僕は自分ではなく、外に目を向けた。チーちゃんの薄い桃色の肌と細い足、向かいの車線の古いモデルの日産ノート。白い外装には、目立つ傷はなかった。
小気味良い息遣いと、ポケットの中の薬と【銃】が擦れる音。
後方から聞こえるタイヤが擦れる大きな音。
僕の黒いエアマックスが地面に触れる音。
そしてこちらに近づき、並走する車の吐息と、規則性のあるウインカーとハザードの音。窓が開き、聞こえる雑言とフェードアウトしていく『フジファブリック』の楽曲。
うっすら聞こえた『赤黄色の金木犀』。
「転回が下手ちゃむゥ~!」
「忘れモンしたくせに、んだテメェ!?」
嗅ぎ馴れた友人の臭い。
『ならば、自己問答と憐憫を抑え、友人との邂逅という事象に自らを落し込め。』
とでも言うかのように、何らかの思し召しかと思える程、不自然に、そして好都合に友人連中が頃合いを見計らったかのように、目の前に現れた。
「よぉ、ナオモ!チー!って服は?」
パっちゃんが僕の顔を見ながらそんなことを言っていた。髪をたっぷりと蓄えた天然パーマ、ふわりとしたもみあげの毛を挟み込むようにつけられた細いメガネ。羽織っているのは、紺のフォーマルなスーツ。
そして車の窓部分に肘をつき、手の甲に頬を乗せている。極めつけに顔の様子といったら、半端で、閉じていない口。
今の彼を見たらきっと誰もが同じようなオノマトペを使って表情を表すのだろうな。ぽかんと。もちろん僕もそれを思い浮かべた。
「コイツのせいで戻んなきゃいけないし、乗ってく?」
運転席の
しかし、目が小さく開かれた状態であっても、彼の可愛らしい二重の魅力を殺しきることはできない。
天然モノの長い眉毛はさらに彼の魅力を伸ばし、活かしていた。彼に女性の装いを与えたら、性的消費をしちゃう男の人が何人か生まれるのかな。
酷い言い方をしてしまった。要は中性的なんだこの子は。可愛い。顔が良い。
もっと酷い言い方をすると…。
やめとこ。
でも昭也もパっちゃんも良い子だよ。すっごく。
でも『服は?』ってどういうことだろう?ちょっと聞いてみよ。
大丈夫、いつも通り。いつも通りの口調でしゃべるんだ。
「おはよう。うるさいし、ヤバいDQNかなんかだと思っちゃった、ごめん。」
こんな冗談で良いだろうか。外行きのために整えられていないし装飾も付け加えられていないシンプルな仲間内の発言。
それに対し、彼らはそれ相応の皮肉や中傷で返し、返す。よし、いつも通りだ。
「ブーメランね。ナオちゃんのがDQNだよ。」
運転手からそれ相応の皮肉が飛んできた。
「俺からすれば、お前が一番それに近いよ~。非社会的動物。肩をすぼめて、ステータスに見合った生活しててねぇ!」
過剰な中傷も飛んできた
「…ほらぁ~!昭也が口悪くなっちゃったァっ!!この子、怒っちゃったぁ!ホンット、ナオモってそういうところあるわよね~!」
「え…。は!?違っ!!口悪かったのお前!!俺、怒ってない!」
「あららぁ~。昭也荒れてんねぇ。」
僕は昭也に指を指した。
「俺じゃないッ!!やぁめろッ!!」
「でもパっちゃん、ジャケットなんか羽織っちゃって。就活?面接室まで付いてく??」
そして口から出した疑問に、露骨な程に茶化しを混ぜて言う。
「違うだよ~。俺はぁ、働く気なんてねぇだよ。」
「じゃあそれはなァに?」
「総会よぉ。もしかして、忘れてた?お馬鹿~。連絡はしたはずげそよぉ~??」
彼が御得意のふざけた口調でそう答えた。え、今、馬鹿って言った?
しばらくして、僕は言葉の意味をようやく理解した。
「あ、ヤベ…。あぁ、そっ…かぁ。今日かぁ…。」
ヤバい。
どうしよう。
本当に忘れてた。
パスタ食べたかったのに。でもそうだった。
昼から環境保全課主導で総会があった。
ま、いいや。声かけてくれた二人には感謝しないと。でもさっき馬鹿って言った?
「総会中は席、離れちまいますな。」
「え、あぁ…。コルレオーネ屋行く予定だったのに…。」
落胆のあまり呟きが漏れた。
「ん?まぁよ、俺も忘れ物したからとんぼ返り…。」
「ありがとう。でも今、馬鹿って言った?」
「ひゃあ~!」
彼は、そう言うと椅子にぐったりともたれかかった。二人の会話が減速するようにゆっくりと終わると、運転手が僕らに向かって呼びかけた。
「拗らせゴキブリ腐れ外道も、味噌糞ドブ茶瓶も家まで一緒に送るから乗るなら乗れよ。もちろんチーも。」
彼の丸められたようなオールバックは毛の一本も動くことはなく、頭皮に吸い付く様に張り付いている。
内容はなんとも俗悪だけど、彼の童顔から発せられるため特段心に来るものもない。
チーちゃん程じゃないけど昭也も可愛い顔してるよね。十八なのに、まだ頭から赤ちゃんのにおいするし。
「口悪すぎぃ~!そんなこと言う口はどこぉん?」
パっちゃんは昭也の顔を指で軽く突き始めた。
「や~めッ!やめろッ!や~め!!」
「ひゅげげぇ。」と彼らのじゃれ合いにうんざりといった様子で、足をぷらぷらと動かしながらチーちゃんは小さく鳴いた。
え、可愛すぎ。その挙動のあまりの可愛さに、辛抱たまらず、僕は彼女の頭部辺りをそっと撫でた後、大きく開けた口で彼女の顔面部分を覆い隠した。
僕は目のある部分が頭部だと思っている。
可愛いんだもの、この子。やっぱり人間は感情の生き物だね。そして僕は結局、自分のコトしか考えられないんだね。
「アイツやっぱ非社会的動物じゃあん!!」
「またやってる…。」
「ぎぎぎぎぎぎぎぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!!!!!!」
目を塞がれたチーちゃんが大きく鳴くと唇の震えが伝わり、撫でられたような心地良さが顔いっぱいに拡がった。
「けだもの~!おそろしいぃ~!!倫理ィ~ッ!!」
「く、口に、押し込んでる…。」
「ん、んごぎぎぎぎぎぎぃぃぃぃぃッッッッ!!!!????」
さらに彼女の声量が増し、唇の震えが全体へと広がる。僕の体を揺れ動かすような彼女の体の波打ちは、甘い痺れのように僕の体を侵す。
それでも、こんな時間がずっと続くものだと思っていた僕の解釈は、浅はかなものだった。
恒常的な幸せを維持することは、停滞でも怠惰でもなく、努力の上での現状維持だったということを改めて僕は実感した。
僕は甘い快楽によって腕を緩ませ、抱きしめていた彼女を離してしまっていた。
そして彼女が向かったのは、彼らの乗った白いノートだった。
彼女は巧みに舌を用いる。助手席に着いたハンガーに舌を引掛けた後、伸びきった舌を啜るように飲み込み体を振り子のように左右させ、車内に自らの体を投げ入れるように飛び込んだ。
着地先はパっちゃんの太ももの上。そして
「車出せぇい。」
「へ~い。」
「ぶぶぶぅ~。」
彼らの冗談めかした雰囲気のある会話の後、昭也が車のエンジンをかけた。
先ほどまで押し留められていた呼吸は、これ見よがしというほどに大きくなり、自らが息を吹き返したことを大げさに顕示するようにノートは、車体を小刻みに震えさせた。今にも車は前進しそうだ。
まぁ、行くわけがないよ。冗談に決まってるよ冗談。
車は走り出すことはないし、後部座席に僕を乗せるためにそこから動かない。ロハで乗ることを前提として、図々しくもドアを開ける僕を、二人と彼女は待っているはず。
しかし僕は開いた窓から、シフトレバーをDに入れるように動く左手とブレーキペダルから離れる脚を見た。
そして妙な事に車は走り出した。
「バイバ~イ!!」
窓から顔を出し笑いながらそう言うパっちゃんの隣で、長い舌が手を振るように風に吹かれている。
あ!?
止まらない!!あいつら置いていきやがった!!
「止まれったら!!ンの野郎ッ!糞DQNどもがよぉッ!!ボケがッ!」
「ギャハハハハハハハ!!!!!」
「ヒヒャァっ!!!」
「ゲゲゲゲゲッ!!!!」
思い思いの笑い声が僕を煽るように前方で響いた後、程なくして車は止まった。
距離にして停車地点から100m弱ほど動いていた。あ、よかった。ビックリした。
本当に置いていかれるかと思った。怖かった。怖い。もう置いていかれたくない。
まぁ、車の進行方向が目的地と逆であるから、そもそもの時点で冗談か。そして僕は再度路上駐車したノートまで駆け寄ると、タイヤ部分をつま先で蹴ってから体重をかけるように乗り込んだ。
「あ!テメェ、自動車税払えんのかッ!?おッ!?」
昭也が車の衝撃に驚くと、首が飛ばんばかりの速さで振り向いた。
「なんかああいう税金の所得別の納税額の早見表見るとワクワクするよね。」
「しねぇよ!バァカッ!!!」
「俺ら納税免除されてるしぃ。縁遠い話だからワクワクできるっちゅうか。」
「ずっこいんだよ!
「あ、そうだ。ねぇ、このくぼみって灰皿とかゴミとか入れる痰ツボみたいなやつでしょ?」
僕も彼らにやり返そうと、ドアに着いた小物入れを指さしながら面白くもない酷い冗談を言ってみる。
「ドアポケットッ!」
「ちょっと待って…。頑張って出すから…。待ってて…。ヴぉえっ…。」
僕はドアポケットに指した指をそのまま口の中に入れた。と言っても喉奥に触れない程度に口内で留めている。
「頑張るもんじゃねぇだろ!やめろッ!!!」
僕らのそんなやり取りに、前の二人が笑い声をあげる。
「ンギャハハハハ!!!!!」
「ゲゲゲゲゲゲッ!!!」
パっちゃんと彼女の汚い笑い声が車内に響く。それに僕もつられて笑ってしまう。
「ヒィ~!!アハァッハハハッ!!!」
「降りッ…降りろッ!!!馬鹿どもがッッッッ!!!」
運転手が怒号を上げた。
こんな感じだよね。友人間の会話って。僕、できてるよね。
笑い声も落ち着いたところで車はまた息を吹き返したように歩きだし、僕らの住んでいる青葉区側の住宅地に戻っていった。
車内には…『くるり』の『愛の太陽』がかかっていて、話題もすっかり移っている。
前の座席の二人は国民年金保険の話なんかしながら、時たまチーちゃんに触れている。
僕は、きっかけ作りの問いかけをしてこないビルと、聞かれてもいない応えをしない標識を眺めていた。ただ、それらは流れていって、全て窓から消えていくものだった。
外を眺めるとコミュニケーションに応じない、応じられない理由を即席で作ることができる。景色を見るのは嫌いではなかった。
だがそれは、その場に全くそぐわない手前勝手なものであった。それでも僕は自ら作り出した小さな疎外感を享受しながら、誰も座っていない隣の座席に右手を当て、先ほどの事を整理していた。
二人には会話相手がいるし、チーちゃんは前の座席。今は内向的な思考のそれが赦されている。
僕は思考を組み立てながら、指の腹で座席を撫でた。
つるり磨き上げられた合成合皮越しに、本来車と定義づけられていたものが持っているはずのない “命”を感じる。
それは比喩の一切を抜きにした、真実だ。まぁ、この車自体に思考能力はないけれどもね。
小さく上下する車体フレームは本体部分の鼓動を押し留めるように深く強く密接に結びついている。
息遣いは絶えず続き、栄養素を消化するゴロゴロという音を聞くと、安直な例えにはなるけど、母親の中の胎児にもなったような気分に陥る。
そして少し濁ったこの窓は、硝子じゃない。
爪の主成分であるケラチンや、眼のレンズ機能を持つ水晶体で作られている。僕はこの曇りがかった窓から大きな肉の塔を捉えた。
宝石サンゴ、葉の無い樹のような形をした薄桃色の肉の塔。
仙台市を中心として、九時方向、つまり青葉区側に聳える地母神なら、サマルカンドだ。北海道のある方を北とするならね。と言ってもここは宮城圏で東北地方だけど。
同じように肉の塔は合わせて十二基、仙台市並び他市を跨いで、丸く囲うように配置されている。
規則正しく包むように並び、彼女らは敵対的な人造生物から僕らの生活を守っている。物言わぬ思考能力の無い肉塊を、捧げるように吐き出して。勿論、彼女らにも意思なんて無い。…いや、彼でもあるのかな。
それでも地母神の慈愛をすり抜けるような人造生物を、僕らはこの手で殺すんだ。
そうだ。七時方向にある地母神の名前はサンチョ・パンサっていって何とも可愛らしい響きをしている。チーちゃんほどじゃないけど。
しかし誰かに従事しているわけではないし、ここはラ・マンチャではなく宮城である。
今、僕に対して、妄想癖ドン・キホーテって言った?
でも彼女ら地母神に慈愛を抱く人ってのはほとんどいないし、感謝こそすれど、崇拝してスピリチュアルに昇華する団体も…。あるにはあるけど、最近潰れたっけ…。
まぁ、為政者はシステムとして、遺体で造られた塔を酷使する。それはもちろん僕らも同じ。
ここは生暖かくて、手を伸ばすといつでも生きた肌がある。肉の抱擁がすぐそこにある。北海道では、その限りではないけど。
まぁ、だからといって、それを気味悪く感じる人間はとっくに消えてしまった。慣れと年月は倫理と道徳を侵すもので、毒のようなものなのだから。
旧世紀的な価値観で見たら狂っているのだろうか。
『親を活かすために、子を捧げるなんて。』
地母神をシステムと理屈、構造で捉えることができない過去の人間は、その年代の道徳的と言える基本の倫理を僕らにぶつけるのだろうか。
しかし、もしここに、そんな人間がいても彼らの倫理や社会性、道徳を担保してくれるものはいない。
「次はナオちゃんが好きな曲流す番~。って聞いてる?」
「ナオモ!フジファブリック!フジファブリックな!?」
「げげ。」
二人は僕を自分たちの会話に手繰り寄せる様に、愉しげで友人らしい言葉を用いた。チーちゃんは僕の様子を伺うように小さく鳴いた。
僕はそれに対して、流す曲を悩んでいるような顔を見せた。
知人の凄惨な死亡から立ち直った友人を装った。
『過去の事は忘れて、今を生きている。』
そんなことはない。僕は二人の死を乗り越えられてはいない。
頭から二人が離れる時は片時もない。人に【銃】を向けることで生じる負い目は一生消えない。
それでも、僕は今ここにいる三人と、プラスアルファであの変態が大好きだから。
例えごまかしでも明るさを見せる。今だけは装って、取り繕っていないと自らに張った線がプツリと切れてしまいそうな気がした。
「じゃあオアシスの
僕は、彼らにこう伝えた。
「フジファブリックじゃないのぉ?…ん~、ねぇや!」
パっちゃんがこう返す。
「え、じゃあイエモンのFour…。」
「ない。くるりならある。」
昭也がこう返す。
「キリンジの癇癪と色気…。」
「キリンジならエイリアンズしかなぁい。」
「…紅葉に抱かれて……。」
「……この流れで!?」
「最近ロンハー見た!?」
「げっ!?」
チーちゃんまで驚いてる。良いじゃん。元気になるじゃん…。良い曲じゃん。
「……いや、ないよね。うん、エイリアンズで。」
「あるけど。」
「あるの!?」
あるんだ…。
「お母さんが好きでさ。」
「…あぁ。」
そういえば、そうだった。昭也の家に行くたび、リビングでロンハー流してたかも。
ダッシュボード上のプレイヤーの口が開き、骨ばった挿入口が露になる。パっちゃんは億劫な様子で、音楽データの刻まれたエナメル質のメディアをつかみ取ると、挿入口に棒状のそれを差し込んだ。
プレイヤーが声帯を整えるのに要する時間は三十秒ほどかな。
乗り物はもちろんのこと、それらを取り巻く設備もインフラも肉が携わっている。
住宅以外の建築物でも今は木造が主流…。鉱石資源も十分には扱えないのが現状。
過去の遺物を酷使して、砕かれたアスファルトを踏みしめる。
僕はそんな、既存社会を肉と有り合わせの技術と資源とでなぞったような世界を生きている。
なんていうんだろう。言うなればバイオパンクフリントストーン?フリントストーン見たことないけど…。家電だって使えるし言い過ぎだったかも……。
まぁ。
僕はきっと善意で押しつぶされそうになったとしても、生きなきゃいけないんだ。
あの人たちがいなくなったここで生きていくしかないんだ。
矛盾だらけの言葉と行動と思考を抱いて、一度決めたことをすぐに覆しても。
見えない暴力を誰かに振りかざしておきながら、のうのうと。
生きたくないと思うことはあれど、強く死にたいと思うことはない臆病者だから?
繁殖欲求に踊らされるような恋で子孫を残すため?
消化できない感情を、庇護欲や愛情にすり替えて彼女にぶつけるため?
亡くなった人間の生活をなぞり、彼らの消えていった生を感じるため?
友人たちとそれらしい遊びと生活を繰り返して、社会性を獲得するため?
罪もない人間に見えない暴力装置を向けて、非効率な選別をするため?
物語、意味、構造、僕はそれらから逃げれない。
そしてこれからも僕は彼女の言葉を無下にし続けるんだろうな。
二人の死から意味を見出そうとポルノを作って、ましてや自分の生にも何らかの意味を与えようとする。もう僕は何も考えたくなかった。
幸い、三人で会話は弾んでいる様子だったので、睡眠を装うように座席に深く沈みこみ、僕は、軽くポケットの中の薬と【銃】に触れた。
次回から、三人称になります。