ぐら、ぐら。視界が揺らぐ。体の中が揺れている。
吐き気を催しても、私の胃から何かが迫り上がってくることは無くて。体の中が掻き回されるような違和感はあるのに、ソレを発散する方法が無くて。ひたすら落ちて行っているのに、何かに引き上げられているような違和感。
数秒、数分、数時間にまで感じるようなその感覚が途切れた時。私の足の裏には、地面の感覚があった。
寝ていたはずなのに立っている。瞼に光が差し込んでくる。太陽の光に、唐突に目を焼かれるような感覚にまた眩暈がして。けれど、今度こそ。ようやく意識が現実に帰って来た気がした。
突然、目の前を何かが過ぎ去るような業風。私の覚束ない足は酷くもつれて、そのまま後ろに倒れ込んでしまう。
「い、た────ぁ?」
私、私は。確か、ラマニアンホロウの中に居たはずだ。
けど、けれど。今私の目の前に広がっているのは、
「ルミナ、スクエア────」
・・・・・・何、何が私に起きたの? イマイチ状況が理解できない。
尻餅つきながら辺りをキョロキョロと見回す私を、何やら怪訝な目で見る道ゆく人々。視線を上げれば、たった今青に変わった交差点の信号とショッピングモール。遠くには大きく口を開けたホロウと川が見えて。
「わ、私の知ってるルミナスクエアだ・・・・・・い、ったあ。待って、最悪。掌擦りむいてる・・・・・・」
次から次へと、消え失せていた感覚が群を生して襲ってくる。
視覚、痛覚、嗅覚────そして聴覚。いつも聞いてるはずの街中の音のそれぞれが、私の鼓膜を痛いくらいに揺さぶって。また、眩暈がした。
声、声、音、声、音。思わず耳を塞ぎたくなるのを我慢して、痛む掌をなるべく使わないように、私はゆっくり立ち上がる。
とりあえず、状況を整理しないと。
私がいたのはラマニアンホロウ────衛非地区。そこからルミナスクエアまではだいぶ距離がある。自分の足で歩いて来た、と考えるには時間があまりにも短すぎる。
・・・・・・いや、あの気持ち悪い感覚はだいぶ長かった気がするけど。いやでも。うーん、うん。うん?
「だーめだ、頭回んない・・・・・・」
「・・・・・・ねえ、あんた大丈夫?」
誰に聞かせるわけでも無い独り言。思わず口をついて出たソレに応える、聞き覚えのある声があった。
振り返れば、制服姿の女の子。黒い髪に赤いインナーカラー。気だるげな表情と、咥え込んだ棒キャンディ。何より腰から生やした大きなヒレは、絶対に見間違える事なんてない。
「な、何。さっきまで顔色真っ青だったのに急に笑顔じゃん・・・・・・忙しいね」
「エレン〜!! ねぇ聞いてよ、色々おかしくって〜!!」
見知った相手に会って心底安心する。なんなら涙まで出そうだし、今すぐ抱きしめたい気持ちに駆られてしまった。
けどここはぐっと我慢。擦りむいてない方の手でエレンの手を握り締め、柔く何度か振るだけに留めて。感謝の気持ちを目一杯に伝えることにする。
何より、私の知り合いの中でも五本指には入る頼もしさの子だ。この状況を説明すれば、何かしら協力をしてくれるはずで────、
「あたしの名前、知ってる・・・・・・? どっかで会ったっけ」
「────へ、?」
けど、返ってきた言葉は、私が一切予想すらしていないモノだった。
視界がゆったりと回る。ああ、これが目眩って言うんだっけ。周りの騒音やアレコレは遠のいていくのに、エレンの声だけハッキリ聞こえてしまうから・・・・・・どうしようも、なかった。
「もしかしてバイトの・・・・・・? あー、だとしたら顔覚えてなくてゴメン。あたしバイト中とそうじゃない時は結構切り分けてるっていうかさ」
「────ぁ、」
「それか404 ERRORの・・・・・・でもあそこじゃあんまり関わり持たないし・・・・・・ま、いっか」
私の知ってる言葉を話している。だというのに意味が理解できない。
理解を拒んでる。
目の前にいる知り合いに、友人に、拒否されるよりも。
こうして心の底から『初めましてですけど?』みたいな対応を取られる方が、精神的にクるのだと。
私は今、身をもって知った。
涙で視界がボヤける。喉元を嗚咽が押し上げる。
今度こそ胃の中身を辺りに撒き散らしそうになって。私はたまらず駆け出した。
「え、あ────ちょっと!」
何か私の背中に、エレンが声をかけていた気がする。けど振り返るだけの勇気は私にはない。
今のエレンと真っ向から向き合える自信がなかった。何より、あの子の目の前でみっともなく泣きじゃくるなんてそれこそ不審者じゃないか。
私の足は、逃げるように────いったい、何処へ。
「は、は、ッ────ぅ、」
必死に足を回す。涙が溢れて止まらない。いつもなら簡単に止まるのに。呼吸すら忘れて足を回す、回す。
胸の中に『怖い』って感覚がずっとある。まるでぽっかりと肺に穴が空いてしまっているようだった。
タチの悪い冗談ならまだ良い。けれど、あの子は冗談でそんなことを言うタイプじゃない。
何か、何かが────。
頭をガンガンと内側から殴るように揺らす違和感。ソレを色々な感情がぐちゃぐちゃと掻き回して、注視できない。
吐き気、息、呼吸、酸欠、涙、前、見えない。上手くできない呼吸を整えるように。ようやく私の足が止まって、両膝に手をついたその時には。気づけば、六分街にまで来ていた。
「ルミナスクエアから、ここまで走ってきたとか・・・・・・は、はは。バカじゃん」
もう周りから白い目で見られることは気にしない。何かしら言葉という形で消化して、自分の感情を体の外に出さないとやってられなかった。
体のあちこちが痛い。歩くたび、悲鳴を上げるように足が軋んだ。落ち着ける場所に、行きたい。
「・・・・・・そうだ、Random play」
このまま真っ直ぐいって、錦鯉の横を左に曲がって。少し行けば、私の安心できる場所が、待ってるはず。
足を引き摺るように歩いていく。高架下を通って、家々を横切って。電話ボックスに手をついて、がなり立てる心臓を落ち着ける。大きく息を吸って、吐く。肺を、心臓を、少しでも落ち着けるために。
「────リン?」
そんな私の名前を呼ぶ声がする。・・・・・・知ってる、声だ。何度も聞いたことのある声。
けど、振り返るのが怖い。だって数十分前にあんなことがあったばっかりで。今度は私の名前をはっきり呼んでいるけれど。それでも、奥歯が音を立てるほどの震えが、振り返ろうとする私を邪魔した。
「やっぱり。リンじゃない、久しいわね」
声の主が私を覗き込んでくる。風に揺れる桃色の髪。私を見つめる緑色の瞳。
「ニ、コ?」
「ふふ。そーよ、アタシ。よかった、忘れられたかと思ってたわ」
一度緩んでしまった涙腺は、最早仕事を諦めてしまっていた。また、とめどなく涙が溢れてきて。そんな私を眺めながら、ニコが慌ただしくソワソワしているのが見える。
そっか。私、適当観のことにかかりきりになってたから。こうやってニコと話をするの、久々かもしれない。だから、余計に。だめだ。
「ち、ちょっと!? そんなに泣くほどアタシが恋しかったワケ?! もー・・・・・・ほら。ハンカチ貸してあげるから涙拭きなさい」
「う、ぅ・・・・・・でもニコ、このハンカチに多額つけて請求してくるんでしょ?」
「やーね、いつの話してんのよ。・・・・・・そういうの、もう卒業したわよ。流石にね」
押し付けられる形でハンカチを受け取る。拭っても拭っても涙が溢れてきて。今私は、心底安心したのだろう、と。
この子にこんな感情を抱くとは思っていなかった。いっつも顔を合わせる度に厄介ごとを持ってきて・・・・・・全く、本当にもう。でもそんなニコだとしても、今の私にとっては心の底から有り難かった。
「少しは落ち着いた?」
「うん、おかげさまで。ありがとね」
「そ、よかった。にしてもいつぶりかしらね〜、こうやってアンタとゆっくり話すのも」
言われて、思わず指折り数える。確か、シルバー小隊の一件があったのが春頃だったから・・・・・・ニコと面と向かって話したのは、
「五ヶ月・・・・・・いや、半年くらい前・・・・・・かな? 最後に話したのは」
「・・・・・・? ああ、まあ。無理もない、か。アンタ引きこもってばかりだったものね。そのヘンの感覚が狂ったって、仕方ないか。酷い顔、してるもの」
「────?」
違和感を押し留めるためにした蓋を、無理矢理こじ開けられたような感覚だった。
火を止め忘れて、ガタガタと揺れるヤカンみたいに。目を逸らさないほどの違和感が、警笛を噴く。
「でもほら、アタシもこうして新しい道を歩み始めたし。アンタもそろそろ前向いても良い頃じゃない? アンビーとビリーのことは、別にアンタのせいじゃ────」
「待って」
「な、何よ。そんな急に怖い顔して・・・・・・あ、あの頃した借金は全部アンタの口座に振り込んだわよ?」
「いや違う。そうじゃなくて・・・・・・」
◇◆◇
疲労を訴えかける身体を、工房のソファに埋める。背中からソファに飲み込まれていき、睡眠の海へと身投げしてしまいたくなる気持ちをどうにか抑えて。誤魔化し続けてきた違和感に改めて向き合った。
私の知っている世界と乖離しているような。私だけが、世界に取り残されてしまっているような違和感。
「・・・・・・ここは、私の知っている世界とは違う」
知っているようで知らない世界。このソファの座り心地も同じだけれど。きっとここは、私の世界じゃないんだ。
・・・・・・そもそも、エレンのあの反応からして気づくべきだった。
無理もない。私は────いや。この世界の私は、エレンと出会っていないんだ。だからあの子は、私のことを知らない。
「・・・・・・私、案外友達っていうか────人間関係に依存してたんだな」
そして、お兄ちゃんに対しても。それはきっと、私が今思っている以上に。
私の知ってる私の世界。そして、今いるこの世界の分岐。
それは多分、お兄ちゃんの死。
荒れ果てた店内。荒れ果てた工房。あちこちに散乱した弁当のゴミと、床のあちこちに付着したまま拭き取られて居ない吐瀉物の痕。そして、部屋の隅で役割を終えたように動かなくなったイアスたち。
モニターの前。机に置かれたキーボードの上には、握られすぎてしゃくしゃになってしまったお兄ちゃんの写真がある。
そして何より、
「・・・・・・はは。本当に、酷い顔」
スマートフォンのインカメで見た私の顔は、確かにひどい顔をしていた。
痩せこけた頰。お兄ちゃんのと同じくらいか、それ以上に色濃くこびりついてしまったクマのシミ。一切切っていないらしい伸びっぱなしの後ろ髪。それでも前髪は邪魔だったらしく、自分で切ったのか長さがあべこべで見るに耐えない。
ここに来る前、同じ格好をしていたから特に違和感を覚えなかったけれど、羽織ったお兄ちゃんの上着は私の記憶よりボロボロで。それでも『小汚い』みたいな印象を抱かない辺り、かなり大事に着ていたんだろう。
『ラマニアンホロウに、並行世界に繋がる扉が現れる・・・・・・?』
柚葉とリュシアが語っていた怪談。並行世界へ繋がる扉。扉の類を潜った記憶はないけれど、多分本当だったんだと思う。
お兄ちゃんがいない世界。そんな〝もしも〟を考えてしまったから。何かしらが作用して、私の意識は
「は、はは・・・・・・思ったより最悪だ」
お兄ちゃんを亡くしたタイミングはわからない。けど、
「・・・・・・私は致命的な失敗をして。プロキシをやめて、家の中に引き篭もるだけの生活を送っていた」
別にこっちの私を責める気はない。多分もう、ニコたちからあの依頼を受ける頃には・・・・・・何もかもが一杯一杯だったんだろう。
その失敗が私の心を叩き折った。多分私も、同じ状況ならそうなってしまっていたと。心の底からそう思う。
「じゃなくて。一番大事なのは」
私の意識を元の世界に戻すこと。ようやく、思考がそこまで落ち着いてくれた。
こういった思考に頼るのはあまりよろしくないけど。映画や創作物の中での定番は、やっぱり────ここに来た原因と同じ場所に、戻る方法が存在する。
というかあの場所が原因なのだとしたら。あの場所に戻れば何かしらが起こる、というのが定石だとは思う。
「というかそれ以外考えられないな」
今の私にはそれしかない。不幸なことに、今の私にはFairyの存在もなく・・・・・・お兄ちゃんも居なくて。
そして何より、問題は。ラマニアンホロウに辿り着けたとして。
この世界に、今まで築き上げてきた人間関係は存在せず。
そして、私に、仲間と呼べる仲間は居ないということだ。
唯一『
・・・・・・巻き込むわけにはいかない。だから、ここから先は全部────私だけでどうにかしなくちゃいけない、ということだ。