僕のポータブル地母神   作:秘密の豚園

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3話 手のひらの軟膏と、イカダちゃん。 【ナオモ視点】

 正しい手順を踏むことができれば、引き金は所有者に対して抵抗することはない。

 

 そして、思ったほどのトリガープルは必要ではない。

 

【カ…カチッ…バチッ…】

 

 しかし【弾頭】が僕の服を、ましてや彼の体を貫くことはなく、シリンダーが【次弾】こそと、がらんどうの体を動かすだけ。【リボルバー】の空撃ちは、負傷と着弾、それに対する責任と結果の伴わない誘因でしかない。それに僕は、人を殺すような浅慮な馬鹿じゃない。

 

 それに彼は。

 

「まぁ、これからはご近所さんとしてさ。こんなおじさんと何卒よろしくね。はは。」

 

 きっと認知できていない。頭で処理されて、小さい羽音に加工された銃の音なんて意に介していない。

 

「羽音…?誰かが亜物を使ったかな。なんだろね。ま、いっか。」

意に介していた。

 

「…なんでしょうね……。」

名乗り出ることもできたのに、僕は小さく俯いてはぐらかして誤魔化した。追求から逃げた。

 

 

 敵意と【銃】に晒されていたというのにしゃがみながら、呑気な顔を僕に向けていた。その表情からは【Ruger LCR】から発せられた音を正確に聞き取ることができていないということが見て取れる。そして、依然としてチーちゃんは彼からの愛撫を受け入れていた。

 

 

 違う。きっと彼はこっち側の…。

 

 

 信じたい。もういい。もういいんだ。ただの優しいおじさんだ。クセの多少ある普通の人だ。

 

 

 いや、まだだ。信じてはいけない。

 

 

 信じたい。もうこんなこと、耐えられない。

 

 

 それでも彼がポーカーフェイスである可能性も捨てきれない。

 

 

 人からの了承も待たないような男。僕は彼への疑いをシリンダーに込めて、4回引き金を引いた。しかし。彼のその呑気な顔が歪むことはなかった。やはり認知はできていない。真っ当な新倫理者(しんりんりしゃ)だ。

 

 僕は【銃】から手を離し、パーカーから両手を引き抜くと、腹の上でそれらを組ませた。

 

 

 僕らが所有しているのは第六感なんかじゃない。

 

 過去の人類の全てが保有していた認知能力だ。新倫理者(しんりんりしゃ)は、僕達、旧倫理者(きゅうりんりしゃ)と違って旧政府が有害とした過去の文明機器を認知することができない。

 

【銃】もその一つだ。そしてチーちゃんもこちら側。でも今は口から舌を出して目を蕩けさせている。

 

 もう僕の【リボルバー】の音など気にも留めていない。

 

 

 そして、僕のルーティンにさほど興味のないこの子は…。

 

 

 いや、それは考えてはいけない。それだけは追及してはいけない。肯定も否定もできない。この子は愛玩(あいがん)なんだ。チーちゃんなんだ。そうだ。

 

 チーちゃんは今も彼の手で快がっている。

 

 しかしまだ。まだだ。彼が僕を泳がせているのかもしれない。きっとそうだ。

 

 登録、申請のしていないグレーな旧倫理者である可能性もぬぐい切れない。

 

 千早さんが探していた、いるかもしれない犯罪者。

 

 もうやめたい。こんなことしたくない。こんな優しそうな人がそんなわけがない。疑いたくない。愚直でも良いから、信じたい。シロだ。この人がそんなわけない。

 

 でも僕はもう少しカマをかける。怒りも嫌悪もない僕の胸を空かせるために。もうチーちゃんのことは露ほども頭にはない。悦ぶ彼女の揺れる肉も、もう眼は捉えようとしない。

 

 

 

 僕の頭の中にはもう…。

 

 

 

 もう…なんだろう、僕には今、何があるんだろう。

 

 僕にはあの日から、二人が亡くなったあの日から何が残ったんだろう。

 

 何が残った?何が、今の僕には何があるんだろう。何を抱いてるんだろう。

 

 何で僕は…。僕は何を残されて、そこからどんな意味を取り出したんだろう。

 

 僕は組んでいる手を離すと、ジャージパンツの左ポケットに手を入れて、人差し指と親指で【38special弾】を掴んだ。そして見せつけるようにおもむろに取り出す。

 

 彼からしたら、僕の手は出来損ないのOKのハンドジェスチャーに見えている。僕は作った指の輪から覗き込むように彼の愛玩の様子を捉えた。カゴの中で「ジジ。」と静かにいびきをかく愛玩に目線を送ると、彼への探りに入る。

 

「あ、はい。よろしくお願いします。」

 

 僕はそう言うと左手でできた歪なOKを彼の前でひらひらと泳がせ、パーカーのポケットにそのOKジェスチャーごと押し込んだ。

 

 それから、彼の目から見て、少し違和感を覚えるように数秒、ポケット内の【銃】と【弾】をかき混ぜるようにガチャガチャと動かした。

 

 もし彼が、こちら側なら、今の動作で【シリンダー】内に【弾】が入ったと思い込ませることができるかもしれない。後は、僕の安いブラフに目の前の彼がどう反応するか。

 

「ん~?」

彼が動いた。ゆっくりとした瞬きは、まぶたで目線を遮断しているように感じられるが、その目は僕の腹部を捉えて離してはいない。

 

 否、まだクロとは限らない。彼は現在、僕の垂らした疑似餌を口の中で転がしている状態。もっと喉の奥まで飲み込んで。こちら側であってほしい。

 

 貴方がクロならあの人のしていたこのルーティンにも、より強い意味が生まれる。

 

 そうしてこのルーティンに、何らかの意味が付加したら…。

 

 

 

 僕はそれでどうなるんだろう。

 

 意味と有利性。それが産まれたら、僕はどうすればいいんだろう。

 

 そもそもこんなことを続けている意味はなんだったんだろう。

 

 彼女のしていたことを正しかったと、世に知らしめたい?

 

 あの人の事を誰にも忘れられないようにしたい?

 

「さっきもそうだったけど…。君…。」

彼の開いた口に、白い糸が光った。

 

 なんで、なんでだったんだろう。

 

「お腹ぁ痒いんでしょ?」

彼はそう言った。

 

 よかった。そうか。

 

 そうなのか。よかった。貴方がそちら側で。僕と同類じゃなくて。

 

 でも、どういうこと?『痒い』っていったい…。

 

「分かるよぉ。僕もねぇ、肌が弱くてさ。小さい頃は夏場とかすぐに手だの足だの掻いちゃうもんだから、母ちゃんに軟膏べっちょべちょに塗られてねぇ。」

と彼は僕の腹部を見つめると、ゆっくりと顔を上げながらそう言った。

 

 口角が緩く上がった穏やかな顔だった。疑うことを知らない、僕に【銃】を向けられていたとも微塵も思っていない優しい顔だ。

 

 確定シロだ。その一言からシロであると分かる。僕はすぐにポケットから手を引き抜いた。

 

 それに僕の動きから、自分の皮膚炎症と近しいものがあると一方的に同調しつつも、彼は、また身の上話を主軸とした情報量の多い話を展開している。

 

 すると彼はチーちゃんの唇周りをトントンと優しく叩いて立ち上がり、自転車のカゴ部分へと向かった。

 

「ふぉ?」と潤んだ眼で彼を見上げるチーちゃんだったが、足腰が立たないらしく、べったりと腹部を地べたに着け、だらしなく足を開いている。僕は潰れた彼女を両手で抱きかかえて、彼の動向を目で追ってしまっていた。

 

 彼はカゴの中で眠っている愛玩に「クメちゃん、ごめんね~。」と囁くと左手でひょいと持ち上げる。その後、愛玩が下敷きにしていた革製のショルダーバッグを右手で掴むと、彼は愛玩を鼻でつつきカバンを開けるように促した。

 

 クメちゃんと呼ばれた愛玩は目をしばしばと動かすと、口内から舌を出して、パチ、パチとマグネットホックを器用に外し、バッグを開いた。

 

 舌を戻したクメちゃんは「ジジジ。」と鳴くと瞼を閉じて、『寝かせろ。』というようにジタバタと手足を動かす振る舞いをした。そんな愛玩に彼は「ありがとね。」と口づけをして、ゆっくりとカゴに戻す。

 

 パックリと開いたバッグを肩にかけ、中の物を漁っている彼が、僕に何を渡そうとしているのか、そして僕が、彼に何を施されるのか、察していた。

 

 察してしまっていた。しかし彼がそれを差し出したら、僕はきっと…大袈裟だろうけど正気ではいられない。

 

 そもそもなぜそんなものを持っているのか?

 

 なぜ僕に渡すという発想になるのか?

 

 こんなことをした僕になぜそこまでするのか。

 

 だが、彼の善性と僕のルーティンが招いたこの過干渉を、止めることはできなかった。そそくさとその場を去ることもできず、僕は彼女を強く抱きしめていた。

 

「どゔぉげげげ…。」

 

 今までもそうだった。隠れた旧倫理者なんかいなかった。見つからなかった。

 

 それでもいつかと。有らぬ期待を飼いながらこの確認作業は怠らなかった。

 

 違うと理解ればその場を離れて、後日まだ確認のしていない人間に【銃】を向ける。そこにはコミュニケーションというものは碌にもなかった。

 

 ただ、今日の接触と僕の思考が冗長を産んだ。

 

 結果、今のような過干渉と善意を呼んでしまった。迂闊。迂闊だった。そしてこの確認作業の中で僕は今、初めて、対象からの優しさに触れた。

 

 引け目と羞恥の中、体の中の血が心臓に集まるようなあの感覚。今までの全てが目の前の彼の優しさ一つで否定されてしまうような気がした。

 

 自己嫌悪が、内罰的思考が僕の中で巣を作り、恥辱の卵を温める。安全圏からの確認作業。そこには加害者と被害者の構図はなかったはず。

 

 しかし、僕が、改めてそれを作り上げてしまった。

 

 もういやだ。僕は、もうこんな所に、こんな優しい人と同じ場所にいられない。

 

 

 僕はなんでこんな。それを、それを渡されたら、僕は。もう。

 

 

「ほら、これねぇ。市販のリンデロンね。オレンジのキャップじゃないのよこれ。あ、まぁ、肌に合わなかったら捨てても良いよ。うん、僕のお節介だからね。」

と彼は施しと善意で返した。僕が向けたのは【銃】だったのにも関わらずだ。

 

 受け入れてしまっていた。せめて暴力の方が良かった。そちらならまだ耐性がある。

 

 そもそもが間違っていた。このルーティンに思考と意味を持ち込んだ時点で。何も考えずに、ただ繰り返す。それで、それでよかったはずなのに。

 

 彼の差し出した物と精神性を優越の証明と、斜に構えて解釈して怒りを燃やすことはできない。

 

 

 脱力感が体をゆっくりと侵し、立とうと機能しなくなる。

 

 肩がすっと下がり、下半身の関節が小さく曲がる。

 

 短い間隔の呼吸は、必要以上の酸素を取り入れようと、僕の喉を酷使する。

 

 

 吐きたい。息が荒くなる。苦しい。目の前が歪む。気持ち悪い。

 

 手の中のチーちゃんが滑り落ちる。崩れ落ちそうになる。

 

 チーちゃんに気が向かない。自分本位な方にゆっくりと堕ちていく。苦しい。

 

 

 だとしても、だからこそ絶対に立つことをやめてはいけない。顔を精神的苦痛で歪ませはしない。

 

 泣いて、へたり込みでもして、彼に手を差し出されたら、僕はもう本当にダメになってしまう。

 

 せめて動揺を悟らせないために、最小限に留めるように善処する。僕は体を強張らせ、限りなくいつもに近い状態を保った。口を固く閉じて、鼻呼吸を自らに促した。

 

 

 そしてゆっくりと息を整え、足元から視線を彼の手に移す。手のひらにはチューブタイプの軟膏があった。つるりと張られた容器は、彼の手の中で静かに佇んでいる。

 

『用途や症状は、人によって違うため、市販とはいえ薬の譲渡はよろしくない。』

『そもそも、今日初めて会うような他人から物を貰うというのは忌避感がある。』

 

 こんな一般論は、頭をよぎることすらなかった。抵抗なく、すんなりと僕は彼の手から善意を受け取った。

 

 そうだ。早く。早く礼を言わなくては。もっと惨めになる前に。もっとつらくなる前に。

 

「あ、あ。」

 

 しかし、口を開いた途端だった。耐えがたい吐き気に襲われた。気持ち悪い。

 

 今にも吐瀉物が体外へと飛び出ていきそうな感覚に陥る。気持ち悪い。吐きたい。

 

 

 もうこんな。

 

 

 きっと良心の呵責。なんにせよ、口いっぱいに広がる自己嫌悪と鋭い酸味は消えることはない。

 

 醜い加害者としての自覚。後先を考えることなく行使した見えない暴力。

 

 見えないからとそれを良しとしてきた結果、浮き彫りになったのは、僕の中で熟していない覚悟。堪え難い不快感。喉の奥から覗く、こみ上げてきそうなもの。

 

「ふッ…。ふッ…。」

 

 

 口内の唾液を用い、それらを喉を鳴らして飲み込んだ。

 

 苦い、不味い、そして苦しい。弱音を吐きたい。『帰りたい。』と口走りたい。二人にまた会いたい。そして地に頭を着けて、目の前の彼に許しを乞いたい。

 

 詫びたい。救われたい。罰が欲しい。逃げたい。逃げてしまいたい。生きていられない。

 

 

 今、目を向けるべきなのは内面ではなくて、事象であることは分かっている。

 

 彼は加害者と被害者の構造すら認識してはいない。つまり言ってしまえば、この認識は僕だけのものだ。

 

 でもそれらを無いものとして、傲慢に開き直れない。

 

 彼に謝罪をするという選択も取れない。何故なら僕は彼に【銃】を向けていたと告白するほど、勇気がないからだ。臆病者のクズは、保身を考えることしかできない。

 

 

 それでも、それでも今は彼から離れよう。僕はここにいてはいけない人間だ。

 

 違う。逃げるんだ。離れるなんてのは言い訳がましいお為ごかしだ。

 

 僕はどうにかなる前に薄い自尊心と唾液を使って、罪悪感を飲み込み、腹の底にしまい込んだ。

 

「ありがとうございます。」

僕は彼に礼を告げ、手の中のそれを握りしめた。中身が飛び散らない程度に。

 

 その後、拳をポケットにしまい込み、軟膏だけを中へと押し込んだ。僕の【Ruger LCR】と容器が触れた音が小さく聞こえる。

 

 礼は言えた。あとはそれらしい対話をして、この人から離れるだけだ。

 

 思考は外界に向かない。それでも、僕は歩かなくてはいけない。用があると言って逃げよう。

 

 しかし、僕が口を開いた直後、唾液交じりの水気のある口の開閉音がハッキリと聞こえた。その音が聞こえる方向にすぐさま視線を向ける。

 

「あ~。どういたしまして。あのね。いらなくなったら全然ね、捨てちゃっていいからさ。ホント、こんなおじさんからの薬なんてね。」

髪をかき上げるような仕草をしながら、彼は言った。…短髪なのに。でも言葉自体は自嘲的で気遣いがあった。それから彼は間髪入れずに言葉を紡いだ。

 

「あ、そうだ。これからご近所さんになるかもしれないでしょ?君の名前さ、教えてもらったりできる?あ、そうだ!先に言うのが礼儀だよね!僕は、國引 跨乃介(くにびき なりのすけ)。ハハ。國引なんて大層な苗字だよねェ。こんなただのおじさんなのに。」

 

 なぜだろう。どうして、どうしてだろう。どうして彼は善人なんだろう。

 

 彼が、彼が悪人だったらよかったのに。こんなに優しくて気さくな人でなかったら。

 

 どうして僕は彼の人生に入り込んでしまったんだろう。

 

「あ、ごめんね。急に名前聞くとか気持ち悪いよね…。ハハ…。」

 

 謝らないでください。気持ち悪いなんて。例えそれが形式上でも自分を卑下しないで。

 

 どうしよう。

 

 どうすれば良い?

 

 僕はどうすれば、なんでここに立っている?

 

「あ、その…。」

名前を言って立ち去ろうにも、言葉が出てこない。

 

「僕は…。」

名前、僕の名前がつっかかった。

 

 出てこい。早く出てこい。

 

 逃げたい。逃げたいのに。逃げたいのに出てこない。逃げたい。

 

 その時、僕の指が、小さく熱を帯びた。僕は咄嗟に指を目の前に持ってきた。濡れてはいない。でも嗅ぎ馴れた甘い血の臭い。眼下ではチーちゃんがこちらを見つめていた。

 

 暖かいわけでも、叱責でもない、かといって冷たくこちらを見つめているわけでもない。あまり見たことない類の感情を持った目だった。

 

 それから國引さんの口が開く音がした。僕は意識と目線をさらに彼に向ける。

 

「あ、國引ってのは、出雲の神話は関係ないからね。」

自己紹介に付け加えるような小さな補足。僕は身勝手にも彼と自分を重ねた。

 

 僕も人前で自己紹介する時たまに補足を着ける。僕の名前を聞いた人間の半分は自分が初めて思い至ったというような得意げな顔で、僕の苗字をもじった仇名を使う。

 

 それが嫌だった。その定型が嫌だった。その意気揚々とした顔に、腹が立った僕はいつからか自己紹介の尾に補足を付けるようになっていた。

 

 しかしその半分の人間のそのまた半分は、先手を打たれたというような表情を浮かべた後、僕の苗字をもじったイカダ呼びをそのまま扱う。それはもっといやだった。

 

伊瓦田(いがた)です。伊瓦田 尚茂(いがた なおも)です。」

僕は食い気味に、そして口早に自身の名前を言葉にしていた。

 

 チーちゃんに背中を押されたように感じたからか、彼の補足に自身のエピソードを重ねたからか。それでもいつもであったら付けるような補足はなかった。

 

「ナオモ…。良いね。接続詞…じゃないか、副詞だね。継続性のある良い名前だ。例えば、なおも歩き続けた。なおも戦い続けた。とかね。良いね、カッコイイね。」

食い気味の僕の自己紹介に、彼は目を輝かせ、僕の顔を見ながらそう答えた。彼は名前から先に僕の情報に触れた。

 

 僕は自分勝手に、少し嬉しいなんて思ってしまったが、すぐさまそれをかき消した。名前は言えた。あとは彼の目の前から消えるだけだ。

 

「あ、あの…すみません、僕ちょっと用事が…。」

名前の件に礼を返すこともなく、僕は嘘を切り出した。彼との会話を切り上げるような言葉遣いに僕は大きく恥じた。

 

「あ!ホント!?いやぁ引き留めてごめんね!ありがとね、色々と。またどこかで!!」

彼はそう言うと、すぐさま自転車にまたがった。僕を見送ることよりも、自ら離れることを選んだ。

 

 こぎ出す脚と背中を向けて手を振る彼と、そよぐ舌。声を出して別れ際の挨拶を返すこともできた。

 

 しかしそれは彼に我儘をぶつけるだけで、その反応で僕を慰めるだけだ。僕は彼の背中をその場でずっと眺めていた。

 

 その後、僕は彼らが残した香りを軽く吸い込んだ。マリン系の香水と、血とボディソープが混じったようなにおい。

 

 そして奥にはやはり雨降りの後のアスファルトのような香り。ただ、彼がこの香りを隠す必要のないモノと扱っているのは香水の加減から分かる。しばらくするとエチケット、世間体としての香水の残滓がすっと空気に混ざって消えた。

 

「うぅ…。うッ…。」

 

 程なくして、ピンと張りつめた線が、プチプチと切れていく感覚に陥った。留めていたものは濁流を起こして、僕は膝をついた。

 

 顔が地面に付いた。

 

「はぁ…。ううううッッッ…。ごめんなさい…。」

 

 僕は。

 

 僕は、僕はもうダメだ。

 

 苦しい。この苦痛がどの感情から派生したのかも考えられない。

 

「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。」

 

 僕はなんであの時に死ねなかったんだろうか。

 

 二人と、千早さんと亮斗さんとあの日に逝けたなら。

 

 痛覚のない四肢を手に入れて、生き延びて。

 

 チーちゃんの正体を考えないようにして。

 

 ただただ、誤魔化して。

 

 僕のせいだ。

 

 全部僕の。

 

 苦しいのも。

 

 情けないのも。

 

 恥ずかしいのも。

 

 

 そうか。僕は救いが欲しいのか。一番、シンデレラコンプレックスを抱えているのは、僕なんだ。

 

 もう嫌だ。醜くなりすぎたな。このまま、ひっそり一人で。独りで死ねたら。

 

 

「ほへへ…。」

 

 

「イタッ…!?」

…くはない…。そうだよ。痛いわけないんだ。ビックリしただけ。もう痛覚があるわけないんだ。

 

 右腕への甘噛み。感覚が引いていくとまた噛まれる。波のように繰り返している。でも攻撃性はない。傷つけるという歯の意義を完全に放棄してる。そして、メッセージ性がある。

 

 そうか…。ごめんねチーちゃん。君がいるのに僕は自己嫌悪、自己憐憫を繰り返して殻にこもってしまっていた。

 

 確かに僕のしていることは許されるようなことじゃない。

 

 でも負の感情は、僕をさらなる憐憫に潜らせるための糧になってしまう。

 

 そうなれば、君にかまわず自慰のような自罰を繰り返すところだった。

 

 それは相手に対して無理やりに同情や意見、そして反応を促す独りよがりなもので、双方向性にない吐精にも近しいから。

 

 今僕は一人じゃないんだ。全ては夜、一人でしよう。右ポケットのタングステンナイフを体に突き刺すのは後で良い。罰は後で良い。

 

 顔を上げると、右腕を服越しに噛むチーちゃんがいた。

 

「ごめんね、ありがとう。」

 

「ふぉげげ。」

彼女はぼやくように鳴き声を上げると、歩き始めた。

 

 罪から目を逸らすわけじゃない。忘れるわけじゃない。逃げるわけでもない。

 

 でも今は、誰かのために自分の行いを飲み下せるほど傲慢になる。僕も彼女と並んで歩を進める。

 

 今のチーちゃんには愛おしさより、僕は逞しさや頼もしさを感じた。

 

 そして同時に…。

 

 ダメだ、考えてはいけない。

 

 チーちゃんが誰かを、考えないことが彼女への手向けなのに。考えないようにしなくては。

 

 それでも、歩かなくては。

 

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