食堂までの通路が、やけに長く感じた。
先ほどのすっからかん事件の記憶があるせいで、期待が勝手に膨らんでいく。
(今度こそ……)
食堂の前──
ふわっと、温かい空気が流れ込んでくる。
鼻先をくすぐるのは、だしの香り、肉の焼ける香ばしさ、
そこに溶け込むバターの甘い匂い。
「……っ」
思わず、口元がゆるむ。
ビュッフェ台には湯気が立ち、
銀色の蓋の隙間から、確かな温度の気配が伝わってくる。
「湯気ある! 湯気あるよ! マキちゃん!」
シロが私の肩をばしばしと叩く。
「……やった」
どうやら私たちが一番乗りのようだ。
ならば――銀の蓋を開ける儀を、ここに執り行おう。
――ぱかり。
ふわりと立ち上る湯気。
鮮やかな赤いスープが、器いっぱいに満たされている。
その上にはいくつものつやっとした鶏もも肉。仕上げに控えめに散らされたハーブ。
(うわ……美味しそう……!)
私はすぐ、料理名のプレートに視線を落とす。
【鶏もも肉のバスク風煮込み】
「……なるほど……!」
美味しそう。
それは間違いない。
……けど、味の想像ができない……!
私は一歩横にずれて、隣の蓋の前に立ち、プレートを確認する。
【チキン・ディアブル】
おそるおそる蓋を取ると、
こんがりと焼き色のついた大きなチキンに、
パン粉のようなものがまぶされた料理が姿を見せた。
(美味しそう、だけど……!)
味の想像が、できない……!!
ふと、別の料理のプレートに視線を巡らせると──
【唐揚げ】
(……あっ)
これだッ──!
私は、ほぼ吸い寄せられるようにその前へ移動していた。
蓋を開けると、こんがりと揚がった黄金色の鶏の唐揚げが、行儀よく整列していた。
トングを手に取る。唐揚げを掴む、皿にのせる。
もはや、流れ作業だった。
(それと──)
私はそのまま、大きなスープジャーの前へ移動する。
味噌汁を注ぎ、隣の炊飯ジャーからご飯もよそう。
ここに来てから、気付けば甘いものばかり口にしていた。
だからだろう、今、体がはっきりと塩味を求めているのが分かった。
ご飯、おかず、汁物の三種の神器で固めたトレイを持って、席に着く。
「お~。マキちゃん、オーソドックスだ」
シロが、パンとスープとサラダをのせたトレイを持って、私の隣に腰を下ろした。
「うん。前菜はとりあえずこれ」
「え? ぜっ……?」
まずは、味噌汁から……。湯気の立つ椀を両手で持ち、そっと口をつける。
だしの旨みが、じわっと舌に広がる。
主張しすぎない味噌の塩気と、ほんのり甘い香り。
胃の奥まで、すっと届く感じがした。
次は、唐揚げ……。
口へ運ぶと、衣は小気味良い音を立て、
中の鶏肉は肉汁を溢れさせながら、しっとりと繊維が解けていく。
下味の醤油とにんにくの香りが鼻へ抜け──、
そして、噛むたびに肉そのものの旨みも前に出てくる。
私は、ひとりでに何度も頷いていた。
気付けば、皿はもう空だ。
「お代わり、いってくる……!」
「……は、早くない……?」
私がトレイを持って立ち上がろうとした、そのタイミングで、
食堂の入口からリンリとアテナが姿を現した。
「うわ、もう食べてる」
「う~ん、いい匂いだね」
二人の視線が、真っ先に私たちのテーブルへ向く。
リンリはそのまま近づいてきて、
私の皿、シロのトレイ、そして顔を順番に見比べた。
「大丈夫? 具合悪くなったりしてない?」
「美味しいよ~。このスープも絶品!」
シロは即答でそう返し、スプーンを軽く掲げてみせる。
それを見て、リンリは少しほっとしたように息を吐いた。
「そっか。ならよかった」
アテナは一歩遅れてテーブルに視線を落とし、
空になった私の皿を見て、ふっと口角を引きつらせる。
「ず、ずいぶん早いね……」
短くそう言ってから、アテナは肩をすくめた。
「じゃあ、僕たちもご相伴に預かるとしようか」
「流石にホテル側も、料理に何か仕込むとか露骨なことはしないってわけね」
二人はそう言葉を交わしながら、揃ってビュッフェ台の方へ歩いていった。
(二皿目は……カレーにしようか)
そんなことを考えながら、私も二人の後についていく。
ほどなくして、三者三様に料理を手に取り、
リンリとアテナは私たちのテーブルに腰を下ろした。
(おお……このカレー、大当たりだ……)
「私、一通り外も見て回ってたんだけどさ、
ホテル周辺には、船の一つも無かったわ」
(ホテルのカレーって、美味しいよな……)
「えっ、ほんとに?」
「桟橋らしきものはあったんだけどね」
(お肉もホロホロ……)
「別の場所に行こうとしたら、整備がまだだの何だの言われて、あの鳥に止められた」
(ルーに溶け込んだ旨味が……)
「整備が済んだら、行けるようになったり?」
(芳醇な香りとともに……)
「かもしれないね。でも、現時点じゃ僕たちがこの島から脱出する手段は無い、ってことだね……」
(口の中に……広がって……)
「すんげえ食ってんなオイ」
リンリに突っ込まれ、
私はそこで初めて皿の底がほとんど見えていることに気付く。
「ご、ごめん……つい、美味しくて……」
「マ、マキちゃんもちゃんと聞いてたもんね? ね!」
シロの必死なフォローがありがたかった。
そのとき、少し遅れて食堂に入ってくる人物が目に入る。
──ハイジだ。
「あれ、ハイジじゃん。全然見かけなかったけど、どこにいたの?」
リンリがパスタを口に運びながら尋ねる。
「……ずっと自分の部屋にいた……」
「マジか。あのセリフから部屋に籠もり続けるとか、
ものすごい死亡フラグじゃん」
「や、やめろよ……。
やっと気持ち落ち着いたら、お腹減ってきちゃったんだよぅ……。
少なくとも、あたしは今から一時間は無敵だし……」
そう言ってハイジは適当に料理を取り、
私たちとは別の遠くの席へと腰を下ろした。
(一時間?)
その言い回しが少しだけ引っかかったが、深く考える前に私は視線をトレイへ落とした。
お代わりは、福神漬け。らっきょう……それとも、さっきの唐揚げを添えるか。
私はトレイを持ち上げ、席を立った。
カレーをもう一杯よそい、唐揚げを添えてから席へ戻ると、
ちょうど会話が続いているところだった。
「ま、ずっと部屋にいて正解だったかもねー。
アテナの話を聞く限りじゃ、どうせ外にも中にも抜け道なんてなさそうだし」
「ここでずっと暮らすっていうルールが、
だんだん現実味を帯びてきたね……」
私はトレイを置きながら、リンリとアテナの会話に加わる。
「少なくとも、私とシロが見て回った範囲では、
特別な出口みたいな場所は無かったよ」
「うん。一通り見たけど、今のところ、
このホテルの中で完結してるって考えた方が良さそう……」
シロが食後のオレンジジュースを一口飲み、そう言った。
「まだ探索を続けている子もいるのかな?」
アテナが、テーブルを見渡しながら口にする。
「探索してたり、遊んでたり……半々くらいじゃない?」
「そうだなあ……」
リンリの言葉を受け、アテナは少し考え込むように視線を落とす。
「疲れてる子もいそうだし……みんな散り散りだし……
僕の提案は、明日にした方がいいかな?」
「うん?」
リンリが小さく首を傾げる。
「スマホのメッセージ機能でさ、
『明日の朝9時に、全員ホールに集合』
って一斉送信しようと思うんだ」
「え、なになに、何するの?」
シロは不思議そうに問いかける。
「ほら、まだ僕たちの【魔法】が、
それぞれ何なのか分かってないでしょ?」
その言葉に、場が静まる。
「情報として、お互いに知っておいた方がいいと思うんだ。
その方が、探索するにしても、何かと役に立つかもしれないし」
「どうせなら、みんな揃ってる方がいいでしょ?
だからさ、明日の朝9時に全員ホールに集まって、
自分の魔法が何なのか、発表し合おうと思って」
…………。
少しの沈黙が流れる。
「あ、あれ……?
僕何か変なこと言ったかな……?」
不安そうにそう言ったアテナに、最初に口を開いたのは、私だった。
「……いや。私はいいと思う」
視線が集まる。
「今の状況で、誰が何をできるのか分からないまま動く方が、正直、ずっと怖いし」
リンリはすぐには頷かなかった。
「……まあ、言いたいことは分かるけど。
言いたくない子もいるだろうし、正直気は進まないかな~……」
シロも、ストローを指でいじりながら小さく声を落とす。
「う、ん……」
少しぎこちない風に二人が返す。
「……まぁ、でも、行くだけなら」
「うん……」
リンリとシロが呟くように言う。
完全な同意じゃない。けれど、拒絶でもない。
アテナは、ほっとしたように息を吐いた。
「ありがとう。
じゃあ……明日の朝9時、ホール集合で。
他のみんなにもメッセージ送っておくね」
そう言ってアテナはスマホを操作する。
数秒後――
テーブルの上で小さな電子音が重なった。
ぴこん。
ぴこん。
私のスマホとタブレットの画面にも、アテナからの通知が表示される。
『明日の朝9時、ホールに集合してください。
それぞれの魔法について、情報共有のための魔法の発表会を行います。
※発表に何かしら準備が必要な人は、各自でよろしく!』
「ん、届いた」
「私も」
「これでひとまず、みんなには伝えられたかな」
ふう、とアテナは一息つくようにストローでジュースを吸った。
「何人バックレるかねぇ」
と、冗談めかしてリンリは言う。
「あ、あはは……全員参加を期待してるんだけどな……」
そんな短いやり取りで、その話題は終わった。
私はスマホを閉じ、空になったトレイを下げるために席を立つ。
トレイを返却口に置き、私は軽く息を吐いた。
「それにしても、期待してた以上の味だった……」
「マキちゃん、食べすぎ! 牛さんになるよ~?」
「いいのいいの。干支なら三着から二着になるし」
「なにそれ」
くだらないやり取りに、少しだけ肩の力が抜ける。
「じゃ、部屋戻ろうか」
「うん」
食堂を出ると、通路の照明は落ち着いた色に落とされていて、
仄暗く、昼間よりも影が長く伸びていた。
そして私は、「ナミトラ」と書かれたネームプレートの前に立つ。
色々な場所を見て回ったせいか、たった数時間ぶりとは思えない時間の流れだった。
「じゃあね、シロ」
「うん、ばいばい。
あ、この後お風呂とか行く?」
「うーん、どうしよ。部屋にシャワーあったから、それで済ますかも……」
「そっか。じゃ、またね。
あ、スマホから個別にメッセージ送れるみたいだよ。
寂しくなったら送ってもいいからね♪」
と、シロがにやりと笑いながら言う。
「はいはい。なったらね」
軽く受け流すと、シロは満足そうに頷き、
私の隣の部屋へと入っていった。
それを見送ってから、私も自分の部屋に入ろうとして、
ドアノブに手をかけたところで、鍵をかけてなかったことに気付いた。
(起きてから、ずっとバタバタしてたからな……)
まぁ、盗られるものなんて、
せいぜい食べかけの阿呆鳥まんじゅうくらいだ。
別にいいか、と私はそう結論づけて、そのまま部屋に入った。
ふと、部屋を見回す。
「っていうか、ホテルの鍵ってどこだ……?」
一瞬、本気で探してしまう。
ドアの横にも、壁にも、それらしいものは見当たらない。
そのとき、テーブルの隅に置かれた物が目に入った。
やたら大きな透明のアクリル板に、金属の鍵が付いている。
「……これ?」
手に取ってみる。ずしり、と妙に存在感がある。
「ご、ごつい……妙にかさばる……」
律儀に持ち歩くのは少しだけ躊躇われる……。
でも、このサイズなら──
「……まぁ、失くすことはなさそうだな……」
そう呟いて、私はアクリル付きの鍵をテーブルの上に戻した。
「ふぅ……」
ベッドに腰掛けながら、窓の方へ視線を向ける。
カーテン越しに見えるテラスの向こう、
ウッドフェンスの隙間から、暗い海が広がっていた。
昼間に見たときとは、まるで別物だった。
光を跳ね返していた海面は、今は黒く沈み、
どこまでが水で、どこからが砂なのかも分からない。
耳を澄ますと、かすかに波の音が聞こえる。
「…………」
できるだけ、記憶の端に追いやろうとしていた。
昼間は人がいて、声があって、考える暇がなかったから。
だけど、一人になると、どうしても思い出してしまう。
ホールで、カンチョーが言っていた言葉──。
『殺人事件を起こし、かつ皆様方を欺き、見事処刑されずに魔女裁判を生き抜いた方には──
【魔女因子を持つ危険分子を排除した英雄】として、この島から出る権利が与えられます』
『まぁ、殺人事件なんて、世界中どこでも起こっていることですから。
わざわざ魔女化なんてしなくても、起きるときは起きるんですよ』
「……何が、英雄だ」
吐き捨てるように呟く。
声は小さいのに、胸の奥はざわざわと落ち着かなかった。
「…………」
──余計なことを、考えてしまう。
みんなは、どう思ってるんだろう。
これを本気で受け止めているのか。
それとも、冗談みたいなものだと片付けているのか。
……あるいは。
本気に受け止めている"ふり"。
冗談だと思っている"ふり"。
……分からない。
よく考えれば、今日会ったばかりの人たちのことなんて、
私は何一つ、知りやしないんだ。
名前と、顔と、少しの会話と、ほんの表面だけの雰囲気。
それだけで、相手を分かったつもりになっているだけだ。
本当は、何を考えているのかも、何を恐れているのかも、
どこまで本気なのかも、何ひとつ、掴めていない。
笑っている理由も、黙り込む理由も、
その裏に何があるのかなんて、分からない。
……そうだ。
あの、シロでさえ──。
そこまで考えて、思考が止まった。
その先を想像したくない自分が、はっきり分かってしまったから。
「…………」
静かな部屋に、沈黙が落ちる。
と、そのとき──
枕元に置いていたスマホが、控えめに震えた。
(……ん?)
画面を覗く。
『やっほー』
短い、いつもの調子のメッセージ。
送り主は、シロ。
思わず、息が抜けた。
(……なんだよ)
さっきまで胸を占領していた重たい考えが、
その一言で、少しだけ脇に押しやられる。
私はスマホを握ったまま、しばらく画面を見つめていた。
少し間を置いてから文字を打つ。
『なに』
『送ってみた』
『それだけか』
『寂しがってそうだし』
『べつに』
『( ᓀ‸ᓂ)』
『↑マキちゃん』
『ねろ』
『まだ早い』
画面越しでも分かる、あの軽い調子。
さっきまでの重たい沈黙が、嘘みたいに薄れていく。
私はスマホを握ったまま、ベッドに横になった。
天井の照明は落としてあって、
部屋にはまだ、外から入り込むかすかな波の音だけが残っていた。
『おやすみ』
小さく息を吐いて、私は画面を伏せる。
さっきまで気になっていたことも、考えなきゃいけないことも、
全部、いったん脇に置いて。
布団を引き寄せ、目を閉じた。
完全に安心したわけじゃない。
何も怖くないわけでもない。
それでも──
今は、これでいい。
そう自分に言い聞かせるように、
意識を静かに沈めていく。
遠くで、かすかな波の音が続いている。
それを子守歌代わりに、
私はそのまま、ゆっくりと眠りに落ちていった。
***
【一日目/日記】
コロシアイ楽園生活が、ついに始まりました!
全員、無事に島へ到着。
混乱も混乱、大混乱。
泣く子はいなかったけれど、顔色はみんななかなかいい感じ!
ホテルも、昔私が来た時くらいに整ってる!
人少ないのに頑張ったね~。
カンチョーには特別賞与を出しちゃおうかな!?
冷凍マウスとか食べるかな?
夕食も問題なし。すごく美味しい!
ちゃんとリゾート地にして正解だったね。
牢屋敷とかだったら、こうはいかないよ。
胡椒を入れ過ぎたラーメンくらいしか、
まともな食べ物なくなっちゃう。
明日の朝はホールで魔法の発表会だって!
私はみんなの魔法、もう知ってるから退屈になりそうだな~。
今日はここまで。
初日から長く書くと、続かないしね。
んじゃ、おやすみ。