有明のハーロック   作:星乃 望夢

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第48話

 

艦内を貫く無機質な灯りの下、鉄郎の歩みは突如として凍りついた。

 

視界の先に佇むその人影は、一瞬、メーテルの幻影と重なったが、発せられた声がその認識を根底から覆したのである。

 

「お久しぶり、鉄郎さん」

 

その一言が、鉄郎の脳裏に封じ込めていた記憶の奔流を呼び覚ました。

 

あまりにも鮮烈な、そして残酷な自己犠牲の反復。

 

惑星メーテルの暗黒。999の狭隘な通路。

 

頸部を締め上げられ、死の淵を彷徨ったあの感覚。

 

そして、自分を救うために砕け散ったガラスの身体が奏でた、あの乾いた最期の音。

 

車掌の手によって静かに宇宙の深淵へと還された、光の破片。

 

戦士として生きる鉄郎の魂に刻まれたその光景を、忘却することなど許されるはずもなかった。

 

「……クレア……さん」

 

絞り出した声は、極限の戦場を潜り抜けてきた男のそれではなく、ただひたすらに再会を信じられぬ子供の如く震えていた。

 

眼前の一歩を踏み出した彼女の足取りは、幽霊のような不確かさも、幻影のような揺らぎもない。

 

重力に導かれ、確かな意志を以て床を踏みしめていた。

 

彼女は穏やかに語った。

 

身体は砕け散ったが、その魂は肉体は滅びてなお夢を忘れていない魂の拠り所、海賊国家船団・有明に宿っていたのだと。

 

死を以て終局とせず、魂の在り方さえも略奪し、本人へと還元するこの場所の理法。

 

「また、生身の身体に戻れると聞いて」

 

クレアの表情に宿ったのは、単なる郷愁ではない。

 

一度「永遠」に近しい身体を失った者が、ふたたび「限りある生」を望んだ者のみが持つ、峻烈なる覚悟の影であった。

 

「私は、戻ったの。……温かさを、もう一度ちゃんと知りたくて」

 

彼女が鉄郎の胸へと飛び込んだ瞬間、物理的な衝撃と共に「温度」が伝播した。

 

機械の冷徹な感触でも、ガラスの無機質な硬質さでもない。

 

拍動する心臓が送り出す、柔らかな熱。

 

それは、かつて宇宙の塵となった彼女が決して手にすることのできなかった、生ける者の証であった。

 

鉄郎は当初、その身体に触れることさえ躊躇した。

 

強く抱きしめれば、ふたたびあの時のように砕けてしまうのではないか。

 

光の破片となって、自分の指の間から零れ落ちてしまうのではないか。

 

しかし、腕の中に在る彼女は消えず、砕けず、確かな質量を以てそこに存在していた。

 

「クレア……」

 

鉄郎は、慎重に、そして徐々に力を込めて抱きしめ返した。

 

喉の奥で詰まる言葉は、もはや「恩人」といった既存の概念では収まりきらぬ熱量を帯びていた。

 

クレアは、かつて999の客室内で見せたあの慈愛そのままに、鉄郎の背を撫でた。

 

「泣いてもいいのよ、鉄郎さん。……誰も『泣くな』なんて言わない場所でしょう?」

 

鉄郎の呼気は激しく震え、頬を伝う熱い雫が彼女を濡らした。

 

「ただいま、鉄郎さん」

 

肩口に額を預け、囁かれたその言葉。

 

それは、長い旅路の終着点と、新たな航路の始まりを告げる合図であった。

 

「……おかえり、クレア」

 

若き戦士と、再生した少女。

 

二人の抱擁は、不変であったはずの悲劇を書き換えた、自由の旗の下での勝利の証であった。

 

 

◇◇◇

 

 

クレアと鉄郎の抱擁は、無機質な通路の灯光に溶け込み、そこだけが柔らかな輪郭を描いていた。その親密な光景を、通路の曲がり角から見つめる影があった。

 

青き銀髪を揺らし、慣れぬ生身の肺腑で懸命に呼吸を刻む者──メタルメナであった。

 

彼女はただ、鉄郎の名を呼ぶためにこの場所を訪れた。しかし、その足は地を縫い付けられたかのように動かない。機械の身体では決して知ることのなかった「鼓動」という名の雑音が、今は悲鳴のごとき喧騒を以て、彼女の胸中を急き立てていた。

 

(……綺麗だ)

 

それは羨望でも憧憬でもなく、より峻烈で、より救いのない感情──嫉妬であった。

 

自分よりも先に、少年と出逢い。

自分よりも先に、少年の命を救い。

自分よりも先に、少年のためにその身を砕いた。

 

その「先駆者」としての温もりの中心に立つクレアの姿が、メタルメナには眩しすぎたのである。

 

己の過去にある醜い野心を思い返し、呼吸が苦化するのを感じた彼女は、自らの内に再び冷酷な機械の心が芽生えるのを恐れ、背を向けようとした。

 

だが、その刹那。

 

「……いらっしゃい」

 

背後から届いたのは、慈愛に満ちた柔和な声であった。

 

メタルメナの肩が微かに震える。振り返れば、そこには目尻に涙の痕を留めながらも、一点の曇りもない瞳でこちらを見つめるクレアの姿があった。

 

「あなたも、鉄郎さんのお友達でしょう?」

 

その問いに対し、メタルメナは言葉を継ぐことができなかった。かつて「奪う」ことのみを存在意義としていた自分が、あのような清廉な魂の隣に立つ資格などない。そう自嘲する彼女の内心で、乙女の火が羞恥と痛みに身を縮めていた。

 

「メタルメナ……」

 

鉄郎の声が重なる。クレアの腕の中から自分を呼ぶその瞳には、まだ先ほどの涙の雫が光っていた。

 

メタルメナは掠れた声で、どうにかその名を呼び返した。生身の喉は、溢れ出す感情を制御できぬほどに脆かった。

 

次の瞬間、躊躇するメタルメナの手を、クレアが迷いなく取った。掌から伝わるのは、演算回路ではシミュレートし得ぬ「生命の温度」そのものであった。

 

「大丈夫」

 

クレアは、当然の理を説くかのように微笑んだ。

 

「ここではね、『間に合わなかった』という痛みも、等しく抱えていいのよ」

 

クレアはそのままメタルメナを引き寄せ、鉄郎ごと、その小さな輪の中へと包み込んだ。

 

胸元に伝わる確かな圧迫。それは、過ちを責めず、孤独を許さぬ、慈母のごとき抱擁であった。

 

硬直していたメタルメナの身体から、緩やかに力が抜けていく。鉄郎の身体の震えが、クレアの熱を通じて自分の胸へと伝播してくる。

 

(……これが、友達)

 

その概念が、ようやく彼女の魂の深淵に定着した。メタルメナの瞳から、冷却液ではない、まぎれもない涙が溢れ出した。

 

「……私、怖かったの。あなたが眩しくて……鉄郎さんのために、純粋に『好き』でいられるあなたが……。私は、ずっと欲しいものばかりを求めて……」

 

独白を、クレアは抱きしめたまま静かに受け止めた。

 

「うん。知っているわ」

 

鉄郎もまた、涙に濡れた顔で小さく笑った。

 

「……それでも、ここに来てくれたじゃないか」

 

その一言が、メタルメナの心を縛っていた最後の鎖を断ち切った。

 

生身の身体で流す涙は、熱く、そして恥ずかしいほどに人間臭い。だが、彼女はそれを拒まなかった。

 

クレアは二人を抱きしめたまま、聖歌を口ずさむような静けさで囁いた。

 

「ようこそ。ここはね──『誰かの温もり』を、正当に取り戻していい場所なのよ」

 

三人の呼吸が、重なり、一つのリズムへと収束していく。それは不器用で、遅く、不確かな歩み。だが、確かに同じ「生」の旋律を刻んでいた。

 

その小さな抱擁の輪の中で、メタルメナの胸に灯った火は、もはや嫉妬の炎ではなかった。それは、泣きながらも明日を信じ、微笑むことができる、優しき「人間」の熱へと変貌を遂げていたのである。

 

 

◇◇◇

 

 

三人の呼吸が整い、流された涙が「現在」という生の証へと昇華されたその瞬間、静寂を破る乾いた衝撃が走った。

 

ミャウダーが放った容赦なき一撃が、鉄郎の臀部を直撃したのである。

 

「いってぇ!? ……な、何すんだよ!」

 

憤慨して振り返る鉄郎の視線の先には、腕を組み、悪童のごとき不敵な笑みを浮かべたミャウダーが立っていた。

 

「この色男め。夜道は背後に気をつけろよ、兄弟。刺されても文句は言えねえぞ」

 

「い、いろ……ち、違う! 俺は、その……!」

 

狼狽し、言葉を失う鉄郎の姿に、メタルメナはわずかに口元を緩めた。クレアは鈴を転がすような笑声を漏らし、通路に漂っていた重苦しい感傷は、一瞬にして霧散した。

 

鉄郎の胸中には、今なおメーテルの面影が揺るぎない道標として存在している。しかし、眼前の二人が向ける情愛が、単なる友情の範疇に収まらぬものであることも、今の彼は否定し得なかった。赤らむ頬を隠す術もなく、彼はただ唇を噛みしめる。

 

クレアが静かに一歩を踏み出し、その戸惑いさえも包み込むように囁いた。

 

「鉄郎さん。大丈夫よ」

 

その声は、何一つとして彼を責めず、ただ「今、ここに共に在る」という事実を全肯定していた。

 

メタルメナもまた、生身の肺腑で深く息を吐き、静かに頷いた。

 

「……私たちは、急がないわ」

 

その一言が、鉄郎の背に強張っていた緊張を、緩やかに解きほぐしていった。

 

沈黙を破るように、ミャウダーが肩をすくめて一同を促す。

 

「ま、一先ず飯にしながら作戦会議だ。湿っぽい話は腹を満たしてからにしようぜ」

 

それは、かつて数多の死線を見届けてきた彼なりの、乱暴で切実な優しさであった。

 

「せっかく宿命を略奪したハッピーな世界に居るんだ。このままプロメシュームの怨念を根こそぎ叩き潰して、ついでにお前の親父さんもぶん殴って、より完璧なハッピーエンドにしてやろうぜ?」

 

「……ぶ、ぶん殴るって……」

 

鉄郎の呟きに対し、ミャウダーは獰猛なまでに明るい笑みを返した。

 

「必要だろ。親父ってのは、倅に殴られて初めて一人の『男』に戻れる時がある。それがこの世界の理法ってもんだ」

 

メタルメナは思わず噴き出しそうになり、慌てて端麗な口元を抑えた。クレアはもはや隠すこともなく、晴れやかに笑い声を上げた。

 

その笑声こそが、通路の空気を完全に塗り替えた。

 

鉄郎もまた、観念したように肩を落としたが、その顔には戦士の休息にふさわしい晴れやかな笑みが浮かんでいた。

 

「……分かった。飯だ。腹が減ったよ」

 

「よし。決まりだ」

 

ミャウダーを先頭に、鉄郎とメタルメナが並び、クレアがその背を追う。

 

四人は、巨大な船団のどこかに在る、活気溢れる食堂を目指して歩み出した。

 

涙の痕を乾かさぬままに笑うことを、この場所は許している。

 

深い痛みを抱えたままに、空腹を覚えることを、この掟は肯定している。

 

そして、飢えを感じるということこそが、生を略奪し、再び獲得した者たちの、何よりの勝利の証であった。

 

星の海の通路に、四つの足音が軽やかに、そして力強く鳴り響いていた。

 

 

 

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