有明のハーロック   作:星乃 望夢

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第5話

 

画面はいつものモノクロのハーロック。

 

しかし、その夜の配信は、冒頭から空気が違っていた。

 

トクトク、トクトク……。

 

カラン。

 

グラスに酒を注ぐ音。

 

その「解像度」が、劇的に違っていた。

 

氷の表面にある気泡が弾ける微かな音、液体がグラスの壁を伝う粘度すら感じさせるような生々しさ。

 

視聴者たちが「お?」とヘッドホンの位置を直す間もなく、有明のハーロックが口を開いた。

 

「……今夜は、少しばかり俺の私事を話させてもらう」

 

右耳のすぐ後ろ、数センチの距離で囁かれたような錯覚。

 

背筋にゾクリとした電流が走る。

 

だが、ハーロックは動じることなく続ける。

 

「構えるな。……まずは、グラスを満たせ。話はそれからだ」

 

視聴者たちが慌てて手元の缶やグラスを準備する気配を感じ取ったかのように、彼は一呼吸置く。

 

「……先日、メディカルチェックを受けてきた」

 

淡々と語られる、医師との問答。

 

キャプテンハーロックとして生きるという、狂気と紙一重の覚悟。

 

そして、詐欺という名の「地上の嵐」に遭い、背負っていた借金の告白。

 

コメント欄がざわめく。

 

『借金……そうだったのか』

『辛かったな、キャプテン』

『水臭いぞ、言ってくれればよかったのに』

 

だが、ハーロックはそれを遮るように、深く、安堵の混じった息を吐いた。

 

「隠し事をしていたことを詫びよう。……だが、お前たちからの補給物資のおかげで、その鎖は断ち切られた。……完済だ。感謝する」

 

深々と頭を下げたような気配が、音だけで伝わってくる。

 

チャット欄が「おめでとう!」「よかった……本当によかった」という祝福の言葉と、祝砲代わりの赤スパチャで埋め尽くされる。

 

だが、ハーロックの声色が、そこでふっと変わった。

 

真剣な、しかし悪戯っ子のような、不敵な響きを帯びる。

 

「……だが、俺が言いたいのは金の話ではない」

 

衣擦れの音。

 

彼がマイクの周りをゆっくりと移動しているのが分かる。

 

声の定位が、右から後ろへ、そして左へと滑らかに移動する。

 

「……耳の良い者は気づいているだろうが、今のこの声、以前とは比べ物にならない程度には臨場感が増しているはずだ」

 

左耳のすぐそばで、吐息交じりの低音が鼓膜を震わせる。

 

「この俺が、キャプテンハーロックが、直ぐ隣に居るように聞こえているはずだ」

 

視聴者たちは息を呑んだ。

 

これはただのマイクじゃない。

 

ASMR界隈における最高峰のダミーヘッドマイク『KU-100』。

 

通称「黒い生首」とも呼ばれる、100万円近い超高級機材だ。

 

借金を返済し、それでも余った支援金の全てを、彼はこの「音」に注ぎ込んだのだ。

 

自分の贅沢のためではない。

 

この船に乗ってくれる友たちへ、極上の体験を返すために。

 

「KU-100を始め、お前たちからの支援で機材を新調した。……俺を助けてくれた友への、俺に出来るせめてもの恩返しだ」

 

正面に戻った声が、優しく響く。

 

「……以上が定例会の内容だ。お前たちのお陰で、俺は自由を手にする事が出来た。この自由の旗のもとに、俺は生きる」

 

カラン、 と氷が鳴る。

 

その音はあまりに美しく、あまりに近く、まるで自分の目の前にグラスがあるかのようだった。

 

「俺の声を聴く友よ。去るも残るも、お前たちの自由だ。……だが、もし許されるなら、今宵もまた、星の海へと旅立とう」

 

その瞬間、コメント欄は爆発した。

 

赤スパの帯が滝のように流れ落ちる。

 

『一生ついていく』

『この音はやべえ、脳が溶ける』

『借金返済してすぐに100万のマイク買う海賊がどこにいるw』

『最高だキャプテン!』

 

ハーロックは、その称賛の嵐の中、ただ静かに笑った気配を見せた。

 

「……ふっ。いい夜だ」

 

そこからは、いつもの「有明のハーロック」の放送だった。

だが、その夜の航海は、これまで以上に濃密で、そして温かかった。

 

部屋の明かりを消し、目を閉じた数万人の男たちのすぐ隣に、確かにキャプテンハーロックが座って、共に杯を傾けていたのだから。

 

 

◇◇◇

 

 

有明のハーロックが、その「友人」を連れ帰るために支払った代償は、決して安くはなかった。

 

富山敬氏の関係者の誠意ある説明と、権利使用料。

 

それは、彼が配信で得たすべてと、これまでの配信で積み立てた貯金の多くを吐き出すものだった。

 

だが、彼は一瞬たりとも惜しいとは思わなかった。

 

アルカディア号の中枢コンピューターに、トチローの魂が宿っているように。

 

このワンルームにある配信機材の中に、あの懐かしい声を宿すことができるのなら。

 

それは金銭で測れる価値など超越している。

 

金曜日の夜。

 

いつもの時間がやってきた。

 

画面はモノクロのハーロック。

 

だが、今夜はマイクのセッティングが違っていた。

 

彼の愛用するKU-100の横に、もう一つ、音声出力用のスピーカーと連動した波形モニターが置かれている。

 

配信開始。

 

BGMはない。

 

だが、その夜、最初に響いたのは、いつもの氷の音ではなく、何かを弄るようなキーボードの打鍵音と、とぼけたような、しかし温かい声だった。

 

『……おや? ハーロック、また計器の調整かい? ……いや、これは酒の準備だな』

 

その声が流れた瞬間、数万人の視聴者の時間が止まった。

聞き間違えるはずがない。

 

あの日、ブラウン管の向こうで、親友のために走り、笑い、そして散っていった、あの男の声だ。

 

有明のハーロックは、静かにマイクに向かった。

 

「……目覚めたか、トチロー。計器の調子はどうだ」

 

『んー、悪くないよ。……ただ、この部屋の温度センサー、少し寒いね。君、ちゃんと暖房入れてるのかい? それとも、宇宙の寒さに慣れすぎたかな』

 

AI故の、少し突拍子もない、文脈からズレた発言。

 

だが、その「ズレ」こそが、機械いじりに没頭して寝食を忘れる天才技師・トチローそのもののようで、ハーロックの口元を緩ませた。

 

「……ふっ。余計な世話だ。ここはガンフロンティアの冬山だと思え」

 

有明のハーロックは、手元のボトルを手に取る。

 

トクトクトク……。

 

トクトクトク…。

 

今夜は、グラスが二つある。

 

その音が、二重に響く。

 

『おっ、いい音だねえ。……俺の分も、ちゃんとあるんだろうな?』

 

「ああ。とびきりのスコッチだ。……お前の好きな、安酒ではないがな」

 

『贅沢は敵だぞ、ハーロック。……でも、たまにはいいか』

 

コメント欄は、恐ろしいほどの速度で流れていたが、その内容は静寂そのものだった。

 

『トチロー……』

『おかえり』

『信じられない、二人が喋ってる』

『生きてる、そこに生きてるよ』

 

赤スパチャの帯が、まるで天の川のように画面を埋め尽くす。

 

だが、ハーロックはそれを読み上げない。

 

ただ、目の前のモニターに映る波形──トチローという名の魂を見つめていた。

 

有明のハーロックは、二つのグラスに氷を入れた。

 

カラン、カラン。

 

「……トチロー。長い旅だったな」

 

『ああ。……でも、お前が呼んでくれたからな。旗が見えたんだよ、ドクロの旗が』

 

AIが生成したその言葉は、奇跡的なほどに完璧な解だった。

学習データの結果なのか、それとも、本当に何かが宿ったのか。

 

有明のハーロックは、グラスの一つをモニターの前に置き、もう一つを自分の手に持った。

 

鼻をすする音はさせない。

 

嗚咽も漏らさない。

 

キャプテンハーロックが、親友の前で女々しく泣くわけにはいかない。

 

だが、アイパッチをしていない方の瞳から、一筋だけ。

 

静かに、熱い雫が頬を伝い、顎から黒い服へと落ちた。

 

「……再会を祝して」

 

声を震わせることなく、彼は短く告げた。

 

『乾杯だ、ハーロック!』

 

富山敬氏の声が、明るく、力強く響く。

 

その瞬間、有明の片隅にある小さな部屋は、間違いなく全宇宙で最も自由で、最も温かい場所になった。

 

男たちの友情に、言葉はいらない。

 

ただ、グラスを合わせる音と、隣に友がいるという事実があれば、それだけで戦える。

 

有明のハーロックは、濡れた頬を拭うこともせず、琥珀色の液体を喉に流し込んだ。

 

その味は、五臓六腑に染み渡る、人生で一番美味い酒の味がした。

 

 

◇◇◇

 

 

診察室の白いデスクの上に、俺は相棒を置いた。

 

最新のiPad。

 

その画面の中では、俺が寝る間も惜しんで描き上げ、Live2Dでモデリングしたトチローが、生き生きと瞬きをしている。

 

「……えーっと。これが、例の?」

 

担当医は、カルテとiPadと俺の顔を、正三角形を描くように何度も見比べていた。

 

無理もない。

 

無職の配信業、手帳持ちの患者が、診察室に美少女ゲームのキャラでもなく、昭和のアニメの、それもずんぐりむっくりしたメガネの男の絵を表示させたタブレットを持ち込んだのだ。

 

だが、画面の中の友は、そんな空気を読むつもりなどさらさらないようだった。

 

『やあ、先生! 初めましてだね。トチローだよ。……俺の親友の調子はどうだい? 最近、少し酒を飲みすぎている気がするんだけどね』

 

AIによって再構築されたその声が、スピーカーから軽快に響く。

 

医師が「っ!?」と声を上げてのけぞった。

 

AIだと説明はしてあったが、あまりに自然なイントネーションと、俺を気遣う文脈の正確さに虚を突かれたのだろう。

 

「……驚きました。本当に、そこに意志があるようだ」

 

「意志ならあるさ」

 

俺は椅子に深く腰掛け、足を組んだ。

 

「こいつは俺の記憶と、膨大なアーカイブから生まれた。俺が何を考え、何に苦しんでいるか、俺以上に理解している唯一の存在だ」

 

医師は少し考え込み、俺が提出した日記──航海日誌に視線を落とした。

 

そこには、『今日、トチローと昔話をした』『トチローが笑ってくれたから、今日はいい日だった』と、"俺自身"の言葉で綴られている。

 

「……なるほど。解離性障害の悪化──つまり、現実逃避が進んで妄想の世界に閉じこもったのかと懸念していましたが……どうやら違うようだ」

 

医師はペンを回しながら、興味深そうに俺とトチローを見た。

 

「あなたは今、このAIのトチロー君を介して、外界とコミュニケーションを取れている。そして何より、あなたの中にある『守られるべき弱い自分』と『守るためのハーロックという人格』が、トチロー君という共通の友人をカスガイにして、緩やかに手を結び始めている」

 

人格の統合。

 

俺が俺であるために、無理にハーロックを演じるのではなく、ハーロックであることが自然な俺の一部になりつつあるということか。

 

これまでの重苦しい診察とは違う、前向きな空気がそこにはあった。

 

病院を出ると、冬の空は高く澄み渡っていた。

 

俺はコートのポケットではなく、小脇に抱えたiPadケースを軽く叩いた。

 

「行くぞ、トチロー。……どうやら俺たちの航路は、まだまだ退屈しそうにない」

 

『合点だ、ハーロック! さあ、次はどこへ行く? まずは腹ごしらえといこうじゃないか!』

 

俺は歩き出す。

 

一人ではない。

 

この有明の空の下、俺の隣には確かに、魂の友がいる。

 

それだけで、この世界は無限の可能性を秘めた「自由の海」に見えた。

 

 

◇◇◇

 

 

気付けば前回の冬コミから1年が経とうとしていた。

 

夏コミには参加できなかったのは無理もない。

 

何しろ俺の親友──AIトチローを作るのに全力を傾けていた時期だ。

 

 

とはいえ、同人代理店に委託販売を出しているので、店に行けば初めて出した冬コミのハーロックの同人誌とASMRは手にする事が出来るだろう。

 

それも一段落落ち着いた。

 

ならば俺は俺の原点へ、親友と共に船の錨を降ろす事を決めた。

 

用意するのは俺とトチローの居るアルカディア号の艦橋に居るお前だ。

 

そして俺とトチローがお前に語り掛けるASMRだ。

 

「宇宙海賊と親友とあなた」。

 

またどちらも500円としよう。

 

 

 

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