足元のチーちゃんがぷりぷりと下半身を揺らしている。抱きかかえた方が早いなぁ。でも可愛いなぁホント。
彼女の下半身は依然ぷりぷりと揺れている。でも揺れているのも、見たいなぁ。
頭の中でどちらの択を取ろうかと考えていると、それぞれの択を取った場合の弊害が色々と浮かんできて、正解がないような気さえしてくる。
そして、また気分が悶々として、心にうっすらと、もやがかかる。そして熟考とも言えないような軽い思案の結果、足元の彼女の下半身に僕の焦点が定まる。
目を逸らすという思考が巡ることもなく、フォーカスの当たらない周りの背景の全てが凡庸に見えた。ぷりぷりしてる足元の彼女から視線が離れない。
超かわいい何コイツマジで。
愛されるために産まれてきたの? 自分の可愛さに気づいてる?なんでそんなに可愛く産まれてきちゃったの?万人に愛されちゃうじゃん。
首から上に血が通らずに思考が停滞していく感覚が分かる。ぼんやりとしていく。
これが怠惰から来るものか、劣情の方向性に限りなく近いが性愛の一切を除いた愛かのどちらかだということは確かということしか分からない。
う~ん、どっちだろうねぇ。これね。
でもいいやもう。何も考えずにチーちゃんのこと見てよ。そのまま朽ち果てて死ねるなら、それでいいや。可愛すぎホント。もう世の中にある言葉じゃ表せられないよ。
なにこの可愛さ。というより可愛いなんて既定の概念に収めていいのかな。こんなの神様だよ。何なの?アガペーが姿を得た神?
それでしばらく彼女を見ていると、車道のガードレールの側に彼女が寄っていくのを目が捉えた。程なくして『ザッ…ザッ…』というゆっくりとした歩行から生じる、少し感覚の広い足音と、金属の擦れ合うよう音が前から聞こえてきた。
自転車を押している音?もしかしたらさっきの人かな。
でも何より凄いのはチーちゃんだよ。目の前から来る歩行者を視認して、避けなきゃ危ないってことを彼女は知っているんだ。可愛いだけじゃなくて賢いとかどういうこと?うちの子、スペック高すぎるんだけど。
誰かがこの子を担ぎ上げて宗教法人なんか立ち上げたらどうするの?
百歩譲って、それは良いとしてだよ。
教祖をこの子にしなかったら僕は信徒と幹部を許せないだろうな。もし教祖にしたとしてもミネバ・ザビみたいな傀儡にしたら本当に赦せない。
待ってよ。でもどうしてチーちゃんが誰かの崇拝対象にならなきゃいけないの?
偶像や概念を崇拝してるわけじゃないんでしょ?だったらそんな共有財産みたいな扱い方やめてくれない?社会主義を信条としてるのかな?でも本当にそういうイデオロギーを持っているんだったら仕方ないよね。そういう考え方があるなら否定できないもの。
そうだ。だったらソ連…、あ、いやイスラエルのキブツに行ってみれば良いんじゃないかな。多分ウマが合うよ。うん。おススメ。
彼女の機転と賢さに感激して、頭の話題が飛躍したところで、腹に衝撃が走る。
「イタタッ…。」
思わず尻をついて倒れてしまった。相手側が運転中でなくて良かったと安心したのも束の間、とっさに謝罪の言葉を出した。
「す、すみません…。」
申し訳ない。でもアレにヒビや歪みはないかな。ポケットの中を確認したい。
しかし、なんとも不覚。飼い主である僕自身が、目の前の歩行者を避けきれなかった。当たったのは自転車のカゴ部分かな。
僕は地べたと、磨かれて光を反射する革靴を見つめながら、彼の表情、飛んでくるかもしれない怒号、自転車の傷、それらに対する一抹の不安を抱えていた。正直に言うとほんのちょっとビビってる。
胸の内のそれらを払拭するように顔を上げた時、僕の事を見下ろしていたのは思いのほか、穏やかな顔であった。(相手側から見て)自転車の右側に立った男性が、申し訳なさそうに僕の顔を覗き込んでいた。やっぱりさっき僕らの横を通り過ぎていった男の人だ。
年齢は三十五歳前後かな。鼻を中心に、やや顔のパーツが寄っているようで、顔面の少しの余白が目立つ。でも視覚的に好ましくないと感じることはない。むしろ均一に整った目や口のバランスが落ち着いた印象を与えてる。
輪郭を捉えると、次は髪形や服装に目が向いた。
黒い頭髪、頭頂部が短く切りそろえられていて、刈り上げられた側面からはうっすらと頭皮が覗いてる。キャメル色のトレンチコートは前をぴったりと留められていて、そこからは服を見せまいっていう恥じらいを僕は感じる。でもコートの下から見える紺色のスラックスパンツと、胸元から見える黒い無地トレーナーは、その恥じらいは杞憂だっていうことを物語ってる。
手まで目は向かなかったな。でも爪には毎日やすりをかけているんだろうな。彼の外見からそう推測できた。
それから、納得したような鼻音が発せられた後、彼が穏やかに語り出した。
「あぁ~さっきの子達か。ごめんねぇ。さっきは避けてくれてありがと。怪我してない?痛くはない?おじさん左利きでね、うん。自転車の右に立って押した方が楽なんだよねぇ。」
全面的にこちらの落ち度なのに対して、非難することなく歩み寄ってくれている。
あぁ、良かった。この人は変な人じゃない、かも。かもしれない。そんな段階。ごめん、おじさん。ちゃんと信用できなくて。
「ちょっとおじさん買い物から帰ってきたところだったんだ。あっちにしか好きなやつがなくてさぁ。トップバリュ。良いグラノーラがあんのよぉ。いやぁ、でもさ、ちょっと道迷っちゃって、人ん家に入りそうになっちゃったよ。」
でも要らない身の上話を主軸とした話の展開の仕方と、情報量の多さが少し気になった。
たまにいるよね。人と話すとき、そこまで重要じゃない過程のストーリーとか話しちゃう人。悪いことじゃないよ。でも、この人のそれは何らかの意図がないことを証明して、この衝突が自然なものだって振舞っているみたい。
それに僕を見ても、『ダルマ』とか『口裂け』とか言わないってことは、他所の人?いや、ちょっと驕っちゃったかも。僕がそんな有名なわけないか。単にニュースとか見ない人なのかもね。それか
「好きなスーパー…。」
僕は彼の言葉の一部分を抜き出して反芻し、返事をしたように振舞った。そして
「あの、それより、よそ見していてすみませんでした。自転…カゴに凹みだとかありませんか?弁償します。」
と申し訳なさそうに、それでいて努めて友好的に振舞う。
もちろん、この人に怒りや嫌悪感こそない。でも心のどこかで何らかの疑いを抱いてしまっているから。ごめん、おじさん。表面上にそういった感情が出てこないよう、口角を上げることで押し殺した。それに近所では見ない人だ。申し訳ないけど確認しなくちゃ。
「いいよぉ、そんなの。大丈夫。」と彼は温かみのある声色で返すと、自転車の横でハンドルを握ったまま身を乗り出して、ぐるりと首を動かしカゴを確認した。僕も彼に倣って首を動かし損傷部分がないかを確認する。
その瞬間、僕をうっすらと睨みつけているカゴ越しの愛玩と目が合った。やっぱりチーちゃんと同じ大きな口のあるタイプだ。
そして…。嫌、だめだ。考えるな。
でも目の前の
でも、もしこっちに非がなかったら
(可愛いけどうちの子と比べたらおブスだね。)
とか考えながら、目の前の愛玩を睨み返してたかも。奥歯を噛みしめながら。…ちょいモテ…?
でも彼に申し訳なさと引け目がある中で、ちょっと睨まれたからって、愛玩に対して憤りを見せびらかすように敵視を始めるのは浅慮。辛抱と打算的な優しさは人間関係とコミュニケーションを円滑にする。
それから、彼の愛玩は僕の態度に
「ぼはぁ。」
と息を着くと面白くないといった様子で僕に尻を向けてうずくまった。
もしかして挑発的な目つきを疑似餌みたいにして、僕に釣り糸を垂らしてたのかな。何て生意気な。
(全く、児戯にも満たないぐらいにくだらない。三級品の脳漿で凝らしたような目論見に、僕が釣られる訳がないよね。腐れゲボが。)
とかいつもの僕なら考えていた。でも、こっちに非があるから仕方ない。
でも出所の分からない苛立ちから、抑え込んだものが胸の底から異物のように押しあがってきた。眉間に寄っていくシワと、細くなっていく目。いったいどこから来たイライラなんでしょうね。
少しわざとらしい呼吸を始めると、人差し指の腹に親指の爪で跡をつけた。大丈夫。溜飲を下げるための振る舞いは決して彼らに悟られないような小さなものに留めておいた。
落ち着け。落ち着こう。僕が悪いんだ。そうだ。
そんな中「んげげ。」と僕の開いた両足の中にチーちゃんが飛び込んできた。これから始まるであろう僕らの取り繕った会話の前に、彼女がぬるりと差し込まれた。
その後、彼女は、男性の方を向くと頭を低く下げ前足を曲げて、彼に対して僕の不手際を謝った。
それでも先ほどから目線の先にいる愛玩には反応を示さない。コミュニケーションが少し希薄で見ているこっちはなんだか寂しかった。まぁ愛玩ってそういうものかな。
そして僕はこんな時でもチーちゃんの事を考えてしまう。やっぱり賢い。躾のされていない畜生みたいに、体を強張らせ敵意を見せることもないし、考えなしに相手にプレッシャーをかけるようなこともない。
忖度をしないで俯瞰的に事態を見つめて、正否の判断ができてる。
こういうシチュエーションは何度かあったんだ。そのたびいつも彼女の知能の高さに驚かされる。
脳洗浄が杜撰…。違う、それは…。
…でもそれでも、そんな彼女に対して、僕の不出来さに胸が苦しくなるのもいつもこと。彼女からしたらほんの1、2秒、頭を下げる軽い礼でも、僕はそれが数十分もの謝罪に感じた。
「ごめんね。」
頭を下げた彼女に対して、ふいにそんな言葉が出た。
僕の不始末を拭ってくれている彼女にどんな言葉をかけることが適切かは分からなかった。それでも今は胸中のどこを探してもその言葉しかなかった。それから僕はガードレールに手をかけて立ち上がり、尻についた砂や塵をほろった。
「礼儀正しい子だねぇ…。いいねぇ。あはは、可愛いね。」
と口元に微笑みをたたえながら彼は言う。僕に対しての言葉ではあったが、興味も視線もチーちゃんの方に向いている。この人もチーちゃんの魔性に誑かされたのかな。彼は一度自転車に乗った後、左側に降りて、足でスタンドをかけ、自転車を固定した。
それからチーちゃんの目の前にしゃがみ、スキンシップを図ろうとしている。
「おじさんね。誑かされちゃったよ。」
ホントにそうだった。
「あ、触っても良い?じゃなくて…。触っても良いですか?あのね、撫でるの好きなの。撫でるのがね。リラクゼーション。愛玩は皆可愛いからね。」
と矢継ぎ早の発言。彼の興味はチーちゃんに、語彙は自己開示に、視線は僕に向いていた。
「あ、え…?」
反応に困った。別に、醜い独占欲が表面化した汚らしい言い淀みじゃない。ただ彼の発言を嚙み砕くのに、ほんの少しの時間を要したかっただけ。そもそものところ、決定権は彼女にある。
しかし、彼の手は彼女の回答もまだ無いというのに伸びていた。彼の手によって、地面に押し付けられるように、沈むチーちゃんの体。そのまま足を広げて腹部を地面につけ、されるがままの体勢を取らされる。そんな様子に、恍惚とした表情を浮かべる彼と、少しばかり訝し気な表情を浮かべてしまう僕がいた。
「ふぉげげ!?」
驚き、声を上げるチーちゃん。もちろん彼には敵意こそないのはチーちゃんも僕も雰囲気で感じ取れている。
ただ、僕と彼女、双方の了承もないままに触れるのは、よろしくないと思うんだ。こういうタイプの人間はよくいる。自分は動物と通じ合えるだとか思いこんでいる人は。僕は彼の手を止めようと声を出すが、言葉は詰まり、あいまいで言葉とも言えない声が口から漏れ出た。
「あの…!」
しかし彼女の様子を見ると、僕の声は突っかかってしまった。肌の上で滑る彼の手に目を細めて、快感を享受していたからだ。
これは止めるに止められない。驚いた。貴方はジャングル育ちか動物学者ですか?
そしてよく見ると彼の爪は僕の推測とは違い、全ての指に爪先を齧り取っているような跡があった。それでも、彼が爪に持つ加虐性とは裏腹にその撫で方は懇切丁寧。
彼の手によりチーちゃんの肌が揺れる ことはあっても、彼女の体そのものが少しも動かない様子からは紳士で優しい愛撫を感じた。
正直に言うと、伴侶の不貞行為を目の前でまざまざと見せつけられている旦那みたいな気分になった。それでもその巧みな手つきからは何らかの意図はないことは分かった。
彼はただテクニシャンなだけ。
でも了解を聞かずに、触れるのは正直あまりよろしくない。
そう思うことで彼への憎しみを無理やりに作り出した。
「どしたの?どしたの?」
と彼がチーちゃんを撫でまわしながら僕に聞いてきた。正直、聞いてきた。というより問いただす。というようなニュアンスが近い。
彼からはそんな圧を感じた。僕の曖昧なフィラーをスルーせずに会話に組み込み、そして彼が真っすぐと僕を見つめている。彼の圧から言葉を濁して逃げるようなこともできない。
『なんでもないです。』への退路は塞がれてしまった。口から出た声を、吐いた唾として飲み込まなくてはいけない。
だからと言って、こちらも丁寧に答えてやる道理はない。
そう考えるんだ。怒らなきゃ…。ごめん、おじさん。僕は貴方にあるものを突き付けなければならない。
僕はわずかな私怨を作り出してそれをルーティンに組み込んで、自分よりテクニシャンな目の前の彼に鬱憤もないのに少しの憂さ晴らしを行うことにした。効率も倫理も度外視したあの人が遺した軌跡。
その痕跡が消えてしまわないよう、これを続ける必要があった。世間へのアピール、千早さんの意思が消えていないことの顕示。ルーティンと思考は分けるものなのに、胸の内で感情が蠢いた。
機械的に、何も考えずに行うもののはずなのに。儀式にそんなものを混ぜてはいけない。いつも通りに行えばいいのに。
彼の人間味に、その優しさに触れてしまったせいで、僕は即席の私怨なんかを組み立てなくてはならなくなった。やめてしまいたい。それでも僕は行動に移さないといけない。
僕はパーカーのポケットに右手を突っ込んで、【Ruger LCR357】のフレームに指を這わせた。目の前で動く彼の手に合わせるように。そこには、ヒビや歪みといった類の不調の種は一切ない。良かった、傷はなかった。
「あ~。その、お住まいはこの辺りなんですか?」
この【リボルバー】のハンマーはフレーム内に内蔵されているので露出することがない。これにより、つるりと滑らかな形状を作り出しているので、コンシールドキャリーしているこの【銃】を衣服内から取り出す時に、どこかのパーツが引っかかるようなこともまずない。
軽量にしてコンパクトな秘匿を前提とした【銃】。危ういほどの慎ましさを備え、それと相反するような奇襲性を兼ね備えている【リボルバー】だ。
「うんうん。最近越してきたんだ。前は若林区にいたよ。」
そしてパーカーから越しにうっすらと見える【Ruger LCR】のぼんやりとしたシルエットは、機械的な【リボルバー】のそれからは考えられないほどの恐ろしく人間的な重い憤りを僕に感じさせていた。
「へぇ~。あの辺って海、近くて良いですよね。」
了承も得ずに、人の所有物に触れるなと。
「そうだねぇ~。海の近くで潮風に当たりながらジョギングしたり、サイクリングしたりなんかね。髪はギシギシになっちゃうけどねぇ。」
ポリマー性のグリップが、ピッタリと手の中に吸い付いてきた。これは僕の意思ではない。
それに断じて、私怨から来るものではない。加えて、あろうことか【Ruger LCR】は衣服越しから、チーちゃんを撫でる彼に【銃】口を向けている。左手もそれに触発されてか、パーカー内にふくらみを作り出して、浮き上がる【銃】口のシルエットをカモフラージュしていた。
彼がクロだった場合にも悟られぬよう、両手が上手い具合に共謀している。
パーカー越しなのには、ちょっとした理由がある。こっちも十分怪しまれるけど、あの人もこんな風にルーティンをしていたから僕はそれをなぞるしかない。それにもし仮に裸の【銃】を見せつけたとしたら、彼からはこう見える。
目の前の人間。今は僕に当たるね。まぁ仮に僕がAだとして、Aが自分に対して肘を曲げて腕を伸ばし親指と人差し指の指先をこちらに向けていて、それ以外の指を曲げてコップを…、まぁグーのような囲いを作っている。そんなシチュエーション。
その状況下ではAが
だから旧倫理者は対新倫理者戦においては、それを誤魔化すためにグリップを全部の指で握って、引き金に指を添えない。新倫理者だって亜物は見えなくても引き金に添えてる人差し指ぐらいは見える。
だから、簡単には引金に指は添えない。でもそれが常態化してクセとして残らないよう訓練する。
まぁ、パーカー越しの【銃】だから、そんなことは考えなくてもいいんだ。
「あはは。」
彼の輪郭がぼやけて、次第にチーちゃんと重なり合っていた。
彼女の同意も無しに、何より僕の同意も無しに、懇ろになろうとしている。そう考えなきゃ。そうでもしなきゃ、彼を仇か何かだと思わなくては、こんなことはしていられない。
そうして僕はまたポルノを作った。
引金に指をかけて選別を行った。