「ぎぃッ…。」
愛玩はその場から飛び降りると、ナオモの膝の上に軽く着地し、彼のスラッシュポケットを短い前足でまさぐった。
「や、やめて……!チーちゃん……!」
ナオモは愛玩を持ち上げ、静止した。
しかしナオモの柔い言葉のそれでは、目の前の彼女の衝動と怒りを止めることはできない。
チーは舌を曲げ、降り畳まれたタングステンナイフを掴み取ると、勢いよく振り落ろし展開した。
そして日々の自罰から飼い主がナイフに付ける血の臭いに「げひッ…。」と小さく諭すように鳴くと、多稲の方に走り出していった。
「何考えてんの?意味わかんない。気持ち悪いね。」
多稲は冷たく言い放つと、バックポケットに左手を伸ばす。そして耐えきれず、強い感情を露わにした。
「壊しちゃうけど、あとで弁償するから、お値段教えてね。」
「ふぉげげげげ。」
「や、やめてくださいよ!!二人とも!」
ナオモは動揺し、声を上げた。
しかし彼女らにとって今やナオモの反応や言動、表情は掬い取る意味のない情報に成り果てた。
感情を制することのできなかった二人の選択肢は最早、闘争以外になかった。
(なんで、チーちゃんは多稲に対してあんなに敵意を…。それに二人ともあんな感情的に…。感情…。)
ナオモは小さく思案する。
多稲はナオモに紙袋を投げると同時に、右手の中のものを展開させる。十㎝ほどの長さの筒が、一m弱もの棒になった。多稲は握る手を強める。
「護身用…伸縮する…携帯用の棒…?」
ナオモは呟くと、数秒の思案の後、ポケットに手を伸ばして【銃】に手を触れた。
地を這い迫る人造の獣に、多稲は棒を振り下ろすが、空を裂く音が鳴るだけで、六足のそれには当たらない。
懐に潜り込んだ愛玩は、誘蛾灯に惹かれた蟲に成る。二人の口は、互いの中にある思惑で歪んだ。
内部が空洞になっているパイプ状の伸縮棒は伸ばすと耐久性が下がるため、継戦能力を持たない。しかし、破損前提で扱えば数回の強打を与える武器にも成りうる。
そのため耐久力の低い護身用の武器であっても使用者に〝リーチ〟という優位を与えてくれる。
反面、相手はリーチの優位をかき消そうとするために、さらなる後退の札か接近の札のどちらかを取る。
そして多稲は接近の札を愛玩に取らせた。
もっと厳密に言うのなら、その札を強く握らせた。
舌による中距離からの攻撃を放棄し、ナイフ一本で向かってくる愛玩には選択肢はもはや肉弾戦の術しかない。
そして多稲が彼女に接近を赦した理由は一つ、単純なものだった。大きな口を携えたタイプのチーのような愛玩は近接戦を最も得意とする。そのため彼女の得意を、上から押しつぶして敗北感を味合わせたかったためだ。要はプライドである。
闘争は窓越しの人々を、住人を、一部の喫煙者を、市井の群れから観衆に変えた。
互いの武器は小道具に、獣と狂人狩りは芸人へ、はたまた興行師へ。
そしてナオモは自らを、終幕を告げるカーテンのように扱った。
ナオモは紙袋の中にある中華まんを一瞥すると、地面に向かって【銃口】を突き付ける。
(大声で叫ぶ…。ダメだ…。気にやしないだろう…。)
シリンダーラッチのボタンに小さく触れると、シリンダーを指で軽く押し出し外側へと露出させた。【Ruger LCR】に自身の人肌と金属の冷たさの混じった手触りをナオモは感じる。
(仲裁に…。ダメだ…。危険だし、双方を刺激するかも…。何より僕が力負けする……。)
自身を見つめるチャンバーの空白全てを【38special弾】を挿入することで押し潰すと、シリンダーを戻して、息を短く吐いた。
(空砲なんて持ってないもの…。真上に撃つなんてのはもってのほか…。【銃弾】の落下地点なんて分かったもんじゃないし、地面に撃ったらリコシェットでどうなるか…。)
(砂地も柔らかい地面もない…。なら道路のグレーチングに向かって撃って着水…。ダメだ…。遠すぎるね…。パーカーを重ねて地面に…でも威力は殺しきれるか?いやどうする…?どうなる……。そうだ、撃たなきゃ。チーちゃんが傷つくぐらいなら、僕を殺せ。無許可発砲した僕を罰しろ。でも今は…。)
【銃口】のその先、照準と地面の間に、自身の左腕と左足を浮かせ、トリガーに指をかける。
(止めなくちゃ。)
ナオモは【銃声】によって注意を引くことで、戦闘を終わらせたかった。
(僕の手足で勢いを殺す。いやできるか…?馬鹿ではあるけどやらなくちゃ……。)
ナオモは駆けと自己犠牲に身を投じた。自らの身体を犠牲にして、止まるか定かでない双方を収めるつもりでいた。彼はすぐにでも発砲するつもりだった。引き金も抵抗はしなかった。
しかし愛玩を目で追った彼の中で醜悪なプライドが心を這った。
自身の所有物を守護するための動作が、ある目的のための過程に置き換わる。欲望を優先した彼の怠惰は、カーテンが降りるまでの猶予を産んだ。
(チーちゃん…。どんな風に君は…多稲を攻撃するんだろう。そして…。)
〝自らの愛玩が、キチガイ殺しを傷つけるのを見たい〟という自尊心からの猶予が。
(どうやってアイツと闘うんだろう。殺すんだろう。)
〝あわよくば〟という他力本願の殺意から、終幕を愛玩に委ねた。
幕は未だ引かれない。戯曲は続く。多稲の足元に近づいたチーは、ナイフをナオモの方向に滑らせると、すぐさま翻って口を地面に向けた。そして舌をバネの様に扱って素早く跳躍した。
攻撃手段を自ら放棄した目の前の獣に、多稲が驚くのも束の間、彼女の顔上半分が粘性のある液体で濡れる。
「ふぉべぇ。」
多稲は顔を顰めると同時に、棒を縮小させて筒に戻したもので、チーの胴体を軽く突く。
「んぎッ…。」
チーは痛みに目を細めながらも、突きによる衝撃を活用し、ナオモの方まで跳んでいった。
一人と一匹の間に〝接近〟という目的はあれど〝相手を打ち負かす〟という目的は共有されることはなかった。愛玩は彼女に迫る最中、意図を読み、衝動と怒りを揶揄いに変えた。獣の身に宿された精神は、あらぬ方向にハンドルを切った。
「あ。」
多稲は呟いた。ボディソープに血を混ぜたような、甘く鉄臭い香りが鼻を刺激する。
「甘クサッ…。」
彼女は嘔吐くような反応を見せ、腰にあるカーディガンで顔を拭いた。
宙に浮くチーは多稲を捉えながらも、優越から笑みを浮かべることはできなかった。
筒の中のえぐられた皮。マッチ棒を横に4倍太らせたような大きさ。そして筒から皮膚片が地面に落ちるのと同時に、皮膚による抱擁を失った細い血管達が、ぽつぽつと意思表示をしだした。チーの肉は赤い斑点を作り出し、流血を始める。
誘蛾灯に惹かれた蟲は、その灯を堪能すると自らの羽ばたきでその明かりを消して、羽に火傷を負った。
「チーちゃん…。」
ナオモは【銃】と地面に挟まれた四肢をその場から離して、こちらに戻る愛玩を安堵した目で追った。
そして引き金を引かず、胸をすかせようと自尊心を優先した事を強く恥じた。
自傷を選ばなかった自身に歯を食いしばり、恥の赤を顔色に落とし込みながらも、警戒は解くことはなかった。風のような一幕、十秒にも満たない交戦とも言えない悪戯。
(怪我…。僕のせいだ…。僕の…。)
チーはナオモの隣のポラードに着地し、彼の持つ【銃】に数秒視線を移した。
それから隣に座る飼い主同様に警戒を身に纏い、多稲をじっと見つめ始めた。負傷部分から血が数滴地面に落ちる。
駐車場から多稲を呼びかける声が響く。
車とぶつかり反響する女性の悲鳴。「跡乃ッ!!!」という刺さるような声。
多稲にとっての、闘争を鎮める鶴の一声。
になることはなかった。
呼びかけられた本人はその声を、遠い場所にいる人間の不幸の様に扱った。彼女の総ては今、ナオモとその愛玩に向けられている。
依然として周りの人々の緊張は解けることはなかった。ナオモが愛玩の傷を気遣えるまで、市井の人が観客の役割を降りるまでには、まだ余裕が足りなかった。
「挑発のつもり?なんのアピール?なんなの?なんなの?」
多稲は両の手で頭を抱えそう呟くと、手を顔の前面に移動させた。
「しかもあの感じ…。亜物は認知できてるし乳母(うば)より早いし…。要寺っていう噂は本当なの…?…もういや…。もういや…。もうこれ以上変なのが増えたら、私もう…。」
その後、数度震えて彼女は口を開く。
「もう誰から殺せばいいのか分からなくなっちゃうでしょ?」
〝キチガイ殺し〟として責務を果たそうと、指の隙間から黒い目を覗かせた。
彼女の頭の中には再戦のスターター【ピストル】が鳴り響いていた。
瞳孔の黒が瞳全体に拡がる。排除の意思は正面の一人と一匹に当てられる。
「狂人狩り…。記号の奴隷…。」
ナオモは小さく呟いた。