夕暮れだった。
障子越しの朱が、静かな部屋に長い影を落としている。
香の煙が細く揺れ、その向こうで男が座していた。
鵺ノ宮過激派の首魁――「鵺ノ宮恒一」“家”の血を踏み締め、その狂気を理性の鞘で囲った男。
声を荒げる必要のない種類の人間。
怒りを、上から押し潰すように黙らせる側の人間。
畳の上に膝をついた幹部退魔師は、背筋を伸ばしたまま動かない。
額から一筋、汗が静かに落ちる。
沈黙が続く。
ただの沈黙ではない。
“どこまで事実を飲み込ませるか”を試すような沈黙だった。
やがて――首魁は視線だけを向ける。
「――報告を」
命じる声音は穏やかだった。
しかし、その穏やかさが、かえって胸を締め付ける。
幹部退魔師は息を整えた。
「精鋭の追撃部隊――」
声が僅かに掠れる。それでも言葉は止めない。
「小隊長を含め、戦闘員の三分の二が死亡。
生存者は現在、治療班が回収できた者のみ。
“戦闘継続”どころか、“組織運用”を前提にした戦力維持が困難な損耗です」
座敷に落ちる言葉が重い石のように沈んだ。
首魁は何も言わない。
ただ、扇子を静かに閉じる。幹部は続けるしかなかった。
「敵戦力は――」
言いかけて、喉が固まる。間違えれば命が溶ける場だ。
だが、嘘は――この家では最も重い犯罪だ。
「……“ただの人間”一名。銃火器と刃物、それだけです」
夕陽の色が深くなる。
障子が、まるで血を薄めたような色へ変わる。
沈黙。だが今度の沈黙は、明確に温度を変えていた。
首魁は静かに目を細める。
「名は?」
幹部は即答した。
「レイヴン――。裏の連中の間でそう呼ばれている男です。
……本来、我々の“狩り場”で名を聞くような存在ではありませんでした」
扇子が、音もなく畳の上に置かれる。
「“いずれ対処すべき雑音”程度で済む相手ではない、と?」
「――はい」
幹部の声が低く沈む。
「今回の損害は、“人魚ひとり”の価値を遥かに上回ります。
これはもはや“過激派の案件”では済まない。
“鵺ノ宮”という存在そのものに影響するレベルの事件です」
首魁の瞼が、静かに降りる。
短い吐息。それだけで部屋の空気が冷えた。
「……“家”として“処理すべき問題”にまで、格が上がったということだな」
幹部は頭を深く垂れた。
「はい。レイヴンと事を構えるという事は――
“鵺ノ宮が背負う全て”を敵に回す可能性と同義です」
風が障子を鳴らす。夕暮れが、夜へと移る境目だった。
首魁は短く笑った。愉快ではない。
ただ、事実を確定させるための笑い。
「――面倒だな」
その言葉が、この家における“正式な認定”だった。
これは、ただの狩りでは終わらない。
鵺ノ宮と、戦闘屋レイヴン――
その関係は、もう引き返せない場所に踏み込んだ。
夜の本邸は静かだった。
京都の古い屋敷を思わせる、広く低い天井。
静謐を守るための音のない回廊。
だが――その沈黙は、今夜ばかりは重みを帯びていた。
本家の広間。灯りは最低限。
座卓を挟み、数名の側近が膝をそろえて並んでいる。
その正面。鵺ノ宮“穏健派”の現当主は、湯呑に指を添えたまま、報告を聞き終えたところだった。
誰も口を開かない。空気の温度が一瞬だけ下がる。
やがて当主は、湯呑を置いた。
陶器が卓を叩く音が――やけに大きく響く。
「……精鋭が、そこまで削られたか」
抑制された声。怒りではない。
しかし、“事態の重大さ”だけは明確に含んでいる声音だった。
側近の一人が静かに頭を下げる。
「はい。戦闘継続は不可能。
殲滅ではないにせよ、実質的に“機能停止”と見て差し支えない規模です」
別の側近が続く。
「損害報告はすでに各家中へ共有されています。
“過激派の旗印”は――この件で、ひとまず折れたと言っていいでしょう」
当主は目を伏せたまま、短く息を吐いた。
「痛手だな。……“鵺ノ宮”としては」
一拍置く。それは“責任の視線”ではなかった。
ただ、現実を見据える目だった。だが――
その場に並ぶ穏健派の者たちの思考は、当主と同じ一点に結ばれていた。――同時に、悪くない。
言葉にはならない。しかし空気がそれを言っている。
過激派は、長く肥大化しすぎていた。
“家の力”ではなく“自分達の力”として暴力を積み上げる連中。
口では家の為と言い、実際には野望を優先する者達。
それが――外部の異物ではなく、
“正面からの失敗”という形で削がれた。
当主は、ゆっくりと目を開く。
「過激派の派閥力は――これで一段落ちるな」
側近が頷く。
「はい。彼らは“勝ち癖”で集まってきた人間の集合です。
“負けた”となれば――離れます。従う者も減る。“旗”としての価値は、確実に落ちる」
別の者が苦笑を含んだ声で続けた。
「それに……皮肉ではありますが――我々が直接手を下したわけではありません。“外部の戦闘屋に叩かれた”という形は……穏健派としては、扱いやすい」
空気がわずかに緩む。笑いはしない。
だが、確かな“安堵”がそこにあった。
当主も、唇だけで微かな笑みを浮かべる。
「――つまり」
静かな声で締めくくる。
「鵺ノ宮としては“損害”。穏健派としては“収穫”。そういう事だな」
側近たちが、深く頭を垂れる。
ただ一人――年嵩の側近だけが、そこで言葉を添えた。
「……しかし、当主様」
当主が視線を向ける。
「この結果をもたらした男――
“レイヴン”という存在だけは、軽く見るべきではありません」
当主は、ひと呼吸置いたのち、うなずいた。
「分かっている。“ただの戦闘屋”が残す傷ではない。
過激派が勝手に巻き込んだとはいえ――“鵺ノ宮”は、あの男の記憶に刻まれた。それは事実だ」
湯呑をもう一度持ち上げ、口に運ぶ。
そして、静かに言う。
「……愚かなのは、“無用な敵”を作る者だ。過激派の連中は、またやった。」
――過激派は削げた。
――だが、代償として“非常に厄介な名前”が、家の前に置かれた。
それは、鵺ノ宮穏健派にとって――
“望んだ形ではないが、避けがたい現実”。
その夜、本邸は深い沈黙に沈んだ。
――――――――――
場所は、都心から少し離れた静かな和邸。
門は無駄に巨大ではない。ただ、入る者の覚悟だけを問うような、静かな威圧だけがあった。
神楽坂家――裏十三座のひとつ。
“壊すより、統べる側”の家。
九郎は玄関前で一度だけ息を吐いた。深呼吸ではない。
ただ、怒りを胸の底に沈めるための、短い【整え】。
出迎えに出てきたのは神楽坂の家人。
軽く頭を下げられ、九郎は通される。
廊下は長く、静かで、清潔で――そして、この空間は「感情で喚く場所ではない」と言っていた。
座敷。硝子戸の向こうに庭。
障子越しの光が、柔らかく畳を染める。
その中央に――神楽坂の当主が静かに座していた。
男は武威を誇らない。
だが、“裏”の長としての存在感だけで、空気が締まる。
視線が交わる。挨拶は無い。形式も無い。
これは“仕事”の話だ。九郎が最初に口を開く。
「単刀直入に言う。
鵺ノ宮の過激派が、“一般人の娘”に手ェ出した。
混血だろうが何だろうが――“裏の覚悟も持たないただの娘”を、“資源”扱いだ。……ルール違反だろ」
言葉は静か。怒鳴らない。だが、奥底には刃がある。
神楽坂当主は目を細める。
「……鵺ノ宮の件は、こちらにも報せが来ている。精鋭部隊が壊滅。林道で“戦闘屋”が暴れた、とも」
「暴れた、ね」
九郎は、少しだけ口端を歪めた。
「必要だっただけだ。あっちは“連れ去って分解する気満々”。
こっちの手加減する理由は存在しない」
室内の空気が、わずかに重くなる。
だが神楽坂は責めない。ただ事実として受け止める。
「……では、求めるものは?」
問い。ここからが本題だ。九郎は、はっきりと言った。
「鵺ノ宮に、“線”を引かせろ。セリナにこれ以上手を出させるな。“家同士の政治”で止めろ。俺一人の私怨じゃなく――“裏の秩序違反”として扱え」
沈黙。
神楽坂の側近たちが息を呑む音が、わずかに響く。
裏の世界に“秩序”はある。
血で塗られていようと、存在はする。
――普通の人間を、家の都合で好き勝手に“商品”へ落とす。
それを許せば、世界はただの“狩場”になる。
神楽坂当主は、ゆっくりと頷いた。
「……確かに、線は超えている。混血は珍しい。価値もある。
だが――“それでも守るべき枠”というものは存在する。鵺ノ宮は、それを踏み越えた」
彼の声音は穏やかだったが、その奥にあるものは冷たい。
「穏健派は、この件――“過激派の暴走”として裁くつもりだ。
裏十三座としても、黙って見過ごす訳にはいかない。“家の顔”が傷付く」
九郎は短く息を吐く。
「助かる」
当主は続ける。
「ただし……お前も理解していようが――これは『完全に終わる話』ではない。鵺ノ宮は、誇りも、怨恨も、利害も抱えている」
「分かってる」
九郎は即答した。
「だから、俺も戦る覚悟は固めてる。
ただ――最初の一発、正式にルールの上から殴ってほしい。それだけだ」
神楽坂の唇が、わずかに笑んだ。
「……お前はいつも、“最低限の暴力”で済ませようとするな」
「俺は優しいですからね」
皮肉か本音か分からない声で言って、黙る。
畳の上、静かな時間が落ちる。やがて当主は告げた。
「裏十三座の一座として――鵺ノ宮に正式抗議を入れる。
“資源”的扱いの撤回。対象への接触禁止。過激派の責任追及。
……それを“家の判断”として文書に残す」
九郎の目が、わずかに細くなる。これで、ただの私闘ではなくなる。裏社会の“正しい怒り”として扱われる。――これなら、守れる。
当主が静かに言う。
「鵺ノ宮は、お前を敵として認識するだろう。分かっているな?」
九郎は、ほんの少しだけ笑った。
「もう充分敵です。今さらでしょう」
静かな、だがどこか荒野みたいな笑みだった。
その内側に――血塗れの林道を、今も背負ったままの男の影があった。そして会談は終わる。
九郎が背を向け、静かな廊下を歩き、門を出る。
空は晴れていた。
世界は普通の朝の顔をしている。――けれど、その裏側では。
確実に“線”が引かれ、そして 戦いの準備が始まりつつあった。
セリナの安全のため。
迅花の未来のため。
由衣の“止まり木”を守るため。
九郎は、またひとつ――裏社会に火種を投げたのだった。
セリナの家 ――。
チャイムが鳴る。
少し間が空いて、玄関のドアが開いた。
そこに立っていた男の顔を見て、セリナは思わず息を吸った。
九郎だった。けれど――彼の顔色は、良いとは言えなかった。
眠っていない人間特有の、目の奥だけが疲れている色。
身体そのものは立っているのに、“芯だけが消耗している”ような佇まい。けれど、笑う。
「よ。元気か」
口調は軽い。それがかえって、胸に刺さる。
セリナは玄関の手前で立ち止まったまま、言葉がうまく出なかった。
「……来て、くれたんですね」
「まあな。ほっとくと、また変なのに絡まれそうだから」
軽口。しかし、その奥に――
この男が確実に「ここへ来る道」を選び続けている事実だけがあった。
リビング。
テーブルを挟んで向かい合って座る。
セリナは手をぎゅっと握りしめていた。
九郎は、しばらく黙ったまま天井を一度見上げ、それから淡々と報告を始める
。
「まず結論。今は“ひとまず安全圏”だ。
鵺ノ宮の過激派――あの連中は、しばらく動けねぇ」
セリナが、わずかに息を吐く。
「……本当に?」
「ああ。“裏側の偉い人達”が、正式に物言い入れてくれた。
暴走として処理する方向になってる」
言葉に、嘘はない。
ただ、“完全な安心”ではないという現実だけが、慎重に伏せられている。
セリナは、それを理解できないまま、しかし感じ取る。
――完全に終わったわけじゃないんだ。
九郎は続けた。
「でもな。“危険がゼロ”って状況は、多分もう二度と来ねぇ。
だから……今度はお前自身の準備をする」
セリナは目を瞬く。
九郎は指先でテーブルを軽く叩いた。
「魔術師を紹介する。ちゃんとしてて、信用できて、俺が“任せていい”って思った奴だ。
お前の体質――歌の力。あれを“暴れねぇように”コントロールする訓練をする」
セリナは小さく肩を震わせた。
「……やっぱり、アレって……私、変なんですよね」
自分を責めるような声。
弱くて、震えて、でも必死に正面から向き合おうとしている声。
九郎は即答した。
「変だけど、悪くはない」
セリナが、ぽかんとした顔で彼を見る。
彼の言い方は本当に唐突で、不器用で――なのに、不思議と胸に落ちる。
「歌って、誰かの耳と心に触るもんだろ。ちょっと強めに効いちまってるだけだ。なら“扱えるようにする”しかねぇ。それだけの話だ」
言い切る声に、迷いはなかった。
セリナは俯く。
視界が滲む。――誰かに頼まれたわけでも、お金が貰えるわけでもないのに。
怖いとか、危ないとか、遠ざかる理由はいくらでもあるのに。
この男は、逆方向へ踏み込んでくる。
だから、聞いた。
どうしても、聞かずにはいられなかった。
「……どうして、そこまでしてくれるんですか」
声は震えていた。怖い質問だった。
答えによっては――この温もりの形も変わってしまう気がした。
九郎は、少しだけ黙る。ほんのわずかだが、目を伏せて――
何かを胸の奥へ押し込む。
そして。顔を上げた時には、いつもの軽い調子に戻っていた。
「美人には優しい主義なんだよ。俺」
軽く肩をすくめて言う。あまりにも、ふざけた答え。
けれど――その裏に“本当の理由を言わない”優しさが、はっきり見えた。
セリナは、泣くでも笑うでもなく、ただ俯いたまま小さく息を吸う。
胸が、締め付けられる。
救われるのに、苦しくなる。
彼は立ち上がる。
「近々、連絡入る。その魔術師んとこ通え。あと――夜道ひとり歩き、もうすんなよ」
背中が、扉へ向かう。セリナは反射的に呼び止めた。
「……ありがとうございました」
その言葉には、たくさんの意味が含まれていた。
感謝と、安堵と、まだ消えない恐怖と――
それでも生きたいという気持ち。
九郎は振り返らない。ただ手だけ、軽くひらひらと振ってみせた。
セリナは胸に手を当てる。――助けられた。
それでも、守られているだけじゃいけないんだ。
震える胸の奥で、その事だけが、はっきりと灯っていた。
扉へ向かって歩く九郎の背中を、セリナは――ただ見ていた。
胸が、痛い。助けてもらった。
守られた。ここまで考えて、動いてくれて――それなのに。
それなのに、自分はただ『ありがとう』と言って彼を帰らせようとしている。
――これでいいの?
問いが胸の奥で震えた。
帰ってしまえば、きっとまた“ひとり”の夜が来る。
あの包囲の記憶。車内の匂い。冷たい手。笑う声。
“資源”という言葉。頭の奥に、まだ消えない影が残っている。
そして――最後に見た“あの背中”。
守ってくれた背中。
血の匂いを纏いながら、それでも自分の前に立った背中。
あの人は、何も言わない。
自分の痛みより先に、誰かのために動く人だ。
だから――言わなきゃいけないのは、私の方だ。
喉が、固くなる。
声が出ない。
それでも――
――呼べ。心が震えながら、背中を押した。
「……九郎さん」
掠れた声。
男の背が止まる。振り返りはしない。
ただ、彼は“聞く姿勢”になった。
セリナは唇を噛む。震える両手をぎゅっと握る。
言葉が怖い。踏み込むのが怖い。
でも――ここで言えない自分には、なりたくなかった。
「……あの」
一拍。
呼吸。
胸の奥から――勇気を引きずり出す。
「……今日は……帰らないでほしいんです」
声が震えた。部屋の空気が、静かに揺れた。
撤回したくなる。顔を上げたくない。
それでも――逃げずに、続ける。
「怖い、とか……ひとりが嫌、とか……そういう言い訳じゃなくて」
胸の奥の本音を、やっと掴む。
「……私、自分で選びたいんです。“誰と一緒に居たいか”を」
言葉が落ちる。九郎は、ゆっくりと振り返った。
その瞳が一瞬だけ驚き――すぐに、柔らかくなる。
からかいも嘘もない、戦場では見せない、
ただの“男の顔”。
セリナは逃げずに見返した。
耳まで真っ赤にしながら、それでも視線だけは逸らさない。
お願いじゃない。依存でもない。――選んだんだ。
戦うのは、自分自身だ。
九郎は、少しだけ息を吐いた。
疲れた人間が、ほんの少しだけ肩の力を抜く時の吐息。
「……そう言われたら、断れねぇな」
それは、軽い声だった。けれど“軽くない答え”だった。
セリナの胸が熱くなる。九郎が口元だけで笑う。
「邪魔する」
「……はい」
扉が閉じる音は――
嵐が過ぎ去った後に、ようやく辿り着いた“温度のある音”だった。
夜の熱は、まだ部屋に残っていた。
乱れたシーツが、たった今まで確かに存在していた体温を示している。
開いた窓から入る夜気がほんの少しだけ冷たく、その冷たさが、かえって肌に残る温もりを意識させた。
セリナは、九郎の胸にもたれていた。
耳のすぐ下で聞こえる鼓動が、少しずつ落ち着いていく。
それが、自分の呼吸とゆっくり同じリズムに揃っていくことが――どうしようもなく、安心だった。
「……大丈夫か」
低い声が頭上から落ちる。
いつものぶっきらぼうな調子なのに、妙に優しい。
「……はい。平気です」
本当は、平気なんかじゃない。身体も心も、少し震えている。
怖くなかったと言えば嘘になる。
自分は、決して軽い女ではないと信じていた。身持ちが固い事が誇りだった。
そう思ってきたはずだった。――なのに、今夜は。
「……私、こんなに誰かに触れられて、安心したの……初めてで……」
気づけば、言葉が零れていた。
恥ずかしいはずなのに、不思議と止めたいとは思わなかった。
この人の前でだけは、弱い自分を隠したくなかった。
九郎は何も言わない。
ただ黙って、背をゆっくり撫でるだけ。
その無言が、言葉よりも雄弁だった。
セリナは目を閉じる。あの日の林道の匂い。
冷たい風。退魔師たちの視線。
“資源”と呼ばれた瞬間の、自分の価値が崩れるような恐怖。
――それを断ち切ってくれた背中。
その背中が今、目の前にある。
手を伸ばせば触れられる距離で、呼吸が届く場所で。
胸の奥で、小さく息を吸った。
「ねぇ、九郎さん」
「ん?」
躊躇いが、喉の奥にひっかかる。それでも逃げない。
「……私、ただ守られたままの女じゃ嫌なんです」
さっきまでの熱とは違う、芯からの熱が胸に灯る。
「あなたに助けられて……守られて……それでも、“守られる存在”のまま止まるのは嫌で……」
ぎゅ、と自分から腕を回す。そこにある体温を確かめる。
「――あなたの“守る理由”にされるだけじゃなくて」
「あなたの隣に、立てる女でいたいんです」
静かな夜に響く、たったひとつの願い。
そして――その言葉の先を、はっきりと言葉にした。
「だから……」
息を整え、真っ直ぐ胸の奥から。
「私は“鴉の唄”になりたい。あなたの戦いに寄り添える歌で。
あなたが帰る場所の音で、いたいんです」
震えない声だった。ただ、真っ直ぐだった。
九郎は少しだけ黙り――視線を落とし、セリナの髪をひと房指に絡める。
そして、小さく笑った。
強くも優しくもない。ただ、“いい”と肯った時の男の顔。
「重たい女だ。……勝手に決めろ。俺の女なんだから、勝手でいい」
それは不器用な承認。けれど、確かな肯定だった。
セリナの胸が、ふっと軽くなる。夜は深く静まり、
窓の外の世界が遠くなっていく。
ベッドの上だけが、現実だった。
ただ2人だけの、小さな世界。
セリナは目を閉じる。九郎の鼓動を枕にして――
彼の帰る場所になれる未来を、心から願いながら。
この夜は、やっと“安らぎ”になった。
蒼井セリナ 歌手/鴉の唄