男女比1:20の世界で、元社畜の俺が『高嶺の花』扱いされるまで 作:おぷらてぃー
校門前のざわめきを背に、一真は何事もなかったかのように歩き出した。
歩調は普段通り。背筋も伸ばしている。
けれど内心では、確実に警戒のスイッチが入っていた。
(視線が……多すぎる)
すれ違う女子生徒のほとんどが、一度は足を止める。
そして必ず、二度見する。
中には、明らかに進路を変え、距離を詰めようとしてくる者までいた。
「……佐藤君?」
「昨日の……本当に、あの人?」
ひそひそ声は、もはや隠す気がない。
それどころか、確かめるような視線が、意図的に絡め取ってくる。
(転校初日は、“見られてる”って感じだったな)
今は違う。
見極められている。
値踏みされ、用途を測られ、どう扱うかを考えられている。
一真が靴箱へ辿り着いた、そのときだった。
「……」
思わず、足が止まる。
自分の靴箱の前だけ、妙に空間が歪んで見えた。
否、錯覚ではない。
溢れているのだ。色とりどりの封筒が、靴箱の隙間という隙間から。
(……昨日まで、こんなのなかっただろ)
嫌な予感が、確信に変わる。
この世界で手紙が意味するものは、単なる好意ではない。
独占の申請。接触の許可。
時には、所有権の主張ですらある。
一真が無言で立ち尽くしていると、背後から、よく知った気配が重なった。
「あら……やはり、こうなりましたのね」
落ち着いた声。
それだけで、周囲の空気が一段冷える。
一真が振り返るより早く、星野アカリは彼の隣に立っていた。
完璧に整えられた制服。
背後には、生徒会執行部の女子たちが無言で控えている。
「……アカリ。早いな」
「当然ですわ。一真さんがこの学園で、最も狙われやすい存在になったのですから」
アカリは靴箱を一瞥し、ほんのわずかに眉を寄せた。
それだけで、執行部の女子たちが動き出す。
封筒は、次々と回収されていった。
中身を確認することすらない。
まるで、存在そのものが許されていないかのように。
「おい……さすがに全部は」
「問題ありませんわ、一真さん」
アカリは即答した。
「これらはすべて、学園規約に抵触する“無許可の接触申請”ですもの。処理されて然るべきです」
そう言いながら、彼女は自然な動作で、一真の腕に自分の腕を絡めた。
強すぎない。
だが、離れようとすれば、はっきりと拒絶が伝わる力。
(……所有アピールが露骨になってきてるな)
一真が何か言う前に、背後から小さな声が重なった。
「あ……一真君」
振り向くと、そこにいたのは氷室愛華だった。
少し息を切らし、両手で包むように布袋を抱えている。
「……その、これ……昨日のお礼、というか」
布袋の中身は、手作りの弁当。
一真は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
「……もし、迷惑じゃなかったら、名前で呼んでほしいな」
一瞬、時が止まったように感じられた。
アカリの腕が、わずかに強張る。
一真は、ほんの少しだけ目を細めてから、穏やかに答えた。
「……分かった。愛華」
その瞬間。
愛華の表情が、はっきりと変わった。
「……うん」
短い返事。
けれど、そこには隠しきれない喜びが滲んでいた。
アカリは無言のまま、二人を見つめていたが、やがて、いつもの微笑みに戻る。
「……なるほど。そういうことですの」
絡めた腕は離さない。
だが、その力は、ほんの少しだけ――確かめるようなものに変わっていた。
「教室まで、参りましょう。……これ以上、無防備に立ち止まるのは危険ですわ」
「……分かったよ、アカリ」
絡めた腕を頼りに、一真はアカリと歩き出す。
隣には愛華が少し距離を置きつつも、自然に並んで歩いていた。
廊下を進むたび、すれ違う女子たちの視線が熱を帯びて絡みつく。
昨日までの好奇や噂話の目とは明らかに異なる――値踏みされ、用途を測られるような視線。
(……昨日までとは、確実に世界が変わった)
階段の踊り場も角も、窓際も、ちらりと覗く視線が絶え間なく注がれる。
だがアカリは腕をしっかり絡め、まるで「触れる者は許さない」と言わんばかりに護る。
愛華は少し緊張しつつも、視線を逸らさずに一真の隣を歩く。
その手に握られた布袋の存在が、彼女の決意と献身を物語っていた。
左右から注がれる熱、公と私、支配と献身――。
歩く一歩一歩が、昨日の合同演習の余韻と、三人の距離感を確かめる時間になっていた。
教室の扉が視界に入る。
ここから先はさらに視線が集中する場所だ。
だが、一真は歩みを止めない。
絡めた腕の力と、愛華の存在を背に、確かな手応えを感じながら教室へと向かうのだった。
◇
昼休み。
一真の机は、朝からほとんど動いていない。
動かす必要もなかった。
右にはアカリ。
左には愛華。
それだけで、周囲が勝手に距離を取る。
「一真さん。こちらは検食済みですわ」
「一真君……こっちも、ちゃんと火通してあるから」
二つの弁当が、同時に差し出される。
昨日までなら、もう少し胃が痛んだかもしれない。
だが今は、不思議と落ち着いていた。
「じゃあ……まずは、こっちから」
一真が愛華の弁当を指すと、彼女は目を丸くしたあと、ぱっと頬を緩めた。
「……うん!」
一真が愛華の手作り弁当――少し形の崩れた、しかし愛情の塊のような卵焼きを口に運んだ瞬間、愛華は今日一番の、そして人生で一番かもしれないほどの幸福そうな笑顔を浮かべた。
「……おいしい、かな?」
「ああ。味付けがちょうどいい。朝早くから大変だっただろ。ありがとう、愛華」
二度目の名前呼び。
愛華は耳まで真っ赤にしながら、隣で小さく身を震わせた。
彼女にとってそれは、どんな勲章よりも重い「権利」の承認だった。
だが、その光景を――一真の右隣から、静かな視線が射抜いていた。
アカリは微笑んだまま、何も言わない。
その完璧な表情の裏で、胸の奥に小さな棘が刺さった感覚を、確かに自覚していた。
(……先に、そちらを選びますのね)
分かっている。
手作りの弁当を先に取ることに、深い意味はない。
それでも、理性より先に感情が反応してしまう。
アカリはそっと、一真の制服の袖を引いた。
その仕草は控えめで、だが確実に意識をこちらへ向けさせるものだった。
「一真さん。こちらも、冷めてしまう前に……一口、いかがかしら?」
差し出されたのは、銀のスプーンに乗ったフォアグラのソテー。
教室という場には似つかわしくないが、アカリらしい完璧さだった。
「アカリ、自分で食べられるけど……」
「……嫌、ですか?」
潤んだ瞳。
ほんの少し傾げられた首。
演出だと分かっていても、抗いがたい「弱さ」。
廃倉庫で見せた、あの表情が脳裏をよぎる。
「……分かった。いただきます」
一真が口を開くと、アカリは満足そうに、しかしどこか執着を込めてスプーンを引いた。
「どうです? 一真さんの好みに合わせて、きちんと選ばせたものですの。
……愛華さんの真心も素敵ですけれど、毎日身体を預けるものは、安心できる方がよろしいでしょう?」
柔らかな言葉。
だが、その奥には明確な牽制があった。
「なっ……星野さん、それは……」
愛華が立ち上がる。
以前なら、アカリの視線ひとつで萎縮していたはずだった。
だが今は違う。
「一真君が喜んでくれたのは、私の卵焼きだよ。
……値段とか、ちゃんとしてるかどうかだけじゃないもん!」
「あら……」
アカリは一瞬、目を細めた。
「気持ちだけで無理をさせるのは、少し心配ですわ。
一真さん、最近ずっと気を張っていらっしゃるでしょう?」
静かな火花が散る。
一真は交互に差し出される箸とスプーンを処理しながら、前世の板挟み交渉を思い出していた。
違うのは、どちらも自分を守ろうとしていること。
そして、その「守り方」が真逆であることだ。
ようやく昼食が終わり、一真は立ち上がった。
「ちょっと飲み物買ってくる。……一人で」
二人を制し、廊下へ出る。
だが自販機コーナーへ向かう途中も、視線は途切れない。
小銭を入れた瞬間、背後から柔らかな感触が押し当てられた。
「……っ?」
振り返るより早く、アカリが自販機と一真の間に身体を滑り込ませる。
「……アカリ、一人でって言っただろ」
「無理ですわ……一真さん、貴方が悪いのです」
彼女は胸元に顔を埋め、深く息を吸う。
先ほどまでの余裕は、もうない。
「……愛華さんを、あんなふうに呼ぶなんて……」
低く、抑えた声。
責める調子ではない。けれど、確実に感情が滲んでいた。
腰に回された手が、わずかに力を込める。
「……分かっていますわ。
一真さんが、誰をどう呼ぶかは自由です。
それでも……」
一瞬、言葉を探すように間が空く。
「私の名前まで、同じ“距離”になってしまうのは……少し、怖いのです」
女王としてではない。
独占者としてでもない。
ただ、一人の少女として零れた本音だった。
「……ですから」
アカリは顔を上げ、一真をまっすぐに見つめる。
「今、この場で。
私を選んでいると……そう、分からせてください。
でないと、今日一日……平常心でいられる自信がありませんわ」
一真は、彼女の耳元が赤く染まっているのを見逃さなかった。
「……アカリ」
名を呼ばれた瞬間、
絡めていた腕から、すっと力が抜ける。
「……ふふ」
満足げな吐息が、耳元に落ちる。
「ええ。
それで、十分ですわ」
そのまま囁かれた声に、一真は冷たいコーヒーを飲む前から、喉の渇きを覚えていた。