男女比1:20の世界で、元社畜の俺が『高嶺の花』扱いされるまで 作:おぷらてぃー
リムジンが佐藤家の前に静かに停車した時、すでに玄関の扉は開かれていた。
そこに立っていたのは、エプロン姿で微笑む佐藤早苗だった。
整った身なり。柔らかな笑顔。
その佇まいは、まるで「帰るべき場所」そのもののようで――同時に、ここから逃げることは許されないのだと、無言で告げている。
「あら、お帰りなさい、一真君。
……アカリさん、愛華さん。今日は一真君を送ってくれてありがとう」
名前を呼ばれた瞬間、アカリと愛華の背筋が、わずかに伸びた。
愛華は小さく息を呑み、思わず一真の袖に指をかけ――すぐに、その手を引っ込めた。
優しい言葉のはずなのに、胸の奥がきゅっと締め付けられる。
ここは、自分たちが踏み込んでいい場所ではない。
そう、静かに示された気がした。
玄関に満ちる空気が、ほんの一段、重くなる。
それでも早苗は変わらぬ笑顔のまま、二人を見つめていた。
まるで――すでに答えを知っている者が、確認のためにページをめくるように。
「ご無沙汰しております、早苗さん」
「こ、こんばんは。氷室愛華です」
一真は、その微妙な空気を気に留める様子もなく言った。
「……あれ? そういえばさ」
「早苗さんとアカリって、どこで知り合ったんだ? 前から知ってる感じだったけど」
微妙な沈黙が落ちる。
「……まあ」
早苗が、いつもと変わらない微笑みのまま口を開いた。
「奥様同士の集まり、というほど大したものじゃないわ。身の回りのことをお願いしている方たちの……ちょっとした情報交換、みたいなものかしら」
「そうですわね」
アカリも、ごく自然な調子で頷く。
「有能な方ほど横の繋がりが広いものですから。結果的に、ご挨拶する機会があった――それだけのことですわ」
一真は「ふーん」と気のない返事をして、それ以上は踏み込まなかった。
だが、その場にいた者には分かっていた。
今のやり取りが、“親同士の世間話”などではないことを。
表に出ることのない使用人同士の繋がり。
家と家をまたいで張り巡らされた、静かな情報網――
その一端に、自分たちは触れてしまったのだと。
だが、それを表に出した者はいなかった。
二人は靴を脱ぎ、家に上がる。
アカリは背筋を伸ばし、落ち着いた態度を崩さない。
一方の愛華は、初めて足を踏み入れる場所のように、どこか落ち着かない。
「さあ、上がって。ちょうど夕飯ができたところよ」
笑顔のまま、早苗はそう言った。
その声音には、拒否という選択肢が最初から存在していない。
◇
リビングへ続く廊下は、不思議なほど静かだった。
整えられた調度品と、どこか懐かしい料理の匂い。
家庭という空間が持つ、柔らかくも揺るがない力が満ちている。
アカリは視線を巡らせながら、星野邸とはまったく異なる“重さ”を感じ取っていた。
愛華は一真の少し後ろを歩き、落ち着かない様子で周囲を見回している。
「さあ、こちらに」
ダイニングテーブルには、すでに料理が並んでいた。
彩りの良い野菜、丁寧に焼かれた肉、いくつかの和の小鉢。
豪華さよりも、食べる人のことを考え抜かれた献立だ。
「……すごい。美味しそう……」
愛華が思わず声を漏らす。
アカリもまた、黙って料理を見つめていた。
「さあ、遠慮しないで。一真君も、ちゃんと食べなさい」
早苗は一真の隣に腰を下ろし、ごく自然に彼の頬へ手を伸ばす。
「今日もお疲れ様。頑張ったわね」
その声と手の温もりに、一真は一瞬、肩の力が抜けるのを感じた。
学校で張り詰めていたものが、静かにほどけていく。
「いただきます」
三人が箸を取る。
食卓は、ひとまず穏やかな空気に包まれていた。
「学校はどう? お友達はできた?」
早苗の問いかけは自然で、やさしい。
だが視線は、アカリと愛華を順に捉えている。
「……はい。一真さんは、とても頼りになる方ですわ」
アカリが落ち着いて答えた。
「合同演習では、的確な指揮で皆を導いてくださいました」
「そうなのね。昔から、一真君は周りを見るのが上手な子だったわ」
早苗は微笑む。
その言葉には、長い時間を共にしてきた者だけが持つ、静かな自負が滲んでいた。
「わ、私……一真君に、名前で呼んでもらいました」
愛華が、意を決したように口を開く。
その瞬間、アカリの表情が、ほんのわずかに強張る。
「そう。名前で……それは嬉しいわね」
早苗は穏やかに頷き、続ける。
「でも、愛華さん。一真君のこと、どれくらい知っているかしら?」
問いかけは優しい。
だが、その一言が、二人の足元を静かに揺らした。
「小さい頃、よく熱を出してね。私のお粥しか食べなかったの。
お風呂の後は、いつも私の膝で寝てしまって……」
語られる一真の日常は、あまりにも近い。
アカリと愛華は、ただ黙って聞くしかなかった。
その間にも、早苗は一真の皿に、彼の好きな野菜を自然に添えていく。
特別な料理ではない。
けれど、“一真を知っている”という事実そのものが、何よりも強かった。
デザートを出し終え、早苗は一度、息をつく。
「さて……そろそろ、本題に入りましょうか」
その微笑みが、少しだけ深くなる。
空気が、すっと引き締まった。
「アカリさん。愛華さん。
貴方たちは、一真君にとって特別な存在になりたいのでしょう?」
二人の視線を、早苗はまっすぐ受け止める。
「でもね。一真君は、とても危うい子なの。
力を期待され、利用されそうになることもある。
逆に、弱さにつけ込まれることも」
その言葉は、アカリと愛華、それぞれの在り方を正確に突いていた。
「一真君は、見た目以上に繊細よ。
だからこそ……私としては、心配なの」
早苗は静かに水を口に含み、ゆっくりと続けた。
「本当に一真君を大切にできるのか
それを、見せてほしいの」
微笑みの奥に、揺るがない意志が宿る。
「……一真君にとって、貴女たちが“最良の選択”だと。
私が、納得できるように」
それは、歓迎ではなく試練。
選別の宣告だった。
二人の少女は、早苗という絶対的な壁の前で、言葉を失ったまま立ち尽くしていた。