄り添える歌を歌いたい。

ただそれだけなのに。

それなのに最近、ライブの後、

客の何人かが泣き崩れたり、茫然自失になったりしているのを見ると、胸が痛んだ。

嬉しい涙と分かるものならいい。

 

でも――あれは違う。

“泣かされた”みたいな顔。

自分が誰かを苦しめている気がして。

誰かの心に爪を立ててしまっている気がして。

セリナは胸元をぎゅっと掴んだ。

 

「……歌うの、好きなのに」

 

夜風がカーテンを揺らす。

窓の外は普通の夜景なのに、世界だけが少し歪んでいる気がする。

誰かに相談しようかとも思った。

だけど、

“調子に乗ってると思われるかも”

“被害妄想って言われたらどうしよう”

そんな小さな臆病さが足を引っ張る。

 

なにより――。誰もを安心させるために歌ってきたのに、

自分が怯えてどうするのだろう。

だから、笑う。小さく、ひとりで。

 

「……大丈夫。私はちゃんと歌える。ちゃんと前に進める。

 ……大丈夫、大丈夫」

 

そう言い聞かせるたび、胸の奥の違和感は静かに息を潜める。

消えはしない。

ただ、沈むだけ。

 

――そして翌日もきっと、彼女は歌う。

夢のために。自分のために。

そして、まだ気づいていない“何か”のために。

 

 

 

―――――――――

 

 

 

 

夜の駅前広場は、いつもより人が多かった。

ライトに照らされた噴水の縁、その正面。

ひときわ目立つ長い蒼い髪の女――蒼井セリナが立っていた。

 

もう歌は始まっていた。

声が、空気を濡らしていた。

澄んでいるのに柔らかい。

静かに触れてきて、胸の奥を撫でていく。

なのに、ほんの少しだけ切ない温度を持っている。

 

「うわ……すご。本物……やば。綺麗すぎる……」

 

思ったことをそのまま言ってしまうのが迅花だった。

子供のように目を輝かせ、最前列に食い入る。

 

「…… SNSで見た時より、ずっと綺麗だね……」

 

由衣は、静かだった。

ただ、吸い込まれるみたいに歌を見ていた。

セリナの瞳は優しく、微笑む唇は儚い。

そして胸いっぱいに響く歌声は、

知らないはずの痛みを、懐かしい悲しみに変えてしまう。

周囲の人々の顔にも、似た色が浮かんでいた。

恍惚。

陶酔。

うっとりとした静かな熱。

それは、路上ライブというより、

“祝祭”の中心にひとり立っているような光景。

 

――その輪の外で、一人だけ違う目をしている男がいた。

九郎だ。

 

腕を組んだまま黙っていた。

歌を否定しているわけではない。

むしろ少し聴き入ってさえいる。

ただ、その視線は微妙に違った。

耳ではなく――“空気”を見ている。

歌声に合わせて、空気の層が揺れている感覚。

ほんのわずかだが、確かに感じる圧。

風もないのに肌を撫でる波。そして、観客たちの目の光。

 

「……なるほどな」

ぼそりと呟いた。

 

この女は何もしていない。ただ歌っている。

そこに悪意はない。作為もない。

 

けれど――

“歌が、力を持ってしまっている”。

 

それを理解した瞬間、九郎の背筋を冷たい予感が撫でた。

無自覚な才能は、ときに武器より残酷だ。

本人が悪くなくても、

「価値」に気づいた誰かが、必ず寄ってくる。

裏の世界を知る人間だけが知っている、あの嫌な気配。

それでも歌は続く。セリナはただ、優しい顔で歌っている。

その声に救われる人もいるだろう。

惚れる人もいる。泣く人もいる。

だからこそ――危ない。

 

「……九郎?」

隣で歌に聴き惚れていた由衣が、ふと気づいたように覗き込んだ。

その顔は少し不安そうだ。

「顔、怖いよ?」

九郎は短く息を吐いた。

「悪い。 歌は……いい歌だ。でも、これは――」

最後まで言わない。

言葉にした瞬間、現実になる気がした。

 

迅花はまだ気づかない。ただ純粋に興奮している。

 

「すげぇ……ああいう人が“表のスター”になるんだな……」

「……“表”ならいいけどな」

 

九郎だけが、セリナの未来に伸びている“裏側の手”を見ていた。

夜風が吹く。観客が息を飲む。

歌声はさらに深く、静かに、夜を染めてゆく。

――そして、それは、確実に“誰か”の耳にも届いていた。

知らない誰かの視線が、遠くの闇から、この歌姫を見ていた。

歌は二曲目に入っていた。

観客たちは、ますます静かに、深く酔っていく。

誰も動かない。誰も雑音を出さない。

ただ、幸福そうな顔で、同じ方向を見つめている。

……気味が悪い、と思った。

迅花は相変わらず子供みたいに前のめりで、

由衣は胸の前で手を組むようにして聴き入っていた。

良い歌だ。それは否定しない。

声は綺麗で、心を撫でてくる優しさがあった。

 

だが――長く聴かせすぎだ。

 

「…………」

 

九郎は舌打ちしたくなる衝動を堪えた。

空気が“撫でる”程度だった波は、

いつの間にか“包む”に変わっている。

観客の体温が上がっている。瞳孔がわずかに開いている。

思考ではなく、情動が主導権を握り始める……嫌な兆候。

このままじゃ、境界が壊れる。

 

「……早く終われ」

思わず小さく吐き出していた。

 

隣の迅花が気づく。

「え? 何が?」

「歌だ。長ぇ。……悪い意味でだ」

迅花はキョトンと瞬きをする。

「え、でも……すごい綺麗ですよ?」

「だからだよ」

言葉が短くなる。

 

焦ると九郎は無駄を削る癖がある。

前方の群衆。スマホを構えたまま固まっている者。

泣きそうな顔のまま動けない者。

誰かの肩にもたれかかるようにして、呼吸だけが熱くなる者。

 

――これ、魅了だろ。

魔術的な術式でもない。呪詛でもない。意図的な発動でもない。

ただ、存在そのものが持つ“波”が、歌で増幅されているだけ。

だから質が悪い。切れ目がない。理性がブレーキを踏めない。

 

「…………クソ」

 

九郎の視線が、無意識に周囲を巡る。

広場の建物の上。駅の影。

遠巻きに群衆を眺める通行人。

誰かが観察しているなら――今、この瞬間は“最高の見せ物”だ。

 

「九郎……?」

由衣が不安げに見上げる。

 

「悪い。あと少しでいい。終わるまでは――なるべく人混みから離れんな」

「え?」

「いいから。俺の横から離れるな」

 

その声音が、冗談抜きの“任務中”のものになっていた。

由衣はそれで理解した。

迅花も表情を引き締める。

だが。歌は、まだ止まらない。

むしろ盛り上がり、伸び、さらに深く染み込んでいく。

観衆の意識が一つの塊になりかけている。

 

セリナ本人はただ真っ直ぐ歌っているだけ。

何も知らない。何も悪くない。

だからこそ、危険が止まらない。

 

――もういい。十分だ。ここで終われ。頼むから、もう歌うな。

心の中で、九郎は何度もそう願った。

けれど、音は止まらない。

夜の空に、澄んだ歌声が吸い込まれていく。

 

そして――

遠くの闇のどこかで、確実に“誰か”が、その歌に狙いを定めていた。

 

 

 

 

拍手が波のように広がり、音響が切れ、

夜の空気がようやく「現実」に戻ってくる。

観客達は満ち足りた顔で散っていく。

幸福そうで、恍惚で――だが、ほんの少し、虚ろだ。

 

九郎は、群衆が動き始める前に歩き出していた。

 

「……行くぞ」「え、今!?」

迅花が慌てて追う。由衣も小走りで並ぶ。

 

広場の端。

喉を潤すように水を飲んでいた蒼井セリナが、

照明から解放された顔で、小さく息を吐いていた。

垂れ目がちな大きな瞳。

汗で少しだけ張り付いた蒼色の髪。

控えめな笑み。

拍手の余韻をまだ胸に抱えたままの、柔らかな横顔。

 

――普通の、いい女だ。

それだけで済めば、どれほど良かったか。

九郎は躊躇なく距離を詰める。

 

「悪い。少し、時間いいか」

 

その声に、セリナの肩がぴくりと跳ねた。

即座に、一歩下がる。バッグを胸の前に抱える仕草。

目が、警戒の光を帯びる。

 

「……あの、ファンですか? サインとかは、今日はちょっと……」

 

柔らかい声なのに、距離は固い。

笑っているのに、目は笑っていない。

完全に警戒されていた。

当然だ。

ライブ直後、見知らぬ男に早口で詰められたら、

それはもう“ナンパか危ないやつ”のどちらかだ。

 

「違ぇよ。そういうんじゃねえ。

さっきの歌のことだ。ちょっと話――」

「歌の感想ならSNSでお願いします」

ぴしゃり、と切られる。

 

それでも目は優しい。

女としての防御。無礼を言っているわけじゃない。

ただ、“知らない男に個別対応はしない”、それだけの意思。

 

迅花が、さらに空気を悪くしてくれる。

「あの、九郎さん。さすがにライブ直後に女の人捕まえるのは――

 その、ナンパっぽいっていうか……」

「だから違ぇって言ってんだろ」

 

目付きが悪くなり、声が少し荒くなる。

焦りが隠し切れない。

由衣が慌てて割り込む。

 

「す、すみません、怪しい者じゃなくて……えっと……」

「十分怪しいよ」

 

セリナは、微笑みながらはっきり言った。

だが、その笑みの奥に、

わずかな「怯え」が混じっているのを九郎は見逃さない。

 

――まずい。

完全に防御体勢に入らせた。

この女は“痛い目”を見たタイプじゃない。

だからこそ、警戒心は健全に強い。

九郎は言葉を選ぶ間も惜しく、単刀直入に落とした。

 

「お前の歌――魔力が乗ってる」

 

その瞬間。セリナの笑みが、硬直した。

 

「…………は?」

空気が固まる。

 

「意味、分からないんだけど」

 

声色が変わった。優しさの上に、冷たいガラスが一枚落ちる。

――最悪の切り出し方だ、と九郎自身が理解した。

迅花が頭を抱える。

 

「九郎さん! 言い方! もっとあるでしょ!」

「回りくどいのが嫌いなんだよ俺は」

「いやいやいや今だけは回りくどくして!?」

 

通りのネオンの下。

夜風の冷たさが、やけに刺さる。

セリナはぐっとバッグの紐を握りしめた。

逃げ道を探す目だ。本気で警戒している。

それでも――彼女は逃げなかった。

強い。だが、怖がっている。

 

「……すみません。今日はこれで帰ります」

 

深く頭を下げる。

礼儀正しい距離を完全に築いた態度。

それは、拒絶の意志表示。

九郎は舌打ちしそうになるのを飲み込む。

――クソ。

焦りすぎだ、俺。けれど、遅い。

セリナは踵を返し、人混みの中へ消えていく。

その背中が、夜風に揺れた。

 

九郎は短く息を吐く。

 

「……最悪だ」

「完全にナンパと変質者の合わせ技でしたね」

 

迅花が呆れた声で言う。

由衣は苦笑いと心配の間くらいの顔。

九郎は頭を掻く。

 

「……だが放っとけねぇ。

 ありゃ近いうちに、必ず“誰か”に嗅がれる」

 

 

 

―――――――――

 

 

 

街の灯りが、遠くに霞む。

冷たい夜風が吹き抜け――

九郎の胸だけが、ひどく熱を帯びていた。

部屋の灯りは柔らかいのに、空気だけは妙に重かった。

 

帰ってきたはずなのに、安心よりも緊張が残っている。

紙コップのコーヒーから上がる白い湯気だけが、

ここが現実で安全圏なのだと主張していた。

それでも、誰も最初に口を開こうとしなかった。

沈黙を割ったのは、迅花だった。

 

「……で。ああいう“絡み方”になった理由、

 ちゃんと聞かせて欲しいんですけど」

 

淡々とした声だが、怒りも不安もちゃんと含まれていた。

弟子として。一人の女として。ただの常識人として。

九郎はソファに腰を深く沈め、短く息を吐く。

 

「……悪かった。まずはそれだな」

 

軽口ではない。

気まずさを隠さずに出した、率直な謝罪だった。

由衣が腕を胸の前で軽く組み、静かに促す。

 

「……理由、あるんでしょう?」

 

一瞬、言葉を探す素振り。

そして九郎は、簡潔に言った。

 

「――あの歌、“魔力”が乗ってた」

 

時間が止まったような、微妙な静寂。

由衣の指が、紙コップを強く握る。迅花の表情が硬くなる。

 

「魔術……ですか?」

 

迅花の問いに、九郎は首を横に振る。

 

「似てるけど、違う。あれは“人を支配する魔術”じゃねぇ。

 “幸せにする魔力”だ」

 

その言葉はやけに静かだった。

 

「聴いてるだけで心地良くて、胸の奥を撫でられてるみてぇで、

 “もっと欲しい”って思わせる。自分から進んで溺れにいくタイプのやつだ」

 

由衣は小さく息を飲む。 

 

「……今日の観客の顔が……なんか普通じゃなかった理由、それ?」

 

「だろうな。陶酔してるのに、現実感が半歩ズレてる。あれは“魔力の影響を受けてる顔”だ」

 

迅花もゆっくり頷いた。

 

「……胸の奥が熱くなるというか、変に気持ち良い感じ、確かにありました。あれ……魔力、ですか」

 

「そうだ。だが――問題はそれだけじゃない」

 

九郎は僅かに目を伏せる。

 

「本人は“完全に無自覚”だ」

 

言い切る声に迷いはなかった。

 

「訓練してない。制御してない。そもそも自分が“異能持ち”だと、

 まだ理解してない顔だった」

 

由衣は唇を噛む。

それは、ただ“危険な能力者”という話ではない。

本人が悪くないという問題だった。

 

「……あの人、悪意なさそうだった」

「無いな。むしろ正反対だ。“人を笑顔にしたい”って顔してた。

 本気で、歌が好きで……人に喜んでもらうのが嬉しいってタイプだ」

 

九郎は少しだけ目を細める。

 

「だから最悪なんだ」

 

その声には苛立ちではなく、

ただの“現実への怒り”だけがあった。

 

「悪意も無く、誰も傷つけるつもりも無いのに、

 人を壊す力を持ってる。そして――それを“利用したがる奴ら”が必ず出る」

 

由衣の喉が、ごくりと鳴る。

その単語が出る前に、既に頭の中に答えが浮かんでいた。

迅花が言葉にする。

 

「……裏十三座とかですか?」

 

九郎は黙って肯定した。

 

「奴らは“異能”を兵器として見る。

 金になるなら人でも命でも平気で切り売りする集団だ」

 

少し間を置いてから、もう一段深く言う。

 

「けど、今回は兵器で済まねぇ」

 

由衣が顔を上げる。

「どういう意味?」

 

「蒼井セリナは“使える”。それも、幅広く。

 歌、ルックス、身体――そして“人を気持ちよくする魔力”」

 

言葉は冷たいが、声は怒っていた。

 

「ゴミみたいな連中にとっちゃ、“商品価値の塊”だ」

 

迅花の拳が膝の上で握られる。

 

「……つまり、見つかった瞬間、詰む」

 

「そうだ」

 

短く、重い肯定。

 

「ただの歌が好きな女が、気づいたら檻の中で、

 笑顔のまま壊される未来なんて――」

 

言葉を切り捨てた。

由衣は、胸の奥をぎゅっと掴まれた感覚に顔を歪めた。

それが、もう「自分とは関係ない世界の話」じゃないことを知っているからだ。

だから、自然と出た言葉は――

 

「……助けるんだよね」

 

質問じゃない。確認でもない。ただの理解。

九郎は鼻で短く笑った。

 

「助けるつもりがねぇなら、わざわざ声なんざ掛けねぇ」

 

少しだけ、肩をすくめる。

 

「それに……そういうので泣く女見るの、嫌いなんだよ。

 美人なら尚更な」

 

迅花は呆れた顔をしながらも、どこか安心したように息を吐く。

 

「……本当に最低ですけど。でも――九郎さんらしいです」

 

由衣も微笑んだ。

「優しいんだよ。言い方は最低だけど」

九郎は視線を逸らした。

「優しくねぇよ。ただ……放っとけねぇだけだ」

 

その言葉は静かに部屋に落ち、

それぞれの胸にしっかり沈んだ。

 

 

 

―――――――――

 

 

 

―――裏十三座 一座《鵺ノ宮》別邸―――

 

 

 

 

広すぎる和室は、僅かな灯りだけが空間を切り取っていた。

沈黙はこの家の呼吸であり、冷酷な意思そのものだった。

畳を踏むわずかな足音。

側近の退魔師が、深く腰を折り、額が畳に触れるほど頭を下げる。

 

「――確証が取れました」

 

正面に座る男は微動だにしない。

 

鵺ノ宮過激派首魁、鵺ノ宮・恒一。

 

その双眸が、影の底から側近を見下ろす。

 

「名は?」

「蒼井セリナ。二十代前半。駅前広場で歌い続けている女です」

 

恒一の指が、卓を静かに叩く。

 

「異能ではない。……そう判断しているのだな?」

 

側近は喉を鳴らし、息を整えた。

 

「はい。“力”ではなく――“血”です」

 

その言葉で、室内の温度がわずかに冷えた。

 

「先祖に“水棲種”。――〝人魚〟の血が、形を持ち始めています」

 

恒一の唇が、わずかに持ち上がる。

 

「間違いないのだな?」

 

「歌はただの歌です。術式も呪詛も無い。

 しかし“声”が、人の中の情動だけを柔らかく撫で、“溺れさせる”。魅了というより、“沈ませる”感覚に近い」

 

そして――

 

「身体。骨格、皮膚、内臓……“加工価値”が極めて高い。

 それに、血と肉――“素材”としては最高級かと」

 

静かに、残酷な評価が並べられていく。

恒一は目を細めた。

 

「混ざり者でも、価値があるのだな?」

 

「はい。“完全な妖怪”ではないから――

 倫理の外側で解体する事に、世間も理解しやすい」

 

側近は笑わない。

ただ事実を述べているだけだ。

恒一だけが微かに愉悦を滲ませる。

 

「歌か。顔か。体か。……それとも“肉”か」

 

そして呟く。

 

「――すべてだな」

 

部屋の空気が凍った。

 

「兵器にはならん。破壊力も、戦闘価値も低い。だが――」

 

顔を上げぬ側近に向けて、低く、確実に言い渡す。

 

「“値段”が付く」

 

「……仰る通りです」

 

「捕えろ。壊すな。“使える部分”を、全部残せ」

 

恒一の声音は冷静で、あまりに人間的だった。

だからこそ冷酷だった。

 

 

「歌わせてもいい。

 飾ってもいい。

 抱かせてもいい。

 売ってもいい。――解体する日までは、な」

 

 

障子の外を、夜風が撫でる。

まだ何も知らない少女の歌声は、

やがて“商品”として値札を貼られる未来へ引きずられていく。

鵺ノ宮はもう決めていた。あの女は“所有物”になると。

 

 

夜は、確実に動き始めている。

 

 

 

 

 

 





蒼井セリナ

年齢20代中頃 

容姿 

蒼みがかかった美しさ長髪、通った鼻筋、優しげな垂れ目
大きな胸が特徴な美女

能力

人魚の血が微量に混じっており限定的な先祖帰りを起こしている。本人に自覚はなく歌に魔力が乗る事で聴いた人間を“溺れさせる“

本人の容姿や身体以上に、人魚の肉や血が高額で取り引きされる。




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