男女比1:20の世界で、元社畜の俺が『高嶺の花』扱いされるまで 作:おぷらてぃー
リムジンの中に鳴り響く電子音は、熱を帯びきっていた空気を、一瞬で凍りつかせた。
一真は、その音の発信源であるスマートフォンを見下ろし、救いなのか、それともさらなる深淵への招待状なのか分からない感情のまま、画面を凝視する。
「……早苗さんからだ」
その名を口にした瞬間、アカリと愛華の動きが、ぴたりと止まった。
彼女たちにとって早苗という存在は、「一真と同じ屋根の下で暮らす」という事実だけで、すでに法的な保護者という枠を越えている。
生活を共有し、帰る場所を握っている――それは、どんな肩書きよりも強固な障壁だった。
「……一真さん。スピーカーに、してくださらない?」
アカリの声は静かだったが、拒否を想定していない響きを帯びている。
愛華もまた、一真の制服の袖を握ったまま、息を潜めて画面を見つめていた。
一真は短く息を吐き、観念したように通話ボタンを押す。
スピーカーに切り替えた瞬間、車内に柔らかな声が広がった。
『――一真君? お疲れ様。今日は、随分と帰りが遅いのね』
早苗の声は穏やかで、慈愛に満ちている。
だが、その背後から聞こえる「トントントン」という包丁の音が、やけに規則正しく、妙に鋭く耳に残った。
「……悪い、早苗さん。ちょっと、送ってもらってて」
『送ってもらってる? あら、どなたに?』
一真が言葉を探すより早く、アカリが身を乗り出す。
「お久しぶりですわ、早苗さん。星野アカリです。……一真さんの安全と疲労を考慮して、私の車で責任を持ってお送りしておりますの」
一真を挟み込むように、電話へと向けられたその声。
丁寧で礼儀正しいが、その実態は「現在の主導権はこちらにあります」という、極めて分かりやすい宣言だった。
『……まあ、アカリさん。一真君がいつもお世話になっているようで』
一拍。
早苗の声は変わらない。だが、その奥行きが、わずかに深くなる。
『でも、一真君の“本当の”疲れを癒せるのは……やはり、住み慣れた我が家の空気だと思うのだけれど?』
その一言で、車内の空気が重く沈む。
一真は、右からアカリの圧を、左から愛華の緊張を感じながら、耳元にまとわりつく早苗の「重力」を意識していた。
「わ、私……氷室愛華も、一緒にいます!」
愛華が、思い切ったように声を上げる。
「一真君、今日は……私の作ったお弁当も、食べてくれたんです!」
震える声。
それでも、彼女にとっては精一杯の前進だった。
自分もまた、一真の日常に触れているのだという、必死な主張。
しばしの沈黙。
包丁の音が、ぴたりと止まる。
『……そう。愛華さんも一緒なのね』
早苗の声が、ほんのわずかに低くなる。
『ふふ。一真君。貴方は本当に、どこへ行っても放っておかれないのね』
そして、柔らかな提案が続いた。
『アカリさん、愛華さん。そこまで大切に思ってくださるなら……今夜は、お二人とも一真君と一緒に、うちで夕食はいかがかしら?
ちょうど、お肉をたくさん仕入れたところなんですの』
その場にいる全員が、この誘いが単なる「歓迎」ではないことを理解した。
それは、早苗が自らの領域――「家」という絶対的な場所に外部の存在を招き入れ、見極めるための逆撃だった。
「……望むところですわ」
アカリは一瞬も迷わず、微笑んで答える。
「……私も、行きます」
愛華もまた、覚悟を決めたように頷いた。
一真は、座り心地のいいはずのリムジンのシートが、なぜか不安定に感じられるのを覚えた。
「……早苗さん。本当に、いいのか?」
『ええ、もちろんよ。一真君』
少しだけ、楽しげな間。
『……貴方を巡るお話の続き、お姉さんにも、じっくり聞かせてほしいもの。
楽しみにして待っているわね』
通話が切れる。
リムジンは、佐藤家という名の新たな戦場へ向けて、静かに――しかし確実に速度を上げていった。