夜を歩く鴉と、待つ女たち   作:鉄猿

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裏と表

 

 

 

 

昼下がりの大学構内は、いつもより少しざわついていた。

講義の合間。ベンチに座る学生、立ち話をするグループ、スマートフォンを覗き込む人影。

 

由衣は銀杏並木の下を歩いていた。隣には、みなみ。

空は高く、風は穏やかで、何も起きていない“普通の午後”だった。

 

――その時だった。

 

「……由衣さん」

 

呼び止める声。

少しだけ、周囲の空気が変わる。

振り返ると、そこに立っていたのは学内でもよく知られた男子学生だった。

背が高く、爽やかで、サークルでも評判のいい人物。

 

周囲の学生たちが、

「え?」と空気を察して足を止める。

 

(……あ)

 

みなみは、一瞬で理解した。

 

(これ……告白だ)

 

男子学生は、少し緊張した面持ちで、それでもまっすぐ由衣を見る。

 

「前から……気になってて」

「……」

「よかったら、付き合ってください」

 

空気が、ぴんと張る。

 

由衣は一瞬だけ目を伏せ、それから、きちんと顔を上げた。

 

「……ありがとうございます」

 

声は、穏やかだった。

 

「でも……ごめんなさい」

「……」

「今は、お付き合いするつもりはありません」

 

言い訳はしない。曖昧にも濁さない。

男子学生は、少し驚いたように瞬きをして、それから、苦笑した。

 

「……そっか」

「……すみません」

「いや、ちゃんと言ってくれてありがとう」

 

そう言って、深くは踏み込まず彼はその場を離れていった。

周囲の学生たちも、「残念だったね」「勇気あるな」などと

小声で言いながら散っていく。

 

構内は、また元のざわめきに戻った。

 

 

---

 

「……すごいね、今の」

 

少し歩いてから、みなみが言った。

 

「人気ある人じゃん」

「……そうみたい」

 

由衣は、少し困ったように笑う。

 

「断るの、勇気いらなかった?」

「……少しだけ」

 

でも、後悔はなかった。みなみは、横目で由衣を見る。

 

「……で?」

「……うん」

 

由衣は歩きながら、言葉を選ぶ。

 

「私……今……」

「……」

「好きな人、いるんだと思う」

 

みなみの足が、ぴたりと止まった。

 

「……え?」

「……正確には……」

 

由衣は、少しだけ照れたように視線を逸らす。

 

「簡単な関係じゃないんだけど……」

「……」

「私を助けてくれた人……、ほら…ストーカーの時の」

 

みなみの目が、見開かれる。

 

「……はばきさん?」

「……うん」

 

その瞬間――みなみの挙動が、明らかにおかしくなった。

 

「え、え? ちょ、ちょっと待って」

「……?」

「え? あの? 戦闘屋の……?」

「……そうだけど……」

 

みなみは、両手をわたわたと動かしながら、由衣の周りを一歩分ぐるっと見る。

 

「つ、付き合ってるの!?」

「……付き合ってる、とは……」

 

由衣は、少し困った顔で首を傾げる。

 

「でも……一緒に、います」

「い、います!?」

 

声が、少し裏返る。

 

「え、ちょ、え!?」

「……みなみ、声大きい……」

 

「だって……!あの人だよ!?ストーカーの、一瞬で“消した”人だよ!?」

 

周囲を気にして、慌てて声を落とす。

 

「……え、なに?由衣……大丈夫なの?危なくない?」

 

歩みを止め、みなみを見る。その表情は穏やかで、揺れていなかった。

 

「……大丈夫」

「……」

「一番……安心できる人だから」

 

みなみは、言葉を失う。

 

(……まじか)

 

数秒、黙ったまま考えてから、ぎこちなく笑った。

 

「……由衣さ」

「……うん」

「なんか……とんでもないところに着地したね……」

 

由衣は、少しだけ照れたように微笑んだ。

 

「……そうかも」

 

大学構内では、今日も何事もなかったように学生たちが行き交っている。

 

その中で、由衣の“日常”は少しだけ、でも確実に変わっていた。

 

 

 

ーーーーーーーーーーーー

 

――戦闘屋:鴉

 

フリーの戦闘屋、《レイヴン》

戦場の鴉と呼ばれる男の元には、今日も依頼が舞い込む。

 

名刺はない。事務所もない。あるのは短い連絡と、最低限の合図だけ。

 

スマートフォンが震える。それが、始まりの合図だ。

 

 

---

 

ヤクザの組長の護衛

 

夜の料亭。静かな廊下。笑顔の裏に刃が隠れている場所。

レイヴンは、壁際に立つ。何も言わず、何もしない。

だが、「何も起きない」こと自体が仕事の成果だ。

組長は無事に席を立ち、翌朝、何事もなかったかのように街は動く。

誰もそこに鴉がいたことを知らない。

 

 

---

 

海外マフィアの殲滅

 

場所は、日本じゃない。

湿った夜気。異国の言葉。秩序の壊れた場所。

レイヴンは、“終わらせる側”として呼ばれる。

余計な言葉はない。交渉も、感情も、持ち込まない。

翌日、一つの勢力が地図から消える。

ニュースにはならない。だが、裏の世界では、静かに名前が回る。

 

――鴉が舞い降りた。

 

 

---

 

怪物狩り

 

それは、人の形をしていない。

夜の森。廃れた施設。説明できない違和感。

魔術、呪い、異能。この世の裏側。

レイヴンは、それを“特別”だとは思わない。

脅威は、脅威。排除するだけ。

朝になれば、子供たちはいつも通り学校へ行く。

理由は、知らなくていい。

 

 

---

 

ストーカー、DV被害、喧嘩

 

一番、地味で。一番、多い依頼。

壊れかけた日常。怯える視線。助けを求める声。

レイヴンは、相手の事情も、言い訳も聞かない。

“線”を越えた時点で、もう、終わりだ。

数日後、被害者は普通に歩けるようになる。

それで、仕事は完了。

依頼の内容は違う。

場所も、相手も、規模も違う。

だが、レイヴンがやることはいつも同じだ。

日常を壊すものを日常の外へ追い出す。

 

それだけ。

 

彼は、英雄じゃない。正義を語ることもない。

ただ、戦場に鴉が舞い降り、仕事が終わればまた飛び立つ。

そして今日も、どこかで誰かが何も知らないまま、

“普通の一日”を生きている。

 

それが、戦闘屋レイヴンの仕事だった。 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

 

昼の路地裏は、思ったよりも明るかった。

 

高いビルに挟まれ、直射は遮られているが、

空から落ちてくる光が、コンクリートの壁を白く照らしている。

昼間だというのに、人通りはない。

――それ自体が異常だった。

 

レイヴン―――九郎は路地の入口で立ち止まった。

 

(……来てるな)

 

空気が薄く歪んでいる。音が少しだけ遅れて届く。

人間の世界に余計な“解釈”が混ざっている感覚。

 

怪異――それも、かなり質が悪い。

 

「口裂け女、か」

 

誰に聞かせるでもなく、呟く。

都市怪談。子供から大人まで知っている名前。噂話、テレビ、ネット、冗談。

認知度が高いほど、怪異は強くなる。

 

そして、

こいつは――最悪の部類だった。

 

 

---

 

ゆっくりと歩き出す。

 

右手にはナイフ。

刃渡りは短いが、扱い慣れた一本。

両手には、硬化のルーンを刻んだ手袋。蒼い紋様が、かすかに脈打っている。

足元。

ブーツの踵に刻まれた〈早駆け〉のルーン。

必要な瞬間に、一気に距離を詰めるための切り札。

 

(……昼間で助かったな)

 

夜なら、この路地はもっと“広がって”いた。

 

 

---

 

「……ねぇ」

 

声が、背後から響いた。

 

振り向かなくても分かる。

来た。

 

「……私、きれい?」

 

声は、女。

高くも低くもない。

どこにでもいそうな作られた声。

 

九郎は立ち止まり、ゆっくりと振り返る。

 

そこに立っていたのは、コートを着た女の姿。

顔は、影に隠れている。だが、知っている形だ。

 

裂けた口。耳元まで引き裂かれた、歪んだ笑み。

 

――認知の集合体。

“そうであるべき姿”に縛られた怪異。

 

(……やっぱりな)

 

「質問は、受け付けてない」

 

九郎は淡々と言った。

 

口裂け女が、くすりと笑う。

 

「……答えないと、殺すわよ?」

 

声が、少しだけ重くなる。

路地の壁が、軋む。

 

「しいて言うなら、……好みじゃないな」

 

認知が、現実を書き換え始めている。

 

 

---

 

九郎は深く息を吸う。

 

次の瞬間、ブーツの〈早駆け〉が発動した。

地面を蹴る感覚が、一拍遅れて追いかけてくる。

距離が、一気に潰れる。

 

口裂け女の腕が伸びる。刃物のように歪んだ指。

 

左腕を前に出す。

 

――硬化。

 

手袋のルーンが蒼く輝き、衝撃が、鈍い音に変わる。

 

(……効いてる)

 

振り抜いた拳の感触を確かめる。

だが、時間は短い。数秒が限界だ。

 

踏み込む。迷いはない。ナイフが空気を切る。

斬る、というより、“存在の継ぎ目を断つ”感覚。

 

口裂け女の姿が、歪む。

悲鳴とも、笑いともつかない音が、路地に反響する。

 

「……ワタシッ!キレイイイイイィー!!!……!」

 

声が、割れる。人間の限界を越えた駆動。二足歩行の獣のようだった。

 

「だから――」

 

「だから、終わらせる」

 

九郎は短く言った。

硬化が切れる前に、最後の一歩を踏み込む。

認知で作られた輪郭が、崩れていく。裂けた口が、意味を失う。

 

ーーーーーーーー

 

 

路地裏には、ただの昼の静けさが戻っていた。

人の気配。遠くの車の音。現実の重さ。

 

(……撃滅、完了)

 

怪異はいない。噂は残る。

だが、今ここで人を殺す“口裂け女”はもういない。

昼の路地裏は、もう“普通”の顔をしていた。

 

怪異がいた痕跡はない。

歪みも、ざらついた空気も、すでに剥がれ落ちている。

残っているのはコンクリートの壁と乾いた埃の匂いだけだ。

路地の中央で立ち止まり、ナイフを収めた。

ブーツの〈早駆け〉は沈黙し、手袋の〈硬化〉も完全に落ちている。

 

(……そろそろ出てくる頃だ)

 

そう思った直後――微かな気配が、二つ。

 

壁の影。ゴミ置き場の奥。“見ていた”視線。

 

「……もういいぞ」

 

九郎は前を向いたまま言った。

 

「出てこい。援護に入る気だったんだろ」

 

一拍の沈黙。

 

それから、慎重な足音が二つ、路地の奥から響いた。

 

最初に姿を見せたのは、短めのジャケットを着た女だった。

年は二十代後半。

鋭い目をしているが、今は隠しきれない緊張が滲んでいる。

 

その少し後ろから、

もう一人。眼鏡をかけ、鞄を胸に抱える女。こちらは明らかに“現場慣れしていない”足取りだ。

 

二人とも、距離を保ったまま立ち止まる。

 

「……気づいてましたか」

 

ジャケットの女が、低い声で言う。

 

「最初からだ」

「……」

「助けに入るタイミングを探ってた。だが、入れなかった」

 

それは、事実だった。

戦闘は一瞬で決着がついていた。

踏み込もうとした時には、もう勝敗は決していた。

 

「……私たちは、霊能探偵事務所の職員です」

 

名乗りながらも、女は一歩も近づかない。

警戒している。九郎だけでなくこの場所そのものを。

 

「怪異反応を追ってきたら……もう、あなたが対処していた」

 

眼鏡の女が、少し震える声で続ける。

 

「……正直、助かりました。でも……」

 

言葉が、そこで止まる。

九郎は、二人を一瞥した。戦闘の余韻は、もうない。

だが、危険な男だという評価は、消えていない。

 

「……安心しろ」

 

九郎は肩の力を抜いて言った。

 

「終わってる。ここでもう何も起きない」

 

二人は、すぐには信じない。

だが、空気が“現実”に戻っているのを、霊能者の感覚が理解していた。

 

「……あなた、何者ですか」

 

ジャケットの女が、率直に聞く。

九郎は少し考えてから答えた。

 

「フリーの戦闘屋」

「……レイヴン?」

 

名前を出したのは眼鏡の女だった。

九郎の視線がそちらに向く。

 

「……噂で」

「そうか」

 

否定もしない。

 

「俺は怪異を追わない。向こうから来たのを終わらせるだけだ」

 

二人の女は、無言で息を呑む。

霊能探偵として、“処理役”と“掃除役”の違いは分かっている。

 

「……今日は、私たちの負けですね」

 

ジャケットの女が苦く笑った。

 

「助けに入るつもりが……見ているだけになった」

「無理に入らなくて正解だ」

「……え?」

 

九郎は路地の出口に向かって歩き出しながら言った。

 

「下手に人数が増えたら被害も増えてた」

 

それは忠告であり、評価でもあった。

二人はその背中を見送る。

 

「……ありがとうございました」

 

眼鏡の女が思わず頭を下げる。

九郎は振り返らない。

 

「次からは、“入る前に終わってる可能性”も考えとけ」

 

淡々とした声。それだけ言い残し、彼は路地の外、昼の街へ戻っていった。

残された二人は、しばらく動けなかった。

 

「……本物、だったね」

「……ええ」

 

霊能探偵事務所の職員として、彼女たちは理解していた。

あの男は、同業ではない。

もっと危険で、もっと確実な側の人間だということを。

 

 

ーーーーーーーーーーーーー

 

 

霊能探偵事務所は、雑居ビルの三階にあった。

 

表向きは「心霊・失踪・調査全般」。

だが実態は、怪異案件の始末を専門に請け負う中規模事務所だ。

壁には結界札、棚には測定器具と古い文献、

そして――現場帰りの空気がまだ抜けきっていない。

 

中央のテーブルを囲んで、職員たちが集まっていた。

 

「……で?」

 

室長の相馬が、コーヒーカップを置いて言った。

 

「昼の路地裏で口裂け女案件が“もう終わってた”理由を説明してもらおうか」

 

黒瀬香澄が一歩前に出る。

 

「私と白石で、反応を追って現場に入りました」

「……入った時点で?」

「既に戦闘中でした」

 

室内が、少しざわつく。東條ひなたが身を乗り出した。

 

「え、誰か他所の事務所?」

「違う」

 

白石由紀が、首を横に振る。

 

「……単独」

「単独!?」

「はい。男一人で口裂け女を押してました」

 

その一言で、橘の表情が変わった。

 

「……正気か?」

「私も、そう思いました」

 

黒瀬は続ける。

 

「助けに入るつもりで様子を見てましたが……」

「……?」

「入れませんでした」

 

一瞬の沈黙。相馬が、ゆっくりと聞く。

 

「理由は」

「――優勢だった」

 

東條が、思わず笑う。

 

「は?あの“口裂け女”だぞ?」

 

白石が、静かに言った。

 

「ガチです」

「……」

「魔術らしい発光は確認しました。けど、退魔術や霊能力は使用してませんでした」

 

橘が、低く唸る。

 

「……それは……」

「ええ」

 

黒瀬は、はっきり言った。

 

「私たちが入ったら、足手まといになっていた可能性が高い」

 

その言葉に、東條も黙る。

相馬は顎に手を当て考え込む。

 

「……そいつ、名は?」

「本人は名乗りませんでしたが……」

 

白石が言いづらそうに続ける。

 

「……“レイヴン”」

「……鴉、か」

 

相馬は静かに息を吐いた。

 

「最近、裏で名前が回ってきてる」

「やっぱり……」

 

「怪異専門でもない。組織にも属さない。だが結果だけを残して消える男」

 

橘が苦笑する。

 

「つまり……」

「つまりだ」

 

相馬は職員全員を見渡した。

 

「同業じゃない」

「……」

「俺たちは“処理班”。あいつは――」

 

少し言葉を選んでから、続ける。

 

「最初から終わらせる側だ」

 

室内が、静まり返る。

東條が、ぽつりと言った。

 

「……味方か?」

「敵じゃない」

 

相馬は、きっぱり言う。

 

「だが、同じ土俵に立てると思うな」

 

黒瀬が、思い出すように言った。

 

「……私たち、隠れてたの、最初から気づかれてました」

「……だろうな」

「出てこい、って」

「……」

 

白石が、少しだけ震える声で付け足す。

 

「……殺気はなかったです」

「ほう」

 

「ただ……“入るな”って圧だけが、ありました」

 

相馬はゆっくり立ち上がった。

 

「覚えとけ」

「……」

「ああいうのが動いてる間は、街は平和だ」

「……」

「だが、あいつが本気で“狩り場”に出てきた時は――」

 

一拍、間を置く。

 

「俺たちの手に負える段階じゃなくなってる」

 

職員たちは黙って頷いた。

霊能探偵事務所の窓の外では何も知らない街が、いつも通り動いている。

 

その裏で、戦場の鴉は確かに名を広げ始めていた。

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーー

 

 

 

夜の由衣の部屋は静かだった。

昼間の出来事が嘘みたいに外は穏やかで、窓の向こうからは生活音が微かに届くだけだ。

 

由衣は救急箱をテーブルに置き慎重に中身を並べた。

消毒液、ガーゼ、テープ。

手つきは少し緊張しているが、逃げ腰ではない。

 

「……思ったより、軽そうですね」

 

九郎はソファに腰を下ろし、上着を脱いだ。

動きはいつも通りだが、左肩のあたりに浅い裂傷が見える。

 

「まあな。硬化が間に合った」

 

軽く言うが、由衣は眉をひそめる。

 

「軽く言わないでください。怪我は怪我です」

 

そう言って、消毒液をガーゼに含ませる。

その距離まで近づくと、由衣は一瞬だけ呼吸を整えた。

 

(……近い)

 

でも、治療だ。

「……少し、冷たいですよ」

「構わない」

 

由衣は、そっと傷口にガーゼを当てた。

九郎の身体が、わずかに反応する。

 

「痛みますか」

「いや。それより――」

 

九郎は少しだけ体を動かしてみて首を振る。

 

「この辺、手が届かない」

「……どこですか?」

 

背中側。

肩甲骨の内側あたり。

 

由衣は、言われた場所を見て、少しだけ息を呑んだ。

自分が触れなければならない距離だ。

 

「……失礼します」

 

そう前置きしてから由衣は一歩近づく。

指先が九郎の背に触れる。

 

硬い。鍛えられた筋肉の感触がはっきり分かる。

 

(……すごい……)

 

思わずそう思ってしまい、慌てて気を引き締める。

ガーゼで傷を拭き、消毒液を塗る。

 

「……ここ、少しだけ赤くなってます」

「問題ない」

「問題あります。ちゃんと、処置します」

 

由衣の声は少しだけ強い。

九郎は口元をわずかに緩めた。

 

「……頼もしいな」

「からかわないでください」

 

由衣は真剣な顔のまま言う。だが、耳が少し赤い。

テープでガーゼを固定し、最後にもう一度、確認する。

 

「……これで、大丈夫です」

「助かった」

 

短い言葉。でも、ちゃんとした感謝だった。

由衣はほっと息を吐き、一歩下がる。

 

「無理、しないでくださいね」

「努力はする」

 

曖昧な返事に、由衣は苦笑する。

それでも――自分の手が届かない場所を、任せてもらえたことが、少し嬉しかった。

 

 

ーーーーーー

 

 

部屋には消毒液の匂いと、静かな安心感が残っていた。

九郎は上半身裸のまま、ソファに腰掛けていた。

怪我の処置は終わっている。だが、服はまだ着ていない。

由衣は救急箱を片付けながら、無意識に何度も視線を送ってしまっていた。

肩。

胸。

腹部へと落ちる影。

 

鍛えられた筋肉は誇張がなく、ただ「生き延びてきた身体」そのものだった。

 

(……だめ……)

 

分かっているのに、目が勝手に追ってしまう。

九郎が気づかないわけがなかった。

 

「……さっきから、見てるな」

 

低い声。

由衣は、びくっとして、慌てて顔を背ける。

「み、見てません……!」

「嘘だな」

 

即答。由衣の頬が、一気に熱くなる。

 

「……ち、違います……その……怪我が……」

 

言い訳が弱い。

九郎はゆっくり立ち上がった。

一歩。

また一歩。

距離が縮まる。

由衣は後ずさりたいのに、足が動かない。

 

「……由衣」

「は、はいぃ……」

 

視線を合わせられない。胸の奥が、うるさい。

九郎は由衣の前で止まる。

近い。呼吸が分かる距離。

 

「……見るな、とは言わない」

「……っ」

「だが……そんな目で見られると」

 

由衣の顎に、指先が軽く触れる。持ち上げるほど強くない。

逃げ道を示すだけの圧。

由衣は、思わず九郎を見る。

その瞬間――視界が、反転した。

背中に、柔らかい感触。

ベッド。

 

「……く、九郎さん……!」

 

声が、上ずる。

九郎は由衣の上に片腕をつき、覆いかぶさるように距離を詰める。

重さはあるのに、怖さはない。

それどころか――安心してしまう自分が、はっきり分かる。

 

「……見るだけで、済むと思ったか」

 

囁くような声。

由衣は、ぎゅっと目を閉じる。

 

「……す、すみません……」

「謝ることじゃない」

 

九郎の視線が由衣を逃がさない。

 

「……随分、熱い目で見るじゃないか」

 

その言葉に由衣の心臓が大きく跳ねた。

 

「……あ」

 

九郎はほんの少しだけ距離を詰める。

吐息が、かかる。

 

「嫌なら、今すぐ言え」

「……」

 

由衣は震える指で、九郎の腕をそっと掴んだ。

逞しい筋肉。現実の感触。

 

「……嫌、じゃ……ありません……」

 

声は小さい。でも確かだった。

九郎の口元が、わずかに緩む。

 

「……そうか」

 

それだけ言って、それ以上は急がない。

夜は、まだ長い。この先をどうするかは、

もう――言葉はいらなかった。

由衣は赤くなったまま、ただ、九郎を見上げていた。

 

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

 

朝の大学構内は、いつもと同じはずだった。

 

講義前のざわめき。自転車の音。売店の前にできる小さな列。

 

――なのに。

 

由衣は歩きながら、違和感を覚えていた。

 

(……なんだろう)

 

視線が、刺さる。

一瞬こちらを見て、すぐに逸らして小声で何かを言い合う。

 

「……?」

 

気のせい、だと思おうとする。でも何度も続く。

 

(……私、何か変?)

 

服装はいつも通り。メイクも、特別じゃない。

首元に朝の風が当たる。由衣は無意識に肩をすくめた。

 

 

---

 

教室に入り、みなみの隣の席に座る。

 

「おはよ」

「……おはよ……」

 

みなみの返事が、微妙に遅れた。

由衣は、首を傾げる。

 

「……どうかした?」

「……ちょ、ちょっと……」

 

みなみが、身を乗り出してくる。

声を落とす。

 

「……由衣……」

「……?」

 

みなみは、一瞬だけ周囲を確認してから、由衣の首元を指さした。

 

「……それ……」

「……え?」

 

由衣は、きょとんとして、そのままの姿勢で固まる。

 

「……首……」

「……首?」

 

みなみは、顔を赤くして、慌てて囁く。

 

「……痕……ついてる……」

「……え?」

 

一拍。

 

由衣は理解する。

 

(……あ)

 

血の気が、一気に引いた。

 

「……っ!?」

 

反射的に、首元に手をやる。確かに――隠しきれていない。

 

「ちょ、ちょっと由衣!髪! 髪下ろして!」

 

みなみが、半ば強引に由衣の髪を引き寄せる。

 

「……こう……!見えないように……!」

 

されるがまま髪で首元を隠す。

 

(……や、やだ……)

 

顔が、熱い。

周囲の視線が、今さら全部“それ”に見えてくる。

 

「……ご、ごめん……」

「謝るなって……!」

 

みなみは、呆れたように、でも小声で言う。

 

「……で?」

「……で、って……」

「……九郎さん?」

 

由衣は机に突っ伏した。

 

「……はい……」

 

みなみが、天を仰ぐ。

 

「……もう……」

「……」

 

机に顔を伏せたまま、恨み節をこぼす。

 

「……あの人……なんで……あんな……」

 

言葉が続かない。

 

「……目立つ所……」

「……言った方がいいと思うよ……?」

「……言います……」

 

由衣は、赤くなったまま、小さく呻いた。

 

(……絶対……言う……)

 

――首元だけは、やめてくださいって。

 

講義開始のチャイムが鳴る。

由衣は髪を直しながら、小さく息を吐いた。

 

(……大学、来るだけで……こんな緊張する日が来るなんて……)

 

隣で、みなみが肩を震わせている。

 

「……笑ってるでしょ」

「……ちょっとだけ」

 

由衣は、恥ずかしさと、どうしようもない現実を抱えたまま、

黒板の方を向いた。

 

――日常は、戻った。

 

ただし、少しだけ“色”を残したまま。

 

 

 

 

 

 





霊能探偵事務所
民間の対霊組織。観測機材等で霊障を感知し怪異戦闘に特化した職員を派遣する。

黒瀬 香澄(くろせ かすみ)
 今回レイヴンと遭遇した女①。
 現場対応担当。冷静で判断が早い。

白石 由紀(しらいし ゆき)
 今回遭遇した女②。
 分析・霊視担当。眼鏡。慎重派。

東條 ひなた(とうじょう ひなた)
 元気な女格闘家。
 フィジカル担当。口より先に身体が動くタイプ。

橘 恒一(たちばな こういち)
 男・陰陽師。
 古式寄りの術者。理屈っぽい。

室長:相馬 恒一郎(そうま こういちろう)
 元刑事。
 怪異と人間の両方を知っている現実主義者。
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