深緑の巨体には、無数の傷が刻まれていた。
それは敗走の傷ではない。
猛獣が獲物の喉笛を食い破る際に負った、名誉ある闘争の爪痕だ。
宇宙海賊キャプテンハーロックの座乗艦、アルカディア号。
その雄姿が、ネオアルカディア号の横腹に静かに接舷する。
揺らぎはない。
エンジンは不整脈一つ起こさず、堂々たる威厳を保ったまま、傷ついた身体を弟分である若草色の巨艦に預けた。
「……酷い傷だ」
ネオアルカディア号のハッチから飛び出した数万の修復ドローンたちが、悲鳴にも似た駆動音を上げて殺到する。
AIトチローの指揮の下、かつての少年たちの魂が宿るドローンは、敬愛する「オリジナルのアルカディア号」を癒やすべく、懸命な作業を開始した。
だが、鋼鉄の傷は直せても、生身の体に刻まれた死の刻印は、ドローンにも、最新医療にも消すことはできない。
ネオアルカディア号、船尾楼・艦長室。
重厚なマホガニーのデスクを挟んで、二人のハーロックが対峙していた。
海賊国家船団の長となった有明と、孤高の海賊として生きるハーロック。
久しぶりの再会。だが、そこに祝祭の空気はない。
ミーメが音もなく近づき、二つのグラスに赤ワインを注ぐ。
血のように濃く、そして静かな液体。
「……機械帝国の新型艦か」
有明が問うと、ハーロックは短く頷いた。
「ああ。……奴らも必死だ。だが、沈めた」
「そうか」
短いやり取り。
そして、ハーロックはグラスを見つめたまま、最も重い事実を告げた。
「……戦闘の最中だ。機関部の装甲板が剥がれ落ちた」
ハーロックの声は、微塵も震えていない。
だが、その響きの奥底に、深淵のような悔恨が渦巻いているのを、有明は感じ取った。
「その向こうに……トチローがいた」
「……ッ」
有明が息を呑む。
「気密シールドと重力制御が生きていたおかげで、宇宙空間への放出は免れた。……だが、遮蔽を失った生身の体に、至近距離で宇宙放射線の嵐を浴びた」
ハーロックは、有明の目を真っ直ぐに見据えた。
「……発症は免れん。宇宙放射線病だ」
それは、宣告だった。
現代の医学でも、未来の超科学でも治療不可能な、細胞レベルでの崩壊。
松本零士の世界において、数多の英雄を葬り去ってきた、静かなる死神。
有明は、言葉を探した。
だが、口をついて出たのは、短く、重い肯定だけだった。
「……そうか」
以前、有明はハーロックに告げた。「運命に抗う」と。
だが、今、彼は悟っていた。
「運命」とは、変えられるものだ。
明日どちらへ舵を切るか、誰を愛し、誰と戦うか。それは不確定な未来であり、意思の力でねじ伏せることができる。
だが、「宿命」は違う。
それは魂に定められた、逃れ得ぬ道筋。
大山トチローという男が、肉体の檻を捨て、アルカディア号という永遠の翼を得るために通らねばならない、必然の儀式。
それが今、始まったのだ。
「……あいつは、笑っていたよ」
ハーロックが、ふっと表情を緩めた。
「『かすり傷だ』とな。……自分の身体のことは、自分が一番よく分かっているはずなのにな」
「……トチローらしいな」
有明もまた、苦笑交じりに頷いた。
あの天才が、自分の余命を計算できないはずがない。
それでも笑うのは、友に心配をかけまいとする優しさか、あるいは自分の魂の行く末を予感しているからか。
ミーメが、悲しげに、しかし慈愛に満ちた瞳で二人を見つめている。
彼女もまた、この宿命の証人だ。
有明はグラスを持ち上げた。
震えはない。
友の死を嘆くには、まだ早い。
今はただ、限りある時を全力で生き抜く親友の、その命の輝きに敬意を表するだけだ。
「……友へ」
「……友へ」
カチン。
硬質な音が、静寂な部屋に響き渡る。
二人のハーロックは、互いのグラスを打ち鳴らし、手向けの一口を飲み干した。
そのワインの味は、どこまでも深く、そして切ないほどに芳醇だった。
窓の外では、修復を終えつつあるアルカディア号が、以前よりも増した威容で星の海に浮かんでいる。
その心臓部で、まだ生きているトチローが、ハンマーを振るっている音が聞こえる気がした。
残された時間は、長くない。
だが、その一瞬一瞬が、永遠に刻まれる伝説となることを、二人の男は知っていた。
◇◇◇
深緑の巨艦と、若葉色の巨艦。
二つのアルカディア号が、並んで星の海を往く。
それはエスコートではない。
これは、ある一人の男の、生身としての最期の旅路に付き添う、魂の同道だ。
有明のハーロックは、舵輪を握りしめ、隣を行くアルカディア号を見つめ続けた。
その艦橋の奥、機関室か、あるいは工作室か。
そこにいるはずの親友・大山トチローの、残り少ない命の鼓動を、船体越しに感じ取ろうとするかのように。
「……邪魔をするな」
有明が低く唸る。
レーダーには、無数の敵影。
ここぞとばかりに湧いて出た、機械帝国やゾアーク帝国の艦隊だ。
彼らは、たった二隻の海賊船を見て、格好の獲物だと思ったのだろう。
「……俺たちは今、友を送る旅の途中だ。……貴様らごときに構っている時間はない」
有明の怒気が、ネオアルカディア号のシステムと共鳴し、全砲門が火を噴くよりも早く、殺気となって宇宙空間へ迸る。
「消えろ、羽虫ども!!」
それは戦闘ではなかった。一方的な蹂躙であり、神罰だった。
ネオアルカディア号とアルカディア号。
二隻のドクロ艦は、阿吽の呼吸で回頭し、交差し、全火力を叩き込む。
パルサーカノンが敵艦を原子レベルで分解し、波動カートリッジ弾が要塞を粉砕する。
鬼神の如き武威。
友との別れを惜しむ時間を邪魔された男たちの怒りは、銀河の物理法則さえもねじ伏せ、敵艦隊を瞬く間に宇宙の塵へと変えた。
爆炎を突き抜け、二隻の船は速度を緩めることなく進む。
目指すは、赤い砂の惑星ヘビーメルダー。
その聖地、ガンフロンティア山の麓。
◇◇◇
赤茶けた大地に、巨大な影が二つ落ちる。
その先にあるのは、かつてハーロックとトチローが最初に乗り、星の海を旅した船。
大地に埋もれるようにして眠る、青き巨体。
次元航海惑星間航行用巨大戦艦・デスシャドウ号。
その姿は、まるで墓標のようであり、同時に、来るべき主を静かに待つ忠犬のようでもあった。
アルカディア号が着陸し、ハッチが開く。
降り立ったのは、ハーロックと、そして大山トチロー。
トチローの足取りは、心なしか重い。だが、その顔にはいつもの人懐っこい笑みが浮かんでいた。
有明もまた、ネオアルカディア号から降り立ち、二人の元へと歩み寄る。
「……ここが、終着駅か」
有明が問うと、トチローはデスシャドウ号を見上げ、眼鏡を直した。
「ああ。……悪くない場所だ。静かだし、何より俺の最初の『息子』がいる」
トチローは、自分の体を指差した。
「この体は、もう長く持たん。……だが、俺の研究はまだ終わっちゃいない。コイツの中で、最後の仕上げをするさ」
それは、アルカディア号の中枢大コンピューターへの魂の移植理論の完成であり、そして何より──。
「……待つんだよ。あいつを」
トチローは、空を見上げた。
いつか、銀河鉄道999に乗ってやってくるであろう、戦士の銃を受け継ぐ少年、星野鉄郎を。
彼にすべてを託し、そしてハーロックと共に永遠の旅に出るために。
「……そうか」
有明は、こみ上げる熱いものを飲み込み、トチローの手を握った。
「……達者でな、トチロー」
「へへっ、お前さんもな、有明。……俺の分身を、よろしく頼むぜ」
「ああ。……任せておけ」
そして、本物のハーロックとトチローが向き合う。
言葉はない。
ただ、互いの目を見て、強く頷き合うだけ。
それが、彼らの別れの儀式だった。
トチローは背を向け、デスシャドウ号のハッチへと歩き出した。
その背中は小さく、ずんぐりとしているが、この宇宙の誰よりも巨大に見えた。
ハッチが閉ざされる。
もう二度と、生身の彼と酒を酌み交わすことはない。
ここから先は、彼一人だけの戦いであり、宿命の時間だ。
「……行くぞ、有明」
ハーロックが、空を見上げて言った。
その横顔は、悲しみを超越した、冷たくも熱い決意に満ちていた。
「ああ。……往こう、ハーロック」
二人のハーロックは、大地に眠る友と、その揺りかごとなるデスシャドウ号に背を向け、それぞれの船へと戻る。
別れではない。
魂が、新たな形へと転生するための準備期間に入っただけだ。
ヘビーメルダーの風が、ドクロの旗を揺らす。
物語は、約束された未来へと向かって、静かに、しかし確実に進み始めていた。
◇◇◇
海賊国家船団有明の中枢、巨大交易艦の特設ドック。
そこには今、二隻の伝説的な戦艦が翼を休めていた。
一隻は、若葉色の輝きを放ち、1億の民の生活と希望を背負って稼働し続けるネオアルカディア号。
そしてもう一隻は、その隣で深く、重い沈黙を守る深緑の巨艦、アルカディア号。
ヘビーメルダーでの別れを経て、オリジナル・アルカディア号は主であるキャプテンハーロックと共にこの船団へ一時帰港していた。
だが、その機関部はアイドリング状態にあり、まるで何かを──いや、誰かをじっと待ち続けているかのような静寂を纏っていた。
『……心配するな。親父殿は、必ず帰ってくる』
ネオアルカディア号の中枢から、AIトチローの声が響く。
彼は今、データリンクケーブルを通じて、隣に眠るアルカディア号の中枢コンピューターへとアクセスしていた。
それは、ハッキングではない。
留守を預かる「叔父」が、あるいは電子の世界で生まれた「もう一人の父」が、まだ魂の入っていない空っぽの「息子」の手を握り、添い寝をしてやっているかのような、温かな接続だった。
『計器正常。回路のバイパスも良好だ。……いつでも、魂を受け入れられる』
AIトチローは、未来の自分が宿るべき場所を、完璧に整え続けていた。
生身のトチローが、デスシャドウ号の中で最期の時を過ごしている間、この船の心臓が冷えてしまわないように。
来るべき「覚醒」の時まで、その命の火を電子の薪で支え続ける。
それが、彼にできる友情の証だった。
◇◇◇
一方、船団の外縁にある銀河鉄道専用ステーションでは、また一つの歴史的な整備が行われていた。
シュウウウウ……。
蒸気を吐き出し、停車しているのは、黒鉄の巨体。
銀河超特急999号。
だが、今回の999には乗客がいない。客車の窓は暗く、静まり返っている。
これは「上り・回送列車」。
アンドロメダから地球へ。
これから始まる長い旅の主人公──星野鉄郎という少年を迎えに行くために、始発駅へと向かう途中の姿だ。
「……丁寧にやれよ! これからが本番なんだ!」
「分かっとるわい! 車輪の歪み一つ、見逃すな!」
ドローンに宿った元国鉄マンの魂たちが、神聖な儀式のように整備を進める。
彼らは知っているのだ。
この列車が地球に辿り着いた時、メガロポリスのステーションで、一人の少年と謎の美女が待っていることを。
そして、壮大な旅が幕を開けることを。
だからこそ、万全の状態で送り出さねばならない。
ネジ一本の緩みも許されない。
これは、物語のプロローグを紡ぐための、裏方たちの誇り高き仕事だ。
整備完了のベルが鳴る。
有明のハーロックは、プラットホームの端で、腕を組んでその時を待っていた。
「……行くか」
無人の999号。
だが、その機関車には確かな意志が宿っているように見えた。
C62-48が、蒸気を高らかに噴き上げる。
ポオォォォォォォォォォォォッ!!
長く、太く、そしてどこか決意に満ちた汽笛。
それは、単なる出発の合図ではない。
時代の歯車が大きく回り始め、運命の幕が上がる音だ。
「……往け、999。少年が待っている」
有明はマントを翻し、静かに敬礼した。
動き出した列車は、光のレールに乗って加速し、あっという間に星の彼方へと消えていく。
その行き先は、地球。
機械化人の支配に苦しみながらも、母の仇を討つために瞳を燃やす少年がいる場所。
海賊国家船団有明は、その軌跡を見送りながら、再び星の海を往く。
物語は続く。
それぞれの場所で、それぞれの命が燃え上がるその時まで。