「人違いです。(みひりの音声…、聞かれてたのか…。)」
ナオモは眉間にシワを寄せ、小さく呟く。
「ンボホッ。分からんかネェ?オレだよッ。オゥレッ。」
笑い声と共にスプレーのように散布された唾液がナオモの顔にかかる。
熱を持ち、清涼感を失ったミントの香りが唾液に纏う。その匂いと特徴的な笑い方はナオモの記憶を刺激した。
「…ま、
ナオモは袖で顔を拭うと瞼を細めて、光の反射を消す。
「せェかァい…お、エッチィな目…。誘ってんの?」
「この間合いョ。ホホ…。これもうセックスだろッ…。」
松出伊は軽薄さを誇示をした。
そして
「大交尾時代ィ…。」
とナオモの耳に囁き、右肩に顎を乗せる。
「…失礼します。」
ナオモは彼の小さい声量に倣うと、肩を揺らし松出伊に背中を向けた。
「ん~、この女体は借りモンでねェ。今ァ、義体のメンテョ。」
右肩から落ちた顎を再度乗せ、松出伊はナオモの耳元で続ける。
「ォいしょぉ。まぁ、女体ももちろんエロイがねェ。俺のが…、ボホォ…。」
ナオモの耳にかかる生温い吐息は濃霧のように唾液を運び、耳介に水滴を産み付けた。
耳に生えた白い産毛の上を唾液の粒が滑り、毛の一つ一つに小さな水滴が纏われる。群生した果樹が実を成したような光景に、さらに松出伊は吐息を荒くした。
「ハァッ…ハァッ…。なんたるゥエッチッ…。俺ッガマンできねッ…。」
「…やめてください。」
ナオモは流し目で不快感を送るものの、彼の長髪で阻まれその意思は届かない。
端麗な女性の容姿と香り、声色。それらの外殻ですら、異臭を放つ粘液の様な彼の精神性を中和することは難しかった。
(借り物の体を、都合の良いセックスアピールの道具にしているわけじゃない…。
しっかし今日はなんでこうもヤバいヤツらと遭遇するんだ…。)
ナオモは、左手の指を静かに擦り合わせ、人差し指の腹に親指で爪の跡をつけた。
「ホ…ボホォ…ンェエ…。」
吐息と人肌で、焼けるように熱い耳に舌が這う。
熱と唾液を帯びた耳に、束の間の冷涼さが与えられた。
「な…ッ。」
列が進み足を動かしたナオモの後ろに、松出伊は張り付く。
「どやァ、ェえやろォ?」
いたずらに水滴を増やす吐息の至らなさを詫びるために身を差し出したわけでもなく、舌は独りよがりに快感を貪る。
自慰玩具に巻き付く蛇が快感と虚しさに身を震わせるような動き。ナオモはそれを耳で感じ取ると、胸の奥からすえたものがこみ上げる吐き気を催した。
「不愉快です。」
ナオモは抑揚のない声で返す。
「オレは愉快だョ。」
舌は耳輪から耳垂へと移った。
「今からァ不穏分子を取り除けるんだからなァ…ァ゛ア゛…。」
舌が耳を離れて、吐息に濁点が交りガラガラとひずんだ音に変わった辺りで
「…。」
ナオモの右手はポケットに伸びた。しかし
「勘違いするなよ?オレァ、あの文化祭の一件からお前ン事ァ大好きなんだァ。」
松出伊はナオモの肩に両の腕を乗せると、それを彼の腕に巻き付けるように絡め、武器を取り出そうとする動きを封じた。
「…。」
余剰と隙のある拘束にナオモが抜け道を探すのそう難しくはなかった。
しかし、その抜け道の先に攻撃性を見たナオモはゆっくりと手の力を抜いた。
「ボホ…。懸命な判断…。あァ、早くお前とォ闘りてェなァ。犯してェッ…。俺の物にしてェッ…。つッても今じゃなィ。そしてオレが言ッた不穏分子ッてのはお前じャなィ。」
背中に当たる服と下着越しの胸に、松出伊が本来持たない女性的な要素を感じ、ナオモは喉の奥から再度せりあがるものを覚えた。
「今な?総会前に昼飯買いに来たのョ。そッたらセンスのねェ淫語が聞こえてきて、内心はらわた煮えくりョ。ボホッ…。大腸と小腸が69始めてウロボロスみてェになってんのョ。ボホホホッ…。」
松出伊は冗談めかした発言に特徴的な笑いを交えた後、ナオモの耳介に歯を立てた。
そして
「殺してやる。」
と冷たく単調な声を耳に送った。ナオモの肩に前髪がかかる。松出井が棚に置かれたボトルガムを手に取る。
「は…。」
ナオモは口から、息と共に困惑を逃がすと、彼の次の発言を待った。
「キャラ被りに加えてオレの色欲枠を盗ろうとしてやがる。なんで日常に性を見出すヤツがオレの生活圏にいるんだ?おい、ナオモ。【スマホ】出せ。早く。早くしろ。ぶっ壊してやる。ぶっ殺してやる。」
キャラクター性を放棄した怒りは
ナオモの耳の軟骨を砕くほどに強いモノへと練り上げられた。
床に落ちたボトルガムの喧騒は、ナオモの耳が訴える鈍い音をかき消した。
「はッ………グッ…。」
薄い皮の中で潰れ崩れていく骨と、噛み跡から流れでる血の熱さにナオモの息は少し大きくなりスパンが短くなった。
「ふッ…。ふッ…。」
皮越しの砕けた軟骨。それらの間にある空白に血が伝うのを感じ、温い汗が額から頬に伝う。
「あ…、落ちちゃった。零れてなくて良かった。」
素知らぬ顔。一般から遠い人間が発する、限りなく普通の声。女性への擬態。拾い上げられる容器。
ナオモが指の腹に付けている跡は濃くなり、皮膚に赤がにじむ。息遣いと癖を繰り返し、動揺と状況を理解し恐怖と困惑を遠ざけようとする。
(なんでこんな…。イカレてる…。コイツ、脳にシワがないのか…?いや…物を落として、骨が砕ける音をかき消してる…。シワあり…。)
ナオモは心の中で愚痴を一つつくと唇を舐め、痛みを近くに手繰り寄せた。
それから周りの客に視線を運ぶ。そこでナオモは、周囲の客が抱いている無関心が、繕ったもの、装ったものではないことに気づいた。多稲を取り巻いていたものとは違う、嘘の無い無頓着。
(サイレント嗜虐セクハラ過ぎて誰も気づいてない…。)
松出伊の声量と、計算された所作にナオモは奥歯を強く嚙んだ。
「なァ、くれョ。デきればお前自身もくれョ。あ、そうだ。良いこと考えた。もしスマホをくれたら特典をやろゥ。ボホッ。」
松出伊は、ナオモの耳から伝う血を舐めとると、紅く色付いた口で続けた。
「ウチに入れてやるョ。フリーの口裂けダルマ君が、我が会である
松出伊は傷口に言葉を流しいれると、ナオモの耳に口づけをした。
「んッ…ブハッ…拒否権を探してみても、どこにもないなァ…?ないなァ…?どこかに落ちて…。」
「…。」
言葉も終わらないうちに、ナオモは傷つけられた耳を、松出伊に見せつける様、顔を動かす。
(こんな状況で声は上げない。状況と痛みに驚いてはいるが、顔色には出さない。やはりこちら側だ。昼飯買いにここのコンビニに来て本当に良かった…。スマホを口実に近づいて正解だった。お前の事を考えると、目が蕩ける。好きだ。駄目だもう、辛抱溜まらん。好きだ。好きだぞナオモ。)
ナオモの顔がこちらを向こうと動くたび松出伊の頬が痙攣し、目が湾曲し始める。
絡みついた腕は離れ、歯の隙間に入り込んだ紅が見え隠れする。
被害者の立場を退き、反抗の意思を見せたナオモ。その光無い目に、松出井の口から唾液がはじけ飛んだ。
(あ、うちの子にしたい。俺の物にしたい。俺の。俺の。俺の。俺の。俺の。これは俺の。俺の。俺のだ。俺の物だ。)
「あららァ、ダメかねェ?だッたら…オレの口が耳塚になるだけェ…。」
唇の際から垂れた光沢のある紅の唾液が、フェイスパウダーの粉を纏うと顎先から落ちる。
波紋の拡がりを促すように落ちた雫は、水面に落ちることなく冷たい床に紅を付け足した。
二人の目が合う。
「だったら鼻もどうぞ。」
「ボホッ。慌てなさンな。まずは耳からァ。」
自身の姿が映る瞳に松出伊は微笑みを向け、ナオモの耳に口を近づけた。
ナオモが耳から取り込む情報は、迫る吐息と水気のある口の音で満たされた。
息は湿り、熱を持つ。ナオモの耳輪を撫でようと、耳孔に入り込もうと、体を捩る。
借り物の身体でナオモの耳を掌握しようと、舌を口内で躍らせる。
掌握。しかし掌では完全な器にも囲いにもなることはできない。
握られた指と指の間にある繋ぎ目のような隙間は、外部からの情報を取り込むために手招きをする。
阻害する物をすり抜け、届けられた情報。か細く頼りない音であっても、ハッキリと非日常の到来をナオモに告げていた。
甲高い奇声にも似たサイレンの波は、人々の表情を変える。
疑問に、不満に、逃避に、恐怖に、憎悪に、悲哀に、歓喜に、愉悦に。
それらの顔色と表情筋を固定し、定着させるようにサイレンはアナウンスへと変わっていく。
『こちら
現在、圏内全域で警戒警報が発令されています。不要不急の外出は控え、外出している住民の方は近くの建物の中に避難してください。
また、近辺にいる猟友会の方、または戦闘経験のある旧倫理者の方は近くの圏庁職員の指示を仰ぐか、自己判断により乳母の討伐を行ってください。
侵入した乳母の討伐が確認されるまで、圏内での亜物に関する取締法は緩和され、旧倫理者の方は乳母に対し、武器・兵器に該当される亜物の使用が可能となります。繰り返します。こちら…。』
一列に並ぶ遠い目、危険をその場にある日常から探るには目利きの無い者たちのざわめき。
それは目に見えない危機感を伝播させた。しかし喜々からか胸がときめき僅かに両の眼を光らせる者が一人。
松出伊はナオモの耳から口を離すと、唇を内側にしまい込み小さな鼻息を立てた。
唾液で接着され離れない唇。松出伊はリップ音を立てそれらを引きはがす。
ナオモの肩に手を置き
「怖いなァ、ナオモョおォ?」
と言葉のそれからは無縁の顔で語り掛けた。
「離してください。」
店員のマニュアル通りの注意喚起を他所にしたどよめきが止まることはない。しかしナオモと松出伊は、それら周囲の空気の蠢きから距離を置かれていた。
「待てよ、口裂けダルマさんョおォ?もしものための戦力確認ャ。俺と近葉は良いとして、もしお前スるとシたら勝てるかァ?あのタコに?」
松出伊はナオモの目の前にVサインを見せると、薬指を何回か動かした。薬指が加わり、三つ立った指。折り曲げられ再度人差し指と中指になる右手。
先程までの性的倒錯を削ぎ落とした様な問いにナオモはたじろぎつつ、指の動きを見つめ
「…乳母と僕なら九分一分です…。絶対無理です…。」
と小さく返した。
薬指は完璧に折りたたまれ、立っている指が再度二本になると右手はナオモから離れていく。
「そうかァ。二人…。でもチーちゃんだかがいれば変わるだろゥ?うまく使えば…。」
松出伊の提案するような物言い。
打って変わり悪意の欠片の一つもない言葉は、ナオモの内面、柔く腐りかけた部分を何より強く刺激した。
その言葉を否定しようと無意識に生じた自身の言葉。
「あ…あの人は…。」
ナオモは大きく息を呑んだ。
「違…。あの子は、ど、道具じゃない…。」
それから急ぎ訂正を重ねると、ナオモは人の合間を縫って松出伊から離れた。その場から逃げるような足取りで。
ナオモの身体が触れ松出伊の揺れる髪。
それに手を添えると
「死人に、引ッ張られてら。」
と小さくなるナオモの背に松出伊はぼやいた。
鼻はひくつき、唾液は垂れる。そして思いは馳せられる。
「ボホッ。発情した畜生のしョんべんみてェな臭い…。来たかァ…。」
数分先のめくるめき光景に、これからしぶきを上げる血の煌めきに。
メキリと音を立てる硝子には細い触手が無数に張り付き、人の目と酷似した大きな眼がさんざめき続ける群衆を覗く。
そうしてヒステリックに泣き叫ぶように割れる硝子の粉砕音。
鳴り響き、喚きを静寂に還していく。散りばめられた硝子は灰色の床に溶け込み、人外の脚を装飾する。
太く短い胴体から節操なく生えた八つの触手が、辛うじて胴体を支えているような異形。
シャッターのような膜に覆われた円形の口。攻撃的で捕食者らしい印象は、草食動物のように側面に付いた眼によってかき消される。
生物としての歪み。異形としての出で立ち。
しかし起こる事象を歪みだと担保し、目の前の生き物を異形だと裏付けてくれる文化と価値観、そして倫理は既に荼毘に付している。
起こり得る正常な非日常。
それは胴体を支える四本の触手を残すと口腔に共鳴器の役割を与え、残りの触手を用い鈍い弦楽器のような音を鳴らした。
「呼んだかァ。ボホッ…。」
時計は十時を指した。