魔女ノイナイ魔女裁判   作:テラウラ

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生ける魔女の死 Part8

お昼ごはんの時間になって、話題は落雷のことで持ち切りになった。

 

「へぇ~。ホテル正面に落ちたんだ。どっか近くに落ちたんだろうとは思ってたけど」

「びっくりしたよね……雷が落ちた木ってあんな風になるんだ……!」

 

リンリがスープの入ったカップを傾けながら、さほど興味も無さそうに言った。

シロは先ほど見たホテル正面の木の凄惨な様子を思い返しているようだった。

 

「マリーとラウンジにいたんだけど、冬のエリアまで聞こえてたよ」

「……うん、すごい音だった」

 

ミサとマリーも雷の音を聞いたらしい。

マリーはスープのスプーンを握ったまま、少しだけ不安そうに俯いていた。

 

──その顔に、誰かを傷つけてしまうかもしれない恐怖がよぎったのを、私は見逃さなかった。

 

するとそれを察知してか、慌てたナツミが椅子をガタッと鳴らして声を上げる。

 

「いや、ホンマ誰も何もなくて良かったでぇ! 全然マリーちゃんのせいとちゃうで!

 みんな部屋におったから、雷なんか屁ぇでもないしな! あっはっは!」

 

そしてこの世の何よりも不自然で棒読みの笑い声を付け加える。

 

「ナ、ナツミさん、ちょっとこちらで一緒に話しましょう! そうしましょう!!」

「あ、あぁ~!」

 

見ていられないという風に顔を引き攣らせたイリスが、

ナツミの手を引いてマリーから遠ざけるようにビュッフェカウンターへと連行していく。

 

「……?」

「……なにあれ」

「あれはアホです」

 

ハイジがバッサリと切り捨てた。

マリーはきょとんとし、ミサは怪訝そうな顔をする。

 

「なんかナツミ、雷の日はテンション上がる~とか、スプリングスポーツがどうとか言ってたし、

 てっきりこんな日でも外で遊んでたのかと思ってたわ」

 

するとリンリが余計なことを言う。

 

「いや、雷ってマジ怖ぇから。鳴った時点で即PCの電源落としてプラグ抜くよあたし。

 流石のナツミもビビって『今日は卓球で我慢しといたろか!』って言って付き合わされたし」

 

ハイジがすかさずフォローする。

 

「ふーん」

 

リンリは特に気にした様子でもなかった。

 

……どうやらバレずに済んだようだった。

 

一通り雷の話題は消化され、食堂からは一人、また一人と人影は減っていく。

 

私は焼き鳥丼を平らげ、食後のお茶を飲んでいると──。

 

「ちょっと一緒するわ」

 

私の前の席に、ノクスが座った。

その手には紅茶の入ったカップがある。

 

「……うん」

 

私は湯呑みを両手で包んだまま頷く。

 

食堂にはもうほとんど人が残っていない。

シロとマリーとミサは娯楽室へ向かい、リンリはデザート皿を持ってどこかへ消えた。

ナツミはイリスとハイジに連行されるように、同じく娯楽室へ連れていかれた。

 

気付けば、私とノクスだけが少し遅れて食堂に残っている。

 

ノクスがわざわざ一対一で話そうとするのは、

もしかしたら"内通者"のことについてのことなのか? とも思った。

 

だが、ここには流石に隠しカメラの一つや二つはあるだろう。

秘密の会話をするには到底向いていない。

 

「ただの世間話よ」

 

そんな私の考えを察してか、ノクスは表情を幾分か和らげる。

 

「……少しは落ち着いた?」

 

そして、私のことを心配するような声色で問いかける。

 

「さっきよりは」

 

ノクスは……私が、ナツミが死んだのを見て、

そして……自殺して死に戻ったことを気にかけているようだった。

 

「……リンリの時も、あなたはそうだったわ。

 あなたは少し、自分の命を軽視し過ぎている」

「……」

「私は、自殺という行為そのものを肯定するつもりはない。

 たとえ死に戻れるとしても、自分の命を自分で断つことを、

 簡単な手段として行うべきではないわ」

 

その淡々としたノクスの言葉に、私は何も言い返せなかった。

 

 

そうだ。

 

私は、いつしか──

 

自分の命に値段を付けなくなってしまっていたんだ。

 

辛くないわけじゃない。怖くないわけでもない。

 

けれど──私が死んで戻れるなら。

それで誰かを助けられるなら。

 

その考えが、いつの間にか当たり前になっていた。

 

すると、

 

「ただ──」

 

ノクスの声がほんのわずかに柔らかくなる。

 

「私は、あなたが仲間を救おうとしたことを完全に否定するつもりはない。

 あなたはナツミを救った。自分の命を懸けて。

 その事実は、評価されるべきものだと思う」

 

「……」

 

「……あなたの仲間を想う気持ちは、紛れもなく本物だった。

 やっぱりあなたは、私が信用するに値する人間よ」

 

「……大袈裟だよ」

 

私はお茶を一口啜る。

 

「そもそも、こんな方法で死に戻って誰か救うなんて、今まで生きてきて考えもしなかった。

 この拳銃の詳しいことも、この島に来てから初めて知ったんだ」

 

私はポケットからスマホを取り出し、画面をタップして自分のプロフィール欄を開く。

 

そこに書かれていた文章。

 

『波彪マキは自分を撃つことにしか使用できない拳銃を手のひらに出現させることができる。

 拳銃には10発の弾丸が装填されており、

 拳銃自殺による死に戻りを行うたびに装填数が一発ずつ減少する。

 この拳銃を使わずに自殺した場合でも、弾丸は一発ずつ減少する』

 

私はここに来るまで、この拳銃の本当の力も、弾数が減っていくことも知らなかった。

自分の手に、誰にも見えない、撃てない拳銃が出せるだけだと思っていた。

 

この島に来て二日目の、魔法の発表会の後に起こった半ば事故のような出来事。

私の人生にとって初めて、自分で自分の命を奪った瞬間だった。

 

「……あなたも、そうなのね」

 

ノクスはぽつりと呟く。

 

「あなたもって、もしかして……?」

「ええ。私も、自分の魔法を詳細に把握していたわけではなかったの」

 

ノクスは小さく頷いた。

 

すると、少し思案する素振りを見せる。

 

窓の外の薄い鉛色の空を見つめ、それからゆっくりと視線を私に戻した。

 

「……ちょっと、私の昔話に付き合ってもらえるかしら?」

「うん、もちろん」

「……少し長いわよ」

 

ノクスは小さく咳払いをしながら、そう前置きをする。

 

どこか決まりが悪そうなニュアンスに、私は思わず小さく吹き出しそうになった。

 

いつも他のみんなから、

「話が長い」だの「また講釈が始まった」だのと思われてるかもしれないことを、

彼女は彼女なりに本当にけっこう気にしているのだろう。

 

「全然構わないよ」

 

私は微笑みながら、湯呑みを両手で持ち直した。

 

「ノクスの話なら、どれだけ長くてもちゃんと聞くから。

 ……それに、ノクスのことをもっと知りたいし」

 

私の言葉に、ノクスはほんのわずかに驚いたように目を見張り、

それからふっと柔らかく微笑んだ。

 

けれど、すぐに表情を硬くする。

 

「私は──

 過去に二度、自分の魔法を人に向けて使ったことがあるの」

「……二度……」

 

私は息を呑む。

 

「私の魔法が【念殺】だということは、あなたも知っているわね」

「うん」

 

ノクスの【念殺】。

実際に見たのは、魔法の発表会の時。

 

彼女の目が赤く光った瞬間、飛んでいた虫が絶命した、あの魔法。

 

「でも私は、最初から【念殺】だと理解していたわけではないの」

 

ノクスの瞳が、少しだけ遠くを見る。

 

「子供の頃、虫取りが好きだった」

「……ノクスが?」

「意外かしら?」

「いや、ちょっとだけ」

 

ノクスは小さく息を吐いた。

笑ったようにも見えたけれど、それはすぐに消えた。

 

「逃げる蝶々を見て、私はよく思ったの。『止まって』と。

 ただ捕まえたかっただけで、殺したいなんて思っていなかった。

 ……けれど、私が魔法を使うと、飛んでいた蝶は必ず死んだ。

 動きを止めるのではなく、地面に落ちるようにして、そのまま命そのものが止まる。

 何度か繰り返して、子供なりに理解したわ。

 『これは使ってはいけないものなのだ』と」

 

その声は淡々としていた。

 

「繰り返している時に、もう一つ分かったことがあった。

 一度それが起きると、しばらく同じことはできなかった。

 翌日も無理。けれど二日ほど経つと、またそれは起こる」

 

「もしかしてそれが、ノクスの【念殺】の48時間のクールタイムってこと?」

 

「ええ、今思えばね。当時の私はそんな言葉では理解していなかった。

 ただ、二日くらい経たないと使えないのだと、ぼんやり分かっていただけ。

 後から48時間と断定出来たのは、もっと成長してからだったわ」

 

ノクスは自分の手を見下ろした。

 

「それでも私は、自分の魔法が人間に効くとは思っていなかった」

 

「……人間に?」

 

「そう。虫や小さな生き物にだけ起こる、奇妙で不気味な現象だと思っていた。

 この力のことも、誰にも話したりなんかしなかったわ。

 ましてや人に向けて使おうなどと、考えたこともない。考えたくもなかった」

 

そこで、ノクスは言葉を切った。

ほんの少しだけ空気が重くなる。

 

「だけど……それを知ったのは、私の家にグループ犯による強盗が入った夜だった。

 覆面をして、ナイフを持って、金目の物を探すより先に……私の家族を刺して回った。

 父と母、そして一緒に住んでいた……おじいちゃんとおばあちゃんをね」

「……っ」

 

ノクスの口から淡々と語られる凄惨な光景が、私の脳裏に強烈なイメージとなって浮かび上がる。

しかし、ノクスは視線を落としたままただ感情を押し殺した声で続ける。

 

「私は隠れていて、助けを呼ぶことも、逃げ出すこともできなかった。

 ただ息を殺して、震えていたわ。

 そのうちの一人が私に気付いた。たぶん、リーダー格だったのでしょうね。

 ほかの連中に指示を出していた男だった」

 

ノクスの握られた手が僅かに震えた。

 

「男はナイフを持って私に近づいてきた。

 逃げ場も隠れる場所もなかった。私は、考える余裕さえなかった。

 そして……私は、昔と同じことを思った。

 ──『止まって』、と」

 

 

「……次の瞬間、男は倒れた」

 

 

 

「糸が切れたみたいに倒れた。声も上げなかった。

 何が起きたのか、ほかの連中にも分からなかったのでしょうね。

 リーダー格が突然倒れて動かなくなったのを見て、残りは逃げ出した」

 

ノクスは淡々と続ける。

 

「その事件のあと、大人たちは色々なことを言ったわ。

 強盗犯の男が突然倒れたのは、持病があったからなのかもしれない。

 極度の興奮で心臓に異常が起きたのかもしれない。薬物を使っていたのかもしれない。

 あるいは、何か別の急性症状だったのかもしれない。

 ……それでも、私が何かをしたとは誰も考えなかった。

 私は幼い子供で、男には触れてもいない。

 刃物を持って迫られていた、ただの被害者だったから」

 

「それなら……ノクスは……」

 

「『君は何もしていない』、そう言われたわ」

 

ノクスは、私の言葉を遮るように言った。

 

「ナイフを持った男が迫ってきて、逃げ場もなく、

 私は殺されそうになっていた。だが男は勝手に倒れた。

 『君は助かっただけだ』……大人たちはそう言った。

 たぶん、法律上もそう扱われたのでしょうね」

 

「だったら……」

 

「でも、私は知っていた。……虫取りの時と同じだったから。

 逃げる蝶々に『止まって』と願った時、蝶々は死んだ。

 あの夜、私は男に『止まって』と願った。そして男は倒れた。

 だから分かったの。大人たちが何と言おうと、あれはただの突然死ではない。

 ──私の魔法が、人間にも効いたのだと」

 

「……」

 

「その時、初めて知ったのよ。私の魔法は、人間にも効くのだと。

 自分の意思で、ただ願うだけで──いとも簡単に人を殺せるのだと」

 

静まり返った食堂に、ノクスの言葉だけが響く。

 

「それが、一度目……」

 

私が声を絞り出すと、ノクスは視線をテーブルの上のカップへと戻し、小さく頷いた。

 

「それから私は、母の従兄にあたる男に引き取られた。

 五十代半ばの、親戚というには少し遠い人だったわ」

「その人とは、前から仲が良かったの?」

「いいえ。ほとんど関わりはなかった。葬儀の席でようやく顔と名前が一致したくらいよ」

 

ノクスは静かに首を横に振った。

 

「……お世辞にも、立派な大人とは言えなかったわ。

 自由で自分勝手で気分屋で、金遣いも荒いし生活もだらしない。

 私は何度も思った。『この人は本当に大人なのかしら』ってね」

 

「……大丈夫だったの?」

 

「虐げられたことはないわ。食事は用意してくれたし、必要なものも買ってくれた。

 学校の書類にも、面倒くさそうな顔をしながら判を押した。

 保護者として最低限のことはしていたと思う」

 

ノクスは少しだけ目を細めた。

 

「ただ、私のために特別何かをしてくれる人ではなかった」

「え?」

「旅行も、遊びに行くのも、全部あの人が行きたいから行くだけ。

 私はそのついでに連れて行かれていただけよ。

 温泉街。雀荘。競馬場。遊園地。動物園。地方の古びた旅館」

 

一つ一つ思い返すようにそれらの場所を口にした。

 

(大の大人なのに、遊園地とか動物園に行きたがるのか……?)

 

私はそう思ったが、口には出さずにノクスの次の言葉を待った。

 

「私が行きたいと言ったわけじゃなく、ただあの人が行きたかっただけ。

 車の助手席に私の席が一つ用意されていて、気付けば連れ回されていた」

「ノクスはそれ……どう思ってたの?」

「……そうね、呆れていたわ」

 

ふう、と一つため息をつき、続ける。

 

「遊園地では、絶叫マシンに乗って私よりあの人の方がはしゃいでいたり。

 雀荘では、負けが込んでヤケになって、

 ついには後ろで見ていた私に『流れを変えてくれ』と代打ちを頼んだり。

 動物園では、猿山の猿を思いっきり挑発してフンを投げつけられてたり」

 

(何やってんだ……)

 

あんまりにもあんまりなエピソードに、私は引きつった笑いを浮かべるしかなかった。

 

「……なんか、すごい人だね」

「そうね。すごく子供っぽい人だったわ」

 

淡々と言うその声には、不思議と嫌悪がなかった。

 

「でも、何故か嫌いにはならなかった。

 ……私を哀れまなかったから」

 

「え……?」

 

「周りの大人たちは、私を見るたびに声を潜めた。

 優しくしようとしてくれたのは分かるわ。

 けれど、その優しさはいつも私を事件の中へ戻した。

 私はどこへ行っても、あの夜に家族を失った子供だった」

 

「……」

 

「でも、あの人だけは違った。

 私の過去に興味がなかったわけではないのでしょうけれど、

 少なくとも、それを私のすべてにはしなかった」

 

そしてそこで、わずかに目を伏せる。

 

「だから、少しずつ絆されたのだと思う」

「絆された……?」

「ええ。腹立たしいことにね」

 

いつものノクスなら、そこにトゲのある皮肉でも混ぜただろう。

けれどその声はひどく静かだった。

 

「ある時、私はあの人に話したの。

 誰にも言わなかったことを」

「それは……魔法のこと?」

「ええ」

 

ノクスは頷く。

 

「強盗犯の男が死んだのは、持病でも薬物でも急性症状でもない。

 私が『止まって』と願ったからだと。

 虫取りの時と同じことが、人間にも起きたのだと」

 

ノクスの指先が、カップの縁に触れる。

 

「でも……怖かったわ。

 魔法のことを打ち明けたら、突き放されるかもしれないと思った。

 気味悪がられるかもしれない。

 今までと同じ目では見られなくなるかもしれない。

 あるいは、大人たちに相談されて、どこかへ連れて行かれるかもしれない」

 

「……」

 

「それでも話した。たぶん、誰かに知っていてほしかったのでしょうね。

 私がただ助かっただけの子供ではなく、あの夜に何をしたのかを。

 そして全てを話した。私の魔法は【念殺】なのだと。

 念じただけで、ありとあらゆる生き物の命を問答無用で奪ってしまうのだと」

 

私は何も言えなかった。

 

ノクスがその男に打ち明けた時、どんな顔をしていたのか。

どれだけ言葉を選んだのか。

どれだけ相手の反応を怖がっていたのか。

 

それを想像すると、胸が苦しくなった。

 

「その人は、何て言ったの?」

「……」

 

私が尋ねると、ノクスはしばらく黙った。

 

それから、少しだけ眉を寄せる。

 

「『ハエとか湧いた時に便利そうだな』」

「……は?」

 

思わず間の抜けた声が出た。

 

けれどノクスは真顔のまま続ける。

 

「正確には、こうだったわ。

 『夏場に生ゴミの周りをぶんぶん飛んでるハエとか、

 一瞬でどうにかできるなら便利そうだな』と」

「いや、その反応はおかしくないか?」

 

緊迫していた空気が一気に霧散し、私は机に身を乗り出すようにして突っ込んでいた。

 

「私もマキと同じようなことを思ったわ」

 

ノクスは深く溜息をつき、カップを見つめた。

 

「こっちは大変な思いで告白したのよ。

 それなのにあの人は、私が必死に紡いだ言葉の重みを一切無視して、

 ただの便利グッズか何かのように扱ったの。

 恐怖するでもなく、同情するでもなく……

 大真面目にハエの駆除について語り出したあの人の顔を、私は今でも忘れないわ」

「あ、あはは……」

 

少し憎々しげに語るノクスに、引きつった笑いしか出てこなかった。

 

「でも……」

 

と、ノクスは声を落とす。

 

その顔には、やっぱりどこか救われたような、穏やかな色が混ざっていた。

 

「本当に腹立たしいけれど……そのくだらない言葉に私は救われてしまったのね。

 ああ、この人は私の魔法を、私のすべてにはしないのだと。

 これからも私を車の助手席に乗せるつもりなのだと、分かってしまったから」

 

ノクスはそっと視線を上げ、窓の外の雲が切れ始めた空を見つめる。

 

「……でも、そんな生活も長くは続かなかった」

 

「……え?」

 

「さっきも言った通り、あの人の生活は乱れに乱れていたの。

 私が諫めても、毎日のように酒を飲み、タバコは一日に一箱は空ける。

 ある日から、ずっと食欲もなくてどんどん痩せ細っていった。

 そこで、私が無理やり病院の検査を受けさせたの」

 

「検査の結果、がんだった」

 

「……」

 

私は言葉を失った。

 

「医者には、生活習慣も影響したかもしれないと言われたわ。

 何もかも褒められたものではなかったからね」

 

ノクスはカップの縁に視線を落とす。

 

「本人も、妙に納得していた。『まあ、ツケが回ってきたんだろう』と笑っていたわ」

「……治療はしたの?」

 

ノクスは黙っては頷く。

 

「手術も、薬も。できることはした。けれど、長くはなかった。

 病室でもあの人は相変わらずだった。病院食が不味いと文句を言い、看護師に怒られ、

 見舞いに持ってきた推理小説を勝手に競馬新聞と一緒に並べて、

 『どっちも予想する紙だろ』だなんて言って」

 

ノクスは静かに言う。

 

「でも、病状が進むにつれて、そういう冗談も減っていった。

 がんが骨にまで転移して、痛みで眠れない夜が増えた。

 薬の量が増え、意識が混濁する時間も長くなっていった。

 食事もほとんど喉を通らなくなって、腕も、足も、目に見えて細く痩せ衰えていったの」

「……」

 

私の脳裏に、その光景が生々しく浮かんだ。

 

自由で、自分勝手で、気分屋で、子供のようだった男が──

布団の上で少しずつ小さくなっていくという残酷な光景が。

 

「やがて半身も麻痺して、呂律も回らなくなったわ。

 喉の機能が衰えて、誤嚥の危険があるからと、最後には水すらも飲ませてもらえなくなった。

 ……あんなに酒好きだった人がね、毎日『酒が飲みたい』と管を巻いていたのに、

 それがいつしか、かすれた声での『水が飲みたい』に変わっていくのよ」

 

ノクスは、今までになく重々しい表情になる。

カップを握る彼女の指先は、まるで凍りついたように白く強張っていた。

 

「言葉が言葉にならないことも増えた。

 ただの息の漏れや、意味を成さないうめき声にしか聞こえないような状態よ。

 ……それでも、毎日一緒にいた私には、分かる時があったの。

 あの人が今、何を言おうとしているのか。

 私に何を頼もうとしているのか、正確に理解できてしまう瞬間があった」

 

静まり返った空間で、ノクスは一度きつく目を閉じ、

それからゆっくりと私をまっすぐに見つめ直した。

 

「……ある夜、あの人は私に言ったの」

 

 

「『お前の魔法で、俺を"止めて"くれ』、と」

 

 

「そ、そんな……」

 

思わず胸が締め付けられ、愕然とした声が漏れた。

しかしノクスは、私の動揺を置き去りにするように言葉を続けた。

 

「最初は、もちろん拒否したわ。

 ……当然でしょう。私は人を殺すために、あの魔法を使いたくなかった。

 それに……あの人は知っていたはずなのよ。

 私があの強盗に襲われた夜のことをどう受け止めていたか。

 自分の魔法をどれほど恐れ、忌むべきものとして抱えていたかを」

 

ノクスの声に、初めて明確な怒りが滲んだ。

 

「それなのに、あの人は頼んだ。

 私にしか頼めないことだとでも言うように。

 自分が苦しいから、私にまた人を殺せと言った」

 

「……ひどいな」

 

「……ええ。どこまで自分勝手なのかと思った。

 最後の最後まで、自分の都合で私を振り回すのかと。

 遊園地や競馬場に連れ回すのとはわけが違う。これは、人の命の話なのだから」

 

彼女は込み上げる感情を必死に押し殺すように、一度目を閉じた。

 

「私は怒ったわ。

 あなたは私に何を頼んでいるのか分かっているのか、と。

 私がそれをしたら、私は今度こそ自分の意思で人を殺すことになるのだと。

 そう言った」

 

「その人は、何て……?」

 

「……何も、言わなかった」

 

ノクスは静かに言った。

 

「何かを話すことも、謝る余裕さえ、もう残っていなかったのかもしれない。

 あるいは、本当に悪いことだなんて思っていなかったのかもしれない」

 

ノクスの声が、少しだけ掠れる。

 

「……けれど、本当に苦しそうだった。

 言葉にならない声で呻いて、息をするだけでも痛そうで、目だけが私を見ていた。

 あの目を、私は今でも覚えている」

 

「……」

 

「拒み続けたわ。何度も。

 殺人は殺人よ。頼まれたから。苦しんでいるから。もう助からないから。

 そんな理由で、人を殺していいことにはならない。

 私はそう思っていた」

 

ノクスは、自分自身に言い聞かせるように言った。

 

「でも、いよいよ死が近付いた時、私は耐えられなくなったの。

 あの人が苦しんでいる姿を、これ以上見ていられなかった。

 あれほど自由で子供みたいだった人が、ベッドの上で声にもならない声を漏らしている。

 いつも私を勝手に助手席へ乗せていた人が、もう自分の体さえ思うように動かせない」

 

「その時、私は思ってしまったの」

 

彼女は、ぽつりと言った。

 

 

「終わらせてあげたい、と」

 

 

それはあまりにも重く、苦しい言葉だった。

 

「強盗の時とは違う。

 あの夜、私はただ『止まって』と願った。

 何が起きるかも分からず、恐怖に突き動かされただけだった。

 でも、その時は違った。私は自分の魔法が人間に効くことを知っていた。

 自分が何をしようとしているのかも、分かっていた」

 

 

「そして……」

 

 

「私は、あの人に魔法を向けた」

 

 

 

ノクスは言った。

 

まるで──自らの罪を告白するように。

 

 

 

 

 

「けれど、あの人は死ななかった」

 

「……効かなかったの?」

 

「ええ。何も起こらなかった」

 

ノクスは小さく頷いた。

 

「私はその時、自分が本当は殺したくなかったからだと思った。

 無意識に魔法を使わなかったのだと。

 あの人の苦しみを終わらせる覚悟も、人を殺す覚悟も、どちらも持てなかったのだと」

 

「……」

 

「私は長い間、そう思っていたわ。

 私は最後の最後で逃げたのだと」

 

ノクスは、かすかに息を吐いた。

 

「……あの人は、その数時間後に息を引き取った。

 私の魔法ではなく、病に殺された」

 

言葉が出なかった。

 

何を言えばいいのか、脳内の言葉がどれも軽薄なものに思えて、一つも形にならなかった。

 

私はただ、目の前のノクスを見つめることしかできなかった。

 

「けれどこの島に来て、私は自分のプロフィールを見ることになった。

 魔法の詳細欄に、こう書かれていたわ。

 ──『対象が数時間以内に別の要因で死亡する運命にある場合、この魔法で即死させることはできない』」

 

ノクスはスマホを懐から取り出し、自身のプロフィール欄を私に見せながら続ける。

 

「この一文を読んで、ようやく分かった」

 

ノクスの声は、ひどく冷たかった。

 

「──ああ。だからあの時、あの人は死ななかったのだと」

 

窓の外で、雲間から差し込んだ光が食堂の床を薄く照らしていた。

 

けれど、ノクスの横顔は少しも明るくならなかった。

 

「少しだけ、安心したのかもしれない。

 私は逃げたわけではなかった。魔法は発動していた。

 ただ、制約のせいで効かなかっただけだったのだと」

 

ノクスは、そこでわずかに目を伏せた。

 

「でも同時に、もっと嫌になった」

「……どうして?」

「私は本当に、あの人を殺そうとしていたのだと分かってしまったから。

 救うためだと言い訳して。苦しみを終わらせるためだと理由をつけてね。

 初めて明確に死を願ったその時点で……私は一線を越えてしまったのよ」

 

ノクスの声は、どこまでも冷え切っていた。

 

「……私は、この罪の十字架をずっと背負って生き続けると決めたわ。

 償えなくとも、贖えなくとも……せめて、なかったことにはしないように」

 

ノクスは覚悟を孕んだ瞳で私を見据える。

 

それは自分を悲劇の人間として語る目ではなかった。

誰かに許しを求める目でも、同情を誘う目でもなかった。

 

ただ、決して目を逸らさないと決めた人間の目だった。

 

その瞳を見て、私は薄らと理解してしまった。

ノクスがあれほど殺人を忌み、それを犯してしまった者を糾す理由を。

 

きっと、自分と同じようになってほしくないのだ。

 

この島のルール──殺人を犯し、魔女裁判で全員を欺けば、この島から生きて脱出できる。

 

もしもそれを成し遂げたとしても、誰かを殺した罪は一生消えることはない。

この島を出ても、罪の記憶は容赦なく自分自身を縛り続ける。

 

それはたぶん、彼女自身が痛いほどよく分かっていることだから。

 

「…………」

 

するとノクスは、カップの紅茶を飲み干した。

 

まるでこれ以上この話を続けるつもりはないとでも言うように、

彼女は空になったカップをソーサーに戻し、いつもの冷静な表情に戻った。

 

「……とまぁ。

 私もあなたと同じく、この島に来てから初めて自分の魔法の詳細を知ったというわけよ」

 

「……いや、話の着地点そこでいいのか……?」

 

「要点はそこでしょう? 私は自分の魔法を、経験則でしか把握していなかった。

 対象が数時間以内に別要因で死亡する場合は効かないという制約も、この島に来て初めて明文化された。

 あなたが自分の【死に戻り】について詳しくは知らなかったのと、構造としては同じよ」

 

一息つき、ノクスは続ける。

 

「そうなると、一つ疑問が浮かびあがる。

 どうやって運営側は、その詳細を知ったのか」

 

「……」

 

ノクスは、その声色もいつもの冷静なものに戻っていた。

 

「まぁ、たしかに気になるな……。

 普通に考えたら、眠らされて拉致される際に詳しく調べられた、とか」

「そうなると、どうやって調べたのかが気になるところね」

 

確かにそうだ。

"拳銃を使わずに自殺した場合でも、残弾数は減る"だなんて……。

何故、私の【死に戻り】のそんな詳しいことまで詳細に知っているのか。

 

未だにその疑問は謎のままだった。

 

「……【魔法】とか?

 そういう、【解析】とか【鑑定】みたいな魔法を持ってる人が運営側にいたり……」

 

私が思いつきでそう口にする。

 

「思考の方向性としては悪くないわ、マキ。

 運営側──つまり首謀者やその一味が、情報を司る魔法の使い手である可能性はあり得るわね」

 

ノクスはテーブルの上の空になったカップをじっと見つめる。

 

「……」

 

ほんのわずかな沈黙のあと、彼女の視線が一瞬だけ食堂の天井へ流れた。

まるでそこに仕掛けられた見えない何かを警戒するかのように。

 

「少し、話し過ぎたわね。あなたの緑茶もすっかり冷めてしまっているわ、ごめんなさい」

「え? あ、うん……」

 

急に話を切られ、私は少し戸惑う。

 

けれど、ノクスの雰囲気をみてなんとなく察する。

これは単に、話が長くなったから切り上げたわけではない。

 

これ以上は、ここで話すことではないのだ。

 

「やっぱり、私の話は長くなりがちね」

 

ノクスはやや自虐気味にそう言うと、空になったカップを手に取った。

 

「マキも、時間があったら考えておいて。

 どうやって運営側が、私たちの魔法の詳細を知ったのか」

「……うん」

 

私は小さく頷いた。

 

ノクスはそれだけ言って、席を立つ。

 

「長話に付き合ってくれて、ありがとう。

 この話をしたのは……あなたが初めてよ」

 

そして、そうぽつりと零すように言った。

 

そこからの仕草はいつも通りだった。

背筋を伸ばし、表情を崩さず、何事もなかったようにカップを運んでいく。

 

その背中を見送ると、冷めた緑茶の入った湯呑みに視線を落とす。

 

私は緑茶を一口飲んだ。

ぬるくなった苦味が、舌の上にじわりと広がる。

 

その重い苦みは、私自身も知らなかった私のことを、

運営側が当然のように知っている気味悪さのせいなのか。

 

それとも──さっきのノクスの過去の話のせいなのか。

 

私には分からなかった。

 

 

 

 

その夜。

 

私は自室のベッドに寝転がったまま電気を消して、ぼんやりと天井を見上げていた。

けれど、テラスから差し込む月明かりのせいで、完全な暗闇にはならなかった。

外には既に雲は無かった。

 

昼間にノクスが語った言葉が、脳裏をぐるぐると駆け巡る。

 

運営側はどうやって私たちの魔法の詳細を知り得たのか。

運営側の人間による何らかの魔法か、それとも何か特殊な機械でも用いたのか。

 

考えても考えても、確証のない仮説が浮かんでは消えるだけで、一向に答えは出そうにない。

 

(もし、運営側の人間によるものだとしたら……)

 

少なくとも、私たちの中にいる人間がそれをやってのけたのは考えにくい。

 

いわゆる、いま私とノクスが追いかけている"内通者"だ。

何故なら、みんなの魔法の詳細を見ても、解析や鑑定といった類の魔法は見当たらないからだ。

 

(……いや、待てよ)

 

私はふと思い立つ。

 

もしも運営側なら、参加者のプロフィールを改ざんすることなんて造作もないのではないだろうか。

 

例えば──私たちには嘘の魔法を申告して、

私たちが絶対の情報としている魔法の詳細欄にも、嘘の記述が書かれている……とか。

 

アテナの一件以降に開示されて、みんなの魔法の情報とも矛盾しないことで、

この詳細欄は信用できるものだと思い込んでいた。

今のところ、誰かの魔法がプロフィール欄と決定的に食い違ったことはない。

 

だから私は、無意識に思っていた。

 

『ここに書かれている情報は正しい。

 少なくとも、魔法に関しては信用できる』

 

……でも、それは本当にそうなのだろうか。

 

正しい情報の中に、嘘を一つだけ混ぜる。

ほとんどの参加者の情報は正確に記載し、たった一人だけ、意図的に魔法の詳細を偽る。

そうすれば、その嘘は見抜きにくい。

むしろ、他の情報が正しいからこそ、嘘の部分まで正しいと思い込んでしまう。

 

「……」

 

私は枕元に置いていたスマホを手に取った。

暗い部屋の中で、画面の光がぼんやりと浮かび上がる。

 

参加者一覧に並んだ名前。

 

 

私はしばらくその一覧を見つめていた。

 

 

紺剛ダイヤ

誕生日:4月4日

身長:171cm

体重:59kg

好きなもの:鍛錬

魔法【身体強化】

 

鈴月ミサ

誕生日:12月12日

身長:153cm

体重:46kg

好きなもの:細かい作業、パズル

魔法【凍結】

 

地獄谷ポム

誕生日:8月8日

身長:156㎝

体重:48kg

好きなもの:温泉

魔法【重力操作】

 

一ノ目ハイジ

誕生日:11月11日

身長:157㎝

体重:51㎏

好きなもの:漫画鑑賞、アニメ鑑賞

魔法【寿命可視化】

 

空丸マリー

誕生日:5月5日

身長:147㎝

体重:42kg

好きなもの:遊ぶこと

魔法【天候操作】

 

天刻ヤヒメ

誕生日:2月29日

身長:152cm

体重:47kg

好きなもの:昼寝、散歩

魔法【物質強化】

 

影津アテナ

誕生日:2月2日

身長:159cm

体重:52kg

好きなもの:絵を描くこと

魔法【幻影】

 

蜜葉イリス

誕生日:3月3日

身長:169cm

体重:54kg

好きなもの:コーヒー

魔法【魔法無効化】

 

贄熊ライト

誕生日:6月6日

身長:165cm

体重:55kg

好きなもの:料理、食べ歩き

魔法【封印】

 

 

脳内で、みんなのこれまでの行動を思い返してみる。

 

けれど、プロフィールにある魔法と何ら矛盾はしていないように思えた。

 

 

 

 

 

 

 

そして、とある人物のところで──私の指がピタリと止まった。

 

 

 

 

 

 

 

 

『鵲シロ』

 

 

 

 

 

 

 

魔法──【無し】。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……」

 

 

胸の奥が──嫌な音を立てた気がした。

 

 

もし、プロフィール欄に嘘が混ざっているとしたら。

 

もし、誰かの魔法が偽られているとしたら。

 

 

 

(……何考えてるんだ、私は)

 

私はすぐにスマホを伏せた。

 

画面の光が消え、部屋はまた薄暗さを取り戻す。

 

シロを疑う?

 

あのシロを?

 

いつも隣で無邪気に笑って、くだらないことを言って、私のことを心配してくれるシロを?

 

魔法が無いから怪しい?

 

プロフィール欄に嘘があるかもしれないから?

 

それだけで?

 

「……馬鹿じゃないのか」

 

私は小さく呟き、額に手の甲を乗せた。

 

少し自己嫌悪に陥る。

 

「……ダメだ」

 

私は勢いよく上半身を起こした。

このままベッドの上で考えていたら、思考がろくな方向に行かない。

 

私は両手で頬を叩く。

ぱちん、と乾いた音が部屋に響いた。

 

今はどれだけ考えても答えが出ない。

出ない答えを無理やり出そうとすれば、きっと誰かを傷付ける。

少なくとも、今の私の頭で考え続けるべきじゃない。

 

私は腕時計の時刻を確認した。

 

深夜二時。

 

ホテルの中がもっとも静まり返る時間だった。

 

(……見回り、行くか)

 

それは最近、日課のようになりつつあった。

事件を警戒するため、誰かが怪しい動きをしていないか確認するため。

 

庭園にでも行って、外の空気でも吸えばこの嫌な気分も晴れてくれるかもしれない。

 

私は少し沈んだ気持ちと共に静かに部屋を後にした。

 

 

 

 

倉庫を通り過ぎ、庭園に差し掛かったその時──

 

誰かの気配がして、私は思わず立ち止まる。

 

「……?」

 

私は足音を殺して、庭園の方へ視線を向ける。

 

月明かりが庭園を照らし、敷地全体はぼんやりとした薄闇に沈んでいる。

その中に、小さな影があった。

 

誰かが、庭園のベンチに座っている。

 

よく見ると、その体が小刻みに小さく震えていた。

 

「ひっ……う、く……っ」

 

夜の静寂に紛れるように、喉の奥で必死に押し殺したような声が耳に届く。

 

(……誰か、泣いてる?)

 

そう気付いた瞬間、私は声をかけるべきか迷った。

こんな時間に、こんな場所で、ひとりで泣いている誰か。

普通なら、ただ事じゃない。

 

私はもう少しだけ様子を見ようと、忍び足の態勢を直そうとした時──

 

する、と衣擦れの音を立ててしまった。

 

「……っ!」

 

その音に反応して、弾かれたように顔を上げる。

 

「誰っ!?」

 

こちらに向けていた背中が立ち上がり、勢い良く翻る。

 

私は慌てて両手を少し上げる。

 

「わ、私だ……マキ」

「……マキ?」

 

月光のベールに透かして見るように、その子がこちらを凝視する。

 

「ミサ……?」

 

私は思わず名前を呼ぶ。

 

ミサはしばらく私を見つめていた。

 

それから、ようやく力が抜けたように肩を落とす。

 

「……びっくりした」

「ごめん。驚かせるつもりはなかったんだけど」

「ううん。こっちこそ……変な声出したね」

 

ミサは俯き、慌てて袖口で目元を拭った。

 

けれど、頬には涙の跡が残っていた。

 

ミサの体温の低さのせいだろうか。

頬を伝った涙は冷やされ、薄く白い筋を残しているように見えた。

まるで涙の通った場所だけに、淡い霜が降りたかのようだった。

 

ミサは私の視線に気づくと、ばつが悪そうに視線を泳がせる。

 

「……見た?」

「見た、というか……聞こえた」

「……そっか」

 

小さく息を吐き、ベンチに座り直すミサに私は尋ねる。

 

「……どうしたの? こんな時間に」

「……眠れなかっただけ」

「眠れなかっただけで、ここに?」

「マキだっているよね」

「それは、まあ……そうだけど」

 

言われてみれば、その通りだった。

 

深夜二時に庭園まで出てきている時点で、人のことをとやかく言える立場ではない。

 

「私はちょっと、見回りというか……外の空気を吸いたくなって」

「……私も、そんな感じ。ここ、星がよく見えるから」

 

ミサはそう言って、視線を空に向けた。

 

昼間の雷雲は消え、空には満天の星が広がっていた。

 

見上げたその顔が、月明かりにうっすら照らされる。

目元は少し赤く、頬に残った白い筋はまだ消えていない。

 

私はミサの隣に座る。

 

「……何かあった?」

 

少し迷ってから尋ねた。

 

「……」

 

ミサはすぐには答えなかった。

 

ベンチに腰掛けたまま口を閉ざしている。

 

膝の上で握られた両手が、ぎゅっと強く結ばれていた。

 

──やがて、ぽつりとミサが呟いた。

 

「……ヤヒメのことを考えてた」

「……ヤヒメのこと?」

「うん」

 

その名前を聞いて、胸の奥が少し痛む。

 

「……ヤヒメはもう、死んじゃったんだね……」

 

ミサは静かに言った。

 

「……」

「頭では分かってるつもりだった。……でも、時々急に分からなくなるんだ。

 また優しく笑って、私とマリーとヤヒメの三人で遊んでるような気がして。

 うさぎのリング作りに失敗しても、『ミサちゃんならいつか出来るよ~』って、

 またのんびりした声で慰めてくれるような気がして」

 

ミサの声は淡々としていた。

 

「もっとヤヒメと話せばよかった。もっと一緒にいればよかった。

 ……マリーと三人で、もっと遊べばよかった」

 

ミサは呟く。

 

「もっと、ヤヒメのことをちゃんと見ておけばよかった。

 何を考えていたのか。何を思っていたのか。何を大事にしていたのか……そんなの」

「……」

「……いなくなってからじゃ、何も聞けないね」

 

その声が、わずかに震えた。

ミサはまた袖口で目元を拭う。

 

けれど涙は完全には止まらないらしく、頬の上に新しい筋が一本、ゆっくりと伸びた。

月明かりの下で、それはまたすぐに白く細い跡を残す。

 

「……こんなこと、マリーには言えないから。

 あの子、ヤヒメのことを思い出したら、また泣いちゃうから」

 

その表情は──いつも感情を表に出さない無表情な彼女より、ずっと年相応の少女に見えた。

 

「……でも、一人で抱え込んで泣くくらいなら、誰かに相談してもいいと思う」

「……誰かって?」

「私とか」

 

私がそう言うと、ミサは少しだけ目を丸くした。

 

それから、困ったように目を伏せる。

 

「……マキは、変な人だね」

「え、今のどこが?」

「普通、自分からそんなこと言わないでしょ」

 

少しだけ、いつものミサの冷静な口ぶりが戻ったようだった。

その変化に、私の強張っていた胸が解ける。

 

ミサは袖口で、もう一度目元を拭った。

 

「……最近、マリーとずっと遊んであげてるよね。

 マリーも、前みたいに元気を取り戻してきてる。

 私、それを見て少し安心してたんだ」

 

私が言うと、ミサはここ数日の事を思い返すように呟く。

 

「……マリー、ヤヒメのことを思い出すと、すぐ顔に出るんだ。

 だから、なるべく別のことを考えさせてるだけ」

「……そっか」

 

ミサはそれ以上、自分から何かを語ろうとはしなかった。

 

けれど、私はなんとなく納得した。

 

ヤヒメを失ったことを思い出させてしまうから。

せめて隣にいるマリーには、寂しい思いをさせたくない。

だからミサは最近、あんなに頻繁にマリーを連れて遊んでいたのだろう。

 

それはミサらしいと思った。

自分の感情はあまり表に出さないのに、マリーのことになると静かに動く。

慰めの言葉を並べる代わりに、遊びに連れ出す。

そういう不器用な優しさが、ミサにはある。

 

「でも、ミサも無理しすぎない方がいいよ。

 本当に辛かったら、私でよければいつでも力になる。

 ただこうして話を聞くだけでもいいからさ」

 

私はベンチに座るミサを真っ直ぐに見据えて言った。

 

「……ありがと」

 

ミサは小さく、消え入りそうな声で呟いた。

 

月明かりに照らされた彼女の横顔からは、先ほどまでの冷たさが少しだけ和らいでいた。

夜風に揺れる木々のざわめきだけが、静かに二人の間に流れていく。

 

「……私、そろそろ戻るね。

 あんまり夜更かししたら、明日マリーと遊べなくなるから」

 

ミサはそう言って、ゆっくりとベンチから立ち上がった。

 

「……そっか」

「うん」

 

ミサは小さく頷く。

 

「じゃあ、部屋まで一緒に戻る?」

「いい。一人で戻れる」

 

ミサはいつもの調子でそう答える。

 

それから視線をこちらへ向けた。

 

「マキも早く寝なよ。寝過ごして、朝食の時間に間に合わなくなっても知らないよ。

 ……おやすみ」

 

ミサは軽口のようにそれだけ言うと、庭園からホテルの中の方へ歩き出した。

 

「はは、それは気をつけないとね。おやすみ、ミサ」

 

私の言葉に、ミサは振り返ることなく片手を軽く上げて応える。

その小さな背中が静かに遠ざかっていく。

 

私はその背中を見送る。

 

「……」

 

一人、月明かりが照らす庭園に残される。

 

「……みんな、色々抱えてるんだな」

 

当たり前のことを、今さらのように思う。

 

シロやリンリ、ノクスやミサ、マリー……私。

 

この島から出ようとする者も、この島での生活に順応しようとする者も。

皆それぞれ心の中に、他人に明かせない悩みや拭いきれない不安を、当たり前のように抱え込んでいる。

ただそれを、笑顔や冷静さという仮面で覆い隠しているだけなのだ。

 

私は肺いっぱいに夜の冷たい空気を吸い込む。

 

「……戻るか」

 

私は小さく息を吐いた。

 

外の空気を吸えば少しは気が晴れるかと思ったけれど、頭の中がすっきりしたわけではない。

 

シロを疑いそうになった自己嫌悪も、運営側への不気味さも。

全部が胸の奥に沈んだままだ。

 

それでも──暗い部屋で天井だけを見ているよりは少しましだった。

少なくとも、ミサのことは少しだけ分かった気がする。

 

私はベンチから立ち上がり、

月明かりのステージから降りるように、庭園からホテルの中の方へ歩き出した。

 

そして誰もいなくなった庭園には、まるで世界から取り残された舞台のように、

スポットライトめいた真っ白な月の光だけが、いつまでも静かに降り注いでいた。

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