有明のハーロック   作:星乃 望夢

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第3話

 

都市部のマンションの一室、あるいは地方の持ち家、書斎、あるいは寝静まったリビング。

 

そこには、ヘッドフォンを深く被り、あるいはこだわりのオーディオ機器のボリュームを絞って、モニターと対峙する男たちの姿があった。

 

彼らの手元には、焼酎、ビール、あるいは少し奮発したウイスキー。

 

モニターの中には、モノクロのハーロックと、流れるコメントの滝。

 

若者たちのコメントは速い。

 

「草」「尊い」「てえてえ」──独特の言語感覚で交わされるチャットの流れに、彼らはついていけない。キーボードを叩く指は重く、老眼の混じった目では読むのさえ精一杯だ。

 

だが、疎外感はない。

 

なぜなら、船長が何も喋らず、ただグラスを傾けているからだ。

 

カラン……。

 

配信から聞こえる氷の音が、自分の手元のグラスの音と重なる。

 

その瞬間、彼らの部屋は日本の片隅ではなく、宇宙戦艦アルカディア号になる。

 

一人の男が、マウスに手を伸ばした。

 

コメントは打たない。打てない。

 

その代わりに、彼は「¥10,000」のボタンをクリックする。

 

画面上に赤い帯が流れる。

 

派手なアニメーションも、騒がしい通知音もない。

 

あなたはその設定を切っている。

 

男はそれで満足だった。

 

もしここで「〇〇さん、赤スパありがとう!」などと甲高い声で言われたら、魔法は解けてしまう。

 

これは「投げ銭」ではない。

 

馴染みのバーで、何も言わずにマスターの前に紙幣を置くような、あるいは戦友の酒代を黙って持つような、「大人のチップ」なのだ。

 

画面の中で、その赤い帯が流れたのを見て、ふっと小さく息を吐いたように見えた。

 

そして、また一口、酒を飲む。

 

(……受け取ってくれたか)

 

男はモニターに向かって、無言でグラスを掲げ返す。

 

言葉はいらない。

 

その「沈黙」こそが、金で買える最高級のサービスだった。

 

酔いが回り、ハーロックの時折漏らす「……星が綺麗だ」という独り言が、ボディブローのように効いてくる。

 

気がつけば、男の目から涙が溢れていた。

 

会社での理不尽な叱責、家庭での居場所のなさ、老いていく自分の体への不安。

 

それらが、アルカディア号のエンジン音に溶けていく。

 

「うぅ……ぐす……」

 

いい歳をした大人が、暗い部屋で一人、嗚咽を漏らす。

 

誰にも見られない、自分だけの城。

 

そこだけは、彼は「疲れた課長」ではなく、「少年の心を持った海賊」に戻れるのだ。

 

モニターの向こうには、同じように涙を流し、同じように無言でスパチャを投げる「友」たちが何百人もいる。

 

彼らが支えるこの静かな船は、現代のインターネットの海において、もっとも居心地の良い海賊船だった。

 

 

◇◇◇

 

 

「……ねえ、これ。マジで何も喋らないんだけど」

 

スマホの画面を凝視しながら、パジャマ姿の女子大生が呟く。

 

画面には、モノクロのハーロックの静止画と、凄まじい勢いで流れる赤スパの滝。

 

「でしょ? でも、音量上げてみて。……聞こえるから」

 

通話の向こうで答えたのは、初日に「西の隅」でたまたま彼を見かけたひとりだ。

 

彼女は、あの場所の異様な空気に惹かれてセットを購入し、その夜にASMRを聴いて撃沈していた。

 

カラン……。

 

スピーカーから、氷の音が響く。

 

その瞬間、通話に参加していた4人の女子たちが、一斉に「はぁ……っ」とため息をついた。

 

「待って、今の氷の音だけでなんでこんなに色気あるの? 無理」

 

「わかる。今の配信者ってさ、『スパチャありがとー!』とか『〇〇ちゃん好き!』とかうるさいじゃん? この人、ガチで無視してるよ」

 

「無視じゃないよ。……『受け入れてる』の」

 

 2日目の防災公園での出来事を思い出しながら語る。

 

「私、あの時近くにいたんだよね。カメコのおじさんたちがさ、いつもならローアングルとか狙ってくるような人たちが、あの日だけはカメラ構えたままボロボロ泣いてんの。で、このハーロック様、なんて言ったと思う? 『撮りたいヤツは、俺の船に乗れ』だよ? 私、震え止まらなくて、更衣室戻ってからもドキドキしてた」

 

トクトク……。

 

スコッチを注ぐ音がする。

 

「あ、また飲んだ」

 

「ねえ見て、今のコメント。『今夜の酒は涙の味がする』だって。おじ構文なのに、全然キモくない。むしろ詩的」

 

「わかる……。ここのリスナー、民度がダンディすぎる」

 

彼女たちの知る「推し活」は、リプライを送って認知をもらったり、ハートを飛ばしたりすることだ。

 

しかし、この配信にはそんなチャラついた空気は微塵もない。

 

あるのは、傷ついた男たちが、ただ静かに傷を舐め合い、明日の活力を得るための厳粛な儀式。

 

ひとりが、大事そうに抱えていたASMRのCDケースを撫でながら言った。

 

「このCDもね、なんか『彼女』とか『恋人』扱いじゃないの。『友』なの。『辛いなら、俺の背中で眠れ』って言われるんだけど……なんか、パパより安心感あるっていうか、絶対裏切らないってわかる声なの。私、就活で祈られまくって死にたかったけど、これ聴いてガチ泣きして、なんかスッキリしちゃった」

 

画面の中では、また無言で高額のスパチャが飛ぶ。

 

ハーロックは、ただ「……ふっ」と短く息を吐き、またグラスを傾ける。

 

媚びない。

 

愛想を振りまかない。

 

それが、逆に彼女たちの「乙女心」と「本物志向」に深く刺さっていた。

 

「……あたし、決めた。来年の冬コミ、ハーロック様の隣にいても恥ずかしくない『ミーメ』か『有紀螢』やる。絶対仕上げていく」

 

「あ、ずるい! 私もやる!」

 

「てか、スパチャ投げたいけど……なんかあたしたちが投げたら空気壊しそうじゃない?」

 

「そうなんだよね……。ここは『おじ様たちの聖域』って感じがして。私たちがキャーキャー言う場所じゃない」

 

「だから、これよ」

 

ただ静かに、コメント欄に一言だけ打ち込んだ。

 

> User Saki: お疲れ様です、キャプテン。

絵文字も、顔文字もない。

 

ただの敬礼のような挨拶。

 

それが、彼女たちなりの精一杯の「乗船」の意思表示だった。

 

配信から聞こえるハーロックの声が、不意に呟く。

 

「……夜風が、少し優しいな」

 

その一言で、女子たちは再びベッドの上で身悶え、そして静かに枕に顔を埋めた。

 

「……尊い」

 

「……ガチ恋とかじゃないの。なんか、神?」

 

「わかる。拝みたい」

 

有明のハーロック。

 

その「背中」は、かつての少年たちだけでなく、現代の疲れや不安を抱える少女たちの心さえも、その黒いマントで優しく包み込んでいた。

 

 

◇◇◇

 

 

「おい、これ見ろよ。Twitterでバズってる『有明のハーロック』」

 

FPSゲームのマッチング待ち時間。

 

大学生のひとりが、軽い気持ちで通話にURLを貼った。

 

「なんだこれ、静止画? 放送事故?」

 

「同接5000人超えてるのに、主が喋らねえぞ」

 

「スパチャ飛び交ってるのに完全無視じゃん。配信者として終わってね?」

 

友人たちが口々に笑う。

 

彼らが普段見ているのは、絶叫し、台パンし、スパチャには過剰に反応して「ナイスパ!」と叫ぶ、刺激的なストリーマーたちだ。

 

この、BGMもなく、ただ氷の溶ける音と、時折聞こえる吐息だけの配信は、彼らの常識からすれば「放送事故」以外の何物でもなかった。

 

だが。

 

『……焦るな。』

 

不意に、重低音がヘッドセットのドライバーを震わせた。

 

「うおっ!?」

 

「え、何この声……イケボとかそういうレベルじゃなくね?」

 

「ウーハー響いたわ」

 

ハーロックが、まるで彼らのゲームの焦燥を見透かしたかのように、ゆっくりと言葉を続ける。

 

『星は逃げない。……己の進路(みち)を見失わなければ、必ず辿り着く』

 

カラン……。

 

グラスの氷が鳴る音。

 

その瞬間、Discordの通話から、ふざけた笑い声が消えた。

 

誰も「草」とも「ワロタ」とも言わない。

 

マッチングが完了した音が鳴ったが、誰も「承諾」ボタンを押さなかった。

 

「……なぁ」

 

一人が、ポツリと言った。

 

「なんかさ……この声、親父思い出したわ」

 

「……あー」

 

その一言が、全員の胸にストンと落ちた。

 

彼らは「昭和のハーロック」を知らない。

 

松本零士という名前さえ、教科書で見たことがある程度だ。

 

だが、この声のトーンには覚えがあった。

 

まだ自分たちが幼かった頃。

 

父親がまだ若く、背中が大きく見えた頃。

 

仕事から帰ってきて、晩酌のビールを飲んで、「お前は男なんだから泣くな」と頭を撫でてくれた、あの時の声。

 

あるいは、厳格で怖かったけれど、絶対に家族を守ってくれると信じられた、あの絶対的な「強者」の声。

 

現代の父親たちは優しい。あるいは、疲れ切っている。

 

ネットの大人たちも、炎上を恐れて言葉を選び、媚びている。

 

だが、この「ハーロック」は違う。

 

誰にも媚びず、誰の機嫌も取らず、ただ「個」としてそこに立っている。

 

「なんか……怒られたくなった」

 

別の友人が呟く。

 

「わかる。なんか、この人に『馬鹿野郎』って言われたら、すげえ安心する気がする」

 

「俺、就活でメンタル死んでたけど……なんか、これ聴きながら寝るわ」

 

「俺も。……スパチャって、どうやるんだっけ」

 

若者たちは、ゲーム画面を閉じた。

 

そして、それぞれの暗い部屋で、じっとモニターを見つめる。

 

チャット欄には、彼らの父親世代とおぼしき「おじさん」たちが、短い言葉で酒を酌み交わしている。

 

普段なら「加齢臭がする」と敬遠するその空間が、今夜だけは、憧れの「カッコいい大人たちの秘密基地」に見えた。

 

『男なら、黙って飲め…』

 

ハーロックが短く呟く。

 

「……はい」

 

画面の前で、缶コーラを握りしめた大学生が、思わず居住まいを正して返事をした。

 

彼らはコメントを打たない。

 

おじさんたちの邪魔をしてはいけないという若者なりのリスペクトと、この心地よい緊張感を壊したくないという思いからだ。

 

ただ、若き男たちは学んだのだ。

 

承認欲求にまみれたネットの海に、たった一隻だけ、本物の「男」が乗る船があることを。

 

そしてその船長の声は、彼らが心の奥底でずっと求めていた、「理想の親父」の声であることを。

 

 

◇◇◇

 

 

有明のハーロックの配信は口コミの様に拡がっていった。

 

彼は自らのチャンネルの宣伝はしない。

 

彼の配信に訪れた者が知り合いを呼んだり、YouTubeのオススメ画面に載ったのを偶然開いたりと。

 

アーカイブを残しているのでいつでも配信を追えるようになっているが、生配信は金曜日の夜に行われるようになった。

 

Twitterも積極的な更新はしない。

 

ただ今日配信するかしないか程度の華も何もないツイートばかりだ。

 

ただそれでもやって来る来場者はあとを絶たない。

 

それは家に居ながら静かなBarで過ごせる様な雰囲気も好まれているが、やはりかつて少年たちだった彼らが同じ様に日常に疲れている友を誘って憩いに来るのだ。

 

そして今宵もまた、週末の金曜日の夜に「有明のハーロック」は放送を始める。

 

そこが家で、星の海を往くアルカディア号の船内や船尾楼の船長室。

 

或いは聴く者が知っていればトレーダー分岐点がある惑星ヘビーメルダーの小さなBarとなっていた。

 

 

 

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