夜を歩く鴉と、待つ女たち   作:鉄猿

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レイヴンの本領発揮回


レイヴン

 

 

 

夜の空気が、肺に刺さるほど冷たかった。

闇は深い。街の灯りは届かない。

そこはもう、人の領域ではなく “山” の領分だった。

 

三人は駆けた。

舗装の切れた地面が、急に獣道へと質感を変える。土が沈み、枯れ枝が折れ、足音が森に吸い込まれる。

 

「足止めるな! 山に入った方がまだマシだッ!」

 

息を切らしながら九郎が言う。

声だけは落ち着いている。だが、肩で荒く吸う息が、隠しきれない消耗を教えていた。

背後で、追っ手の怒号が割れる。

 

「逃走だ! 外へ出たぞ!!」 「捜索班、外周展開! 犬を回せ! 魔道照明、急げ!」

 

光が増える。

白いサーチライトが闇を切り裂き、木々の骨格を剥き出しにする。

 

セリナは手を握りしめられたまま、ただ必死について行くしかなかった。

足がもつれそうになるたび、迅花の手が引く。

その力は意外なほど強く、必死で、そして震えていた。

 

(怖い。怖い。でも手は、離さない。)

 

森が深くなるほど、空気は湿り、匂いが変わる。

夜露と土と、見えない獣の気配の匂い。

 

「ここからは声、出すな。音も、影も、全部敵になる」

 

九郎が振り返りもせず、低く言う。

 

その言葉と同時に、彼の気配が変わった。

街で見せる男でもない。笑って軽口を叩く保護者でもない。

――戦場の男の気配。

迅花も無言で頷き、口唇をきゅっと噛む。

 

遠くで、犬の遠吠えが響いた。

魔術灯の光が森を舐めるように揺れ、木々の隙間を縫って迫ってくる。

 

「……見つかったら終わり?」

 

セリナが、喉を焼くような声で囁いた。

九郎は短く答える。

 

「見つかったら“戦場”だ。だから――まだ戦場にするな」

 

足元の落ち葉が、雨のように鳴る。

三人の影が、夜の森へ、さらに深く飲み込まれていく。

背後では、確実に網が組み直されていく音がした。

怒号。道具の金属音。犬の鳴き声。

彼らは逃がす気がない。

 

呼吸だけが、生の証のように胸を叩く。

逃走は続く。森は終わらない。夜も終わらない。

そして――追跡は、まだ一歩も緩んでいない。

 

 

 

森が震えた。

ただの追跡じゃない。

組織が本気で“逃がさない”と判断した時の音が、闇の中で形になる。

短く鋭い命令声。重い靴音が地面を刻む。

足並みが揃っている――素人の走りじゃない。訓練された“狩人”の走りだ。

 

「……来たか。精鋭班だな」

 

小さく吐き捨てるように九郎が言う。

次の瞬間。

森の奥が、突然、“昼間”になった。

 

――白光。

 

木々の影が逆さに跳ねる。

輪郭が焼き切れるほどの強烈な魔術灯が森を照らし、夜を暴力的に剥ぎ取る。

 

「照明展開完了!」 「影、逃走方向に集中!」 「犬、放て――!」

 

逃げ場が削られていくのが、音になって理解できた。

セリナの呼吸が乱れる。

指先が震えて、迅花の手を掴む力が更に強くなる。

 

(やだ、やだ……!全部、見られてる……森なのに逃げ場がない……!)

 

九郎が振り返らず低く言う。

 

「――顔を伏せろ。目、閉じとけ。歯、食いしばれ」

 

その言い方が妙に現実的で、セリナは反射的に従った。

迅花も、何が起きるかは分からないが――この男が言うなら必要な事だと分かっている。

 

九郎の足が止まる。

息をひとつだけ吸い、吐き、静かな声で詠唱が零れた。

 

「―――――《LJÓS・RÚN》

光はここに。闇を裂き、敵の目を焼け。俺の道だけ残せ――」

 

黄金の紋様が空間に浮いた。

ほんの一瞬。

文字通り “一呼吸の間” だけ。

 

爆ぜた。

 

世界が、爆発的な光に貫かれる。

音より先に“白”が来た。

視界という概念そのものが消し飛ぶ強烈な閃光。

肉を叩くような衝撃波が葉を震わせ、森が白い海に飲み込まれる。

 

「ッ――!?」 「視覚焼け! 目が……!」 「遮光! 遮光しろ!!」

 

怒号が悲鳴に変わる。

照明は意味を失い、光は暴走し、

森は――逆に“完全な混沌”になった。

 

九郎は迷わない。

 

「今だ。走れ!」

 

迅花がセリナの背を押す。

ほとんど転がるように、三人は闇の奥へ飛び込んだ。

 

視界を奪われた追撃班と違い、

九郎の瞳の奥にはまだ淡い残光が燃えている。

代償を伴う魔術の余韻――それでも前を見るだけの強さがある。

 

木々の間を縫い、

人が通るための道ではない斜面を踏み潰し、

息を殺し、音だけ前に置いて走る。

 背後で、精鋭達が回復し始める気配があった。

 

「照明再展開! 逃走方向ロスト!」 「犬が嗅ぎ切れない! 風向きがズレた!」 「……チッ、完全に翻弄されたかよ」

 

森は再び夜に沈む。

光が去った闇は――さっきよりも濃かった。

 

セリナは息を吐いた瞬間、自分が泣きそうになっている事に気付いた。だが泣かない。泣く暇はない。

ただ一歩一歩を必死に前へ。

 

前を走る男の背中だけが、現実だった。

 

(この人は――逃げるって言って、本当に連れていってくれる)

 

追撃の気配はまだ消えない。ただ、確実に距離は――開いた。

逃走は続く。まだ終わらない。

だが――“捕まる未来”は、今この瞬間、確かに遠ざかった。

 

森が、音を持ちはじめていた。

 最初はただ、風の音と同じだと思った。

枝が揺れて、草が擦れて、遠くの動物が逃げるだけの気配。

 

――違う。

 

それは、規則だった。同じリズムで刻まれる“踏み込み”。

荒れない呼吸。どこかで短く飛ぶ、命令の声。

 

「速度維持」 「前、切る」 「追いすがれ」

 

軍隊に近い整然さ。ただ走っているだけじゃない。

セリナの背中を、冷たい汗がつうっと落ちる。

怖い――な

 

「迅花」

 

短く呼ばれただけで、胸の奥が強く掴まれる。

声は静か。叫びでも怒鳴りでもない。

だが、その静けさの奥に、鉄の味を含んだ戦場の温度がある。

 

「セリナを連れて先に行け。止まるな。絶対に走り続けろ」

 

「……でも――」

 

反射で返しかけて、迅花は言葉を飲み込む。

九郎が振り返る。その横顔は、一秒前まで“護る男”だったのに、

今は明確に“戦場”の顔になっていた。

目が冷えているわけではない。

逆だ。静かで、落ち着いて、一切の迷いが削ぎ落とされている。

命に慣れてしまった人間の、目だ。

 

「命令だ。行け」

 

短い言葉。けれど、弟子として、戦闘屋の背中を見てきた身として、拒否が許されないことを骨が理解する。

 

迅花は、唇を噛んで、

 

「……了解しました」

 

それだけ言う。セリナの手を掴み、夜の森を駆け抜ける。

振り返らない。振り返った瞬間、

もう“戻れないもの”を見る気がして。

 

 

 

 

二人の足音が遠ざかる。

森が、九郎を飲み込む。森が、静かに形を変える。

追われる音の森から――狩る側のための森へ。

九郎はゆっくりと息を吐いた。

一歩、前に出る。それだけで、空気の密度が変わる。

戦場の空気だ。

 

六。

呼吸の間隔で数える。

足音、踏み込み、距離――すべてがはっきり見える。

鵺ノ宮の精鋭。迷いがなく、連携を信じ切っている足取り。

 

「――来い」

 

ただ、それだけを言った。挑発ではない。戦いの宣言でもない。

「ここで終わる」と淡々と告げる言葉。

 

最初の影が木陰から飛び出す。

捕縛具を広げたまま、寸分の迷いもなく間合いを詰めてくる。

狙いは殺しじゃない。“無力化”して持ち帰る手だ。

 

ナイフが静かに傾く。

ジャケットの影で光らないよう角度を殺したまま、

刃だけが森の空気を割る。

 

最初は音がない。

刃が、喉の皮と軟骨を横に裂いた音はほとんど音として成立しない。

男の喉から息が漏れるより早く、九郎の手が後頭部を掴み、

木へ叩き付ける。今度は音が出る。骨と樹皮がぶつかる、重たい音。身体が崩れる前に、喉を押さえた掌の下から温い血が噴き出す。男は声にならない音を吐いたまま、沈む。

 

二人目は止まらなかった。

仲間が死んだ瞬間の“理解する時間”を切り捨てて踏み込んでくる。

優秀だ。だが――

一歩目で懐へ入らせない。

二歩目で武器の軌道を殺す。

三歩目で――命が終わる。

 

横から入る蹴撃を、刀身の背で受け流す。

刃を立てない。切らずに“逸らす”。同時に左手が伸び、顎を掴む。

そこで刺さる。

短刀が、鎖骨の下から沈む。骨と肉の隙間を探すように、

迷いゼロの深度で、心臓方向へ一直線。息を吸わせない。

悲鳴を作らせない。捩じる。肉が中から押し分けられ、

血が刃にこびりつく。男の目の光がすっと消える。

 

三人目が躊躇した。

ほんの半拍。

それだけで十分だ。

 

「迷うなよ。命懸かってんなら」

 

独り言みたいに呟いた瞬間――影が崩れる。

ナイフの腹で手首を叩く。武器が落ちる。拾わせない。

踏み込み、膝を蹴り砕く。崩れた顔面へ、柄頭を叩き込む。

砕ける音がする。倒れる前に胸へ一突き。肺を潰すように刃が沈む。血が溢れる。男が地面に吸い込まれていく。

 

森に散った残り三人が動きを変える。

包囲に意識が向く。〝狩りの感覚〟から〝生還の思考〟へ一瞬揺れる。――その揺れは、戦場ではただの隙だ。

 

木の陰が揺れる。

九郎がいたはずの場所から、もういない。気付いた時には、背後にいる。

 

腕を掴む。肩を外す。ナイフが肋骨の隙間に滑る。

抵抗させない。殴り合わない。勝負しない。ただ、“終わらせる”。

血の匂いが濃くなる。鉄と湿気の混じった匂い。

湿った土が吸い込みきれず溢れる、現実の色。

叫びはない。悲鳴は途中で遮られる。

声というものが成立する前に、人間としての構造が壊されていく。

 

最後の一人。

息が荒い。だが、逃げない。――いい兵だ。

ほんの一瞬、互いの視線が合った気がした。

九郎は、何も言わない。感情を入れたくない。入れてしまったら、

“人として見てしまう”から。

 

足音が一歩踏み出され、そこで終わる。

刃が、喉元で止まらない。貫通する。

後ろの木の幹に、血と温度を残して影が崩れる。

 

森が、静かになる。本当の意味で、静かになる。

風が、血の匂いを運ぶ。森はそれを飲み込む。

誰も弔わない。誰も名前を呼ばない。ただ、死だけが残る。

 

九郎は手袋の上から指先を見る。血が付いている。

樹皮で拭う。落ちきらない赤が、かすかに残る。

 

ほんの一瞬、目を閉じる。

そして、開く。

 

いつもの顔になっている。

 

「……行くか」

 

それだけ呟き、確認するまでもない。誰も動かない。視線を前へ戻す。

何も振り返らず、ただ、山道を駆ける。

迅花たちの逃げた方向へ、音もなく歩き出した。

 

 

 

――森の影が揺れて、そこから九郎が歩いてきた。

 

夜明け前の蒼い空気の中、

走り疲れて荒い呼吸のまま待っていた二人――迅花とセリナ――が同時に顔を上げる。

最初に声を出したのはセリナだった。

胸の奥がほどけるような安堵の吐息と、涙のような笑み。

 

「……ほんとに……来た……」

 

震えがほどけ、膝が少し抜ける。

それでも倒れるまいと笑う彼女の横で、迅花は一歩だけ前に出た。

 

九郎が近づいてくる。ゆっくりとした足取り。

無事だ。息は乱れていない。怪我もしていない。

 

――なのに。

 

空気が変わる。

彼の体から漂う匂いが、森の湿り気に逆らって主張する。血。

乾きかけの鉄の匂い。まだ温度を持った生臭さ。

森が吸い込んでも消しきれない色。

迅花の喉が、ごくりと鳴った。

顔をしかめるほどの強烈さではない。慣れているとも言えない。

ただ――知ってしまっている匂い。その匂いが何を意味するかを。

 

九郎は何も言わない。

ただ二人の前で立ち止まって、いつもの調子で軽く顎を動かす。

 

「――悪い。待たせたな」

 

それだけの言葉。声色も、態度も、呼吸も、普段通り。

まるで、ただ少し遅れただけのように。

けれど迅花の胸の奥では、別の重さが落ちていた。

 

(……全部、ひとりで)

 

彼の手は空だ。銃も抜かれていない。

服に目立つ血はついていない――だが完全に消しきれていない濃度が、現実を物語っている。

 

迅花は平静を保とうとして、唇を噛む。

言葉にしてしまえば、九郎が選んだ現実を“責める”事になる。

止める資格は、自分にはない。

それでも――胸の奥が締め付けられる。

 

セリナはまだ気づいていない。ただ安堵と戸惑いの中で九郎見ている。迅花は、一瞬だけ彼から目を逸らした。目の奥が熱くなるのを必死に飲み込む。

 

九郎が、ほんの少しだけ視線を迅花へ向けた。

何も聞かない。何も言わない。ただその目だけが、

“分かっている”と告げていた。迅花はゆっくりと息を吐く。

小さく首を振り、何も言わず前を向いた。

 

「……行きましょう。ここ、もう長くはいられません」

 

声は震えていない。戦闘屋の弟子としての声音。

ただその奥に、痛みが微かに滲んでいただけだった。

 

九郎は、それ以上触れなかった。三人は朝へ向かって歩き出す。

血の匂いだけが、森に置き去りにされていった。

 

 

 

 

 

 

 

土の匂いが薄れ、地面の感触が変わった。

踏み抜く度に沈んでいた腐葉土が終わり、代わりに――硬い砂利が靴底を打つ。木々の密度が緩み、視界が横へと広がる。

そこで、三人は同時に理解した。――ここが“外”だ、と。

 

林道。山の腹を削り、人工の直線で貫く一本の道。

森よりも開けている。 けれど街ほど人の匂いがない。 自然でもなく、文明でもない中間地帯。

普通の人間にとっては“助かった”と胸を撫で下ろす場所。

――だが今の彼らには違った。

そこにあったのは救いではなく、終着点だった。

 

夜は明け始めている。東の空が鈍い橙に染まり、

半端な朝が、世界をはっきりと見せつける。そして朝は、容赦なく照らした。

林道一帯に築かれた――“人間の壁”。

一直線の道に合わせて組まれた、理想的な遮断線。 左右の斜面にも点在する影。 背後の森にも回り込む気配。

逃げ場は無い。真正面から「詰み」を提示された陣形だった。

 

黒い防刃外套。符札を束ねた帯。

銃器ではなく、妖異用の槍や術具。呼吸ひとつ乱さぬ立ち姿。

半端ではない戦闘者の気配が、風景そのもののようにあった。

数ではない。質だ。

ここにいるのは――本物だけ。現場処理や追跡担当ではない。

 

“失敗が許されない局面を処理するための人間達”。

 

鵺ノ宮の精鋭。

 

九郎の瞳が、薄く細められる。迅花の喉が、静かに鳴った。

セリナは何が起きているのか分からぬまま、ただ背に重く伸し掛かる圧力に息を止めた。

 

包囲は完全だった。前にも。斜めにも。

そして森の内部側にも、逃げ道を潰すよう静かに展開している気配がある。

扇形の包囲ではない。輪だ。

“逃がす気は一切ない”という意思が、陣形の形そのものに刻まれていた。

 

ざ、と風が鳴る。

音ではないのに、そう聞こえるほど重たい沈黙のあと――

最前列が一人だけ、静かに前へ出た。

 

年齢は三十前後。

装束は他の退魔師と同じだが、纏う空気が違う。

弱い者特有の威圧ではない。強い者だけが持つ“静かさ”。

 

視線が九郎を貫き、迅花を測り、最後にセリナを見た。

その瞬間、輪の外周全体の“狙い”が、同時に一点へ収束したのが分かった。

――狙われている。標的は、一番後ろで震える蒼い髪の女。

 

「ここまでよく逃げた」

 

穏やかな声だった。怒鳴りもしない。

だが、慈悲もない。ただ“事務的”な声。

 

「鵺ノ宮だ。女を引き渡せ」

 

その瞬間、空気の温度が一段階落ちたように感じた。

セリナの肩が、びくりと跳ねる。迅花が一歩前に出る。

九郎は言葉もなく静かに立つ位置を微調整した。

 

包囲が狭まる。足音は無い。距離だけが、確実に詰まる。

 

逃げ道は――ひとつも無かった。

空気が張り詰めたまま、風だけが草を揺らす。

前に出た鵺ノ宮の幹部格の男は、まだ武器を抜かない。

ただ見ている。測っている。その視線には、冷たい判断が宿っていた。

 

九郎がほんの僅かだけ顎を上げる。

敵の数を、配置を、距離を――無言で読み取る。

 

「……鵺ノ宮、ね」

 

低く呟く声は、苛立ちが底に沈んだような音だった。

男は九郎を見据えたまま、淡々と告げる。

 

「我々は任務で動いているだけだ。その女は“資源”だ。価値がある。こちらが持って行く。それだけの話だ」

 

セリナの喉が詰まるような音を立てた。

迅花が僅かに振り返り、彼女の手を握る。

 

九郎は鼻で笑った。

乾いた、呆れたような、しかし静かな怒りを含んだ笑い。

 

「“資源”ねぇ。便利な言葉だな。

女と子供をモノ扱いした連中が、昔からよく使ってきた言葉だ」

 

幹部の男の眉がわずかに動く。

周囲の退魔師たちの視線が、九郎ひとりに集中する。

 

「忠告しておく」

 

男は静かに言った。

 

「この包囲は閉じている。逃げ道はない。

君が誰であろうと関係ない。戦っても、結果は変わらない」

 

その声音には、自信があった。慢心ではない。

“積み重ねた実戦の裏付け”がある男の声だった。

 

九郎は一歩だけ前に出た。

包囲網が、それに反応して揺れる。指先がわずかに術符へ伸び、呼吸が揃う。――殺気はまだ出していない。

だが、“準備”だけは整った。

 

九郎は唇だけで笑った。

 

「忠告、ね」

 

低く言い返す。

 

「俺もひとつ忠告するよ。

俺は――お前らみたいに、女を喰い物にする連中が、心底嫌いなんだ」

 

柔らかい声だった。だが、底の温度は氷のように冷たかった。

幹部の男の目が、わずかに細くなる。

 

「立場を理解しろ。これは仕事だ。我々は“任務”を遂行する。

君の個人的な感情より、組織の判断の方が重い」

 

「知るか」

 

九郎は即答した。

その言葉は短く。しかし一切の揺らぎがなかった。

 

「俺にとっては、守るって決めた女の方が重い。それだけの話だ」

 

包囲の空気が――濃くなる。

退魔師たちが一斉に重心を落とす。

幹部の男が、やっと初めて“戦いの目”をした。

 

「……いいだろう。ならば力で決めるだけだ」

 

「最初からそのつもりだよ」

 

九郎は背後の二人を振り返らない。

ただ前だけを見据えたまま、微かに肩を回した。

 

その背中を、迅花は見つめる。

――これが、戦闘屋《レイヴン》の背中。

迅花はただ、その背中から目を離せなかった。

逃げろ、と言われなくても分かっていた。

言葉にされるより前に——あの背中が命令していた。

 

 

男は前を向いたまま、息を吐いた。

 

「ここから先は――」

 

視線だけで前線を射抜く。

 

「俺の戦場だ」

 

幹部の手が、ほんの僅か動いた。

 

合図。

 

次の瞬間――地獄が、動き出す。

 

 

九郎が踏み込む。一瞬で間合いが潰れる。

手首が砕けたような音。喉が潰れる鈍音。

男は声にならない息を吐き出したまま崩れた。

同時に左右からも影が走る。

刹那、衝突。腕と腕がぶつかる。骨と筋肉が軋む音。

土が抉れ、体が弾かれ、また踏み込む。

九郎は、ひとりで戦場の焦点になった。

世界があの背中を中心に回り始める。

 

迅花は反射で唇を噛む。セリナはただ硬直する。

倒れた音が合図になった。残りの精鋭全員の照準が、

絶対的な敵として——九郎だけに集中する。

その中心で、九郎は一瞬だけ微かに顎を上げた。

挑発でも虚勢でもない。戦場を知る男の視線。

 

「来いよ。俺で手一杯にしてやる。」

 

低く掠れた声。

感情の余分を切り落として残った芯だけの声。

背中は振り返らない。

けれど、その背中の輪郭が雄弁すぎた。

言葉にすれば壊れる気がして、迅花は何も言えない。

走らなきゃいけない。でも、足が一瞬だけ動かなかった。

喉の内側で名前が鳴る。声にならないまま震え続ける。

男は振り返らない。だから、信じて走るしかない。

足が動いた。森へ駆け出す。

最後に、ほんの一瞬だけ——背中が笑ったように見えた。

それが胸に焼き付いたまま、迅花は走った。

戦場には、九郎だけが残った。

 

右手の拳銃が、最短距離で一度だけ吠える。 2人を追おうとする精鋭の目前を突き抜ける。

足が止まる。止まらされる。

包囲は崩れていない。 人数もまだ多い。 圧は残っている。

だが――

誰も、後方へ走る二人へ向けて、決定的な追撃に踏み込めない。

踏み込もうとする者の前に、必ず――九郎が立っている。

 

位置取りが速いわけではない。 派手な技ではない。

ただ、そこが塞がるべき場所に、必ずいる。

 

拳銃が、また一度だけ鳴る。 足元。

ナイフが走る。 腕。

背で、動きで、意図を晒す。

逃走方向に割り込もうとする者が出る前に、

九郎自身が“目立つ餌”になった。

 

前へ踏み込んでくる鵺ノ宮の精鋭達。

全員が“ここで終わらせる”と理解している顔だ。

 

——いい判断だ。逃がしたくないなら、まず俺だ。

 

包囲の足音が一斉に変わる。 距離が詰まる。 射線が重なる。

九郎は止まらない。 横へ。

林道の僅かな勾配を利用し、重心を落とした男の正面を――通り過ぎる。 真正面に立たない。 全て、斜め

止まった瞬間、すでに遅い。

ナイフが回転する。 刃は寝かせる。 腱だけを、的確に断つ。

悲鳴は短い。 立てなくなる。

 

もう一人、正面から踏み込んでくる。

九郎は迎え撃たない。 流す。

肩で受けない。 拳で止めない。

ただ、足首を払う。 林道の段差がそのまま武器になる。

体勢が崩れた顔に――拳銃のグリップが叩き込まれる。

頭が傾く。 視界が傾く。 身体が落ちる。

 

符が裂ける音が広がる。 術式が組まれる。

九郎は走らない。 跳ばない。 前を切り裂く。

術式の初動だけを潰す。 掌底で呼吸を止め、 肘で顎を砕き、 踵で膝を折る。全て一撃。 全て最短。

 

 

鴉が群れを引き裂く、一瞬だけ振り返る。

遠く——細く揺れる二つの影が、まだ走っていた。

それを見て、ほんの僅かだけ、肩の力が抜けた。

 

迅花とセリナの気配が遠ざかった瞬間、九郎は呼吸を一つだけ整えた。

背後の足音は確かに遠ざかる。

林道を駆け下りる足音が、森の奥へと完全に消えた。

呼吸も、衣擦れも、枝を掠める音も……何一つ残らない。

二人は、もう戦場にはいない。

 

(⋯よし)

 

九郎は、ほんの短く息を吐いた。それは安堵でも油断でもない。

“制限が外れた”というだけの、冷たい確認。

 

視線が前へ戻る。

鵺ノ宮の退魔師たちの間に、一瞬だけ“遅れ”が走っていた。

彼らも理解していた――標的の優先順位が、「蒼井セリナ」から、「この男」に完全に書き換わってしまった事を。

だが、理解したところで意味はない。

ここから先は、“戦術”ではなく、“狩り”だ。

 

包囲が締まり直る。 前衛が左右へ展開し、術式の射線を確保しようと陣形が動く。――その動き自体が、既に罠だった。

九郎は林道の中央から一歩退いた。

舗装もされていない粗い砂利道の、端へ。

 

木々が肩口近くから迫り出す、半分“森”に踏み込んだ位置へ。

退魔師たちの視界が、一瞬だけ不規則に揺れた。 林の影と、陽の出かけた淡い光が作る濃淡。

 

術符の構えと、味方の陰が重なる角度。それだけで、狙いは狂う。

一番速く動いた男が、そこにいた。

林道の“平地”の理屈で間合いを詰めようとした彼は――

次の瞬間、自分の足が「地面に固定されていない」事を理解した。

土ではない。

木の根だ。 浅く浮き上がった巨大な木の根が、足裏の感覚を奪う。 踏み込むつもりの体重が、吸い込まれる。

 

その喉元に、冷たい線が走った。

男が倒れるより先に、九郎の身体はもう別の位置にある。

“倒れる人間の影”を、別の退魔師の視界にわざと被せて通過する。

視線が逸れる。

射線が滲む。

判断が、半拍遅れる。

そこに刃が入る。

右でも左でもない。 真正面でもない。 「人が身体を守ろうとする中心線」から、絶妙に外れた軌道。

致命傷だけを選び、最短の距離で穿つ。血飛沫は派手に上がらない。破裂音も、断末魔もほとんど無い。

ただ“命”だけが、一つずつ、静かに落ちていく。

 

焦れた退魔師が術を構えようと一歩踏み出す。 その瞬間、九郎は林道の斜面に身を預け、あえて足を滑らせるように落ちた。

“転倒”に見える。

反射で追撃に踏み込んだ者の背中が――

彼の真正面を空ける形で、味方の術式の射線に入る。

仲間の術が止まる。 その止まった「間」に刃が滑り込む。

喉。

鎖骨の下。

肋骨の隙間。

膝の裏。

頸動脈を外してなお死ぬ場所だけを、迷わず刺し抜く。

殺すためではない。

“戦闘力を奪い、二度と戦場に帰ってこれない身体にする”ための刃だ。

 

ほんの数十秒。

林道に、不可解な図形が浮かび始める。

倒れた体の向き、倒れた位置、血の広がり。

それらが、味方の動線を塞ぐ形で自然に配置されていく。

誰も、前へ出られなくなる。

出れば、視界を犠牲にする。 出なければ、射線が通らない。 術を撃てば、味方を巻き込む。

人数の理が、環境に溶かされて消えていく。

退魔師たちの呼吸が、初めて乱れた。

 

九郎は、ただ淡々と歩いていた。 走らない。 叫ばない。 威嚇しない。仕事をしている、ただそれだけの足取りで。

その手には、血に濡れたナイフ。 その指には、拳銃。

 

まだ朝は来ていない。 しかし東の空は、確実に明るくなりつつあった。

夜の終わりと共に――

林道は、静かに、確実に“死の領域”へと変わっていく。。

 

 

朝の気配が滲み始めた林道は、構造そのものが“罠”のようだった。

傾斜。湿り気の残る土。

木の根が地表を縫い、身体を支えようとする足を狡猾に奪っていく。その地形の中で――精鋭が、落ちていく。

幹部は見た。小柄な影が、木から木へ移った。

ただそれだけだった。

 

踏み込みの音すら曖昧なまま、影が一瞬だけ輪郭を持ち、次の瞬間には別の枝へと消える。

 

そして――前列の若い退魔師が、一歩踏み込み、

その足が“地面に拒まれた”。

土は固くない。

乾いてもいない。

微妙に柔らかい地面が膝を奪い、

その瞬間、首筋が閃き、男は無言で崩れ落ちた。

声は上がらない。

悲鳴になる前に、息が止まる。

また影が移った。今度は斜面を跨いで、対岸の木へ。

高さが違う。射角が合わない。

反応した味方の足が、木の根に引っ掛かる。

一瞬、体幹が揺れる。その一瞬のズレに、奴は迷わない。

また、ひとり。

崩れる。

沈む。

 

“やられた”という理解さえ許されない速さで静かに落ちていく。

――理解できない、ではない。

理解した途端、寒気が走る種類の現実だった。

 

幹部は悟る。この地形を、奴は“読んでいる”。

傾斜が脚を奪う事を知っている。

木の根が足場を狂わせる事を知っている。

人が列で動く時、互いの身体が“邪魔になる瞬間”を熟知している。

 

そして、小柄だから届く“隙間”だけを選んで移動している。

普通の体格では潜れない枝の網目。

幹と幹の狭間。踏み込んだ瞬間に体幹が崩れる土の柔らかい部分。

そこを、“戦場の通路”として使っている。

追えない。

狙えない。

こちらが足場を固めている間に、奴はもう“次の場所”へ移っている。

影が動く。場所が変わる。

それだけで、必ず誰かが倒れる。

斜面が踏み込みを奪う。

木の根が膝を崩す。

仲間の肩が射線を塞ぐ。

隊形を保てば保つほど――

“こちらの数”が、あちらの味方になっていく。

 

妖怪は圧で殺す。

圧倒的な力で捻じ伏せる。

だが、これは違う。

圧はない。

妖気もない。

ただ、

この世界の物理と地形、そのすべてを 『武器として扱えるだけの現実的経験』がある人間の殺し方。

だからこそ、怖い。

理不尽な怪異なら諦められる。

説明不能なら、運命に責任を押し付ければいい。

だが――これは全部“説明できる”。

“理解できてしまう”。

だから、逃げ場がなくなる。

小柄な影が――また木を渡る。

朝靄の中を、黒が一瞬走る。

その瞬間、別の退魔師が斜面で足を滑らせた。

立て直そうとした身体の隙間に、

何かが柔らかく潜り込み、生命が静かに途切れる。

幹部の喉が、乾いた音を立てた。

影が動いた。

また一人倒れた。

理解が追いつくたび、

心が凍る。

これが――戦闘屋《レイヴン》 か。

背筋を、汗がひやりと伝った。

 

心が静かに削られていく感覚を、幹部退魔師は誤魔化しきれなくなっていた。

朝靄の林道で、本来なら盤石であるはずの布陣が、音もなく崩壊していく。

精鋭だ。 ただの構成員ではない。

“失敗が許されない現場のために鍛えた選抜中の選抜”。

 

それが――数ではなく、“意味”ごと削られていく。

歯を噛み締める。

 

(……ふざけるな) 

 

叫びではない。怒鳴りではない。

喉の奥で低く、獣のように唸る怒気。

 

(なんだこれは。ただの人間だぞ……妖怪でも、怪異でもない……

 ただの、“人間”だ……!)

 

だからこそ恐ろしい。

怪異なら理不尽で済む。

“異常”として切り捨てられる。

だが、これは違う。

“理屈で説明できる敗北”だ。 “理解できる損害”だ。

そして――

理解してしまった瞬間、その責任は“現場指揮官”に降りかかる。

 

(こんな損耗……通る訳がない)

 

人魚の価値は計算されている。

用途も、研究価値も、将来的な利用も、全部だ。

だからこそ、最初から「必要な戦力」は用意してある。

――だが。

 

(この損害は……見合わない)

 

もう、超えている。 人魚一人を得るために払っていい“想定損害”など、とっくに突破している。

訓練費用。

運用コスト。

失われる戦力の穴。

組織が構築してきた長年のリソース。

 

そして――“精鋭中の精鋭”という看板そのものの価値。

それらが、たった一人の男に、静かに剥がされていく。

小柄な影が、また木を渡る。

 

(……畜生)

 

喉の奥で、乾いた笑いが漏れそうになった。

 

(これが、レイヴン……か)

 

認めたくなくても、認めざるを得ない。

怪異よりタチが悪い。“現実”を武器にする戦場の人間だ。

幹部は息を吐いた。 苛立ちではなく、判断のための呼吸。

 

(――退く)

 

それは敗北の言葉ではない。 組織人としての、生存の判断。

ここで更に戦えば、精鋭は本当に“壊滅”する。

 

(商品価値どころの話ではなくなるな……)

 

冷たく頭が動く。

“失敗”より“壊滅”の方が罪は重い。 回収不能な損害は、組織を毀損する。

一瞬目を閉じ、短く舌打ちして――決断する。

 

「――撤退だ」

 

声は低く、しかし迷いがなかった。

命令は静かに広がる。 崩壊しつつあった前線が、すぐさま形を変えて後退の動きへ切り替わる。

歯を噛み締める音が、己の頭蓋に響く。

 

(クソ……覚えておけ。この借りは――“組織”が必ず取りに行く)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

林道に残された空気だけが、静かに震えていた。

朝が、完全に来ていた。

夜と朝の境目だった世界は、もう迷わない。

光は迷いなく林道を照らしはじめ――

その光がまず映したのは、“現実”だった。

倒れ伏す黒装束。捻れた四肢。血に染まった土。

折れた符札と散乱する術具。

惨敗の風景。

 

その中心に、九郎は立っていた。

肩は揺れない。息も荒くない。

ただ“そこに在る”だけの立ち姿。

異様なほど、静かだった。

指先に、血のぬめり。掌に、濡れた重み。

裾に、暗く張りつく赤。

九郎は、少しだけ眉を寄せる。

不快だからではない。

“邪魔”だからだ。

そこに感情はない。

近くの木へ手を伸ばす。

荒い樹皮が掌を削ぎ、湿った赤を奪っていく。

抉るように擦り、戦闘の残滓を削ぎ落とす。

習慣の手つきだった。

次に、ナイフ。

刃渡りは血を吸い、鈍く濡れている。

布で拭う。

ためらいも、儀式めいた敬虔もない。

ただ“次に使える状態に戻す”。

布が赤を飲み込み、刃が光を取り戻す。

朝日の反射が、九郎の顔を照らす。

そこに――なにもなかった。

怒りも。

勝利の実感も。

救った安堵すらも。

ただ、感情を削ぎ落とされた“機能”の顔。

乾いた目。

焦点のズレた視線。

戦闘のためだけに在った心の空洞が、まだ埋まらない。

刃を鞘へ戻し、林道を見渡す。

数えない。

確認しない。

ただ、“終わった”という事実だけを受け止める。

 

風が吹く。朝の匂いが戻る。

――その匂いが、胸の奥を、ほんの少しだけ揺らした。

九郎は、ゆっくり目を閉じた。

深く吸う。静かに吐く。

ほんの数秒。

戦闘屋《レイヴン》だけだった世界に、

音と匂いと体温が、戻ってくる。

そして――目を開いた。

そこにあったのは、

ようやく“人間”の輪郭を取り戻した顔。

疲労があり。

痛みがあり。

苛立ちも、情も、ちゃんと戻ってきた顔。

 

九郎は小さく息を整えただけで、

何も言わず、踵を返した。

朝の光の中へ歩き出す背中は、もう“機械”ではなかった

その光がまず映したのは、“現実”だった

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

朝が、完全に来ていた。

夜と朝の境目だった世界は、もう迷わない。 光は迷いなく林道を照らしはじめ――

林を抜けた風が、冷たい汗を撫でていく。

朝焼けが木々の上を薄く染めはじめていたが、その温度はまだ身体に届かない。

迅花は走る。呼吸は乱さない。

足音も必要以上に鳴らさない。――けれど、速度は落とさない。

耳を研ぎ澄ませ、背後の気配を拾い続ける。

追撃の足音。

術の気配。

葉擦れの違和感。

……ない。

だが、それを“安心材料”として受け取れるほど、楽観はしない。

 

(……まだ分からない。あの連中は、静かに詰めてくる)

 

横でぎこちなく息を整えながらついてくる少女がいる。

セリナだ。

脚は震え、喉は乾き、視線は何度も背後へ吸い寄せられる。

それでも離脱の速度を崩さないのは、恐怖だけではなく――

“信じようとしている”からだ。

 

「……ねえ……っ」

 

声が掠れる。それでも言葉にした。

 

「……九郎さん、……大丈夫……なの……?」

 

迅花はすぐには答えない。

森の影を一瞥し、呼吸をひとつ整えてからようやく口を開いた。

 

「大丈夫ですよ」

 

言葉は、強く。迷いなく。だが胸の奥では、別の声が生まれる。

 

(大丈夫なはずだ。

 あの背中は――“死ぬ気の背中”じゃなかった。

 私達を逃がす為に、“勝つ前提”で戦う背中だった)

 

信じている。疑ってはいない。――はずなのに。

胸の奥に、微かな冷たい針が一本だけ残る。

 

(……でも。

 鵺ノ宮の精鋭が、本当に“ただの人間”ひとりで収まる相手か?)

 

喉の奥に、答えの出ない不安が張り付く。

セリナが小さく唇を噛む。

 

「……ほんとに……?」

 

迅花は、表情だけは崩さない。

 

「ほんとです」

 

短く、はっきり言う。

自分の耳にも、少しだけ無理をしている響きが聞こえた。

だが、それでも言う。

 

「――あの人は、そういう人です」

 

走り続ける足取りは止めない。ただ、胸の中だけで静かに祈る。

 

(……九郎さん。信じてますから。ちゃんと――戻ってきてください)

 

風が朝の匂いを強め、遠くで鳥が鳴いた。

それでも二人は走る。

追撃がないことを確かめながら――

“まだ、安心してはいけない”と理解している速度のままで。

 

 

 

木々の密度が薄れ、草の匂いがアスファルトに溶かされていく。

視界の奥に、電柱。その向こうに、民家の屋根。

遠くで車の音がかすかに聞こえ、朝の生活音が世界に色を戻しはじめていた。

 

――世界が、いつもの“日常”に戻っていく。

林の影から飛び出した二人は、その場でようやく足を止めた。

呼吸が乱れる。肺が焼ける。

それでも、振り返る。森はそこにある。

だが――追ってくる影は、ない。

風が吹く。ただの風だ。殺気も、術の痕跡もない。

迅花は、長く息を吐いた。

 

「……ここまで来れば、さすがに追ってこない……と思いたいですね」

 

声は落ち着いていたが、胸の奥で張り詰めていた糸がやっと一本切れた。

セリナはしゃがみ込み、膝に手をついて息を整える。

額に汗。手はまだ震えていた。

 

「……よかった……ほんとに……」

 

言葉の途中で、喉が詰まる。

それでも、涙にはならなかった。

まだ、泣くには早いと分かっている。

数秒。二人はただ、朝の空気を吸い込む。

車が一台、遠くを通り過ぎた。

人の気配。普通の世界。“理不尽ではない側の現実”。

それが、こんなにも温度を持って感じられる事に――

自分がどれだけ恐怖の中を歩いていたかを、ようやく理解する。

セリナが、ぽつりと言った。

 

「……でも……」

 

その言葉に、迅花の胸がまた少しだけ強く締め付けられる。

言われなくても分かっている問いだった。

 

「……九郎さん、来ないね……」

 

音にした瞬間、空気が少しだけ重くなる。

迅花は森の方を見る。木々の連なりが、ただ静かにそこにある。

 

(分かってる。あの人は――“残る”って背中だった)

 

覚悟の背中。

でも、“死ぬ覚悟”ではない。“勝って戻る覚悟”の背中。

信じている。疑う気はない。

それでも心は勝手に不安を作る。

迅花は短く息を吸い、静かに首を横に振った。

 

「……大丈夫です」

 

また、その言葉を言う。

さっきより、少しだけ強く

「絶対、大丈夫です。あの人は――。“帰ってくる側”の人だから」

 

それは信仰ではなく、経験で得た確信に近いもの。

セリナは唇をぎゅっと結び、俯きかけて――それでも顔を上げた。

 

「……信じてもいい、よね」

 

迅花は小さく笑う。

 

「はい。信じるしかないです。……でも、“信じたい”って思えるなら――もう、それで充分です」

 

二人の間に、静かな呼吸だけが落ち着いていく。

朝の光が少し強くなり、世界が完全に「日常」の色に戻っていく。

だが、彼女たちの胸だけは――まだ“戦場”の温度を失っていなかった。

 

 

 

 

 

 

どれくらい時間が経ったのか、分からなかった。

数分にも思えたし、永遠にも思えた。

時計を見る余裕なんてなく、ただ呼吸の数で時間を測っているような感覚だった。

車の音が、ときどき遠くを通る。

鳥の声が戻り始め、日常の音が世界を塗り直していく。

 

けれど二人の胸だけは、その色に馴染まない。

セリナは何度目かも分からない深呼吸をしながら、落ち着かない手つきをしていた。

指を組み、離し、服の裾を触れ、腕を抱く。

止めようとしても、身体が落ち着く事を拒否している。

 

「……遅い、よね」

 

その言葉は弱音ではなく、震える現実確認だった。

迅花は答えない。ただ静かに、森の方を見ていた。

眉一つ動かさない。表情に焦りはない。

だが、目だけが――世界から一瞬も逸らさないまま。

 

(……絶対に来る。でも――“無事で”とは、まだ言えない)

 

信じる意志と、現実の冷徹さが胸の奥でぶつかり合う。

だから黙るしかない。

言葉にしてしまえば、揺らぐ。

風が吹く。

草が揺れる。

朝が進む。

そして――セリナが、息を止めた。

迅花の視線が、僅かに細くなる。

林の向こう。

視界の奥で、影が揺れた。

ひとつ。ただ一つ。

群れではなく、ただ“人”が歩いてくる影。

足取りは重くない。

ふらつきもしない。

ただ、無駄のない一定のリズムで、影は近づいてきた。

光が少しずつ人物の輪郭をはっきりさせていく。

黒に近い外套。乾いた血の色。

肩で軽く息をして――それでも、背筋だけは一切崩れていない。

九郎だった。

その姿が完全に視界に入った瞬間――

セリナの肩から、張り詰めていた何かが一気に抜け落ちる。

 

「……ほんとに……来た……」

 

呟いた声は、泣き出す寸前の安堵を含んでいた。

迅花は、静かに息を吐いた。

長い息だった。胸の奥に溜め込んでいた重石が、やっと落ちる。

何も言わず。泣きもせず。

ただ、ほんのわずかだけ――口元が緩む。

 

“帰ってくる人間”。

 

その確信が、現実になった瞬間だった。

 

 

 

 

 

 

 






Q 鵺ノ宮の精鋭中の精鋭弱くね?

A
対人に特化(怪異と戦えないとは言わない)してる九郎と対妖怪に特化してる人間の差。
完全な平地だったら九郎も危なかった。
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