夜を歩く鴉と、待つ女たち   作:鉄猿

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脱出

 

 

 

 

――鉄でできた空気、というものがある。

それを吸い込んだ瞬間、肺の奥まで錆びついてしまうような、そんな場所だ。

 

手首を縛る符と鎖は、必要以上に厳重だった。

迅花は両腕を身体の後ろに回されたまま、冷たい床に膝をつかされていた。動けば鎖が鳴る。

少し強く力を入れれば、符が皮膚に焼き付くような痛みを走らせて抵抗を無言で否定してくる。

 

「…………くそ」

 

低く吐き出した声は、思いのほか掠れていた。

唇の端には乾いた血。

あと一歩届きそうで届かなかった感触がまだ掌の奥にこびり付いている。

 

目の前では、金属柵の向こうに蒼井セリナがいた。

肩をすくめるようにして座り込んでいる。

顔色は紙のように白い。

震えているのは寒さじゃない――恐怖だ。

彼女の目は、ただ怯えているだけじゃなかった。

理解してしまった者の目だった。

この場所が、ただの“捕まった先”じゃないこと。

ここは“戻ってくることを想定されていない場所”だということ。

人の姿をしているもの。

人の形をしていないもの。

声だけのもの。

ぐずぐずに溶け、それでもまだ意識を握らされている“何か”。

鉄格子の向こう側、闇の奥から、それらが息をしている。

生き物というより、“材料待ちの資源”。

そう扱われる存在たちが、静かに呻き、軋み、息を吐いていた。

セリナは喉を詰まらせる。

 

「……やだ……こんな……」

 

声に出した瞬間、自分でそれを呑み込んだ。

泣けば崩れる。

崩れたら――終わる。

だが泣かないでいられるほど、強くもない。

鉄臭い空気の中で、恐怖は容赦なく増殖し続けた。

すぐ近くで、鎖が揺れる音がする。

迅花が静かに目を伏せ、息を整えていた。

怒りでも悔しさでもなく、今の彼女の内側を支配しているのは、別の感情だ。

その名は――無力。

 

「……情けねえな、私」

 

誰にも届かない声で、ぼそりと呟く。

あれだけ戦って、殴って、抗って、それでも――ここだ。

何も守れず、ただ“並べられた商品”みたいに鎖で繋がれている。

悔しさが胃を焼く。

それでも歯を食いしばることしかできない。

ふと、鉄格子越しにセリナと視線が合った。

 

怯えきった目。

頼ることすら躊躇う目。

迅花は……笑った。

血の味がする唇で、それでも、力いっぱい。

 

「大丈夫」

 

根拠なんて無い。言葉に重さなんて無い。

それでもいい。今言わなければ、この女の人は――壊れる。

 

「絶対、大丈夫だから」

 

声は震えていた。信じてほしい、じゃない。

自分自身がそれを信じたかった。セリナは唇を噛んだ。

大粒の涙が一つ、零れる。

けれど――泣き崩れなかった。

 

その瞬間。

遠くの鉄扉が、鈍い音を立てて開いた。

重い足音。革靴の音。

監視の退魔師が、退屈そうな顔でこちらを見る。

まるで見世物小屋を覗く客のような視線。

 

「商品確認だ。…大事に扱えってさ。高い値段がつくんだとよ」

 

薄ら笑い。

鉄の冷たさより、ずっと冷たい言葉だった。

迅花は睨みつけた。セリナは息を止めた。

 

そして、牢屋は再び黙り込む。

鉄と血と恐怖だけが、いつまでもそこに残り続けていた。

鉄の格子越しに、声が落ちてくる。

まるで天井から垂れる錆びた雨粒みたいに、嫌な音だけを残して。

 

退魔師は二人いた。

一人は無表情。

仕事の一項目を淡々と処理するだけの顔。

もう一人は、楽しんでいる。

獲物の反応を見るのが楽しくて仕方ない、そんな目をしている。

その目が、まず迅花を舐めるように見た。

 

「……やれやれ。見た目はただの女子高生じゃねえか。

それであれだけ暴れたって? 最近のガキは、ほんと、面白えな」

 

乾いた靴音が近づいてきて、鉄格子のすぐ前で止まる。

指先が柵を叩く。カン、カン、と軽い音。

 

「安心しろよ。すぐ壊すなんて勿体ねぇ真似はしねえ。

お前の“強さ”は……価値がある。使い道はいくらでも、ある」

 

迅花の奥歯が軋んだ。

怒りで噛んでるんじゃない。悔しさと、怖さで。

男はそれを見て、笑う。

 

「顔に出るんだな、そういうの。……あんま、いい目じゃないぞ。“自分でも理解できてねぇ力を持った奴”の顔だ」

 

的確だった。痛いほどに。

 

「なぁ、怖いだろ? 自分が何者か分からなくなっていく感じ。

殴れば壊せる。走れば追いつける。

でも――“それが普通じゃない”ってことは、自分が一番分かってる」

 

迅花の胸が、ぎゅっと締め付けられる。

逃げ場のない言葉。

図星を突かれた喉が、勝手に呼吸を浅くする。

男は、追い打ちをかけるように笑いながら続ける。

 

「いいんだよ。人間として生きてくの、諦めちまえば楽になる。

ここなら“普通”になれる。道具は道具として、役割だけ持ってりゃいい」

 

鎖が、ゆらりと揺れた。

気づけば迅花の手が震えていた。

セリナは、その震えに気づいた瞬間、息を飲む。

――強い子じゃなかったのか、彼女は。

そうじゃない。強いのに、それでも追い詰められている。

だから余計に、怖い。

 

退魔師の視線が今度はセリナに移る。

その笑みが、さらに汚く歪んだ。

 

「で――本命はこっちだ」

 

狩人が獲物を見つけた時の目。

吐き気がするほど分かりやすい悪意。

 

「綺麗だよなぁ。歌も良かった。

……身体も、声も、血も肉も――全部、“価値”がある」

 

セリナの背筋が凍った。

逃げられない。この場所も、この言葉も、この視線も。

全部、逃げ場がない。

 

「怖いか?」

 

問われるまでもない。

怖い。震えてる。立ってるだけで精一杯。

 

「でもな――安心しろ」

 

優しい声色だった。その分だけ、残酷だった。

 

「お前は“壊す側”じゃない。“壊される側”だ。最初から、な」

 

喉の奥から、硬い音が漏れる。

泣きたいのに、涙が出ない。泣いてしまえば崩れるから。

わかってるのに、身体が震えを止めてくれない。

 

「……大丈夫」

 

掠れた声が、鉄格子の外からではなく、中から響いた。

迅花だった。顔は俯いたまま。

それでも、無理やり声を絞り出す。

 

「絶対、大丈夫。私が……なんとかする」

 

退魔師が鼻で笑った。

 

「できもしねぇ約束してんじゃねぇよ。それが一番効くんだ。

守れねぇと分かった瞬間――心が折れる」

 

その言葉は、刃物より鋭かった。

迅花の胸に突き刺さる。分かってる。

今の自分じゃ、守れてない。現実が、それを証明してる。

それでも言うしかなかった。

言わないと――この女の人は潰れる。

そして、自分も。

男は満足げに笑い、背を向けた。

 

「せいぜい震えてろ。

朝になれば、“ちゃんとした扱い”をしてやる」

 

鉄扉が閉まる。再び、静寂。

ただ違うのは――

その沈黙には、もうただの恐怖だけじゃない。

“壊れ始める音”が、静かに混じっていた。

 

暗い部屋に沈黙が落ちたまま、しばらく誰も声を出せなかった。

鉄の匂い。湿った床。息の音だけが、互いの存在を確認する唯一の証拠みたいに響く。

やがて――先に折れたのは、セリナの方だった。

 

「……怖い……」

 

吐き出した瞬間、堰が切れたように涙が滲む。

小さな声。それでも震えが部屋に響くほど、必死だった。

 

「やっぱり……怖いよ……私……」

 

強がる余裕なんてない。

見栄も、プライドも、残っていない。

ただ“普通の女の子”の弱さが、そのまま剥き出しになっていた。

迅花は顔を上げた。

自分も怖い。それでも、聞かなかったふりはできなかった。

 

「……当たり前だよ。誰だって怖い。

こんなとこ連れてこられて……こんなこと言われて……」

 

言いながら、自分の喉が詰まる。

言葉にした瞬間、現実が余計に重くなる。

セリナは唇を噛みしめる。

 

「私、強くないんだよ……。駅で歌ってただけで……ただ、それだけで……なんで、こんな……」

 

声が震え、涙が零れ落ちる。

 

「自分が、誰かの狙いになるなんて

……考えたこともなかった。

何か悪いことした? 誰かを傷つけた?違うよね……? なのに……」

 

頭を抱える。

肩が小刻みに揺れる。

 

「私……歌、やめたほうがいいのかな……

歌うの、好きなのに……全部、怖くなっちゃった……」

 

途切れ途切れの声。

それは“諦め”じゃなく、“守り”だった。

傷つかないために、自分の大事なものを先に切り捨てようとする。

臆病だからこそ選んでしまう逃げの形。

 

迅花は胸の奥を鷲掴みにされたような気がした。

――分かる。その感覚を、誰より知っている。

止めなければ。

でも、軽い慰めなんか吐いた瞬間――彼女は完全に折れる。

だから。

言葉を選びながら、ゆっくりと近づき、鉄格子の影の中で彼女の隣に腰を下ろした。

 

「……いいよ。怖がっても」

 

静かな声。

 

「臆病でもいい。怖いの、普通だよ。

強い人だけが捕まって、泣かないわけじゃない」

 

セリナの涙が止まらない。迅花は続ける。

 

「でもね――“怖いから全部捨てる”って言葉は……

今だけは言わないで」

 

セリナが顔を上げた。

 

「それ言っちゃったら、本当に何も残らなくなる。

あんたの歌、好きな人いっぱいいたよ。……私も、好きだった」

 

それは本心だった。

悔しくなるほど綺麗で、温かくて、羨ましかった。

だから――折れてほしくなかった。

セリナは涙を拭けないまま、鼻をすする。

 

「……そんなこと、言っても……いつ殺されるかも……」

「それでも」

 

迅花は強く言い切った。

 

「“生きる前提”を、勝手に手放すなよ」

 

自分に言い聞かせるように。

 

「ここから出る。絶対に。それから決めろ。

歌うかどうかなんて――生きてから悩めばいい」

 

セリナは震える唇を噛んで、うつむいた。

胸の奥で何かが少しだけ持ちこたえる。

怖い。

でも――まだ完全に折れていない。

それだけで、今は十分だった。

 

沈黙が戻る。

けれど、さっきまでの“崩壊だけの静寂”ではない。

かろうじて残った、小さな火みたいなものが、二人の間でまだ消えずにいた。

 

鉄格子の向こうで、くすり、と乾いた笑いが落ちた。

静かな夜気を汚すみたいに、不快に響く。

 

「……青春だねえ。泣いて、励まして、約束までしてさ」

 

暗がりの奥から退魔師の一人が姿を見せる。

白衣でも法衣でもない。現場に馴染む黒い実務服。

それなのに、笑みだけが妙に軽い。

 

「“絶対助ける”か。“生きる前提を捨てるな”か。

いいね、若い。眩しいよ。――でも、ここはそういう物語の舞台じゃない」

 

金属音を鳴らしながら檻の鍵を揺らす指先が嗜虐的だった。

 

「ここは“結果だけが残る場所”だ。

誰が泣いたか、誰が震えたか、誰が立派なことを言ったかなんて、記録にも残らない。

残るのは――“利用価値のある素材が、どう使われたか”だけ」

 

セリナの肩がびくりと跳ねる。

言葉の意味を理解しないまま、体だけが恐怖に反応する。

退魔師は楽しそうにその反応を眺め、さらに口角を吊り上げた。

 

「励ましってさ、本人が立っていられる時にだけ意味があるんだよ。

足場を全部外した後で掴ませる“希望”ほど、無意味な毒はない」

 

セリナが小さく息を呑む。

迅花は、顔を伏せたまま黙って聞いていた。

だが、拳が膝の上で静かに握られる。

退魔師の視線が、ゆっくりと迅花に移る。

 

「そんな顔するなよ、ヒーロー気取りの嬢ちゃん。

あんた、充分カッコつけてた。“守る側”としては、満点の台詞だ」

 

挑発を分かった上で、わざと乗せる口調。

 

「でも、残念だな。“守る側”を名乗るには――致命的に足りないものがある」

 

沈黙。

 

「“実在する救済者”。あんたにはそれが、いない」

 

空気が一瞬、固まった。それは意識して狙った刃だった。

 

「“助けが来る”って言えなかった。

“仲間が動いてる”と言えなかった。

“すでに外は動いてる”とも言えなかった」

 

軽く指を鳴らす。

 

「つまり――“誰も来ない”ってことを、自分で一番よく理解してるんだろ?」

 

セリナの喉が小さく鳴る。

迅花の睫毛が、かすかに震えた。

わかってる。

図星だ。

それでも。

俯いた顔のまま、迅花は息を吸い――静かに言葉を吐いた。

 

「……来るよ」

 

その声は震えていなかった。

退魔師の笑みが――ほんの少しだけ鈍る。

迅花は顔を上げた。

瞳に宿った光は、怒りでも虚勢でもなかった。

焼けつくような確信の光だった。

 

「来る。必ず来る。

――そして後悔するのは、お前らだ」

 

退魔師の笑みが完全に消えた。

 

「名前は言わない。言う必要もない。ただひとつだけ教えてやる」

 

唇がゆっくりと戦線布告を形づくる。

 

「“狩る側だと思ってるやつ”が――

        世界でいちばん後悔する瞬間ってのはね」

 

息が止まる。

 

「“喧嘩を売った相手を間違えた”って、

             骨の髄まで理解した時だよ」

 

沈黙。

退魔師の目が、僅かに細くなった。

冷たい笑いが戻る――だが、その奥に今度は確かな警戒が滲んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

――山の夜は、静か過ぎる。ただ静かなだけじゃない。

音を消してでも何かを隠したい静けさだ。

九郎は岩陰に身を伏せ、息を浅く整えると、そっと目を閉じた。

まぶたの裏に、薄い黄金色の線が浮かぶ。

言葉を飲み込み、静かな詠唱を心の奥で転がす。

 

――視よ。―――――《SÍN・RÚN》

ᚨᚾᛋᚢᛉ……見よ、風が運ぶ声を

ᚲᛖᚾᚨᛉ……照らせ、闇に沈む輪郭を

ᚱᚨᛁᛞᚨᚺ……導け、俺の視界を正しき道へ

――見落とすな。

――俺の戦場を“見ろ。

 

瞬間、視界が開いた。

まぶたを開ける。

だがそこにあるのは、ただの闇の森ではない。

世界の輪郭が一段階、鋭く変わる。

闇の密度が薄くなり、

空気の歪み、草木の揺れ方、踏み荒らされた痕跡、

人が立って“仕事をしている気配”までが、輪郭を持って浮かび上がる。

目が、強制的に戦場の“答え”を拾い上げ始める。

 

――遠見のルーン。

視力を伸ばすのではない。

「見るべきもの全部を見させる」強制力。

九郎の喉奥が、僅かに熱を帯びた。

 

(……やっぱり、ただの“連中”じゃねぇな)

 

森の奥、山肌に溶け込むような無機質な施設。

灯りは最小限だが、止まる事を許されない種類の光。

警戒線。巡回のテンポ。置き方と間隔の合理性。

 

「軍より“裏のプロ”って感じだな。嫌な匂いがする」

 

低く吐き捨て、さらに視界を奥へ押し込む。

鉄格子。

打ち捨てられたような無機質さ。

廊下の影に一定間隔で立つ退魔師達。

そして。

 

「……いた」

 

視界の奥、牢の中。

拘束されながらも立ち上がろうと壁に背を預けている少女。

顔色は悪い。身体もダメージが溜まってる。

だが――折れていない。

噛み締めた奥歯が、そのまま“意地”になっている顔。

九郎の胸が、少しだけ緩んだ。

 

「よく耐えてるじゃねぇか、迅花……」

 

優しい声は、誰にも聞こえない。

もう一つの牢が視界に滑り込む。

セリナ。

震えを必死に押し殺して座り込み、

それでも完全に崩れまいと、弱い膝で踏ん張っている。

 

(……怖いよな。そりゃそうだ)

 

ルーンはそのまま周囲を舐める。

退魔師達の立ち位置。

視線の配分。誰が“見る係”で、誰が“止める係”で、誰が“壊す係”か。それが、戦う前からわかる。

 

(完全に“商品扱い”……しかもただの捕獲じゃねぇ。

使い方を決めてから保管してやがる)

 

静かな怒りが、胸の奥で硬く燃えた。

――女を、こういう扱いにする連中が一番嫌いだ。

 

九郎はゆっくりと遠見を切る。

黄金の線が消え、ただの暗闇が戻る。

しかし、もう何も暗くない。頭の中には配置図が焼き付いている。罠の位置。踏んではいけない地面。

風向き。死角。走るべきルート。殺さなくても無力化できる順番。

――殺すべき奴の順番。

拳銃の重み。ナイフの感触。指先が自然に癖を確認する。

使えるルーン、残弾、身体の調子。

 

静かに立ち上がる。夜風が頬を撫でた。

それでも体温は下がらない。

施設の方角をただ真っ直ぐに見据える。

 

「悪いな」

 

低く、誰に向けるでもない声。

 

「迅花も、あの歌姫も……怖い思い、させた」

 

そして、声色が一瞬だけ冷えた。

 

「……で。お前らは――」

 

闇の奥を射抜くように睨みつける。

 

「“喧嘩売る相手”を、盛大に間違えた」

 

 

 

 

九郎は息を限界まで細くして、影から影へと身を滑らせた。

余計な音は、ひとつも許されない。施設の手前で一度、地面に膝を落とす。

土の冷たさと湿り気が膝を通して身体に吸い込まれていく。

その感触さえ、無駄にしない。

歩哨の動き。

足取り。

癖。

目線。夜に溶け切らない“緊張と慢心の境目”。

――その隙間を、九郎は正確に踏む。

 

地面を蹴らない。足音を作らない。

重心を流す。ただ、呼吸と鼓動のリズムだけで身体を運ぶ。

フェンスの影に指先を滑り込ませる。

鋼の冷たさ。そこに刻まれたわずかな劣化。――使える。

 

指先だけで固定を外し、金属が鳴るよりわずか手前で止める。

風が鳴った瞬間に合わせて、フェンスが「呼吸したように」動く。

音は夜に消える。

九郎の身体も――夜に消えた。

 

敷地内は、静かすぎるのに、臭いだけが濃かった。

鉄と消毒液と人の汗。

それから――恐怖の匂い。

近い。

通路の影に吸い込まれるように移動する。

ライトの死角を流れるように渡る。

巡回兵の足音が、わずかに後ろを通過する。

その瞬間、九郎の背筋を冷たい汗が一本走る。

 

「……動くなよ」

 

心の中で呟く声は、祈りではない。

命令だ。

相手に向けたものではなく、自分自身に向けたもの。

もし一歩踏み出したら――殺す。

 

バレた瞬間、誰が相手でも関係ない。

喉を裂き、骨を折り、声帯を壊す。

それがここで“戦わない”という選択を守る唯一の手段。

だから、動かない。必要な時以外、絶対に。

巡回が離れる。空気が、ほんの少しだけ緩む。

九郎は再び、夜の影と同化した。

建物の壁際を這い、視線だけを覗かせる。

内部が見える。鎖。拘束具。

無神経に笑う退魔師の背中。

震えを殺そうとして殺しきれていない――細い肩。

迅花。セリナ。

胸の奥が、一瞬だけ熱で泡立つ。

だが、その熱は、すぐにごく冷たい計算へ変わる。

入り口、二つ。監視、四。

無線の位置。鍵の管理。緊急展開の導線。

全部見て、全部覚える。感情は後回しだ。

救い出す瞬間まで、徹底して冷酷でいなければならない。

九郎は僅かに顎を引く。

 

「……大丈夫だ。まだ折れてねぇ顔してる」

 

小さく、誰にも届かない声で言って、

男は再び闇の中へ沈んだ。ここからが本番だ。

一発の銃声も、ひとつの悲鳴も許されない。

“静かな侵攻”だけが、二人を生かして外へ連れ帰る唯一の道。

九郎はその道を歩く覚悟だけを、静かに噛み締めていた。

 

夜の山は“味方”じゃない。だが“敵”でもない。

ただそこに在る自然を どう使うか――それだけが生死を分ける。

九郎の思考は、昔から変わらない。

生きて帰る為に、やる事をやる。

心を殺すんじゃない。揺れないように、ただ置いていく。

感情は必ず戻ってくる。だから今は――

 

 

施設外周の土と草と樹皮の擦れる匂い。

足音を吸う柔い地面。風の流れる方向。

虫の鳴き声の“乱れ”。全部が情報だ。

 

九郎の視界は、ただ前を見るんじゃない。

常に周囲を“切り分けている”。

ここは視線が通る。ここは暗いが、足音が響く。

ここは死角だが、戻れない。一歩踏み出すごとに、

“もし見つかった場合の逃走経路”が三本以上脳内に並ぶ。

戦う選択肢は常に最後でいい。

戦闘は不確定。隠密は制御可能。スカウトの基本だ。

施設外壁沿いに回り込む時、九郎はふと足を止めた。

――“匂い”。

焦りも、不安も、哀れみもない。

ひたすら効率だけで人を扱った場所の臭い。

 

「……クソが」

 

舌打ちは声にならない。喉奥で押し殺す。

ここは人をただ“使う”場所だ。守る気も救う気もない奴らの匂い。だから、戦えば殺す。それはもう決めている。

だが、“今じゃない”。

 

 

建物裏手、排気の配管の横。

外壁の錆の進んだ辺りを指先で探る。

――あった。

薄く、だが確実に規則を乱す影。

夜の闇の濃さが、そこだけ微かに違う。

九郎は膝を落として金属を撫でる。

素材。厚み。ビス締めの甘さ。

塗装の剥げ。――『ここから入れ』って顔してるじゃねぇか。

 

小さく、乾いた息が笑いに変わる。

彼の笑いは、余裕や軽口じゃない。

緊張を正しく締め直す為の、

“いつも通りの自分”を確認する儀式みたいなものだ。

工具は使わない。音が出るから。

破壊ではなく、弱点を撫でて通る。

掌で圧をかけ、指で支点を作り折れたように見せて曲げる。

その一瞬、施設が息を呑んだ。

 

――侵入完了。

 

内部の空気は、冷たいのに重い。

足裏に伝わる床の硬さ。響く音の質。

壁に伝う冷気。この建物はどこで音が響き、どこで死ぬのか

身体が勝手に覚えていく。

遠くで靴音。角度から、通路のT字。

距離。歩幅。筋力の癖。

“ああ、こいつは警戒慣れしてないな”

間抜けという意味じゃない。

“戦場の人間じゃない”という意味。

九郎は壁から一センチも離れない位置で停止する。

目だけが動く。肺は微動だにしない。歩哨が通り過ぎる。

気配が遠ざかる。九郎は――動かない。

三秒。

“やり過ごした”と思い込む人間の、残り香が消えるまで。

四秒目で、初めて足を運ぶ。

それが命を繋ぐ癖だ。

 

 

――近い。

空気が変わる。怯えが残ってる。

涙の匂いが薄く乾いて、その代わりに“諦めかけた温度”が混じる。

無理に笑おうとした少女の、使い潰された呼吸の匂い。

迅花。セリナ。そこにいる。

九郎は真正面の通路に背中を付ける。

視線を出さない。足を出さない。

代わりに――“音”を聴く。

鉄の軋み。鎖がわずかに動いた時の乾いた音。

壁を親指で叩く拍の振動で、距離と空間の広がりを測る。

頭の中で、部屋の構造が組み上がる。

その途中で――胸の奥の、ずっと奥の奥で、音にならない痛みが鳴った。

腹の底で、静かに怒りが灯る。

感情は動かさない。

ただ、燃やしておく。

救い出す奪い返す。

帰してやる

それだけが確定している。

 

九郎は、もう一度息を細く吐いた。

――スカウトは、戦場で暴れ回る狼じゃない。

戦場そのものを操る“影”だ。

だから声も立てずに、九郎はさらに一歩、内側へ進んだ。

 

扉の前には、二人いた。

どちらも“場慣れ”している空気だった。

腰は落ち着いている。

気配を広げ過ぎず、しかし張り詰めさせ過ぎない。

“仕事で人を押さえてきた人間の立ち方”。

ただの筋肉でも、ただの霊能者でもない。

             ――鵺ノ宮の“実戦担当”。

 

片方が煙草を噛んだまま、

片方が静かな目で通路の“空気”を見張っていた。

音は殺した。匂いも薄めた。気配は沈めた。

それでも。

“戦ってきた人間”には、沈黙の形が違って見える。

扉の横の男が、微かに眉を動かした。

 

「……今、通路、揺れたろ」

「風だろ。山ん中だぞ」

「いや――違う」

 

言い終わるより早く。

そこにいた。

九郎は、もう目の前だった。 

 

武器は見えない。拳も振りかぶっていない。

なのに、“近すぎる”。

 

「――っ!」

 

煙草の男が懐に手を入れかけた瞬間、

九郎の足が床を 一度だけ 強く叩いた。

衝撃ではない。リズムの殺意。

男の重心がズレる。遅い。追いつかない。

顎に掌底。硬い音が鳴った。

煙草が宙を回って飛ぶ頃には、男の膝が落ちていた。

 

同時にもう一人が踏み込む。

迷いがない。

正面から殴ればいい相手ではないと分かっている動き。

前に出ず、一瞬で“間”を作る。

掌に淡い霊気。

視線は冷たい。――手練れだ。

 

だから九郎は、真正面からは行かない。

壁を使う。影を踏む。

足首を切るような角度で入り、

男の腕を掴むのではなく―― “軌道を奪う”。

 

手首と肘の中間。

力を一番「戻せない」位置を少しだけ叩く。

霊気が弾け、男の攻撃が“方向を失った武器”になる。

そこへ息一つ分の距離で、拳が、静かに届く。

腹部。音が鈍く染み込む。

 

「っぐ……!」

 

崩れはしない。踏みとどまる。

噛み締めた歯の音が通路に響く。

いい根性してる、と九郎は心の奥でだけ笑った。

――だが、終わりだ。

 

男が反撃に乗ろうとした瞬間、

視界が揺れた。遅れて理解する。

足を封じられている。

九郎のブーツが、男の足の甲を 静かに 踏み潰していた。

逃げ場のない痛みが、戦闘という構造そのものを崩す。

拳が沈む。今度は心臓の横。“倒れるしかない場所”。

男は壁に沈み、通路から音が消えた。

 

 

無駄口はない。痛めつけもしない。

殺しもしない。引き伸ばさない。

“救出”に必要ない事は、一切しない。

扉のノブに手をかける時。

九郎の指が、一瞬だけ震えた。感情が戻る。

だが――強く握り込み、静かに消す。

 

「……待ってろ」

 

誰にも聞こえない声で言って、

扉が 音もなく 開いた。扉が、静かに開いた。

乾いた金属の軋みすら響かないほど、

この部屋の空気は“止まっていた”。

薄暗いコンクリ壁。

掛けられた拘束具の冷たい鈍色。

乾いた空気と、ずっと張り詰めていた恐怖の匂い。

その入口に、男が立つ。

一瞬。本当に一瞬だけ――

時間が止まったように見えた。

 

最初に動いたのは、迅花だった。

張り詰めていた肩が、音を立てるように落ちる。

喉が震える。

視界が揺れる。

そして。

 

「……っ――!」

 

堪えきれなくなった何かが、

一気に崩れ落ちたみたいに―― 顔が、笑った。

強がりでもなく。虚勢でもなく。泣きたいほど、

張り裂けそうなくらい、救われた瞬間の笑顔。

 

「……遅い、ですよ……!」

 

声が震えて、怒鳴りたいのに怒鳴れなくて、

涙と笑顔が混ざったどうにもならない顔のまま、

絞り出すように文句を言う。

九郎は少しだけ口の端を上げた。

 

「悪い。道がちょっと混んでた」

 

軽口。

だけど、その声音の奥には――

たしかに“助けに来た”という事実だけが揺るがずにあった。

迅花の胸が、ようやく落ちる。呼吸が戻る。世界が戻る。

 

そして――セリナ。

彼女は、笑えない。目を大きく見開いたまま、

ただ呆然と、男を見つめていた。頭が追いつかない。

理解が拒否する。恐怖で凍っていた心が、急に現実を渡されて戸惑っている。

 

「……え?」

 

喉から零れた声は、

かすれていて、頼りなくて。

それでも――その目が、ゆっくり揺れ始める。

見覚えがある。どこかで――いや、“最近”だ。

――まさか。

胸が締め付けられる。“記憶”が揺り返す。

駅前の夜。唄い終わった自分へ急に声を掛けてきた男。

真剣で、妙な目をして。怖かった。距離を取った。

――その男が。

命の危険がある場所に踏み込んで、

ここまで辿り着いている。心の底がぐらりと揺れる。

恐怖で強ばっていた身体が、そのまま崩れ落ちそうになる。

 

「……あなた……」

 

声が震える。

言葉が、言葉にならないまま喉で崩れて、それでも続く。

 

「この前……夜……ライブの時――」

 

やっと、繋がった。

恐怖に追い詰められ続けた夜の迷宮に――現実の線が、通った。

 

「……なんで……?」

 

涙が落ちる。

恐怖の涙じゃない。

叫びたいほどの安堵と、信じられない救済に触れた涙。

九郎はセリナの顔を見て、少しだけ柔らかい目をした。

 

「あの時、言ったろ。

“気になるお節介は、放置できないだけ”って」

 

言ってないし、言われてない。

そんな台詞は、実際には口にしていない。

だが――その背中が、その存在が、

確かにそう言っていた気がした。セリナは、喉を詰まらせて泣く。震える体を抱くように腕を胸の前で握り、

どうしても崩れたくなくて、それでももう支え切れなくて。

震える唇が、やっと言葉を作る。

 

「……私……あなたのこと……

ずっと――怖い人だって……思ってました……」

 

やっと、その言葉が出た。強く震える声だった。

堪えていた涙が、静かに零れた。

大きく泣いたりしない。ただ、崩れた。

羞恥と安堵と、自分の浅はかさへの痛み。

 

「……助けに、来てくれたんですね……」

 

その一言に、九郎は少しだけ息を吐き、

その当たり前のような声で答えた。

 

「当たり前だろ。俺は美人に優しんだ」

 

その瞬間――閉ざされていた部屋の空気が、

ようやく人間の世界へ戻った。

 

 

 

 

 

通路を駆ける足音が三つ。

冷たいコンクリートの匂いの中、息だけが現実を繋ぎ止めていた。

 

「行くぞ、迅花。セリナ、離れるな」

 

低く短い九郎の声。

握っていた不安を無理やり飲み込んで、セリナは小さく頷く。

 

だが、その瞬間――前方の曲がり角から、空気が変わった。

靴音。静かな呼吸。殺す気も焦りもない、慣れ切った現場の匂い。交代の見張りが来た。

 

「……まずい」

 

九郎が足を止めるのとほぼ同時。

二つの影が通路に現れた。黒衣の退魔師。

視線が交差した瞬間、状況把握が終わる。

――侵入者。

――捕縛対象。

――排除優先。

一拍の沈黙。そして、裂ける。

 

「止まれ!!」

 

怒号と同時、封符が風を裂いた。

白い札が弧を描き、刃のような速度で迫る。

 

「セリナ伏せろ!」

 

九郎が腕を掴み、引き倒す。

次の瞬間、封符が壁に突き刺さり、爆ぜた衝撃でコンクリートが剥がれ飛ぶ。

迅花が前に出た。瞳に火が灯り、呼吸が戦闘のそれに変わる。

敬語は戦場でも崩れない。

 

「右は私が行きます、師匠」

 

九郎は短く頷いた。

 

「――三十秒で片づけるぞ」

 

九郎が踏み込んでいた。

無言。無駄な構えもなく、真正面から。

懐へ潜り込み、喉を潰す拳。

返す手で顎を跳ね上げ、後頭部を壁へ叩きつける。

鈍い音一つ。男の身体が、崩れるように沈む。

九郎はそれを抱くように受け止め、床に静かに横たえた。

倒れた――それで終わり。

 

同時に、もう一人へと迅花が走る。

相手が札を構えかけた瞬間、その手首を掴んだ。

骨が悲鳴をあげるほど強くひねり、体勢を崩す。

短い息。迷いのない膝蹴りが鳩尾を撃つ。

呼吸を奪われ、膝が落ちたところへ――首筋へ手刀。

深くは入れない。殺さないラインで、確実に落とす一撃。

男は糸が切れたように崩れ、そのまま眠るように動かなくなった。

 

静寂だけが戻る。戦闘と言うにはあまりにも短く、

処理と言うにはあまりにも人間的だった。

セリナは、ただ見ていた。

一切の虚勢も演出もない“現実の強さ”を前に、声が出ない。

九郎は一瞥だけして、小さく吐き捨てる。

 

「……よし。問題ない。行くぞ」

 

迅花が息を整え、頷く。

セリナの背を軽く押す。三人は走り出す。

叫びも血の匂いもない脱出劇。

必要最低限の暴力だけを置き去りにして。

通路の空気が、変わった。

それまでただの監視網だった施設の内部が――

「侵入者を排除する空気」へと切り替わる。

 

カツン、と遠くで靴音。

続いて、短い警報音がくぐもって鳴り響く。

――見つかった。九郎が立ち止まり、舌打ちする。

 

「……クソ。バレたか」

 

低く、荒い呼吸を一つ吐く。

迅花とセリナが思わず背後を見る。

通路の奥から、複数の靴音が重なり、近づいてくる。

足並みは揃っている。素人の追跡じゃない。

狩りを知る足音だ。

 

セリナの指先が小さく震えた。

怖い――その感情は、言葉にしなくても見て取れた。

けれど泣き崩れるわけでも、叫ぶわけでもない。

ただ、動けなくなりそうな両足を必死に前へ踏み出そうとしている。

 

九郎は、その様子を一瞬だけ横目で確認し、

 

「大丈夫だ。走れ。まだ切り抜けられる」

 

短く、それだけ言った。

慰めでも励ましでもない。

ただ状況だけを冷静に見て出てきた言葉――

だが、それで十分だった。

セリナが僅かに息を呑み、小さく頷く。

 

前方――出口へ続く通路。

後方――迫ってくる精鋭の追撃。

逃げ道は、一本きり。迅花が前へ出る。振り返らず言う。

 

「……私が前、セリナさんは真ん中。師匠、後ろお願いします」

「分かってる。止まるなよ」

 

二人の声が、迷いなく噛み合った。

 

その瞬間、金属の扉が一気に開く音。

別ルートからも追跡の影が現れた。

数は――少なくない。

セリナの心臓が跳ねる。足取りが少しだけ乱れる。

だが、その背中を、迅花が掴んだ。

 

「大丈夫。離れないで」

 

声が震えていない。女子高生の声じゃない。

“地獄を一度知っている者の声”だった。

セリナは、ただ頷くしか出来なかった。

 

追撃側が一斉に武器を構える気配。

この脱出は、もう「静かに逃げる」段階じゃない。

戦いへと、完全に切り替わってしまった。

九郎が腰の銃へ手を伸ばしかけ、

しかし指先で止める。

歯噛みして、代わりにナイフを抜いた。

 

「……やるぞ。全員、生きて出る」

 

背後から迫る殺気の波を振り返って睨みつけ、

九郎は低く吐き捨てた。

出口はまだ遠い。だが、確かにそこにある。

三人は走る。

背後で怒鳴り声が上がり、追跡の足音がさらに加速する。

脱出――露見。

逃走――開始。

ここから先は、もう甘い余地など一つもない。

 

階段を駆け降りるたび、足元の鉄板が震え、靴音が反響して背後にまで跳ね返ってくる。

その反響に紛れて、追ってくる退魔師たちの足音も重なる。

距離は――縮まっている。

 

地下特有の乾いた冷気が肺に刺さる。

呼吸が荒くなるセリナの肩が小刻みに揺れ、何度もつまづきかける。

それを迅花が腕で支え、強引に引くように走らせる。

 

「セリナさん、止まったら終わります。前、見て――!」

 

声は震えていない。

けれど、その喉の奥には焦りが焼き付いていた。

 

後方――

追跡してくる退魔師の一人が符を掲げる。

通路の気配が一瞬、重く粘ついた。

 

「――逃がすな。前方封鎖班、配置急げ!」

 

怒号が響く。

九郎が振り返りざま、足を止めることなくサイドナイフを抜く。

投擲。

空気を裂いた刃が、符を構えた退魔師の手首を正確に打ち抜いた。

悲鳴。符が外れ、重苦しい霊圧が霧散する。

 

「余計な真似すんなよ……こっちは忙しいんだよ」

 

吐き捨てるような声で言い、再び走る。

 

通路が少しずつ広くなる。

鉄骨の梁が並ぶ構造になり、天井の高さが増す。

――近い。

迅花がわずかに息を呑む。

この先に、外がある。その確信が、同時に恐怖にもなる。

 

「……外、出る前が一番、捕まえに来る……ッ」

 

九郎も同時に理解していた。

施設外へ出る前――そこは逃走者を確実に潰すための“締めの網”が張られる場所だ。

 

案の定。出口へ向かう扉の前。

武器を持った退魔師が数名、完全に待ち構えていた。

背後から迫る追手。前方は塞がれる。

逃げ道は――ゼロ。

空気が一瞬、凍りつく。

 

セリナの足が止まりかける。

喉が硬く鳴り、冷たい感触が背骨を這い上がった。

 

(――もう駄目だ)

 

そんな言葉が、頭をよぎる。

しかし、横にいた迅花は止まらなかった。

わずかに笑った。それは無謀でも、虚勢でもない。

“まだ諦めてない人間の目”だった。

 

「――大丈夫。

ここまで連れて来てもらって、捕まるなんて負け方……師匠が許すはずない」

 

その声に、九郎が皮肉めいた息を吐く。

 

「勝手にハードル上げんなよ……」

 

だが――構えた姿勢は、迷いがなかった。

 

前後から殺気が迫る。

退魔師たちが配置を詰める。包囲が完成する、ほんの刹那。

九郎が短く言った。

 

「――抜ける。三秒だけ俺に合わせろ」

 

迅花が頷く。

セリナは震える唇を噛み締め、小さく息を吸った。

扉の向こうに、夜の風がある。施設外は、もうすぐそこだ。

逃げ場を失った走者たちは――それでも、止まらない。

 

退魔師たちの陣形が締まる。前も、後ろも。

逃げ場はないはずだった。その中央で、男が息を短く整える。

九郎の肩が、わずかに沈み――同時に、背筋が獣のように張りつめた。

 

「――三秒」

 

――三秒で抜ける。

低く、短い。その合図は、宣言ではない。

それだけを現実にするための、戦士の呼吸。

 

詠唱が走る。声は大声ではない。

しかし、鋭く、空気を切り裂いた。

 

「――《ᚠᚨᚱᚨᚱ・ᚱᚢᚾ》

――走れ、戦士の足。

俺の意志より速く、俺の恐怖より先に――!」

 

足元から風が爆ぜるように立ち上がった。

見えない衝撃が床を抉り、砂塵が跳ねる。

靴底が鉄床を蹴った瞬間――世界が置いていかれた。

 

同時に、もう一つ。

拳を軽く握ったまま、低く呟くように詠唱を重ねる。

 

「――――《ᛋᛏᛖᛁᚾ・ᚱᚢᚾ》

砕けるものは俺ではない。

折れるものは俺の骨じゃない――」

 

筋肉が軋み、骨が鳴る。

皮膚の下に鉄骨が通ったかのような、異様な重圧。

血管が熱を帯び、肘から拳へ、斬り裂く蒼光が走る。

 

「来るぞッ!!」

 

前方の退魔師が叫ぶ。

遅い。すでに遅い。

“音”が世界から消えた。次に戻ってきた瞬間。

 

衝突。

鈍い爆音が通路を裂いた。

人影が弾丸のように吹き飛ぶ。

防御姿勢を取っていた退魔師の腕ごと盾が粉砕され、壁に叩きつけられる。

理解が追いつくより先に、現実が粉砕された。

 

続けざま、肩がぶつかり、肘が薙ぎ、膝が蹴撃を刻む。

一人ずつ処理する余裕など無い。

ただ「通路を開ける」という結果だけを最短距離で選ぶ暴力。

 

後方の追手が符を掲げる。

 

「止め――」

 

言葉が終わる前。

九郎が横薙ぎの一撃で顎を弾き飛ばす。

硬化の拳は、骨をガラスのように砕いた。

悲鳴すら空中で捩れ消える。

 

「前だけ見ろ!! 走れ!!」

 

怒鳴り声が背を押した。

迅花がセリナの腕を抱え込むようにして引く。

速い。

さっきまで“限界だった速度”が、今は“ただの追従”に変わっていた。

 

包囲は崩れた―ではない。

 

崩れた瞬間に、別の層が締まる。

それが“組織”の怖さだ。

通路の先、扉の外。闇より濃い殺気が集まり始める。

まだ終わらない。

 

だが、外気が流れ込んだ。

冷たい夜の匂い。

セリナの肺に、その空気が入り――涙が零れそうになる。

 

(……外……!まだ “自由” じゃない。けど、外だ。)

 

九郎が笑った。

息は荒くても、声は崩れていない。

 

「――ここまでは、予定通りだ」

 

硬化の光が拳から剝がれていく。

代償の鈍い痛みが静かに噛みつき始めていた。

しかし、まだ言わない。まだ、その話ではない。

 

背後で怒号が再び重なる。退魔師たちが再展開する。

戦いは――ここから続く。だが、突破は成功した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 






Q なんで九郎は監禁場所が分かったの?

A 「失せ物探し」のルーンってのがあってね。
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