暗い、暗い、闇の中。
私は、その闇の中で動けずにいる。
立ってはいない。
かといって、横になっているわけでもない。
体は起きていて、背中と腰を、何かに預けている。
どこまでが自分で、どこからがその何かなのか、
その境界すら分からなくなるくらいの時間が経った感覚。
そんな感覚を覚えてなお、またあの衝撃がくることだけは理解できた。
真っ黒だった世界が真っ白に裏返り、
体中の神経を掻き混ぜられるような衝撃が私を貫く。
皮膚の外側が、内側が、筋肉が、骨が、何もかもが蹂躙される。
痛い。痛い。痛い。熱い。熱い。熱い。
さんざんそう感じていたはずなのに、気付けば、
まるで何事もなかったかのようにまた暗闇が私を覆っている。
だが、すぐにまた同じ衝撃が来る。
黒い世界が白く裏返り、また蹂躙され、また黒に戻る。
何度繰り返したのか、もう分からない。
暗闇に戻るたび、次の衝撃が前より近く感じられる。
そして、また白い衝撃が私を襲う。
暗闇に逃げる私を嘲笑うかのように、その暗闇の奥から私を襲いにくる。
だが、次の瞬間、私が見たものは、
白い──
白い、天井だった。
「……夢……?」
身体に痛みはない。
痺れも、熱も、何ひとつ残っていない。
天井から視線を外し、ゆっくりと体を起こして周囲を見回す。
そこそこ広い部屋に、落ち着いたベージュ色の壁。
手をついたときのほどよい反発で、
自分が高級そうなダブルサイズのベッドに座っていることに気付いた。
木製のキャビネットの上には、無駄に高そうな花瓶が置かれている。
極めつきは、大きな窓の向こうに広がるオーシャンビュー。
「……いい部屋じゃん」
思わず口を突いて出た。
どうやら、ここはどこかのホテルの一室らしい。
そう結論づけてから、
私──
ぼんやりと手探りで、ここに至るまでの記憶を手繰り寄せる。
そう、たしか──
私は、特に目的地もなく、帰る場所も意識せず、
ただ時間を潰すように歩いていた。
夕方だった気がする。
日が落ちきる前の空の色だけは、妙にはっきり覚えているのに、
その下で何を考えていたのかは、驚くほど思い出せなかった。
──回想おしまい。
……え、なにこれ。
私ってそんなに漫然と日々を生きてたのか……?
あーでも、意識が途切れる直前、
首元に、チクリ、とした感覚があったような……。
そう思い出しながら首元に手をやってみても、痛みも腫れも残っていない。
傷跡らしきものすら見当たらなかった。
となると、麻酔針のようなもので眠らされたのかも。
直前まで全く気付かなかったし、
体にも、転んだ拍子についたような怪我もない。
つまり犯人は、これまでに何度も人の首元に麻酔針を撃ち込んできた、
相当に手慣れてるベテランだな。
結局、思い出せたのはその程度だった。
「っていうか、今何時だ……」
習慣で、いつも左手首につけている腕時計に視線を落とす。
麻酔針なんかは出ないが、時間だけは狂わない高性能な電波時計だ。
時刻は14:15を指していた。
つまり、眠らされてから20時間以上は経過してるということか。
そう脳が認識すると、途端に胃の奥がきゅ、と音を立てる感覚に襲われた。
「……あー、そりゃお腹も空くか」
私はとりあえずベッドから立ち上がり、さっきよりも細かく部屋を見回した。
高そうな家具、綺麗な床、大きなカーペット。
そして目に入ったのは、
未開封のミネラルウォーターとガラスのコップが並べられた、
小さなサイドテーブルだった。
その脇には、何やらお菓子のような箱も置いてある。
「……カンチョー……饅頭?」
なんちゅうネーミングセンスだ、と内心ツッコミつつ、
私は遠慮なくべりべりと箱の包装紙を剥がす。
中には、三×三に区切られた九つのマス。
その一つ一つに、やけに黒い饅頭がきっちり収まっている。
まさかの黒か、と思ったが、それでもお腹は空いていたので、
私は特に気にせず端の饅頭を手に取った。
個別の包装にもカンチョーとか書いてあったが見なかったことにした。
もぐもぐ。
「あ、美味しい」
黒ゴマがベースの何とも芳醇な味わいだ。
ゴマでありながらくどくなくて、何個も食べられそう。
そう思いながら、自然な流れで、もう一つ、もう一つと饅頭に手を伸ばしていた。
もぐもぐ。もぐもぐ。
口の中で甘い饅頭がほどけていくのを感じながら、
私は無意識に、剥がされた包装紙に描かれた黒い鳥をぼーっと見つめていた。
この鳥の名前、なんてったっけかな……。
そんなどうでも良いことを考えつつ、
五つ目の饅頭に手を伸ばそうと、九マスの箱を見た時、ふと閃いた。
「あ……
一瞬の間。
「……しょーもな……」
伸ばしかけていた手で、そのまま水の入ったペットボトルを掴む。
ぱき、とキャップを開け、コップも使わずにごくごくと喉に流し込んだ。
ふう、と一息ついたあと、
私は、早くも四つの空きができている箱をじっと見つめる。
……なんだか、ほんの少しだけ目の奥がずきずきと痛んだ。
理由は分からない。
ただ、このきっちり区切られた箱を見ていると、
何か嫌なことを思い出しそうな気がした。
私はそれ以上、饅頭には手を付けなかった。
栄養を摂ったおかげか、ゆっくりと頭が回り始める。
その感覚に身を任せながら、私は腰を上げ、
さてこれからどうしたものかと考えを巡らせた。
部屋を軽く歩くと、サイドテーブルとは別の大きなテーブルに、
何かが書かれた紙のようなものが置かれているのが目に入った。
「『ご案内』……?」
そう大きく書かれた紙を手に取る。
やけに整った文体で、こう書かれていた。
――――――――――――――――――――
ご案内
本日ご宿泊の皆様へ
本日は当ホテルにお越しいただき、誠にありがとうございます。
皆様にはこれより、当リゾート施設にて共同生活を送っていただきます。
つきましては、
本日14時、ホテル1F中央ホールへお集まりください。
今後の皆様の生活に関する重要な説明を行います。
必ず、全員揃ってご参加ください。
なお、お集りの際には、
当施設の支給品のスマートフォンおよびタブレット端末を
忘れずにご持参ください。
――――――――――――――――――――
紙の下には、支給品とやらのスマホとタブレットが置いてあった。
「これか……」
手に持った紙と、それらを交互に見る。
「……って、14時!?」
慌てて腕時計を確認すると、既に14:30を回っていた。
「いやいやいや、そもそも起きたのが14時過ぎてたんだし、無理ゲーじゃん!」
眠らせるなら眠らせるで、起きる時間くらいちゃんと調整しとけよ!
心の中でそう盛大にツッコミを入れつつ、思わず声が出る。
こっちは勝手に連れてこられた身だし、
別に律儀に時間を守る義理なんてなかったが、
やけにかしこまった文体で
「14時」「重要な説明」「必ず全員揃って」
なんて並べられると、どうしても無駄に焦らされる。
それに、このおかしな文言──
「共同生活を送っていただきます」だの、
「今後の皆様の生活」だの、
まるで自分に心当たりのない、妙な言葉ばかりが目に入る
それが、じわじわと私の不安を煽ってくる。
「……どうせなら、直接聞いた方が早いか」
私はその不安を解消すべく、スマホとタブレットを持って、部屋を飛び出した。
廊下は静かで、やけに広い。
勢いよく開けたドアを、思わず静かにカチャンと閉めてしまいそうになるほどの静寂だった。
ふと見ると、ドアの中央に、
「ナミトラ」と書かれたネームプレートのようなものが取り付けられているのが目に入る。
どうやら何かの手違いとかじゃなく、この部屋は本当に"私の個室"ということらしい。
ますます状況が分からなくなってくる。
「……そういえば、『1F中央ホールに集合』って書いてたよな……どっちだ?」
あたりを見回そうとした、そのとき。
──ガチャ、と。
私の部屋の、右隣のドアが開いた。
「あ」
マキと、そのドアから出てきた少女は同時に、同じ声を上げた。
顔を出したのは、私と同じくらいの年頃の少女だった。
肩にかかるほどの黒い髪を揺らし、
その腕には、スマホとタブレットがしっかりと抱えられている。
「もしかして、今から中央ホール?」
と、その少女は尋ねた。
「うん……そうだけど」
「よかった~。
私、もう一回戻ってきたんだよね」
「……戻ってきた?」
「うん。説明まだかな~って待ってたらさ、
あ、これ持ってきてない!?って気付いて」
少女は手に持ったスマホとタブレットを軽く掲げた。
かなりおっちょこちょいな子なのかな。
そう思っていたら、その少女は私の顔をじーーっと見つめ、
手に持っていたものを左腕に寄せ、空いた右手で自分の口をつんつんと指差した。
「……ん?」
「ここ」
ここ?
私も同じように口元に触れた瞬間。
「あ」
指先に違和感があった。
なぞると、ほんの少し、ざらりとした感触。
どうやら──
さっき食べた饅頭の、黒い食べかすがついていたらしい。
「……うわ」
……恥っず。
おっちょこちょいなの、どっちだよ。
慌てて袖で拭うと、少女はふふっと小さく笑った。
私は照れ隠しに、話を変えるように言った。
「そ、そういうことなら、同じ遅刻組同士一緒に行こう。
えーと……」
ちら、とカンニングでもするみたいに、右隣の部屋のネームプレートを見やる。
「カササギ、さん?」
「シロでいいよ。
そう言って、少女はにこっと笑った。
「……あ、私はマキ」
一拍置いて、付け足す。
「波彪、マキ」
「ナミトラ、マキね」
シロはそう言って、
うんうんと納得したように頷きなから復唱する。
「じゃあ、マキちゃんって呼ぶね」
「……うん。好きにして」
「じゃあ、早くいこ! マキちゃん」
ためらいもなくそう言って、シロは先に歩き出す。
そうして私は、
初対面のはずの少女――シロと一緒に、
同じ方向へ歩き始めていた。