七里 情報屋の女。九郎に裏の仕事を仲介したりする。
九郎と肉体関係はあるが特別な情な無い。
朝の匂いは、もう消えていた。
代わりに、潮の匂いがする。
遠くで、確かに蠢いていた。
集合場所は、湾岸部にある古い倉庫だった。
表向きは使われていない。裏では、時々こうして“使われる”。
昼と夜の境目。
薄曇りの空気が、コンクリートに湿り気を残している。
九郎――コードネーム鴉《レイヴン》は、
倉庫の壁にもたれ、腕を組んでいた。
一番乗りではない。だが、早く来る意味もない。
合同任務は、空気を見るところから始まる。
---
最初に現れたのは、二人組。
一人は大柄な男。
筋肉質で、動きに無駄に少ない。
もう一人は女。
黒髪を後ろで束ね、視線が鋭い。
「……来てるな」
女が、九郎を一瞥する。
その目に、警戒と――確認が混じる。
噂の確認だ
数年前から、裏の界隈で名前が出始めた男。
単独で案件を片付ける。深追いしない。だが、逃がさない。
――《レイヴン》。
「思ったより小さい」
「よく言われる」
九郎は軽く返す。それ以上、会話は続かない。
---
次に、三人。
全員男。
傭兵上がりの匂いがする。
一人は額に古い傷。
一人は落ち着きすぎている。
一人は、やけに周囲を見ている。
「八人中、これで六人か」
額に傷のある男が言う。
「二人は?」
「もう来てる」
その声に、自然と視線が九郎へ集まる。
沈黙が、一拍。誰かが口を開く。
「……あんたが《レイヴン》か」
「そう呼ばれてる」
「数年前から、やけに聞く名前だ」
「耳がいいな」
軽口。
だが、場は笑わない。
---
最後に、残りの二人が現れる。
一人は男。
長身で、白髪混じり。
腰に下げた刃物が、表の人間ではない事を示してる。
もう一人は女。
短髪。
表情が読めない。
倉庫の中に、八人が揃った。
男六人。
女二人。
そのうち――
四人が、二つ名持ち。
・《レイヴン》――戦闘屋
・《ハウンド》――追跡屋
・《ブレイカー》――壊し屋
・《ウィドウ》――処理屋
名を持つ者は、
自然と距離を取り合う。
無駄に近づかない。
力量を測らない。
---
「全員、揃ったわね」
倉庫の奥から、七里が現れる。
タブレットを手に、淡々とした声。
「今回の任務は――
カルト集団“水の導き”の殲滅と供物にされた民間人の救出」
空気が、重くなる。
「水辺、夜間、複数拠点」 「供物あり」
その単語で、
何人かの表情が変わる。
九郎は、静かに言った。
「表の人間を使う連中か」
「ええ」
エレナが頷く。
「だから、あなたを呼んだ」
「……好かれてるな」
「嫌われてる方が困るでしょ」
誰かが小さく笑った。
だが、すぐに静まる。
《ハウンド》が、九郎を見る。
「噂通りなら、あんたは誰かと組むタイプじゃない」
「組む必要があればそうする」
「必要がなければ?」
「壊れた後を見るだけだ」
短い答え。だが、十分だった。
《ブレイカー》が、肩を鳴らす。
「面白ぇ、死なないでくれよ」
「それは、あんた次第だ」
場に、わずかな緊張と、奇妙な信頼が生まれる。
七里が締める。
「詳細はこれから詰める。
だが一つだけ――」
視線が、全員をなぞる。
「今回、“単独行動”は許可しない」
「……」
九郎は、何も言わない。ただ、頷いた。
合同任務だ。面倒だが――
逃げる理由は、もうなかった。
ーーーーー
最初の違和感は、静かすぎたことだ。
夜の水路沿い。苔と潮の匂い。
深きものどもの拠点だと踏んでいた廃施設は、
呼吸するみたいに闇を溜め込んでいる。
「……音がない」
《ハウンド》が、小さく言った。
誰も返さない。
その沈黙自体が、もう遅れていた。
次の瞬間、
ーーーー足元が沈んだ。
「ッ――!」
床が抜ける。
いや、引きずり込まれる。
「罠だ、下が――」
九郎の声は、途中で爆音にかき消された。
水が、落ちてくる。
天井から。
壁から。
逃げ道だったはずの通路が、閉じる音。
「クソ……!」
悪態と同時に、九郎は前に出た。
考えるより早く身体が動く。
「散開! 固まるな!」
だが――
合同任務の初動で、散開は一番難しい。
---
右側で、悲鳴。
《ブレイカー》が、前に出すぎていた。
足を取られ、水面から伸びた影に引き倒される。
「引き上げろ!」
誰かが腕を掴む。
だが遅い。
水の中で、何かが蠢く。
ーーー一瞬見えたのは魚のような眼
泡。
鈍い音。
首が、あり得ない角度に曲がった。
一瞬で、終わった。
「……一人、やられた」
誰かが、信じられない声で言う。
九郎は歯を噛みしめる。
「チッ……読まれてやがる」
---
左側。
閃光。衝撃。
《ウィドウ》が、吹き飛ばされる。
着地に失敗し、呻く。
「脚……!」
もう一人、男が彼女を庇って倒れ込む。
その瞬間、足元から拘束。
粘つく感触。触手
「離せ! クソッ……!」
銃声。
だが、弾は効いていない。
「……捕まった」
二人。負傷。そして――拘束。
---
「くそったれ……!」
九郎は、舌打ち混じりに前へ出る。
踵に刻んだ《早駆け》が、解放される。
ーー世界が、一瞬だけ遅くなる。
水面を蹴り、影の“根元”へ。
「面倒な真似、しやがって……!」
刃が閃く。
蒼い残光。
拘束が一瞬、緩む。
「今だ、引け!」
だが――
敵は、引かせる気がない。
壁に刻まれた印が、鈍く光る。
邪教の印。
「……誘導されたな」
七里の声が、無線に混じる。
「レイヴン、撤退を――」
「分かってる!」
だが、もう遅い。
水位が、上がる。通路が、完全に分断される。
一人死亡。二人負傷し、捕まった。
生き残りは――
五人。
初動でチームは壊れた。
九郎は歯を食いしばりながら後退する。
「……最悪のスタートだ」
誰も、否定しなかった。
闇の奥で、
何かが、笑った気がした。
ーーーーーー
水路から離れた瞬間、音が変わった。
湿った反響音が消え、
代わりに、自分の呼吸と足音だけが残る。
九郎は、走りながら背後を一度だけ振り返った。
追ってはない。
少なくとも――今は。
「……クソ」
小さく吐き捨てる。
撤退中も追撃を受けていた。
生き残りのメンバーも負傷した。
九郎は、無傷
肩も脚も、正常だ。血も出ていない。ルーン使用の後遺症もない。動作に遅れもない。
だからこそ、最悪だ。
---
曲がり角を二つ抜け、廃施設の外縁部に出る。
闇が薄くなり、夜気が肌を撫でる。
無線を確認する。
「……ハウンド、応答しろ」 《……》
「ウィドウ、聞こえるか」 《……》
ノイズだけ。
「……チッ」
数人、逸れた。
いや――分断された。
計画的だ。最初から、そうなるように。
(初動で欲張った)
判断が遅れたわけじゃない。だが、合同任務の悪癖が出た。
全員を生かそうとした。
それが、一番余計だった。
---
壁に背を預け、呼吸を整える。
心拍は安定している。
手も震えていない。
《勝利》は使っていない。使う必要がなかった。
――いや使えなかった
「……一人死んで、二人捕まって、俺は無傷か」
笑えない冗談だ。
3人の顔が、一瞬、頭をよぎる。すぐに追い払う。
今は、考えるな。
---
地面に膝をつき、装備を確認する。
弾、十分。
刃、問題なし。
ルーン刻印、生きている。
《警戒》を、浅く展開。
音。
水音。
遠くの、規則的な動き。敵は、まだ余裕がある。
捕まえた二人を、すぐに殺してはいないはずだ。
(使う気だ)
深きものどもを信奉する連中は、
“無駄”を嫌う。
「……取り返すしかねえな」
誰に言うでもなく、呟く。
単独行動は禁止。
七里の言葉が、脳裏をよぎる。
「……悪いな」
だが、今は――
単独でしか動けない。
逸れた連中の位置は不明。
合流を待てば、捕まった二人の時間が減る。
九郎は立ち上がり、
来た道とは違う方向へ足を向けた。
罠を張る側は、“戻る”と思っている。
「……期待通りには動かねえ」
小さく悪態をつき、闇に溶ける。
無傷の身体がやけに重い。
生き残った責任が、背中に乗っている。
レイヴンは、音もなく進んだ。
今度は――
狩る側として。
ーーーーーー
時間の感覚は、もう壊れていた。
水音が、一定の間隔で落ちている。天井からか壁の隙間からか。
分からない。
二人は、並べて座らされていた。
拘束は解かれていない。だが、それが問題ではなくなっている。
身体は、動く。痛みも、ある。
それでも――
抵抗する理由が、もう見当たらなかった。
片方――《ウィドウ》は、視線を床から上げなかった。
瞬きの回数が、不自然に少ない。呼吸は浅く、一定。
もう一人の男は、膝の上で指を組んだまま、
その形を崩そうとしなかった。
沈黙が、長い。
どちらも、何が起きたのかを言葉にしない。
できないのか、したくないのか、その区別すら意味を失っている。
ただ、何かが決定的に奪われた。
それだけは、はっきりしていた。
---
扉が、軋む音を立てて開く。
ローブを纏った影が、二人を見下ろす。
声が、低く響く。
「……まだ、生きているな」
返事はない。
問いかけに対する反応が、もう不要になっている。
影は満足そうに頷く。
「抵抗は?」
「……」
《ウィドウ》の喉が、小さく鳴る。
だが、声にはならない。
男の方は、ゆっくりと首を横に振った。
拒絶ではない。諦めでもない。
ただの、事実の提示。
「……それでいい」
影は、そう言って立ち去る。
扉が閉まる。再び、静寂。
---
しばらくして、
ウィドウが、かすれた声で言った。
「……来る、よね」
「……ああ」
男の返事は、遅れた。
「助け……」
「……」
言葉が、途中で途切れる。
助けを呼ぶという発想が、もう現実味を持たない。
希望ではなく、期待でもなく、ただの概念として、遠ざかっている。
《ウィドウ》は、目を閉じた。
「……もう、いい」
それは、死を望む言葉ではなかった。
戦うことをやめる、という宣言でもない。
これ以上、自分を削られないための選択。
男は、何も言わなかった。否定もしなかった。
二人の間に、共通の理解があった。
――ここで、何が起きても、助かったとしても
もう“自分たち”は戻らない。
---
遠くで、水音が続いている。
そのリズムが、次に来る“何か”の準備であることを、二人は理解していた。
抵抗は、もうしない。
それは、敗北ではない。
生存本能が選んだ、最後の形だった。
そして――
その沈黙が、レイヴンを引き戻す“理由”になることを、彼らはまだ知らない。
ーーー
夜は、完全に施設を包んでいた。
廃水処理施設の外縁。崩れたフェンス。草に覆われた斜面。
九郎――《レイヴン》は、そこにいた。
呼吸は一定。
心拍は低い。
視界は、研ぎ澄まされている。
怒りは、ない。
正確には――表に出ていない。
怒りが限界まで圧縮されると、九郎は静かになる。
余計な思考が消え、判断だけが残る。
それを、本人自身が一番よく知っていた。
(……位置、確認)
施設内の灯り。巡回の周期。水路の流れ。
すべてが、殺しやすい形に見えてくる。
無線が、小さく鳴った。
《レイヴン、聞こえる?》
七里の声。
いつも通り、冷静。
「聞こえてる」
短い返答。感情が、削ぎ落とされている。
一拍。
《……状況は?》
「潜伏完了。外縁部、南側。警戒は薄い」
事実だけを並べる声。
七里は、その声色で分かった。
《……随分、落ち着いてるわね》
「そうか?」
《ええ。嫌なほど》
九郎は、口元を僅かに歪めた。
笑いではない。
「感情は邪魔だ」
《……今は?》
「今は、全部要る」
沈黙。
無線越しに、七里が息を整える気配。
《……捕まった二人の状態、確認できた》
「……」
《生きてる。ただ――》
言葉が、少しだけ詰まる。
《……急いだ方がいい》
七里は、視線を施設へ戻す。
暗闇の中、水面が鈍く揺れている。
「分かってる」
声が、低く落ちる。
《……レイヴン》
「何だ」
《今のあなた――》
「――冷静だ」
被せるように言った。
「一番、いい状態だ」
それが、一番危険な状態だと七里は知っている。
《……ええ》
無線の向こうで、小さく息を吐く音。
《あなたがその声の時、現場は大体――》
「壊れる」
淡々とした自己申告。
「必要な分だけな」
九郎は、装備を確認する。
ナイフ。
弾。
刻まれたルーン。
《勝利》は、まだ眠っている。
「合図はいらない」
《単独行動は――》
「承知してる」
嘘ではない。
ただし、守るとは言っていない。
《……戻ってきなさい》
「仕事が終わればな」
通信が、切れる。夜風が、草を揺らす。
その瞬間。
遠くで、
黒い影が一羽、舞い上がった。
月明かりを背に、音もなく、低く。
――鴉。
九郎はそれを見上げ、ほんの一瞬だけ、目を細めた。
「……行くぞ」
誰に向けた言葉でもない。
ーーーー戦場に、〈鴉〉が舞い降りた。
それは、逆襲の合図だった。
ーーー
無線は静かすぎた。
ノイズも、呼吸音もない。ただ、こちらの機器が生きている証明みたいに、小さなランプだけが点灯している。
七里は、車内のシートに深く座り、
フロントガラスの向こうに広がる闇を見ていた。
施設は見えない。だが、位置は分かっている。
地図。監視映像。ドローンの軌跡。
――そして彼の沈黙。
(始めたわね)
確信に近い予感だった。
レイヴンが危険な時、無線は賑やかになる。
確認、報告、悪態。
だが――
本当に“危険“な時は、音が消える。
七里は指先でマグカップの縁をなぞった。
中身はもう冷めている。
《……レイヴン》
呼びかけは最小音量。返事が来るとは思っていない。
来ない。
それでいい。
(今は集中させる)
彼はキレている。だが、爆発していない。
刃のように研ぎ澄まされた怒り。
周囲を切り落とし、必要なものだけを残す状態。
七里は何度も見てきた。
そのたびに現場は“きれいに壊れた”。
――きれいに、だ。
彼女は、別回線で状況を確認する。
捕縛された二人の生体反応。弱いが、ある。
(間に合う)
そう信じるしかない。
「……帰ってきなさい、なんて言葉」
小さく、独り言。
(彼には、効かない)
七里は知っている。
レイヴンを止める言葉はない。
あるのは、戻る理由だけだ。
《……こちら、支援は即応可能》
念のため、短く送る。
聞こえていなくてもいい。
彼は、必要な時だけ拾う。
秒が、伸びる。
車内の時計が、
やけに大きな音を立てている気がした。
(静かにキレてる……)
思わず、口元が歪む。
(最悪ね)
そして――
(最高でもある)
七里は、視線を夜空へ向けた。
雲の切れ間。月明かり。
もし、ここから見えるなら。今頃、あの施設の上を黒い影が低く飛んでいるはずだ。
――〈鴉〉。
「……仕事は、終わる」
誰に言うでもなく、そう呟く。
無線は、まだ沈黙している。
それでいい。
次に音が戻る時、すべては、もう片付いている。
七里は、ただ待つ。
戻ってくる場所として。
ーーーー
---侵入口は、最初から開いていた。
壊された形跡はない。
招き入れるための開放だ。
九郎――《レイヴン》は、迷わず中に入った。
施設内部は、
もう戦場だった。
床に広がる血。
乾いたものと、まだ濡れているもの。
臓腑の一部が、意味もなく壁に張り付いている。
争った痕跡ではない。儀式の残骸だ。
「……吐き気のする連中だ」
声は低い。
だが、震えていない。
キレている時の九郎は、感情を殺すのではなく一点に集約する。
足音を消し、影から影へ。
《警戒》が、微かに反応する。
前方――二つの意識。
邪教信徒だ。
ローブ姿。手には刃物。
祈りの言葉を、ぶつぶつと繰り返している。
「……主よ……深き海より……」
最後まで言わせなかった。
乾いた音。
短い閃光。
一人は、倒れる前に声を出すこともできない。
もう一人は、振り返る途中で崩れ落ちた。
血が、追加される。
レイヴンは、踏み越える。数には入れない。
---
奥へ進むにつれ、空気が変わる。
湿度が高くなる。水音が、近い。
「……来やがったな」
闇の向こうで、水面が盛り上がる。人の形に似て、似ていない。
皮膚は、濡れた石みたいだ。目が、こちらを“理解している”。
――深きものども。
「歓迎はいらない」
レイヴンは、ナイフの刻印を解放する。
《断絶》。
刃が、蒼く光る。
怪物が、腕を振り上げる。
ーーだが、遅い。
踏み込み。
一閃。
音が、変わる。
肉を切る音ではない。何かを“断ち切る”音。
深きものどもは、声にならない音を立てて崩れた。
水が、床に流れ出す。
「……次だ」
心拍は、まだ低い。
---
通路の先。
地獄絵図が、広がっていた。
生きている者。
死んでいる者。
どちらとも言えないもの。
信徒たちは、逃げている。あるいは、祈っている。
どちらも、同じだ。
レイヴンは、銃を使わない。音を立てない。数を減らす。
一人。また一人。
血と臓腑の散乱は、
彼が作ったものではない。だが、これ以上は増やさせない。
《早駆け》が、一瞬だけ解放される。
影が、跳ぶ。
「……救出対象、奥か」
無線を入れない。今は、集中。
床に刻まれた邪教の印を踏み越え、
最奥部へ。
その背後で、誰かが叫ぼうとした。
だが――
声は、喉で終わった。
施設の奥深くで、〈鴉〉は、羽ばたく音すら立てずに侵攻を続けていた。
これは、戦闘ではない。掃除だ。
最深部は、音がなかった。
水の滴る音すら、遠い。
厚い扉の向こうは、異様なほど静かで、終わりだけが待っている場所だった。
レイヴンは、その扉を押し開けた。
軋む音。わずかな光。中は、広くない。だが、濃い。
床に描かれた印。乾ききらない痕。空気に残る、説明のつかない匂い。
中央に、二人。
拘束され、壁に背を預けるように座らされている。
《ウィドウ》と、もう一人の男。
目は開いている。だが、焦点が合っていない。
呼吸はある。生きている。それだけが、唯一の救いだった。
「……」
レイヴンは、銃とナイフを下げたまま、
ゆっくりと近づく。
足音を、わざと消さない。二人のうち、男の方が、わずかに反応した。指が、震える。だが、逃げようとはしない。
逃げるという選択肢が、もう頭にない。
《ウィドウ》は、顔を上げなかった。
その代わり、レイヴンの影が、床に伸びる。
影が、二人に触れる。
その瞬間――
《ウィドウ》の肩が、わずかに揺れた。
「……音が……違う」
掠れた声。
祈りでも、命乞いでもない。
ただの、確認。
レイヴンは、短く答える。
「終わった」
それだけ。
だが――
その二文字は、ここにあるすべてを塗り替えた。
男の方が、息を呑む。
「……レ……イヴン……?」
名を呼ぶ声に、力はない。それでも、現実に縋る音だった。
「生きてるか」
「……ああ……」
返事が、返ってくる。
それで十分だ。
レイヴンは、ナイフを抜き、拘束を切る。
刃は、静かに動く。速すぎず、遅すぎず。
《ウィドウ》は、切られる感触に、びくりと身を強張らせた。
だが、痛みは来ない。
その事実が、遅れて理解される。
「……」
声が、詰まる。
レイヴンは、視線を合わせない。
顔も、覗き込まない。
「立てるか」
「……分からない」
正直な答え。
「なら、座ったままでいい」
レイヴンは、背を向ける。それが、彼なりの配慮だった。
見られたくない時間があることを、
彼は知っている。
「……外は……」
「安全だ」
即答。
「もう、誰も来ない」
《ウィドウ》の呼吸が、少しだけ、深くなる。
男の方が、震える声で言った。
「……抵抗……しなかった……」
「知ってる」
否定も、評価もない。
「それで、生きてる」
「……」
「十分だ」
短い言葉。だが、許しだった。
沈黙。
最深部の空気が、
ようやく、動き始める。無線が、微かに鳴った。
《……レイヴン?》
七里の声。
九郎は、応答する。
「救出完了」
《……了解》
一瞬の間。
《……戻ってきなさい》
「今、行く」
レイヴンは、振り返り、二人を見る。
「歩けなければ、担ぐ」
「……すまない」
「仕事だ」
嘘じゃない。だが、全部でもない。扉の向こう、血と闇の中へ。
〈鴉〉は、奪われたものを抱え、静かに帰路についた。
夜明け前の空は、色を決めかねていた。
黒でもなく、青でもない。ただ、重たい。
施設から少し離れた舗装路。
止められた車のエンジンは切られ、
周囲に人の気配はない。
七里は、車の外で待っていた。
腕を組み、視線は一点に固定されている。
――音。
草を踏む、遅い足音。二人分ではない。
三つ。
エレナの視線が、動く。
闇の中から現れたのは、九郎――《レイヴン》。
両脇に、捕虜だった二人。
歩いている。だが、それだけだ。
エレナは、何も言わずに近づいた。
近くで見ると、
二人の状態がはっきり分かる。
怪我は、処置されている。
だが――
戻ってきていない。
目が、違う。
「……生きてるわね」
確認の言葉。
「生かしてある」
「違いは?」
「後で考えろ」
短いやり取り。
エレナは、頷く。
それ以上は聞かない。
彼女は、二人を車の後部座席に誘導する。無理に話しかけない。
触れもしない。毛布だけを、掛ける。
「今は、これでいい」
誰に向けた言葉かは、分からない。
---
処理は、速い。
施設は、すでに別ルートで封鎖されている。
証拠は、消える。
名前も、記録も、表には出ない。
「……一人、死んだ」
七里が静かに言う。
「確認した」
「……」
それ以上は、続かない。
九郎は、車のボンネットに腰を下ろし、煙草を取り出しかけて、やめた。
代わりに、夜気を肺に入れる。
無傷だ。それが、まだ気に入らない。
「あなた、血がついてないわね」
エレナの声。責める調子ではない。
「必要な分しか、やってない」
「……ええ」
七里は、少しだけ目を細める。
「でも――」
「何だ」
「静かすぎる」
九郎は、答えない。それが、答えだった。
---
車内。
捕虜の二人は、互いを見ない。窓も見ない。
ただ、音のない場所にいる。
里は、運転席に座り、バックミラー越しに一度だけ確認する。
「……今夜は、病院に行かない」
「分かってる」
九郎は、助手席に座り、シートに深く背を預けた。
「必要な処理は、私がやる」
「任せる」
信頼。だが、依存ではない。
エンジンが、静かに回り始める。
「……レイヴン」
七里が、前を見たまま言う。
「あなた、今回――」
「後悔はしてない」
被せるように言った。
「だが、満足もしてない」
「……そう」
車は、闇から離れていく。九郎は、目を閉じた。
七里は、ハンドルを握る手に、少しだけ力を込める。
「……あなたは、優しいわ」
「違う」
即答。
「嫌いなものが、はっきりしてるだけだ」
女と子供を喰い物にする連中。尊厳を踏み潰すやり方。
それだけは、許さない。
七里はそれ以上何も言わなかった。
車内に沈黙が落ちる。だが、それは重くない。終わった後の沈黙だ。夜明けが近づいている。
〈鴉〉は、血の匂いを置き去りにして、静かに空へ戻っていった。
---
ルーン魔術 “文字そのものに宿る力”を、刻み・唱え・循環させて現象を引き起こす魔術体系。
九郎は魔術を神秘としてはなく、道具として扱う。
使用したルーン
早駆け 踵に刻み速度を上げる
断絶 刃に神秘を付与する