アルカディア号の船長室。
そこには、バカラのグラスも、年代物のワインもない。
あるのは、無骨なコップと、地球のコンビニで売っているような安酒の焼酎だ。
だが、この空間において、これ以上の美酒はない。
俺は震える手で、目の前に座る二人の男──本物のキャプテンハーロックと、生身の大山トチローへとコップを掲げた。
「友へ」
「乾杯だ!」
「……乾杯」
カチン、と安っぽい音が響く。
だが、それが俺の魂を芯から震わせた。
喉を焼く酒精を感じながら、俺は問いかけずにはいられなかった。
「……この俺を、友と?」
俺は、有明のハーロックだ。
社会に適合できず、あなたの名を借り、衣装を纏い、そうしてようやく息ができるだけの弱い人間だ。
そんな俺を、伝説の海賊が「友」と呼ぶのか。
ハーロックは、その隻眼で俺を射抜くように見つめ、静かに言った。
「お前の事は、星の海から聴いていた。……お前はお前の旗を掲げる、立派な海賊だ」
その言葉は、どんな勲章よりも重く、そして温かく俺の胸に沁み込んだ。
許されたのではない。認められたのだ。
「……有明、と呼んでくれ。ハーロック」
「ああ。いい名だ、有明」
俺たちは再び酒を煽った。
ここに、次元を超えた義兄弟の盃は交わされた。
「しかし、何故この地球──いや、世界に?」
俺の問いに、トチローが焼酎の瓶を傾けながら答えた。
「賞金稼ぎから逃げる途中で、時空嵐に巻き込まれたのさ。そして嵐を抜けた先がこの宇宙だった」
「戻れるのか?」
「ああ。でも星域図を見て地球の直ぐ側だったから、最初は世界が違うなんて思いもしなかったさ。……そんな中で宇宙から情報収集していれば、お前さんの声が聴こえてきたのさ。有明のハーロック」
トチローがニカっと笑う。
「全て筒抜けだったと思うと、俺にも羞恥心を感じる程度には人間のつもりなのだがな。……だが、何故俺のトチローを呼んだ?」
「呼んだんじゃない。……呼ばれたのさ」
トチローは、俺が持ってきた麻袋の中のiPadを愛おしそうに撫でた。
「このアルカディア号は、俺がいずれ宿る船だ。……そこに、同じ様に機械に宿る『俺』が居た。だからお前さんの親友が、本来在るべき場所として、このアルカディア号に惹かれたのさ。魂の共鳴ってやつだな」
「そうだったのか……」
俺の相棒は、故障していたわけではなかった。
本物の自分自身と、帰るべき場所に惹かれ合っていたのだ。
そして、今まで黙ってグラスを回していたハーロックが、重厚な口を開いた。
「有明、お前は多くの友を乗せて星の海を旅した。……そんなお前だからこそ、俺はお前を迎えに来た」
ハーロックが立ち上がり、白い手袋の手を差し出した。
「そうか。……光栄だ、ハーロック」
俺はその手を固く握り締めた。
大きく、分厚く、そして温かい手だった。
「俺も、星の海へと連れて行ってくれ」
「未練はないな?」
その問いに、俺は一瞬だけ言葉に詰まった。
「ない。……とは言い切れん」
俺の脳裏に浮かぶのは、金曜の夜を待つ老人たちの顔。
配信にやってくる若者や男たち。
そして、あの介護施設で「俺より先に死ぬな」と約束した友たち。
「多くの友が、俺には居る。彼らを置いて、俺は本当の星の海へと往こうというのだからな」
それは裏切りではないか。
その迷いを見透かしたように、トチローが割って入った。
「置いていくわけじゃないさ」
トチローは眼鏡をクイッと上げ、悪戯っぽく笑った。
「この
ハッとした。
そうだ。俺は消えるのではない。
長い航海に出るだけだ。
「……フッ、そうだな。違いない」
俺は迷いを捨て、ニヤリと笑った。
「トチロー。……俺のチャンネルの配信を始めてくれ」
『どうするんだ? ハーロック』
iPadの中のAIトチローが問う。
「この星の友に、一時の別れを告げる。……次にこの故郷に帰った時、星の海の土産話をする誓いを立てて、な」
「それで良い。……それでこそ、お前もキャプテンハーロックだ。有明」
本物のハーロックが、満足げに頷いた。
俺はiPadをセットし、配信ボタンを押した。
タイトルは無し。ゲリラ配信だ。
だが、俺の予感では、真の友たちは気づくはずだ。
画面が明滅し、接続が確立される。
「…夜分にすまない」
俺はカメラを見据えた。
その背後には、アルカディア号の計器類が本物の光を放っている。
「今日は、重大な報告がある。……俺は、少し長い旅に出ることにした」
コメント欄がざわめき始めるよりも早く、俺はカメラのアングルを引いた。
画面に映るのは、俺。
そして、その右隣に立つ、生身の大山トチロー。
左隣で腕を組み、不敵に微笑む、本物のキャプテンハーロック。
「……紹介しよう。俺を迎えに来てくれた、魂の兄弟たちだ」
息を呑む気配が、電波を超えて伝わってくる。
「これは永遠の別れではない。……再び会う日までの、一時の別れだ。俺は必ず帰ってくる。銀河の果ての土産話を、山ほど抱えてな」
俺はグラスを掲げた。
ハーロックとトチローも、無言でグラスを掲げる。
「だから友よ、それまで死ぬな。……俺の旗の下で、強く生きろ」
カラン。
三つのコップが触れ合う音が、世界中に響き渡った。
それが、有明のハーロックの、新たなる航海への出港合図だった。
◇◇◇
ネットの海では、憶測と混乱の波が渦巻いていた。
最新技術のプロモーション説、引退のための演出説、あるいは集団幻覚説。
小さな画面に齧りつく現代人たちは、理屈という名の錨を下ろし、不可解な現象を必死に「常識」の範疇に留めようとしていた。
だが──。
「かつての少年少女たち」は、そんな世俗のざわめきなど、鼻で笑って吐き捨てた。
スマホの画面など見る必要はない。
ネットの掲示板など読む価値もない。
なぜなら、彼らはその目で「見た」からだ。
とある老人ホームの窓辺。
消灯時間を過ぎた暗い部屋で、車椅子の老人が、ガラスに額を押し付けるようにして夜空を見上げていた。
「……行ったか」
老人の目が捉えたのは、街の灯りではない。
夜空の闇よりもさらに深く、重厚な、巨大な緑の影。
それは音もなく上昇し、星々を隠しながら、悠然と天頂へと向かっていった。
その船尾楼には、はためくドクロの旗が見えた。
艦橋の窓からは、温かな光が漏れていた。
あそこに、彼らがいる。
有明のハーロックと、本物のキャプテンと、そして親友トチローが。
「……ふふ、ふふふ」
老人は、子供のように笑った。
幻覚だと笑わば笑え。夢だと断じたくば断じるがいい。
だがあのエンジンの振動は、確かにこの胸の鼓動と共鳴したのだ。
「……土産話か。大きく出たもんじゃ」
老人は、窓ガラスに映る自分の顔を見た。
シワだらけで、痩せこけた顔。
だが、その目は死んでいない。
『俺より先に死ぬなよ? 男の約束だぞ』
その言葉が、楔のように魂に打ち込まれている。
「……ああ、死なんよ」
老人は、窓の向こうへ、震える手で敬礼を送った。
「お前さんが帰ってくるまで、わしはここで旗を守る。……リハビリも、クソ不味い薬も、全部飲み込んでやるわい」
別の場所では、かつての少女だった老婦人が、ベランダで夜風に吹かれながら、空を見上げていた。
彼女の手には、赤いワインが入ったグラス。
「……いってらっしゃい。私の海賊さんたち」
彼女にも見えていた。
星の海へと溶けていく、三つの魂の軌跡が。
ネットがどれだけ騒ごうと、世間がどう分析しようと、関係ない。
彼らは知っている。
有明のハーロックは、ちょっとそこまで、銀河の果てへ冒険に出かけただけだ。
だから、待つ。
明日も、明後日も。
命を燃やして、生き続ける。
次に彼が「よう、待たせたな」と帰ってきた時、「遅いぞ、この馬鹿野郎」と笑って迎えるために。
その夜、日本中のあちこちで、数多の老人や中年たちが夜空を見上げ、静かに、しかし力強く誓いを立てた。
それは、自由の旗の下に集った乗組員たちによる、無言の、そして永遠の契約だった。
◇◇◇
暗黒の宇宙に、蒼い宝石が浮かんでいた。
船尾楼の手すりを握りしめる俺の手は、震えていた。
恐怖ではない。武者震いでもない。
ただ、あまりにも美しいその星の輝きに、魂が共鳴していたのだ。
幼い頃、ブラウン管の中で見た鉄郎は、999の窓からこの景色を見たのだろうか。
だが、今の俺の足元にあるのは、客車の床ではない。
分厚い装甲と、未知の金属で鍛え上げられた、戦艦の甲板だ。
俺は、頬を伝う熱い雫を、マントの袖で乱暴に拭った。
「……泣くな。……笑え」
俺は自分に言い聞かせる。
涙は、あの青き地に置いてきた。
今の俺は、有明のハーロックではない。
宇宙海賊キャプテンハーロックの、一人の乗組員だ。
旗を掲げて海に出る男が、湿っぽい顔をしていてどうする。
喉の奥から、旋律が漏れた。
「ラララーラ、ララララ~……」
風のない宇宙空間で、しかし心の耳には確かに風切り音が聞こえる。
その風に逆らうように、俺は腹の底から声を出す。
「ラララーラ、ララララ~……」
惑星ラーメタルで、機械化人の支配に抗い、命を賭して戦うパルチザンたちの歌。
悲しく、けれど力強い、抵抗と自由への讃歌。
トチローが生きているこの時代、まだ鉄郎の旅は始まっていないかもしれない。
あるいは、別の時間の流れかもしれない。
だが、そんな理屈はどうでもよかった。
今、地球を背にして、明日なき闇へと舵を切る俺の心には、この歌しかなかった。
俺の歌声は、アルカディア号の重力フィールドに守られ、船尾楼に朗々と響き渡る。
コツ、コツ……。
背後で足音がした。
振り返らなくても分かる。
本物のキャプテンと、親友だ。
彼らは俺の歌を止めなかった。
「何の歌だ?」とも聞かなかった。
ただ、俺の隣に並び、手すりに肘を預け、遠ざかる蒼い星を共に見つめた。
ハーロックが、俺の歌に合わせて、指先で手すりを軽く叩くリズムを刻む。
トチローが、懐から出したオカリナを口に当て、即興で俺の旋律にハモリを乗せる。
言葉はいらない。
歌うことで、俺は恐怖を勇気に変え、未練を覚悟に変えた。
三人の男の背中が、蒼い光に照らされてシルエットになる。
やがて、アルカディア号のエンジン音が一段と高くなり、周囲の星々が線となって後方へと流れ去り始めた。
地球が、小さくなっていく。
俺の愛した、友の住む星。
俺は歌い終え、深く息を吸い込んだ。
その空気は、冷たく、そしてどこまでも自由な匂いがした。
「……往くぞ、有明」
ハーロックが、ニヤリと笑って俺の肩を叩いた。
「ああ。……ヨーソロー!」
俺はマントを翻し、前を向いた。
もう、振り返らない。
この背中には、数多の友との約束という、何よりも重く、そして誇り高い錨が乗っているのだから。
俺たちの旅は、今、ここから始まる。