R-15 展開 正直これがやりたかった。
夜の由衣の部屋は静かだった。
外の車の音も隣室の生活音も、ここまでは届かない。
小さなワンルーム。
余計なものは少なく、きちんと片付いている。
由衣が「ちゃんと日常を生きている」ことが、そのまま形になったような部屋だった。
九郎は玄関に立ったまま、無意識に周囲を見渡す。
癖だ。
安全確認でも警戒でもない。
ただ、そういう身体になっている。
「……どうぞ」
少し緊張した声で言う。それでも、逃げ腰ではなかった。
九郎は靴を脱ぎ部屋に上がる。
その距離が縮まっただけで、由衣の心拍が少し速くなるのが分かった。不安はあるが、怯えてはいない。
「……狭くて、すみません」
「十分だ」
短い返答。それ以上、評価もしない。
由衣は少しだけ肩の力を抜いた。
---
二人は、テーブルを挟んで座った。
出された紅茶は、温かい。
「……九郎さん」
「ん」
「今日は……泊まっていきますか?」
由衣は視線を合わせない。
だが、言葉ははっきりしていた。
九郎は、一瞬だけ由衣を見る。表情を読む。
迷いと、覚悟と、少しの期待。
(……理解してる目だ)
一時の感情ではない。
未来を約束するための言葉でもない。
「……俺は、落ち着く場所を持てない人間だ」
「……はい」
「明日には、別の場所にいるかもしれない」
「……分かってます」
由衣は、ぎゅっと手を握る。
「それでも……」
「……」
「帰る場所の一つで、いいんです」
その言葉は、重くなかった。縛ろうともしない。
ただ、そこに在りたいという願いだった。
九郎は深く息を吐いた。
(……この子は、ちゃんと現実を見てる)
それが、何よりだった。
「……据え膳を断るほど、俺は聖人じゃない」
「……っ」
由衣の頬が、少し赤くなる。
九郎は穏やかに続ける。
「今夜は、ここにいる」
「……はい」
その返事は、小さくて、でも嬉しそうだった。
ーーーーーー
灯りを落とした部屋で、シーツの皺がそのまま二人の呼吸の痕みたいに乱れている。
由衣は九郎の胸に顔を埋めたまま、しばらく動かなかった。
悪夢じゃない。過去じゃない。
今ここに、ちゃんとした重さと温度がある。
由衣は、筋肉の張りに頬をすり寄せ、目を閉じた。
九郎の指が、髪に触れる。優しい動きだが、迷いはない。
「……怖くなかったか」
「……少しだけ……」
正直な答え。
「でも……」
顔を上げて、九郎を見る。
暗がりでも分かるほど、表情が柔らいでいる。
「……九郎さんが、ここにいるって……分かってたから」
その言葉に、九郎の喉が小さく動いた。
「……無理はするな」
「……してません」
由衣は、微笑んだ。
「……自分で、選びました」
そう言って、再び胸に顔を埋める。今度は、迷いなく。
鼓動。
低く、一定で、力強い。
それがすぐ近くで鳴っているだけで、胸の奥に溜まっていた不安が少しずつ溶けていく。
「……すごい……」
由衣の声は掠れていた。
「何が?」
「……身体……」
言葉を探しながら、指先でそっと、九郎の胸元をなぞる。
硬い。
逞しい。
飾り気のない、生き延びてきた身体。
由衣は、その感触に、深く息を吐いた。
「……安心します……」
九郎は何も言わずに由衣の背中に腕を回す。
包み込むというより逃げ場を与えない安定。
由衣はその中で小さく身じろぎして、さらに密着した。
触れるか、触れないかの距離。
由衣はそっと言った。
「……忘れられない恋って、
きっと……こういうのなんだと思います」
「……」
「無理に、掴まなくていい恋」
「……」
由衣の肩に静かに手を置いた。強くも、弱くもない。
由衣は、逃げなかった。むしろ、その温度に身を預ける。
明日は休日だ。どこにも行かなくていい朝。
約束はない。未来の話もしない。
それでも、今夜は――確かに、同じ場所にいる。
九郎はそういう夜が嫌いじゃなかった。
ーーーー
九郎は、由衣の背に手を置いたまま、
ゆっくりと呼吸を合わせる。
明日は、休日だ。
目覚ましも、予定もない。ここが今夜の終点。
帰る場所を持たない男と、それを理解した上で寄り添う女。
由衣は逞しい身体に身を預け。九郎はそれを離さなかった。
夜は、まだ深かった。
夜は、まだ終わっていなかった。
カーテンの隙間から入る街灯の光が、
ベッドの上に淡い影を落としている。
時計を見る必要はなかった。
由衣は、九郎の胸に頬を預けたまま、しばらく静かに呼吸を合わせていた。
でも――
その静けさが、少しずつ変わっていく。
低く安定していた鼓動が、
また、わずかに熱を帯びる。
「……」
由衣は小さく身じろぎした。無意識だったはずなのに、それだけで空気が変わる。
九郎の腕に、力が戻る。
さっきよりも、少しだけ強く。
「……眠るか」
問いかけの形をしているが、
答えを急かす声じゃない。
由衣は顔を上げて、九郎を見る。
暗がりの中でも、その目がこちらを見ているのが分かる。
「……眠く、ないです」
声は小さい。
でも、はっきりしている。
由衣の指先が、無意識に九郎の背中を探る。
硬く、熱を持った筋肉に触れてほっと息を吐く。
「……まだ……大丈夫です」
その言葉に九郎の口元がわずかに緩む。
「……無理はするな」
「……してません」
同じやり取り。でも今度は意味が違う。
由衣は、自分から距離を詰めた。
逃げ場を作らない距離。
「……明日、休みなんですよね」
「……ああ」
「……だから……」
理由は、もう十分だった。
九郎は短く息を吐き、由衣を抱き寄せる。
今度はためらいがない。
夜が、まだ続くことを二人とも理解している動き。
由衣は、逞しい身体に身を委ねながら、
小さく笑った。
「……九郎さん……」
「……何だ」
「……やっぱり……安心します」
その言葉が、引き金みたいに効いた。
灯りの落ちた部屋で、二人の影が、もう一度重なる。
明日の朝を急ぐ必要はない。
時間は今夜の味方だった。
夜はまだ、終わらない。
ーーーーーーーーーーーーー
朝の光は容赦なく部屋に入り込んできた。
カーテンの隙間から差し込む白い光が、昨夜の名残を一つひとつ照らしていく。
乱れたシーツ。
何度も身体を動かした痕が、そのまま皺になって残っている。
床には、無造作に脱ぎ捨てられた衣類。
畳まれる予定だった気配すらない。
そして、ベッド脇のゴミ箱から溢れそうに丸まったティシュ。
由衣は、それらを一気に視界に入れてしまい、
思わず布団を胸元まで引き上げた。
「……っ」
耳まで、熱くなる。
(……な、なにこれ……)
記憶は、はっきりある。途切れていない。
だからこそ、余計に恥ずかしい。
由衣は、そっと隣を見る。
九郎は仰向けのまま眠っていた。
呼吸は穏やかで、深い。
シーツから覗く肩と腕は、昨夜と同じ、逞しい線を描いている。
小柄に見えた身体は、肌をあかすとびっくりする程逞しくて、絶壁を駆け上がるレイヨウのような美しさがあった。
(……すごい……)
この人と、ここで、朝を迎えている。
それだけで、胸がいっぱいになる。
由衣は視線を逸らし、もう一度部屋を見渡す。
自分の部屋なのに、知らない場所みたいだ。
(……私……)
思い出すたびに、胸の奥が、じわりと熱を帯びる。
由衣は布団の中で小さく身を縮めた。
「……は、恥ずかしい……」
誰に聞かせるでもなく、小さく呟く。
その声に反応したのか、九郎がわずかに身じろぎする。
由衣は、びくっとして動きを止めた。
(……起きた……?)
心臓が、また早くなる。
だが、九郎は目を開けない。ただ寝返りを打ち、無意識に由衣の方へ寄る。
逞しい腕が自然な動きで由衣を引き寄せた。
硬く、温かい。一瞬ためらってから、そっと、その胸に顔を埋めた。
(……安心する……)
昨夜と同じ。現実の重さと、確かな温度。
恥ずかしさは、消えない。けれど、それ以上に――
離れたくない気持ちが、勝っていた。
外では、休日の朝が、静かに始まっている。
時計も、予定も、急かさない。
由衣は、赤くなったままもう一度だけ、シーツの乱れを思い出してからそっと目を閉じた。
この朝は、まだ終わらせなくていい。朝の光が部屋の奥まで届いていた。
ーーーーーーー
カーテン越しの白い明るさの中、浴室の方から一定の音が響いてくる。
シャワーの音。
水が壁に当たる、連続した音。
それが思っていた以上に存在感を持って、由衣の耳に届いていた。
(……っ)
キッチンに立ちながら、フライパンを持つ手を一瞬止める。
昨日まで、この部屋で一人だったはずなのに。
今は――
浴室の向こうに、九郎がいる。
それを意識しただけで、胸の奥が、きゅっと締まった。
「……」
由衣は何でもない顔をしようとする。
卵を割り、ボウルに入れる。トースターにパンを入れる。
いつもの朝食。手順は身体が覚えている。
なのに。
シャワーの音が少し強くなった気がして、由衣は思わず背筋を伸ばした。
(……な、なに考えてるの……)
自分で自分に突っ込みたくなる。
だだシャワーを浴びているだけだ。それ以上でも、それ以下でもない。それなのに昨夜の体温や腕の重さが、簡単に思い出されてしまう。
フライパンに油を引きながら、無意識に頬を押さえた。
熱い。
(……落ち着いて……)
ジュッ、と卵が焼ける音。
それが、現実に引き戻してくれる。
シャワーの音は相変わらず一定で、静かだ。
でも、その音が止まる瞬間を想像してしまって、
由衣は、またドキッとする。
(……出てきたら……)
何を言えばいいんだろう。
「おはようございます?」
それとも、もっと普通に。考えれば考えるほど、手元が忙しくなる。
ベーコンを焼いて、サラダを皿に盛って、マグカップを並べる。
普段より少し丁寧だ。
それは気を紛らわせるためでもあり、無意識の気遣いでもあった。
シャワーの音が少し弱くなった。由衣の心臓が反応する。
「……っ」
思わずフライパンをコンロに戻し、深呼吸。
(……大丈夫……)
ここは、自分の部屋。朝食を作っているだけ。
そう言い聞かせている間に浴室の水音が止まった。
静寂。
その一瞬が、やけに長い。
由衣は、背を向けたままトースターを開けパンを取り出す。
カチャ、という小さな音が、やけに大きく響いた。
「……」
心臓の音が、うるさい。
それでも――台所には、朝の匂いが満ちていた。
焼けたパンと、卵と、コーヒー。
日常の匂い。
由衣は、その中で、少し落ち着きを取り戻しながら、そっと思う。
それだけでいい。今は、それでいい。
ーーーーーーー
由衣は皿をシンクに入れながら、コーヒーを飲む九郎の方をちらりと盗み見る。
また小さく胸を鳴らした。
休日の朝は、まだ、静かに続いていた。
朝食の後片付けを終えると、部屋の中には少し名残惜しい静けさが残った。
食器が乾く音。コーヒーの余韻。
昨夜と今朝が、まだ混ざり合っている空気。
「……散歩、行きますか」
由衣が、控えめに言う。
「いいね、行こう」
九郎は自然に応じた。
二人は並んで外に出る。
休日の午前中、住宅街はまだ穏やかだった。犬を連れて歩く人、洗濯物を干す音、遠くの車。
由衣は歩きながら、時々九郎の横顔を見る。
距離は近いけれど触れない。それが、妙に心地よかった。
「……九郎さん」
「ん?」
少し間を置いて由衣が言う。
「昨日、少しだけ話してくれましたよね。
お仕事のこと……」
九郎は前を見たまま小さく息を吐いた。
「大した話じゃないぞ」
「……でも、聞きたいです」
踏み込みすぎない声。でも、逃がさない距離感。
九郎は肩をすくめる。
「元は自衛隊。普通に勤めて、色々あって辞めた。……それから……旅だな。あちこち回って、まあ……変なのに当たった」
由衣は思わず眉を寄せる。
「変なの……?」
「この世の裏側ってやつ」
言い方は軽い。だが、笑ってはいない。
「魔術とか、怪物とか、異能者とか。表に出ない連中」
由衣の足取りが、わずかに遅れる。
「……本当に、あるんですね」
「あるある。知らない方が幸せだけどな」
由衣は、しばらく黙って歩いた。
「……九郎さんは……」
「流れで首突っ込んだだけだ」
由衣が言い切る前に遮る。
「困ってるの見たら放っとけなくてな」
「……」
「気づいたら、街の揉め事から、人に見せられないのまでやるようになってた」
由衣は、胸の奥がきゅっとするのを感じた。
「……怖くないんですか」
「怖いぞ」
即答だった。
「だから準備するし、無理もしない」
少し間を置いて、続ける。
「……それに」
由衣を見る。
「由衣みたいに、ちゃんと戻れる場所がある奴を見るとさ」
由衣は思わず足を止めた。
「……はい」
「まあ……悪くない仕事だったって思える」
由衣の胸が、あたたかくなる。
「……私、九郎さんの世界に踏み込むつもりはありません」
九郎は少し意外そうに眉を上げる。
「ほう」
「でも……」
由衣は前を向いたまま、続けた。
「帰ってくる場所の一つでいられたら……それで、いいです」
九郎は、少しだけ歩調を緩めた。
「……それで十分だ」
砕けた声。でも、誤魔化しはなかった。二人はまた並んで歩き出す。裏の世界と、日常の世界。その境目で今は同じ速さで。
由衣は、小さく微笑んだ。
(……この人は、ちゃんと帰ってくる)
それが分かっただけで、この散歩は、十分だった。
散歩のあと、二人は小さなカフェに入った。
住宅街の角にある、昔ながらの店だ。
ガラス越しに午後の光が差し込み、店内は静かだった。
由衣は窓際の席に座り、カップを両手で包む。
コーヒーの湯気が、ゆっくりと立ち上っていく。
(……こういう時間、久しぶり)
九郎は向かいの席で、背もたれに軽く体を預けていた。
力が抜けている。少なくとも、今は“仕事の顔”じゃない。
その時だった。
テーブルの上で、九郎のスマートフォンが短く震える。
音は鳴らない。
けれど、その振動だけで――由衣には分かってしまった。
(……来たんだ)
九郎は画面を見る。一瞬だけ、目の奥が切り替わる。
差出人は、七里。
短い文面。説明は、ない。
九郎は息を一つ吐いてから由衣を見る。
「……悪い」
「……お仕事、ですか」
由衣の声は、驚くほど落ち着いていた。
「そうなる」
「……」
九郎は、少し言い淀む。珍しいことだった。
「今日は……休みのつもりだった」
「……はい」
「だから……」
言葉が、続かない。
由衣は、ふっと笑った。柔らかく、穏やかに。
「大丈夫ですよ」
「……」
「九郎さんの世界、そういうものだって……分かってます」
無理をしていない笑顔だった。寂しさは、ある。
でも、それを押し付ける気はない。
「……わるい」
「いいえ」
由衣は、首を横に振る。
「ちゃんと……帰ってきてください」
「……」
「帰る場所の一つ、ですから」
その言葉に、九郎の表情がほんの少しだけ緩んだ。
「……行ってくる」
「はい」
由衣は立ち上がり、軽く頭を下げる。
「お気をつけて」
「……ああ」
九郎は席を立ち、一度だけ振り返った。
由衣は、笑顔のまま手を振る。
その姿を、九郎は一瞬だけ、深く目に焼き付ける。
そして――何も言わず、店を出た。
ドアベルの音が鳴り、すぐに静けさが戻る。
由衣は、カップを見つめながら、小さく息を吐いた。
(……また、日常だ)
でも、不思議と不安はなかった。
あの人は行く。そして、帰ってくる。
そう信じられるだけで、今は十分だった。
由衣が眺める窓の外を一羽の鴉が飛びだった。
佐倉由衣
立場/鴉の止まり木 鴉は止まり木で羽を休める。