夜は、静かで優しい顔をしているくせに、
時々、とんでもなく冷たい背中をしている。
今日はそんな夜だった。
ライブを終えて、少しだけ胸の奥がまだ震えている。
歌い切った余韻。喉の奥に残る甘い痺れ。
拍手と歓声の残像。
駅前の明るい灯りから、一歩、二歩と外れるたびに、
世界が静かになっていく。
「……はぁ」
息を吐いたとき、自分でもわかるくらい、肩に力が入っていた。
(楽しかった、はずなのに)
楽しいはずの記憶が、微妙に曇る。
理由は、一つじゃない。最近、視線を感じることが増えた。
スマホを開けば、ライブ動画、好意的なコメント、
嬉しい言葉――と同じ量だけ、
言葉の端がざらついた投稿も混ざっていた。
ここ数日は、夜道がやけにうるさい。気のせいで済ませられる日もあった。思い過ごしで笑って終わらせられた日も、あった。
だけど今夜は――違った。
ヒールのない靴の足音だけが、コツコツと乾いて響く。
その“裏側”に、別のリズムが混じり始めたのに気づいたのは、
信号を二つ越えた頃だった。
一定じゃない。でも、消えない。
「……ついてきてる?」
笑って言葉にしようとしても、声にならなかった。
足を速める。
その瞬間、背中に張り付いていた気配も、同じように距離を詰めてくる。
(気のせいじゃない)
認めたくなくて、認めてしまった瞬間、
胸の奥が冷たくなった。大通りから脇道へ抜ける。
街灯が減る。人の姿が途端に少なくなる。
それでも、泣きそうな声で助けを求めるなんて選択肢は、
最初からどこにもなかった。
「大丈夫、大丈夫……」
小さく呟く。
自分に言い聞かせるみたいに。
でも、心臓はちゃんと嘘を見抜いて、
どんどん速く、痛いくらいに跳ね始めていた。
曲がり角を抜けるたび、道が細くなる。
選べる道が、少しずつ減っていく。
(……誘導されてる?)
そう思った瞬間、背筋が粟立つ。
後ろだけじゃない。横合いの路地にも、気配があった。
遠くない。すぐ近く。
視界の端に、何かの影がかすめる。
誰かが立っている。
携帯を見ているふりをして、目だけこちらを見ている。
「やだ……」
声が漏れた。
逃げ道を探すように顔を上げる。
道路の奥――曲がり角。戻るには、来た道はすでに重く、黒く、
“戻るな”と言っているように感じた。
胸がきゅっと縮み、指先がじんわり汗ばむ。
(どこへ行けばいいの……?)
足が勝手に前へ進む。
考えるより、怖さが先に押してくる。
踏み出した一歩。
その瞬間。
“音”が変わった。足音が一つの線じゃなく、
前後左右から近づいてくる“輪”の音へと変わる。
逃げ場が――閉じた。呼吸が一瞬止まる。
喉がひゅっと狭くなる。冷たい夜気が肺に刺さる。
「蒼井さん」
背後で、それまで一度も聞こえなかった、
落ち着いた男の声が、
まるで最初からそこにいたかのような自然さで落ちてきた。
脚が止まる。振り返る勇気が、すぐには出なかった。
でも、振り返らなければいけない、と身体が知っていた。
ゆっくりと振り返る。
街灯の光から半歩外れた場所に、
“普通の男”がいた。――逃げられない。
そう思った瞬間、自分の喉から出た息の音が、
妙に大きく耳に届いた。ただ話しかけられただけ。
ただ名前を呼ばれただけ。
それでも、全身が「危ない」と叫んでいた。
「……どちら様、ですか?」
声が震えたのが、相手じゃなく自分に一番ショックだった。
男は一歩、距離を詰めた。近づき方が自然すぎる。
“人を安心させるために訓練された動き”みたいな、無駄のない柔らかさ。
「蒼井セリナさん、ですね。
突然すみません。あなたを助けに来ました」
助ける――?
その言葉は、普通なら救いの手の形をしているはずなのに、
今は縄にしか見えなかった。
「え……助けるって……私、別に――」
言い終わる前に、
左右から足音が近づいてくる。見なくても分かる。
囲んでいる。男は微笑みを崩さないまま、
まるで優しい教師が不安がる生徒を宥めるみたいな声で続けた。
「最近、奇妙なトラブルが増えていませんか?
あなたの周囲で、喧嘩、痴話喧嘩、事故未遂、人があなたに執着するケース……」
心臓が、胸の内側を叩く。
(……知ってる)
知らない“はず”の人が、“知ってること”を言う恐怖。
その一言で、寒さとは無関係な震えが背骨を走った。
「べ、別に……偶然だと思ってます」
必死に言葉を選んだつもりなのに、
出てきた声はひどく弱々しかった。
男の笑顔が、ほんの僅か――楽しそうに、歪んだ気がした。
「偶然、ですか。
なら、よかった。まだ“正常だと思える余裕”がある」
その言い方が、優しすぎて、残酷だった。
背後で足音が止まる。左右でも止まる。
完全に、囲まれた。逃げ道を探して視線だけを動かす。
でも、どこを見ても“人の形”がある。
街灯の下、駅前ではただの人混みだった“影”が、
今はひとつの大きな“檻”みたいに見えた。
「安心してください。あなたが悪いわけではありません。
あなたは――“価値がある側”なんです」
言葉の意味は分かるのに、
理解したくなかった。男の声はひどく優しく、静かで、
人を眠らせる毛布みたいに柔らかいのに、
その奥で蠢く“欲望の音”だけは、ごまかせていなかった。
「だから、保護します。 あなたのためです。 危険な目に遭う前に、ね?」
“危険から守る”。
“保護”。
“あなたのため”。
全部、善意の形をしているのに。
身体は震えて、膝が力を失いかけていた。
逃げたい。
走りたい。
叫びたい。
でも、喉が固まり、足が地面に縫いつけられる。
(誰か――)
思ってはいけない言葉が、心の奥で浮かんだ。
もう二度と関わらないはずだった名前が、
無意識に浮かびかけた、その瞬間。男が、手を伸ばした。
「さあ、行きましょう。ここはもう、安全じゃない」
触れられる寸前。
――空気が裂けた。
“割れる”でもなく、“吹く”でもなく。
ただ、暴力的に“入り込んできた”。
夜の静けさを、雑音でも悲鳴でもなく、生々しい“生の音”がぶち壊した。風切り。硬質な衝突音。そして――誰かの低い息遣い。
男の伸ばした手首が、目の前で止まった。
掴んでいた。白い指――女の手。鋭く、しかし震えていた。
「……離れろ」
声が落ちた。
夜の中で、それだけが異様に生々しかった。
蒼井セリナは、やっと息を吸った。
――迅花だった。
瞳は真っ直ぐで、怒っていて、それでいて冷静で。
「行くよ」
短く、それだけ。問いも説明もいらないというみたいに。
その声が胸の奥に刺さり、止まっていた世界が、動いた。
足が前に出る。強引に引きずられるみたいにでも、一歩、一歩。
硬直していた身体が現実へ戻される。
前の男が体重を移す。横の影がこちらへ圧力をかける。
背後の気配が確実に距離を詰めてくる。
包囲が“決定”へ変わる、ほんの寸前。
迅花はセリナを引いて走り出した。
手首に食い込む指の感触。
息が一気に荒れる。心臓が胸の内側を殴るみたいに暴れる。
世界が急にうるさくなる。
足音。息づかい。
遠くで鳴る車の音でさえ、現実へ縫い止める針になる。
――助けられている。
頭ではそう理解しているのに、恐怖は消えない。
走りながら、涙が滲みそうになる。
怖い。でも、手は離れなかった。
追う側の足取りは速いが、焦りは一切なかった。
走り去る女子二人の背中を、男たちは“獲物を見る目”ではなく――
“仕事の対象を見る目”で追っていた。
「逃走判断、早い……思ったより頭は回るな」
一人が淡々と呟く。
感心でも賞賛でもない。ただの事実確認だ。
前を走る少女――あのポニーテールの方。
細い身体、無駄のないフォーム、挙動に無駄がない。
膝の運び、足の下ろし方、肩の揺れ……全部が経験済みの動き。
走ることを「知っている身体」だ。
「素人じゃねぇな。学生のくせに身体の使い方が完成してる」
「……ああ。しかも、感情で暴走しないタイプだ。冷静に状況判断して“優先順位”を決めてる」
隣の女の腕を掴み、転倒させないよう体重まで計算して引っ張る。
進路選択も明確だ。開けた通りじゃない。
細い道、死角の多い通路、遮蔽物のある空間――逃走“慣れ”のある動き。ただ逃げているのではない。「逃げ切るための逃げ」だった。
「護衛経験あり、もしくは専門職の近くにいるタイプかもしれんね」
「……彼氏がプロとか、そういう線もあるか」
軽い冗談のような声。
しかし視線と足取りは冷徹だ。
次に、抱えられているもう一人――蒼井セリナ。
呼吸が浅い。心拍が乱れている。
動揺が顔に出ている。走力は高くない。だが、足が止まらない。
泣き叫ばず、指示に従って走ろうとしている。
「恐怖耐性は低いが、精神は折れにくいタイプか」
「素直で扱いやすい。確保後の管理も問題なさそうだ」
それは、人を評価する言葉ではなく――資源に評価を付ける言葉だった。
彼らにとってセリナは「対象」。
迅花は「同伴者」。
それ以上でも、それ以下でもない。
「問題は護衛役の方だな。……想定より“厄介”だ」
「躊躇いがない。危険を理解して、それでも踏み込めるタイプだ」
「職質で止まる顔じゃないな」
ひとりが微かに笑った。
「――ああいうのが、一番面倒くさい」
しかし、その声に怯えは一切なかった。
相手が強いかもしれない。相手が人外級の瞬発を持っているかもしれない。女子高生の外見だが、基準はそこにはない。
だが――それでも、彼らは怯えなかった。
理由は単純だ。自分たちは“鵺ノ宮”に属するプロの退魔師。
人間の枠を踏み越えた存在を相手にして生き残ってきた者たち。
この程度の不確定要素は、想定内の範囲。
「まあ――捕まえる。それだけだ」
追跡ルートは既に共有。挟み込みは完了。
逃走経路は数手先まで封じ終えている。
生き物としての恐怖ではなく、計算としての追跡。
静かで、冷酷で、仕事として完璧な執行。
逃げる二人の背中を見ながら、男のひとりが淡々と結論を口にした。
「――さて、
一人ではない。二人でもない。
複数の足音が、一定距離を保ったままついてくる。
猛追じゃない。追い詰めるスピードだ。
狩りの速度。ぞくり、と背筋を撫でる。
(どうして――私なんかが)
どうして狙われているのか。
どうして、こんなにも“当たり前みたいな手並み”で囲われているのか。理解できないことが、恐怖を増幅させる。
舌が乾く。喉が痛い。
「……さっきの人……あれ、何……?」
必死で絞り出した問い。
迅花は、一拍だけ迷って、短く答えた。
「――知らない。でも、普通じゃない」
はっきりと言い切った。
慰めない。軽くもしない。誤魔化さない。
逆に、真実だけを置かれることで、セリナは息を呑んだ。
普通じゃない。
その一言で、今までギリギリ保っていた「現実感」が完全に切れた。
胸の奥で、何かが軋む。
恐怖だけじゃない。悔しさとも違う。
ただ、自分の人生が、自分の知らないところで“別の物語”に奪われていく感覚。
――追い詰められる恐怖は、人の形をしたまま、人を壊す。
前方の角を、迅花が急に乱暴に引き込む。
狭い裏路地。電灯は少ない。壁の影が深く落ちている。
風が少し止んだ。足音も、一瞬だけ弱まる。
だが消えない。追跡は死んでいない。
ただ、調整しているだけだ。迅花が息を整えずに言う。
「大丈夫。まだ捕まらない」
それは慰めじゃなかった。
“状況の事実”を短く確認しているだけだ。
それでも――その冷静さが、不思議なほど怖くなかった。
ただひとつの現実。誰かが逃がそうとしてくれているという現実。
心の奥で、泣きそうなほど救われた。
「……ありがとう」
掠れた声で、それだけが零れた。
袋小路だった。
背中に冷たいコンクリートの壁。
前には、ゆっくりと歩を止める男たち。
狭い路地の出口を完全に塞ぐように、三人が横に並ぶ。
その中心に立つ男が、わずかに顎を上げた。
街灯の死角。光は薄いのに、影だけが濃くなる。
セリナの肩を抱く迅花の指に、力がこもる。
逃げ道が消えた瞬間――身体は理解した。
ここから先は、言葉の世界じゃない。
現実だ。
「――止まれ」
その声は、怒鳴り声ではなかった。
妙に落ち着いている。だが、その静けさが不気味で、逆に刺さる。
迅花の喉がひくりと鳴った。男の視線が、まっすぐ彼女に刺さる。
判断している目だ。値踏みするのではない。
“何者か”として扱っている目だった。
「……速い判断と、いい逃げ方だった」
唐突に、評価の言葉が落とされた。
褒められているのに、まったく嬉しくない。むしろ背筋が冷える。
「素人なら、もっと無駄に叫んで走る。でも君は違う。
周囲を見た。先を選んだ。護る方を優先した――それが出来る」
淡々と積み重ねられる言葉に、セリナが小さく息を呑む。
迅花は睨み返した。
だが、その奮い立つような怒りが、相手の静けさに吸い込まれていく。
男は、そこで初めて声をほんのわずか柔らかくさせた。
「だから――ここで終わりだ」
静かな宣告。
「その子は引き渡してもらう。君がしたことは“逃がそうとした”。
それだけで充分だ。ここで手を引けば、後は俺たちが処理する」
“安心しろ”でも
“危害は加えない”でもない。
ただ、“決定事項として既に決まっている”という響き。
迅花は奥歯を噛んだ。
「……何様ですか」
低く、押し殺した声が出た。男は肩をすくめる。
「職業柄、名乗りは省略したいんだがね。――仕事だ。
俺たちは“そういう側”の人間だよ。見えないところで始末をつける役」
「意味、分かんないです」
「分からなくていい」
笑っていないのに、優しい声でもないのに、
“拒絶の壁”だけが完璧に立っていた。
セリナの肩が、震える。迅花は一歩、前に出る。
背中でセリナを庇い――目だけを男から外さない。
「この人は、連れて帰ります」
短い。でも、それ以上言葉を足すと、声が崩れそうだった。
男はため息をひとつ。
「その選択は、賢くない」
後ろの二人が、わずかに構える。
風の音すら、止まった。
「ここはもう“詰み”だ。逃げ道は無い。助けも来ない。
叫んでも意味はない。――だから、賢く諦めろ」
その声音は、優しさではなく。
“現実”だった。
だが、迅花の足は後退しない。
男の視線が、もう一度だけ迅花を測る。
「最後に、一つだけ確認する」
静かに。
「君は――“それでも”守る側に立つのか?」
迅花は息を吸い込んだ。
胸の奥で、心臓が痛いほど鳴る。怖い。悔しい。
だけど――下がる理由は、一つも無い。
「……はい」
ほんの少し震えた声。でも、迷いは無い声。
男の目が、わずかに細くなる。そして、宣告は静かに落ちた。
「なら――ここから先は交渉じゃない」
空気が、急激に冷たくなる。
袋小路に、戦いの温度が満ちていく。――包囲が、牙を向いた
最初に動いたのは――迅花だった。
考える前に、身体が跳ねる。
セリナを背中に押し下げると同時に、自分が前へ出る。
リーダーの合図は無い。だが、両脇の二人が同時に散った。
前衛と側面。手慣れてる。狩り慣れた動きだ。
(来る――!)
右からの接近を感じるより速く、視界の端で“影”が伸びた。
喉を狙った掴み。一発で戦闘不能にするやつ。
迅花は半歩沈み込み、床を蹴る。
首が狙いなら――逆にそこで止まってやらない。
下へ潜り込む。
わずかな軌道外し。
男の手が空を切る。
すれ違いざま、肘を叩き込む。
骨の手応え。
呼吸が漏れる音。
「……ッ!」
短い呻きと同時に、男の体勢が崩れた。
だが――すぐに別の影が踏み込む。
前。
まっすぐ正確に、彼女の“止まる位置”を読むかのように。
(読まれてる……!)
蹴りが飛ぶ。避ける暇は――ない。
腕で受ける。
衝撃が骨ごと響く。
痺れる。
血が揺れる。
瞬間、掴まれる腕。絡め取られる。
「動きを止めたら終わりだ」
静かな声。同じ男だ。
無駄口は叩かない。だが、確実に“経験”で動いてる。
――そして、迅花は思い切り、その拘束へ逆らった。
捻る。力技じゃない。
逃がす方向を知っている動き。
体勢が崩れた瞬間――膝が鳩尾にめり込む。
「ッ……!」
息が潰れた音が出た。
拘束が緩む。その腕を、迅花は払った。
離脱。距離を取る。一瞬の静止。
お互いの息遣いだけが袋小路に響いた。
鵺ノ宮側に、微かな“沈黙”が走る。
驚いている。
それを隠そうとしても――隠し切れていない。
リーダーの目が、少しだけ鋭くなる。
「……学生の動きじゃないな」
評価。だが、さっきより明らかに“真剣”だ。
後ろで、セリナが息を殺す音がする。
迅花の胸は焼けるように熱い。手足が痺れている。
格闘で勝てるなんて思ってない。でも――退く気はない。
「立ち位置を変えろ。二人で行く。正面を抑えるな――崩すぞ」
リーダーの低い指示。二人が即座に動いた。
(速い――!)
先ほどよりも、さらに精度の上がった包囲。
一撃で倒しにこない。確実に削って、折る気の動き。
迅花はひたすら反応した。受け、逸らし、滑り込む。
当たれば終わる攻撃だけを、必死に外す。
頬を掠めた指先が、空気を裂いた。背骨が凍るほど近い。
だが――それでも。落とされない。完全に捕まらない。
「チッ……」
初めて、退魔師の側から舌打ちが落ちた。
リーダーの眉がわずかに動く。
「……“ただの女子高生”じゃないのは、確定か」
静かな言葉。
迅花は荒い息を吐きながら、わずかに構えを締める。
膝は震えている。腕は痺れている。
それでも――折れない。
背中にいる“震えている誰か”を背負ったまま。
「来るなら来て下さい」
声は震えていた。
でも、芯だけは揺れていなかった。
リーダーは、一瞬だけ目を細める。
その目は――
「やっかいだな」
と、確かに言っていた。
迅花は睨み返す。
「……まだ、終わってない」
その言葉に、男の口角がほんの僅かだけ、上がった。
次の瞬間。世界が跳ねた。
踏み込み。肩の落とし方。
拳の出る角度。速い。そして重い。
真正面からまともに食らえば──腕どころか意識ごと持っていかれる。
身体が先に動く。紙一枚分、軌道を外す。
頬をかすめる衝撃風が、皮膚を灼いた。
(やばい。けど……やれる)
足を引かない。
踏み込む。返す拳がぶつかる。
鈍い衝撃が骨を叩く。手の痺れが瞬時に広がる。
それでも倒れない。倒れたくない。
男の視線が、わずかに細くなる。
「……やるな」
それは率直な評価だった。
同時に、“本気で止める”と決めた目でもあった。
そこからは、隙がなかった。
打撃。崩し。体重移動の誘導。
殺す必要はない。だが壊すには充分な精度。
呼吸が荒くなる。肺が熱い。
世界が揺れるほどの負荷。
それでも、迅花は退かない。足を止めない。
セリナは、その背中しか見えない。名前すら知らない少女。
ただ、自分を前に庇う、その細い背中。
――それが、どうしようもなく心細くて、
それでも、どうしようもなく心強かった。
「これ以上は──」
男が言いかけた、その瞬間。
乾いた金属音。左右の陰から、鎖が走った。
(……!)
腕に巻き付く。すぐさま締まる。
“捕らえる”ためじゃない。逃げ道を殺す”拘束。
引き千切ろうと腕を捻る。 皮膚が裂けるほど締め付けられる。
息が詰まる。
「──!」
それでも、目は折れない。
悔しさと、怒りと、まだ終わらないという意地。
リーダーが近づく。一歩、また一歩。
静かだった。余計な言葉も、同情もない。
ただ拳を作る。それは、確実に意識を断ち切る“止めの一撃”。
セリナの喉から、掠れた声が零れた。
「……やめて……っ」
迅花は、振り返らない。振り返れない。
ただ前を見て、睨んで、立っている。
その目に、男は一瞬だけ息を止めた。
静かに拳は、落ちた。
頭蓋を砕くほどではない。
ただ、“立つ意志”を確実に断ち切るための一撃。
空気が震え、少女の視界が一瞬、白く弾けた。
膝が折れた。鎖に吊られるように身体が傾く。
息が、肺から静かに抜けた。
崩れ落ちる寸前、リーダーが肩を掴んで支える。
優しさではない。
*“壊し過ぎないための手加減”だ。
「十分だ。よく耐えたよ」
感情を含まない声で、淡々と評価だけを残す。
鎖が締め直される。逃走の可能性は、完全に潰された。
──迅花は、意識を辛うじて保っている。
歯を食いしばっている。それでも――もう、動けない。
セリナの喉から、くしゃりと潰れた声が漏れた。
「や……めて……っ……」
返事はない。腕を掴まれる。
肩を押される。背中を軽く突かれ、方向を示される。
扱いは“人間”ではない。“搬送する資源”だ。
その冷たさが、何より怖かった。
ワゴン車が暗闇の奥から滑るように現れる。
エンジン音は静か。手際は慣れている。
ドアが横に開くと、金属の匂いとわずかな薬品臭が鼻を刺した。
セリナは抵抗しなかった。
出来なかった。
身体より先に、心が動かなくなっていた。
背中を押されて、車内に押し込まれる。
拘束された迅花が、そのすぐ隣に横たえられる。
彼女の胸が、微かに上下しているのが見えた。
――まだ、生きてる。
それだけが救いだった。
カシャン、と金属の音。
拘束具の固定。ドアが閉まる直前、リーダーの声が落ちる。
「走れ。山に入る」
無慈悲な命令。
車が、静かに闇へ滑り出す。街の灯が遠ざかる。
世界が、普通の日常から切り離されていく。
そして、再び戻れない場所へ運ばれていく。
――車は、闇を裂くように走っていた。
市街地の灯はすでに遠い。
窓の外は黒一色に沈み、時折、街灯が掠れるように車体を照らすだけ。ワゴンの車内は狭く、息が詰まるほど静かだった。
セリナは座席に押さえ込まれ、両手を前で固定されている。
その隣には仰向けに拘束された迅花。
まだ意識はある。だが視線は焦点を結ばず、呼吸だけが細く続いていた。向かいの座席には退魔師が二人。
無言のまま、ただ任務を淡々と進める兵士の目。
そして――
「身元確認と処理をする。持ち物、全部出せ」
無感情な声が落ちた。
セリナの身体が固くなる。
それでも逆らえない。細い肩が震えたまま、ゆっくりと首を横に振ろうとした瞬間――掴まれた。
荒っぽくはない。
しかし“拒否が意味を持たない”と無言で告げる、慣れた手付き。
バッグを奪われ、膝の上で乱雑に開かれる。
財布。スマホ。化粧ポーチ。小物。
彼女の「日常」が、冷たい手によって無遠慮に並べられていく。
プライバシーという概念すら存在しない空間。
財布が開かれる。
免許証が抜き取られ、顔写真と本人の顔が雑に見比べられる。
「蒼井セリナ。本人確認、取れた」
それだけで、もう“人”として扱う必要はなくなった。
次にスマホが奪われる。
指先で画面が明滅し、ロック画面を見て、男が鼻で笑った。
「ロック。まあいい。後で抜く」
その軽い声が、逆に恐ろしかった。
大切な物。守るべき日常。全部、勝手に踏み荒らされる。
喉がきゅっと縮み、セリナは唇を噛んだ。
やめて、と声にしたいのに――声が出ない。
ただ涙だけが、視界の隅に滲む。
「……次、こっちだ」
迅花の番だった。
制服のポケットが探られる。
掴まれた布越しに、彼女の身体が僅かに硬直する。
スマホが抜き取られた、その瞬間だった。
――コール音。
ワゴンの狭い空間に、軽い着信音が響く。
退魔師の手が止まった。
その画面を見て、無表情だった男が、僅かに目を細める。
「……“葉佩九郎”」
ただの名前。
しかし、“裏”に詳しい者にとっては、それだけで意味を持つ。
もう一人が身を乗り出す。
「待て、それ――」
通話は切れた。
男は画面を睨みつけ、無言で息を吐いた。
「――厄介な名だな」
その声色だけが、これまでと違っていた。
迅花のスマホは、そのまま胸元から遠ざけられ、封じるように封筒へ突っ込まれる。
そして男達は、ただ淡々と結論に至る。
「優先度、上がったな。目的は人魚だが――こっちの女も、ただの“通行人”じゃない」
車は速度を緩める事なく、さらに山奥へと進んでいく。
エンジンの振動が、喉の奥に鈍く響いた。
セリナは静かに目を閉じる。
怖い。寒い。知らない場所に連れていかれる。
そして――心のどこかで、理解してしまう。
もう、普通の日常には戻れない。
ワゴンは闇に溶けるように進み続けた。
――深夜。
舗装が途切れ、舗装路の感触が完全に消えた瞬間から、車体は荒れた未舗装路を揺れながら進んでいた。
窓の外は、もう街の色ではない。
山の匂い。湿った土の匂い。
人の生活から切り離された、息を潜める闇。
ワゴンは長い時間を走り、やがて――止まった。
ブレーキ音が短く鳴る。
エンジンが喉を鳴らしたまま沈黙する。
静寂。
「着いた。降ろすぞ」
低く、何の感情もない声。
扉が開き、夜の冷気が、狭い車内に一気に流れ込んだ。
山の空気は刺すように冷たい。
セリナは反射的に肩を震わせる。
その震えを待たずに、肩を掴まれ、外へ引き出された。
――そこは、“施設”と呼ぶにはあまりに異様だった。
森を切り裂くように造られた鉄柵。
警戒灯が等間隔に灯り、薄赤い光が地面を舐める。
鉄と血の匂いが、夜気に溶け込んでいる。
そして、その先に――無骨なコンクリートの建物。
窓は少ない。
光はほぼ漏れない。
まるで、「中に何があるか見せる気がない」と告げるための構造。
人のいる場所のはずなのに、生活の匂いが一切ない。
ただ、“捕らえるためだけの建物”。
そんな印象だった。
「歩け」
肩を押される。
足がもつれ、それでも前に進ませられる。
迅花も、縄で拘束されたまま後ろから連れ出されていた。
意識はある。だが顔色は悪い。それでも――睨んでいた。
歯を食いしばり、誰にも服従した顔だけは見せまいとするように。
その目だけが、まだ戦っていた。
施設の前には、武装した男達が数人。
無機質な視線が二人を舐め、ただ“状態”として確認するように頷く。
「搬入二名。識別は後回しだ。隔離区画に入れろ」
搬入。
人に対して向けられる言葉ではない。
だが彼らにとっては、それが正しい表現なのだ。
扉が開く。内側から吐き出された空気は――重かった。
湿った鉄の匂い。薬品の匂い。
それに混じる、言葉にできない、生き物の匂い。
セリナの背骨が凍る。
入った瞬間、世界が変わった。
長い廊下。足音だけが響く、冷たいコンクリート。
左右の壁に並ぶ重厚な扉。
――そして、聞こえてきた。
鉄が擦れる音。
何かが暴れて檻にぶつかる鈍い衝撃音。
くぐもった呻き声。人かどうかも分からない鳴き声。
息が詰まる。目だけを動かして横を見た瞬間――
見た。
鉄格子の向こう。
痩せた腕。
人間のようで、人間ではない目。
憎悪と諦念と、もう言葉にはならない痛みだけが宿った瞳。
別の檻には、形容できない何か。
身体の輪郭すら曖昧な異形。
それでも、確かに「生きている」。
ここは偶然の場所じゃない。
ここは――捕らえ、壊し、利用する場所。
「……っ……!」
セリナの喉から声にならない音が漏れた。
脚の力が抜けそうになる。
彼女は、はっきりと理解した。
ここは、もう、
帰れない世界の延長線上にある場所じゃない。
“ここに入ったものは、元の世界に戻らない場所”。
そんな確信が、胸を締め付ける。
退魔師の一人が振り返ることなく言った。
「安心しろ。すぐに“価値のある扱い”をしてやる」
それは慰めではない。ただの残酷な宣告だった。
迅花が、その瞬間だけ歯を食いしばって声を漏らす。
「……テメェら……」
だが足を止める力はない。
そのまま別の扉へ。さらに奥へ。
鉄が重たく閉じる音が、
世界を断ち切る刃みたいに鳴り響いた――。
夜の気配が濃くなりはじめた頃だった。
由衣の部屋のテーブルに、いつものように無造作に置いてあるスマホが震えた。
九郎は、何とはなしに画面を見て、そして小さく舌打ちした。
通知ではない。
自分から、何度も押している発信履歴。
――鷹宮迅花。
三度目のコール音が虚しく鳴り続ける。
出ない。
珍しいことではなかった。
学校、家、バイト、訓練。高校生の生活は忙しい。
電話なんて、そうそう取れるものじゃない。
頭では分かっている。
理屈の上では、何一つ異常じゃない。
――だが、胸の奥がざわついて仕方がなかった。
もう一度、発信。コールが鳴る。
誰かが取る気配はない。
その間、部屋の空気だけが妙に冷えていく。
九郎は、静かに息を吐いた。眉間に深く皺が寄る。
「……嫌な沈黙だな」
ただ“繋がらない”のとは違う。
何か、輪郭を持たない影が、胸の裏側をゆっくり指でなぞるような感覚。戦場で何度も嗅いできた匂いだ。
――何かが起きている。
たぶん、もう始まっている。
そして、その中心に迅花がいる。
唐突に立ち上がる。
躊躇はない。
靴をつっかけ、ジャケットを掴み、ドアノブを乱暴に引く。
「どこ行くの?」
由衣の声が背中越しに飛んできた。
振り返らない。
ただ短く答える。
「……迎え」
説明はしない。する余裕もない。
説明している時間が惜しい。階段を降りる足取りは速い。
それでも、心臓の打つ音は、それを追い越すみたいにうるさかった。
そうだ――“ただ出ないだけ”かもしれない。
だが。
あの生意気で、勝ち気で、負けず嫌いな少女の顔を思い浮かべた瞬間――微かな後悔の影が胸を刺す。
もっとちゃんと釘を刺しておけばよかった。
もっと早く動いていればよかった。
そんな、まだ起きていない失敗の痛みだけが、先走っていた。
外の空気は夜の冷たさを帯びていた。
ネオンの色も街のざわめきも、何一つ心に引っかからない。
ただ一つだけ、はっきりしていた。
――この嫌な予感は、外した事がない。
だから、行く。
行かないという選択肢は初めから存在しない。
鴉の影が、夜の街に溶けていった。