「……ん、……ふぁ……」
ゆっくりと重い瞼を持ち上げると、視界に飛び込んできたのは
もう見慣れたホテルの天井……ではない。
昨夜泊まったストロベリーハウスの天井だった。
「ふわぁ……」
一つ大きな欠伸をしてから体をゆっくりと起こす。
あたりを見回すと、大部屋に並べられた布団のいくつかはすでにもぬけの殻になっていた。
ナツミ、マリー、そしてライトの姿がない。
腕時計の時刻を見ると朝の6時30分。
(……もう起きたのか……)
ふと隣を見ると、シロが布団を蹴飛ばして大の字になって豪快に眠っていた。
「……ぐぅ」
ノクスはというと、昨晩夜更かしして本を読んでいたのか
布団を頭まで被って静かに寝息を立てている。
「……すぅ……」
私は二人を起こさないように、そっと布団から抜け出した。
一階に降りてキッチンを見ると、水と昆布が入った雪平鍋がコンロに置かれていた。
そしてドラム式の洗濯機が回っている。
三人の姿はどこにもない。
(散歩にでも行ってるのか?)
そう思いながら、ふと視線が脱衣所の方へと向く。
「……朝風呂なんてのも、良いな」
そう気軽に来られる場所じゃないし、
みんなが戻ってくる前にもう一度贅沢に朝風呂と洒落込もう。
私はタオルを手に取り、少し浮き立つような足取りで脱衣所へと向かった。
露天風呂に行くと、もう既に三人の先客がいた。
散歩にでも行っているものだと思っていたナツミ、マリー、ライトだった。
「お、マキちゃんおはよ~さん」
「マキちゃん、おはよ~」
「おはよう、マキちゃん」
入ってきた私に気付くと、三人はそれぞれに挨拶を投げてくる。
「おはよう。三人一緒に起きたの?」
「いっちゃん早起きはライトちゃんやな。
マリーちゃんと起きて散歩しとったら、偶然道で会うたんや。
あんな細い道で一人で涼しい顔して歩いとるから、一瞬森の妖精か思たわ」
「ふふ、失礼ね。朝の空気が澄んでいたから少し歩いていただけよ。
ハイキングコースみたいで散歩にはちょうど良さそうだしね」
二人は縁に背を預けて足を伸ばして笑い合っている。
「あはは! ちょうど服は洗濯中だったから、みんな揃って浴衣だったんだよね~」
マリーが思い出したように声を弾ませる。
「それでそこから三人で散歩したあと帰ってきて、朝風呂入ろってなったんや」
「もう散歩してきたのか……元気だなあ……」
私はかけ湯をしたあと、ゆっくりと湯船に浸かりながらしみじみと言った。
「さて、私はそろそろ上がりましょうか。
脱水も終わった頃だろうし、みんなのお洋服も干さなきゃいけないわ」
ライトが名残惜しそうに湯船から立ち上がり、濡れた髪をかき上げながらそう言った。
「……ライトちゃん、お母さんみたいやな」
……確かに。
一階に降りた時、キッチンにはもう既に朝ごはんの準備らしき鍋がコンロにあったし。
私にも母親というものがいたのなら、きっとこんな感じだったのだろうか。
「あ、じゃあよく乾くように、『晴れ』にしておいてあげるね!
……って言っても、もうじゅうぶん晴れてるけどっ」
「ふふ、ありがとう」
マリーが天真爛漫な笑顔で空を仰ぎ、小さな手を太陽にかざす。
すると、雲ひとつない秋の青空がいっそう鮮やかさを増したような気がした。
「服乾くまでここにおらなあかんしなぁ。
まぁ、濡れた服持って浴衣姿で下山するのもワイルドでええかもしれんけどな!」
ナツミはいたずらっぽく笑いながら言った。
しばらく朝の露天風呂を三人で堪能したあと、揃って風呂から上がる。
服が乾くまでの間、着ていた浴衣に再び袖を通す。
リビングに戻ってソファや椅子でだらだらと過ごしていると、
どこからともなく食欲をそそる味噌汁の良い匂いが漂ってきた。
そしてまるでその匂いに釣られたかのように、二階からシロとノクスが姿を現す。
「マキちゃん、おはよ~……。あ、みんなもう起きてたんだ」
「……おはよう」
「おはよう、二人とも。ちょうどいいタイミングだよ」
そう言いながらキッチンの方に顔を向ける。
ちょうどライトが作ってくれた味噌汁とご飯の配膳が終わったところだった。
「うーん、良い匂いだね~」
「朝食まで……悪いわね」
二人が軽く顔を洗ってから席に着く。
「何気に真っ白なご飯、ストロベリーハウスに来てから初だな」
「冷めんうちにいただこか! ほな……」
「いただきます!」
六人の声が朝のリビングに重なった。
朝食を食べ終わったあと、二階の大部屋で思い思いに過ごす。
テレビを観たり、トランプで遊んだり──。
まるで干している洗濯物が乾くまでの自由時間のようだった。
「脱水してからだから、乾くのはだいたい三時間くらいかしら。あとちょっとね」
「じゃあ10時頃にチェックアウトやな。ほんまの旅館やで。あ、8切り」
ナツミが8のカードを切りながら言う。
「ほんで……2! どや!」
「……ジョーカー」
ノクスが切り札を出し、ナツミの上がりを阻止する。
「な、あ!?」
「順番を間違えたわね、ナツミちゃん。
最後のそのカード、何なのか気になるわぁ♪」
「あああーっ! せや、なんでウチ先に8切ってもうたんや! 順番逆やんかぁぁ!」
自分の初歩的なミスにようやく気付いたナツミが、畳に突っ伏して悶絶する。
「ジョーカーもまだ出てなかったのに……」
「だ、誰か革命起こして~!」
ナツミの悲痛な叫び声もむなしく、「4」のカードと共にナツミは大貧民に転落した。
「……4て。4一枚残して大貧民て……。一生の不覚やわ……」
「ナツミちゃん、どんまいだよっ!」
「マリーちゃんのその無邪気さが身に染みるでぇ……」
トランプでしばらく遊んでいると、シロのタブレットとスマホに通知がくる。
同時にライトとノクスのタブレットにも通知が表示される。
どうやら一斉送信のメッセージらしい。
「お? 誰から?」
「えーと、ヤヒメちゃんからだ!
『今日の朝10時にみんなでキャンプ場で魚釣り大会しよう』、だって!」
私が聞くと、シロがメッセージをこちらに見せる。
「魚釣り! ええやんか! ちょうど大貧民で荒んだ心を癒やすにはもってこいやわ~」
「キャンプ場、いっぱい釣り竿と餌あったしね。時間もちょうど良いし楽しそう!」
「マリーも魚釣りしたい! あと、あの木の棒をぐるぐるする火起こしもやってみたい~!
キャンプって感じだもんねっ!」
さっきまで床を叩いて悔しがっていたナツミが勢いよく顔を上げる。
それに続いてシロとマリーも楽しそうな声を上げた。
「時間的にもちょうど良いな。服、乾いたらそのままキャンプ場に直行する?」
私の提案に、ライトが窓の外の秋の陽光が降り注ぐベランダへと視線を向けた。
「そうね。時間的にもちょうどいい時間に到着しそうだわ」
「決まり―! やな。ちょっと遅れるかもしれんけど、ヤヒメちゃんにそう伝えといて!」
「はーい!」
シロは元気よく返事して、スマホをタップする。
「……あ、そういえば気になったんだけど、昨日マスカットハウスに残った面々って
私たちが今日ここに泊まってること知ってるのかな?」
ふと頭に浮かんだ疑問を口にすると、シロが画面をフリックしながら答える。
「昨日ホテル戻った時、たまたまリンリちゃんとイリスちゃんに会ってさ~、
その時に『今日はストロベリーハウスにお泊りするんだー』って伝えておいたよ!」
「そっか、じゃあみんなもう知ってそうだね」
やがてシロがメッセージを送り終えると、すぐにヤヒメから返事が来る。
「おっ、すぐ来た!
『りょ~かい~。釣り以外にも、キャンプっぽいこといっぱいやろうね~』だって!」
「マリーね、マシュマロとか焼いてみたいっ!」
マリーがくるくるとその場で回り、浴衣の裾をふわりと揺らす。
「ふふ、それなら急がないと。お洋服もそろそろ乾いてる頃かしら」
「だね~。早く行こ!」
二人のその声に、それぞれの持ち物を持って一階へ降りようとしたその時だった。
ふと足を止めた視線の先で、ライトが備え付けの小さい金庫の鍵を開けて黒いノートを取り出していた。
「……ちょくちょくライトが見てるそれ、わざわざ金庫に入れてたの?」
「ええ。【封印】しておくのも良いけど、紙がもったいないでしょ?」
いつもの余裕の笑みを湛えながら返す。
「ちなみに中を見せてもらうことって……」
「絶・対・イヤよ♪」
「だ、だよね……」
あまりに完璧な拒絶に、シロは引きつった苦笑いを浮かべて後ずさった。
もはや「見せるくらいならこの場で死を選ぶ」と言わんばかりの鬼気迫る気迫だ……。
(……中身を見せてもらうには、まだまだ好感度も信頼も足りないってことか)
私は心中でそっと溜息をつき、これ以上その話題に触れるのをやめた。
ライトの底の知れない一面を垣間見た気がした……。
「みんな。忘れ物ない?」
「はい! あと、持ってきた遊び道具もエレベーターで送っておかないとね!」
ぞーちゃんの入った虫かごと、持ってきたトランプや麻雀牌を持ってシロは元気よく返事をする。
みんなで一階に降り、庭に干してある洗濯物を触る。
マリーのおかげもあってか、陽の光を存分に取り込んだ服はすっかり乾いていた。
私たちは青空に揺れていた洗いたてのシャツに袖を通す。
なんだかとてもありふれた一日が始まりそうだ。
「よっしゃ! ほな行こか。いや~五つ星の旅館に泊まった気分やわ~」
「ホントに楽しかったね~! 昨日の夜に戻りたいくらいまだちょっと名残惜しいなぁ」
「またいつでも泊まりに来ればいいじゃん。次はマスカットハウスの方とかさ」
私が提案すると、ナツミが「あ~!」と声を上げた。
「まぁゆうても、あっちは温泉ないからなぁ。でも、その分広そうやけどな!」
「広いし、かくれんぼとか鬼ごっこできるかな!?」
そんな他愛ない会話をしながら、私たちは黒い鳥居をくぐってキャンプ場へと向かった。
キャンプ場に着くと、私たちが少し遅れて到着したこともあって
マスカットハウスに残っていた面々は既に全員が揃っていた。
「う~腕疲れた……煙は出るんだけどなぁ……」
「リ、リンリさん、ギブアップでしたらいつでも私のガスバーナーを使って頂いても……」
「その言い方ムカつく~! ぜってー火点くまでやってやるんだから」
と言っても、全員が全員釣りに興じているわけではない。
火起こしにチャレンジしていたり、コーヒーを淹れていたりで
みんな思い思いにのんびりとキャンプを楽しんでいるようだった。
「あ、みんなおはよ~」
「おはよう、ヤヒメちゃん! ミサちゃん!」
「……おはよ。みんな揃ったね」
川辺の岩場に腰を下ろして釣り竿を構えていたヤヒメがこちらに気付いてゆっくりと手を振る。
隣にはミサも一緒だ。
「はよーさーん! ちょっと遅れた分気張らなあかんな!」
「大会って言ってたけど……どういったルールなんだ?」
私が聞くと、餌を付け直しながらヤヒメが言う。
「ま~、大会ってほど大層じゃないよ~。
15時までに一番大きなサイズの魚を釣った人が優勝~……みたいな感じかな~?」
「分かりやすくて良いわね。ちなみに優勝賞品は何かしら?」
「『限定モンブラン』だよ~」
「限定モンブラン?」
シロが聞くと、二人とは別のポジションで釣りをしていたハイジがどや顔で言う。
「あ~、登山組は知らないか~。っか~! 美味しかったなぁ~あのモンブラン!
栗が濃くてさ、口の中でとろけるんだよねぇ。
それでケーキもしっとりしていて、栗とクリームとケーキが渾然一体となってさ……!」
何故か妙に鼻につく、勝ち誇ったような態度だ。
その横でヤヒメがのんびりと解説を加える。
「昨日、食堂で限定モンブランっていうデザートが出て~。
聞いたら、一日に二つしか用意されない特別なやつなの~。
ちなみに、ハイジちゃんとイリスちゃんがゲットしたんだよ~」
「は、はい、僭越ながら……! コーヒーとも相性ばっちりで、とても美味しかったです!」
「なるほど。つまり、そのモンブランを頂く権利かけた勝負ってわけね……!」
「面白そうだな……!」
にわかに私のやる気に火が灯る。
同じく、ライトにも分かりやすく覇気が立ち上がった。
「マリーも食べたーい! 一緒に釣ろっ!」
マリーがミサとヤヒメの隣に駆け寄る。
「あはは、みんなやる気だね~。
小屋にあった竿と餌は一通り持ってきてるから、そこから選ぶといいよ~」
ヤヒメは少し離れた平らな岩の上に綺麗に並べられた延べ竿を指差した。
その横には、餌の入った箱や予備の浮きが種類ごとに整頓されている。
「竿選びから勝負は始まってるというわけね。ノクスちゃんはどれにする?」
「……別にどれでも良いわ。私は純粋に釣りを楽しむつもりだから。
と言っても、あなたには負けないつもりだけどね」
「ふふ、臨むところよ♪」
「……あれ、なんか二人とも雰囲気変わった?」
仕掛けを調整していたミサが顔を上げて不思議そうに呟く。
ライトとノクスの間に流れる、少し距離が縮まったような空気に気づいたのだろう。
「みんな一緒にお泊りした仲だからね~」
シロはそう言いながら、端っこにあった手頃な太さの竿をひょいと手に取る。
「ま、仲良きことは美しきかな、やな」
「昨日、すっごく楽しかったんだよ~!」
「……そうなんだ」
ミサはくすりと笑う。
ナツミとマリーは並んで置かれた竿の中から自分の手に一番しっくりくるものを選び取り、
それぞれのベストポジションへと陣取った。
私も負けてはいられないと、予備の竿の中から少し年季の入った相棒を選び取った。
シロの後に続き、少し上流にある橋付近のポイントへ腰を下ろす。
(よし、まずは餌付けだ)
ボウルに入った練り餌を指先でつまんで針に付けようとするが、ふと手が止まる。
(……これ、普通に丸めるだけで良いんだよな?
それとも、やっぱり魚の好みに合わせて魚の形とかにした方が良いのか……?
いや、あるいはミミズみたいに若干細長く……?)
いかんせん、釣りは今まで数えるほどしかやったことがないので、勝手がさっぱり分からない。
竿を投げる前の時点で悪戦苦闘していると、少し離れたところにいたヤヒメが助言をくれる。
「マキちゃ~ん、苦戦してる~?
その餌はね~、耳たぶくらいの硬さにして、針を隠すように丸めるんだよ~」
「なるほど……」
私はヤヒメに感謝のサムズアップを返し、ねりねりと餌を丸めて針に付ける。
そして、シロが釣り糸を垂らしているポイントから少し上流の方へちゃぽんと沈める。
「あっ、ぼーがいだー、ぼーがいだー」
「ふふふ……上流にある分、私の方へと先に食いつくはず……」
その直後、私のすぐ下流でシロの黄色い浮きが視界から消えた。
「わわっ、きたきた!」
シロが慌てて竿を立てると竿は綺麗な弧を描き、水面から勢いよく魚が躍り出た。
「やったー! 結構いいサイズだよ!」
見ると、15㎝くらいの大きさのフナだ。
「ふふ、マキちゃんのおかげで釣れちゃった。ごちそうさま♪」
シロが満面の笑みでバケツの中で元気に跳ねるフナを指差す。
ピチャピチャという元気よく魚の跳ねる音が私の敗北感をこれでもかと煽ってくる。
「ふ、ふーん……やるじゃん……まぁ、私の餌が効いたってことだな……」
「マキ餌ってこと~?」
負け惜しみを言いながら、私も自分の竿をそっと引き上げた。
すると──
「……あっ、私の餌、無くなってる……」
ものの見事に針だけが空しく太陽の光を反射していた。
その後も、釣り神様は残酷なまでにシロにだけ微笑み続けた。
「あ、またきた! ……よしっ!」
「……っ! 私の方にもきた! ……あ、あれ? また餌だけない……」
シロが2匹目、3匹目と釣り上げていく一方で、
私の方はツンという竿の引く感触はあるものの、竿を上げた瞬間にはスカッと空を切るばかりだ。
「マキちゃん、釣りって楽しいね! この釣り上げる時の感覚、癖になっちゃいそう!」
「……私はまだ一度も味わってないんだけど……」
実に楽しそうなシロをジト目で見る。
このまま闇雲に糸を垂らしていても、川の魚たちの胃袋を肥やすだけだ。
「あれ~? マキちゃんどこ行くの?」
「……戦略的撤退。ちょっとみんなどうやってるのか見てくる」
「コツ掴んだらまたおいでね~!」
私は敵情視察という名の偵察に繰り出した。
「ライト、ノクス、調子はどう?」
それぞれ静かに釣り糸を垂らしている二人に声をかける。
「私はまだ戦果無しね。餌が悪いのかしら……」
「……私は一匹」
ノクスがボソリと呟き、足元の小さなバケツを顎でしゃくった。
そこには10cmにも満たない小魚が彼女の表情と同じくらい淡々と泳いでいる。
「練り餌だけじゃなくてルアーもあったよね」
「ええ、そうね。というより、相手は魚なんだから、餌も魚の方が良いんじゃないかしら?」
「確かに……」
釣りはあまり詳しくないが、ライトの言葉には説得力があった。
「ちょっとホテルの厨房なんかに良い魚が無いか見てきましょうか。
良さそうなものを見つけたらマキちゃんにも分けてあげるわ♪」
「本当? 助かる!」
ライトは竿を置くと、キャンプ場の喧騒を背に軽やかな足取りで歩き出した。
「……怪しいわね」
ノクスが浮きをじっと見つめたまま呟く。
「え、怪しいって? 餌用の小魚とか、切り身を取りに行っただけじゃないのか?」
「本当に餌のための魚を調達しに行ったのか、ってことよ。
もしかしたら……彼女は今から厨房へ向かい、
食材として置かれていた最大級の川魚を密かに【封印】して……」
ノクスは竿を上げながら淡々と説明を続ける。
「そしてこちらに戻ってきてから、隙を見てバケツの中に魚を解き放つ。
そうやってあたかもここで釣り上げたかのように見せかける……」
「え、いや……流石にそんな狡いマネ……ライトがするか……?」
「……あくまでも可能性の話よ。マキ、思い出してみなさい。
『限定モンブラン』と聞いた時の彼女の表情を」
「……」
促されて脳裏に浮かんだのは、いつもの余裕の微笑みが一瞬にして消え、
私と同じく真剣な表情をしたライトだった。
おそらくグルメな彼女としては、限定とあっては何としても食べてみたいはずだ。
「彼女の魔法、生きたままの生き物は【封印】できないはずよ。
もし不自然に大きな魚が彼女の手にいきなり現れたら、
その魚の鮮度、粘膜の状態、体温、そして何より『生死』を徹底的に調べさせてもらうわ」
ノクスのその奥の瞳には不正を許さない検察官のような鋭い光が宿っていた。
腕時計を見ると、時刻は11時ちょっと過ぎ……。
確かに食材として厨房に魚が残っている可能性は十分ある。
「ま、まぁ……その時は魚の検死、よろしく……」
「ええ、任せなさい」
もはや検察官というより検視官の顔だった。
この釣り大会、いつからこんなサスペンスになったんだ?
餌を付け直している彼女を背にして、他のみんなの様子を見ることにした。
川辺から少し離れた広場では、リンリとイリスの二人がキャンプ自体を楽しんでいた。
釣り竿を手にとってすらいない。
「火! 火種が……あぁっ、また消えたぁぁ!」
どうやら文明開化はまだ遠いらしく、リンリの悲痛な叫びが木霊していた。
「リ、リンリさん……落ち着いてください。
……あ、ほら、また少し赤くなってきたよう、な……?」
イリスが横で献身的にうちわを仰いでいるが、その甲斐もなく火種ははたと消え行く。
木片には熱で黒くなった点が所々に窺える。
「もっと原始の情熱をこの木片に注ぎ込むの!
人類が血と汗で生み出したこの文明の利器の力を信じるのよ!」
リンリはそう言ってまいぎり式の火起こし器を力強く握る。
どう考えても文明の利器というのはその横にある、
太陽の光を反射してピカピカと輝いているガスバーナーの方だと思うのだが。
「あっ、そろそろいい感じなので失礼します……!」
それまでの献身的なうちわ捌きが嘘のように、
イリスはすっとうちわを置いてガスバーナーの上に置かれたパーコレーターの元へと歩み寄った。
「え、ちょっとイリス!?私のげんしのちから、まだ最高潮に達してないわよ!?」
「すみませんリンリさん、これは時間との勝負ですから……」
リンリが必死に木片をこすり合わせている真横で、
文明の恩恵をフル活用した火力に支えられたパーコレーターが、
ポコポコと心地よい音を立てながらコーヒーを抽出していく。
そして辺りには焦げ臭い木の煙とは一線を画す、芳醇で落ち着く香りが漂い始める。
なんて無情なんだ。
イリスは慣れた手つきで淹れたてのコーヒーをカップに注ぎ、
まずはブラックのままゆっくりと一口、その芳醇な苦味を楽しむように飲む。
「……ふぅ。やっぱり、外で淹れるコーヒーは格別ですね」
満足げに息を吐き出すと、彼女はおもむろにミルクを手に取ってコーヒーへ注ぐ。
黒と白が混ざり合い、柔らかなベージュ色を作る。
「……」
「リ、リンリさん……そんな捨てられた仔犬のような目で見ないでください……。
あ、これ、リンリさんの分です! お砂糖もミルクも、お好みでどうぞ……っ!」
リンリの恨めし気な視線に耐えかねたのか、
イリスは慌てて別のカップに熱々のコーヒーを注ぎ、リンリに差し出す。
「……ありがとう。これぞ文明よね。『分かち合い』っていう名の」
リンリは遠い目でカップを受け取ると、敗北の苦味を上書きするように、
躊躇いなくミルクとスティックシュガーを二本投入した。
「……甘くて美味しい。やっぱり人生、甘い汁だけを啜っていきたいものだわ……」
あんなに熱く語っていた文明の利器を足元にすっ転がし、
本当の文明の利器がもたらした一杯に身を委ねるその姿には、隠しきれない哀愁が漂っていた。
もうそっとしておこう、本当に。
木の橋から下流に目を向ければ、
そこにはミサ、マリー、ヤヒメの三人が横一列に並んで釣りに興じていた。
と言っても、釣り糸を垂らしているのはマリーとヤヒメの二人だけのようだ。
「やったー! また釣れちゃった!」
どうやら二人とも釣果は上々らしい。
「あ~マキちゃん。調子はどう~?」
腰を下ろし、まるでお地蔵様のように静かに竿を構えていたヤヒメが問いかけてくる。
「それがさっぱりで……。何かコツあるのかなって、みんなを見て回ってるところ」
「そっかぁ~。コツはね、じーっと待つことだよ~」
相変わらずのんびりとした物言いだが、その直後にヤヒメの竿がぴくんと動く。
「……あ、きたかも~……」
彼女がゆっくりと竿を立てると、水面から大きな飛沫が弾けた。
「おおっ……! 大きい!」
「わあ、大きい! ヤヒメちゃん、すごい!」
隣でマリーが目を丸くして身を乗り出す。
釣り上げられたのは……今日一番のサイズかもしれない、丸々と太ったイワナだった。
「……すごいね、ヤヒメ。
私が魔法使っても、このサイズはなかなか獲れないかも」
(無欲の勝利、ってやつなのか……。
邪念まみれで糸を垂らしてる内は、魚も警戒して近寄ってこないとか……)
「なるほど、じーっと待つ、か……」
「そうそう、のんびりでいいんだよ~」
おそらく邪念たっぷりであろうライトだってまだ釣果ゼロだったしな……。
焦りは禁物だ。そう自分に言い聞かせつつ視線を流すと、
この場で唯一、釣竿を握らずに何かに没頭しているミサの姿が目に入った。
「ミサ、それ何か作ってるの?」
「うん……。うさぎのリング」
見ると、中央に小さなうさぎが二羽、
連なるようにしてあしらわれた氷のリングが手元に生成されている。
「あ、それって……魔法の発表会の時に作ってたやつだよね?」
私が聞くと、ミサは小さく頷く。
「ミサちゃん、三匹のうさぎを目標にして練習してるんだよ~。
ついこの間、二匹のやつが綺麗に作れたんだよね~」
「このうさぎさん、丁寧に作られてて……マリー、本当にすごいなって思う!」
ヤヒメとマリーが、まるで自分の事のように嬉しそうに補足する。
「かなり細かくて、接合部分とかも慎重にやらないと砕けやすいから……」
ミサの指先から冷気がスッと伸び、リングの中央に小さな三羽目の影が形作られようとしたその時。
──パキッ。
「……あ」
繊細な接合部に亀裂が走り、三羽目のうさぎが形を成す前に、リングが真っ二つに割れてしまった。
「あ~……」
「……惜しい、あと少しだったのに」
「ううん、大丈夫。……また、一から作ればいいだけだから」
「ミサちゃんなら、すぐにでも作れるよ~。
あたい、早く三匹のうさぎのリング見たいな~」
「……任せて」
ミサは悔しがる様子もなく、ふっと静かに微笑んだ。
そのストイックな姿勢は、ヤヒメのような……どこか釣りに通じる待ちの美学を感じさせる。
「よし、私も二人の集中力を見習って、もう一回無欲の境地で挑んでみるよ」
「……応援してる」
私は再び釣りに赴こうとすると、ふと昨日の晩にシロと話したことを思い出す。
「あ、そうだ……。この島を出たら、四人でミサの家に泊まるって約束したじゃん?
シロも混ぜてあげて欲しいんだけど……大丈夫かな?」
「シロが……?」
意外な名前が出たせいか、きょとんとした様子を見せたミサだが、ふと考えてこくりと頷いた。
「流石に狭くなるから大丈夫かな、って思ったけど……うん、いいよ」
その返事を聞いて、私の胸がふっと軽くなる。
「ありがとう、シロも喜ぶよ」
「シロちゃんも来るの、楽しそう~」
「でもマリー、一足先に昨日一緒に泊まったよ~! 楽しかったぁ」
他の二人も快く頷いてくれたようで何よりだ。
シロに良い報告ができそうで、私は少しだけ胸を弾ませながら川岸を歩き出した。
川の中流あたりでは、一際賑やかな声が聞こえてくる。
「あっナツミ! またお願い~!」
「っもーまたぁ!?しゃーないなぁ!」
見れば、そこではハイジとナツミがわちゃわちゃと肩を並べていた。
ハイジの足元のバケツにはすでに数匹の魚が勢いよく跳ねている。
どうやら、ナツミが【時間停止】の魔法を使って、
ハイジが釣った魚から針を取ってバケツに入れてあげているらしい。
「サンキュー! やっぱ持つべきものは時間停止能力者の友だよね」
「自分でも針外せるようになりぃや……」
「だって跳ねたり噛んだりしてきたら怖いじゃん?」
ハイジは笑いながら親指を立てるが、ナツミは呆れ顔だ。
私は二人の元へと歩み寄る。
「おーっすマキ」
「マキちゃんも釣り針取れへんの~?」
「いや、ただの敵情視察」
なーんだ、と二人は肩をすくめる。
「というかナツミ、その魔法なら魚とか取りほーだいじゃね?
ほら、餌撒いて寄ってきたところをバケツで掬って一網打尽」
ハイジの言葉に、ナツミはやれやれと言った風に眉を寄せる。
「アホ、自分の手で釣らな意味ないやろ? これ、釣り大会やで」
「はえ~、意外とストイックなんだね……」
(ナツミは妙なとこで真面目なんだよな……)
私は感心してナツミの横顔を見つめた。
昨日の夜にやったトランプや麻雀だって、彼女が本気で魔法を使えば負けなしだったはずなのに。
それをしないのは、彼女なりのポリシーなのだろう。
「あ、せやけど……釣り上げた瞬間は使うで?」
「えっ」
「ほら、魚が水面から出たってことは、それはもう釣り上げたってことと同じやん?
やったら、そのあと暴れる瞬間に魔法つこてバケツに入れてもセーフかなって」
「ズル!?結局使うのかよ!」
「ズ、ズルちゃうで~! 効率化や! 逃げられたら泣くに泣けへんもん!」
前言撤回。
何なら昨日もちょこちょこ魔法を使ってたのかもしれない。
そして使った上でボロ負けしていたのかも。
私はこのぶっ壊れ魔法を持つ者がナツミで良かったと心の底から思った。
一通り見て回った私は、シロのところへと戻る。
「あ、マキちゃ~ん、待ってたよ。
どう? コツとか教えてもらった?」
バケツがもう二つになるほどの魚を釣り上げていたシロが尋ねる。
「うん。コツは……『待つ』ことだよ」
おそらくその時の私の表情は、一切の迷いを振り払った悟りの境地に達していたはずだ。
「え~それだけ~? マキちゃん、何か急に仙人みたいになっちゃった!」
「ふっ……」
シロがけらけらと笑うが、今の私にはその笑い声すら川のせせらぎの一部にしか聞こえない……。
私は耳たぶの硬さに練り上げた究極の餌を針に付け、静かに水面に落とす。
そしてゆっくりと瞼を閉じる。
視界を断つことで、指先に伝わる感覚を極限まで高める。
無心。ただ、この竿という名の相棒と一体化する……。
くん。
確かな生命の震え。
私は目を開けない。
無心のままゆっくりと竿を立てる。
くんくん。
深場へと潜ろうとする抵抗。
ゆっくり……ゆっくり……。
少しずつ力を込め、こちらの無の領域へと魚を引き摺り込む。
「……ちゃん!」
なんかどこかで誰かが呼んでいる気がするが、今の私には届かない。
竿がさらに大きく、美しい弧を描いてしなる。
重い。この重量感……間違いなく、今日一番の大物だ。
もしかしたら、ヤヒメのイワナをも凌駕するこの川の王かもしれない。
「マキちゃん!」
だが、私は焦らない。
王を相手にするなら、こちらも王の風格を持って応えねばならない。
ゆっくりと、一寸の乱れもない動作で竿を天へと突き上げる。
「マキちゃん! それ、多分底に引っかかってるよ!」
「……え?」
シロの悲鳴に近い指摘に、私の意識は強制的に現実へと引き戻された。
慌てて目を開け、しなりきった竿の先を辿ると……私の釣り糸は──
水面に突き出た、大きな岩の根元へとガッチリと食い込んでいた。
「……根掛かり?」
「うん、真剣な顔で岩を釣ろうとしてたから、声かけるの迷っちゃった……」
シロが苦笑いを浮かべ、私の足元を指差す。
見れば、王との死闘を演じていたはずの糸は──
川の大きな岩の陰で、ただ突っ張っているだけだった。
「…………」
あっちこっちに角度を変えて引いてみても、岩に食い込んだ針はビクともしない。
私はさめざめとした心境でピンと張った糸をぷつんと切った。
予備の糸を竿の先端部分にくくりつけようと振り返ってシロの顔を見る。
すると、反射的に先ほどミサと話したことを思い出した。
「……あ、そうだ。ミサ、シロも泊まりに来て良いって言ってたよ」
私は気を取り直して糸を結びながらシロに朗報を告げる。
「ほんと!?やったあ!」
「ちょっと狭くなるだろうけど、何とかなるってさ」
「ふふ、島を出たあとの楽しみが増えたね!」
「……うん、そだね」
シロの屈託のない笑顔を見ていると、今自分たちが得体の知れない島に閉じ込められている、
という現実が一瞬だけ遠のく気がした。
外の世界への希望を繋ぎ止めるように、私は再び重い腰を上げて釣り場へと戻る。
それからも糸を垂らしては逃げられ、垂らしては逃げられを繰り返すこと数十回……。
時刻は既に午後を回り、大会終了の15時まで二時間を切るところまで迫っていた。
「マキちゃん、ちょっと休憩しよっか」
背後からかけられたシロの声に、私は力なく振り向いた。
シロの足元には、魚がたんまり入っているであろう二つのバケツ。
対して私のバケツは、底に溜まったわずかな水が秋風に揺れているだけだ。
「……うん、行く……」
シロが指差した広場の方からは、パチパチと薪が爆ぜる音と共に食欲をそそる香ばしい匂いが漂ってきていた。
広場の中央では、ついに文明の夜明けを迎えたらしいリンリが勝ち誇った顔で焚き火を見つめている。
いつの間にか戻ってきたライトも、手際よく魚を串に刺していた。
「あら、マキちゃん、シロちゃん。ちょうどいい焼き加減よ」
「お、二人とも。何か焼くもん持ってきたの? "私の火"で焼いたげるよ~」
自分が生み出した火を我が子のように愛おしそうに眺めながらリンリは不敵に笑う。
プロメテウスから最初に火を貰った人間はきっとこんな顔をしていたんだろうな。
「残念だけど、私は何も……」
「私のいっぱい焼いて! みんなで食べよ~。
ほら、私のこのイワナ、マキちゃんの岩より絶対美味しいよ!」
「トドメを刺さないでくれるかな?」
「いい餌は見つからなかったけど、マシュマロを持ってきたわ。
現状丸坊主のマキちゃんも食べましょ?」
「うん、食べる……」
香ばしく焼けた魚の脂がジュウと音を立て、
そのすぐ横では枝に刺されたマシュマロが火に炙られてとろりと狐色に色づいていく。
「……熱っ、でも……甘い……」
「ふーっ、ふーっ」
私の隣ではシロがカップを両手で包み込み、一生懸命に中身を冷ましていた。
覗き込めば、コーヒーの黒い水面に半分溶けかかった白いマシュマロがぷかぷかと浮いている。
「ぞーちゃん、マシュマロ食べるかな?」
「いや、食べるだろうけど……糖分強すぎで体に悪いだろ、流石に」
「そっかぁ……。ぞーちゃん、ごめんね。
あまいの、また今度……」
シロがカゴ越しに優しく語りかけると、ぞーちゃんは心なしか
「今すぐよこせ!」と抗議するように大顎をカチカチと威嚇気味に鳴らして暴れている。
……野生のクワガタにしては、いささか食い意地が張りすぎている気がしなくもない。
「もういいかな~? はい、マキちゃん!」
私はシロが差し出してくれた、焼き立てのイワナの串を手に取った。
「……いただきます」
焼き上がった皮に歯を立てると、パリリと小気味よい音を立てて弾ける。
立ち上る湯気と共に、川魚特有の清々しい香りと炭火の香ばしさが駆け抜ける。
「……っ! おいしい……」
ふっくらと蒸し焼きにされた身は、口の中でほろっと崩れていく。
「どう? マキちゃん、元気出た?」
「……もう一匹」
「も~」
私はシロのイワナをもう一匹を受け取り、豪快に齧りつく。
いわなさん、ぱりぱり。
良いんだ、だっていっぱい釣ってるし。
(……)
正直、前の花火の後にやったキャンプファイヤーには
その後のことがあっていい思い出が無かった。
だから、またこうやってシロと火を眺めながら楽しんでいるというのは
なんだか新鮮な心境だった。
「……あ、シロ、なんかみんなに大盤振る舞いしてるけど大丈夫?
優勝争い的な意味でのサイズとか……」
「大丈夫だよ~。一番大きいやつはちゃんと残してるから!」
「そっ、そっか……」
抜かりないな、と内心で苦笑する。
「……ふぅ。ごちそうさま。じゃあ……最終ラウンドと行きますか」
「ラストスパートだねー。マキちゃんも釣れるといいね!」
「最後は下流で」
コーヒーを飲みほしたシロが、私と一緒に最後の戦場へと赴く。
シロの足取りは軽やかだったが、対して私の歩みには
二匹のイワナ(シロ産)と五つのマシュマロ(ライト産)分のエネルギーが乗っかっていた。
下流は上流に比べて流れが緩やかで川幅も広い。
傾き始めた太陽が水面に反射しキラキラと輝いている。
(……今度こそ!)
練り餌を慎重に水面へと落とした。
10分……。20分……。
途中で何度も餌を付け替える。
気が付くと、大会終了の15時まであとわずか。
焦燥感が胸をチリチリと焼く。
その時だった。
クンッ!
明確な重みが竿先をひったくった。
「っ、きた……!」
私は反射的に竿を立てる。
先ほどの教訓を活かし、強引に引き抜こうとはせず、しっかりと針を食い込ませる感触を確かめる。
重い生命の抵抗が、カーボン製の竿を通じて私の両腕にダイレクトに伝わってくる。
「マキちゃん、それ大きいよ! 頑張って!」
私は歯を食いしばり、魚が走る方向に合わせて竿をさばく。
「逃がさない……ラストチャンスっ!」
一進一退の攻防の末、ついに魚が観念したように水面へと浮上した。
「あ、アユだ! すごい、マキちゃん! 天然のアユだよ!」
シロの歓喜の声と同時に、私は一気にタモ網を差し出した。
網の中に収まったのは……20センチを優に超える、立派なアユだった。
「……釣れた……釣れたぁ……!」
「やったね、マキちゃん! 最後の最後で大逆転だね!」
私はバケツの中で輝く自分だけの獲物をこれ以上ないほどの達成感で見つめた。
「みんな~、お疲れ~。結果発表のじかんだよ~」
夕暮れに染まり始めたキャンプ場にヤヒメの声が響き渡る。
その声を合図に、釣りをしていた面々は続々と集まってくる。
それぞれが釣り上げた獲物を、ミサとヤヒメが計測しているようだった。
「……ふふ」
「あら、マキちゃん、その魚……」
ライトが私のアユを見て驚く。
「ボウズで終わるかと思いきや、土壇場で見事に釣り上げたってわけね。やるじゃない♪」
「……ありがと」
「すごいよね、マキちゃん! 最後の最後でこんな綺麗なアユが釣れるなんて!」
シロが自分のことのように飛び跳ねて喜んでくれる。
彼女の足元には、みんなに振舞ってもなお数では圧倒的な魚の山があるけれど、
このアユの輝きだけは、私の今日の苦労をすべて報いてくれるような気がした。
「ふい~、計測終わったよ~。……それじゃあ、発表するよ~」
ヤヒメが周りを見回しながら声を上げる。
「……栄えある第一位は……」
全員の視線がヤヒメに集中する。
「……あたい~」
少し照れながら、ヤヒメは自分が釣り上げた大きなイワナを掲げた。
「いや主催者が一位獲るんか~い!?」
「やっぱりー! あのお魚すっごく大きかったもんね~!」
「むむ……分かってはいたけど……」
そのイワナは他の誰が釣ったものよりも二回りは大きく、夕日に照らされた斑紋が王者の風格を漂わせていた。
私も釣り上げられた瞬間に立ち会った当事者だったから、
あれに勝てるサイズがこの川にそう何匹もいないことは肌身で感じていた。
文句なし、納得の一位だ。
「ヤヒメ、おめでとう」
「ヤヒメちゃん、おめでとー! マリー、多分優勝ヤヒメちゃんじゃないかな? って思ってた!」
「優勝おめでとうございます……!」
「あはは、優勝もらっちゃってごめんね~。でも、モンブランは限定二つだから……。
二位の人もチャンスあるよ~」
その言葉に、あたたかなお祝いムードだった雰囲気は一転して沈黙へと切り替わる。
「じゃあ、二位の人発表するよ~……」
私は生唾を飲み込んだ。
最後のアユ、あれでどこまで食い込めたか……それにかかってくる。
「……第二位は……シロちゃん!」
「! わあ……! やったぁぁ!!」
名前を呼ばれた瞬間、シロが喜びのあまり弾けて飛び上がった。
「シロちゃんかぁ~! まぁ、めっちゃ釣ってたしなぁ……!」
「あたし自信あったんだけどなぁ……おめでとー」
「分け与える勝者の風格が出てたわねぇ……おめでとう」
「シロちゃん、おめでとう~!」
「……シロ、おめでとう」
私は素直に拍手を送った。
シロのバケツにはあまりに魚が多すぎて、
私のアユを超える個体がいるのかどうかパッと見では分からなかったけれど……
流石にあれだけの数がいれば、その中に一匹や二匹、大物が潜んでいたということだろう。
「えへへ……ありがとう、マキちゃん、みんな!」
斯くして熾烈な釣り大会の結果、
限定モンブランは優勝したヤヒメと二位のシロがその権利を手にすることになったわけだが……。
「……あ、でもあの限定モンブランって……どの時間に食堂に置かれるか分からないって言ってたような……」
ミサがぼそりと呟く。
「……そういえばカンチョーさんがそんな事を仰ってましたね……。
『一日限定二個ですが、昼かおやつどきか夜に置かれるかは分かりかねます』って……」
「じゃあ、晩ごはんの時間までおあずけの可能性もあるっちゅーこと?」
「ええ~っ!?今すぐ食べられないの~!?
私、もう口の中がモンブランになっちゃってるよ~!」
『あらら~』とさして気にしていないようなヤヒメとは対照的に、シロはがっくりと肩を落とす。
「まぁまぁ、食べられるんだから良いじゃん。
あ、ヤヒメとシロの二人以外は、今日食堂で限定モンブラン見かけても
勝手に食べたら駄目だからね! 横取り厳禁、これが文明人のルールよ」
もはや立派な文明人と化したリンリがしっかりと釘を刺す。
「当たり前よ。……でも、是が非でも口にしたかったわね……」
「まぁね……。明日こそはゲットできるって信じよう……」
私とライトはシロ以上にがっくりと肩を落とす。
「あはは……マキちゃん、ライトちゃん、そんなに落ち込まないで!
食べたら一生懸命味の感想をメッセージで送るから!」
「むしろ拷問だわ」
見事にライトと声が重なった。
「じゃあ、無事に大会も終わったし~……ノーサイドで楽しも~」
ヤヒメの明るい掛け声で、沈みかけた空気は再び焚き火へと引き戻された。
「……私、結局小魚しか釣れなかったのだけれど」
「ええやんええやん、みんなで分かち合いやー!」
「ナツミも同じようなもんだからねー」
みんなバケツから残りの魚を一斉に網の上へと並べる。
「ライト、塩加減は任せた」
「ふふ、言われなくても♪」
ライトはリンリから差し出された串に刺さった魚に、まるで飾り付けをするように塩をあしらう。
「……はい、シロ。焼けたよ。私のとっておき」
私は最後の最後に釣り上げた自慢のアユをシロに差し出す。
「わあ……マキちゃんが釣ったアユだ! いいの?」
「いいの。シロのイワナもらったお礼」
私が少し照れくさく笑うと、
シロは「ありがとう、マキちゃん!」と満面の笑みを浮かべ、両手で大切に串を受け取った。
「ふーっ、ふーっ……はむっ」
シロが小さく口を開けて齧りつく。
パリッ、と皮が弾ける心地よい音が響いた。
「……っ! すっごくおいしい!
身が締まってて……なんだか……スイカみたいないい匂いがする!」
「……よかった、喜んでもらえて」
私はシロの笑顔を横目に見ながら、パチパチと爆ぜるキャンプの焚き火をじっと見つめていた。
以前、花火の後のあの出来事のせいで──焚き火の爆ぜる音や立ち上る煙は、
私にとって胸の奥がざわつくような、苦くて嫌な思い出の象徴になっていた。
けれど──
みんなで釣って、笑って、火を囲んで、楽しく好き勝手に他愛もない話を交わし合う。
同じはずの音も、同じはずの煙も、
どこか心地よくて、どこか温かいものに感じられた。
あの夜にこびりついていた嫌な思い出が、少しずつ剥がれ落ちていくみたいに、
今日のこの出来事が、あの日のことを大切な思い出に塗り替えてくれている気がした。