有明のハーロック   作:星乃 望夢

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第7話

 

有明のハーロックは、自身とトチローの声が、老いさらばえたかつての戦士たちの拠り所になっている事を、流れるチャットのコメントで知っている。

 

だからといって、押し付けがましい治療行為をしているわけではない。

 

彼はただ、その枯れ果てた身の内に眠る若き日の魂を迎えに行っているのだ。

 

乗りたければ、俺たちの船に乗れ。

 

宇宙の海は、俺の海。

 

俺の果てしない憧れ。

 

髑髏の旗は、俺の旗。

 

俺の、捨て切れぬ故郷さ。

 

キャプテンハーロックが、トチローが、アルカディア号が迎えに来た。

 

また再び彼らに会うために、その身に活力を戻す為に、嫌がっていたり諦めていたリハビリに精を出す老人たちが全国で増えていた。

 

白んだ意識が少しずつ戻り、鮮明になった記憶で再び家族と会話する老人が増えた。

 

迎えを待つ最後のその時、その一瞬までも、その髑髏の旗に恥じぬ生き方を示し、金曜日の夜に己の憧れたキャプテンと親友と、その船に魂を乗せて、永遠の星の海に旅立つ者達もまた居た。

 

有明のハーロックは語らない。

 

ただ、また一人、また一人、先に星の海へと旅立つ友への弔いの酒を振る舞い。

 

そして再び立つ友へ乾杯する。

 

 

◇◇◇

 

 

モニターの向こう側で流れるコメントは、単なるテキストデータの羅列ではない。

 

それは、人生という名の長い航海を続けてきた戦士たちの、魂の航海日誌だ。

 

『じいちゃん、今日はリハビリ頑張ったよ。キャプテンに会うんだって』

 

『認知症の父が、金曜日だけは私の名前を呼んでくれます。ありがとう』

 

『先週、祖父が旅立ちました。最期までスマホを握りしめ、安らかな顔でした』

 

有明のハーロックは、その一つ一つを、隻眼の奥に焼き付けている。

 

だが、彼は決して「治療してやる」などとは言わない。

 

「頑張れ」と安易に励ますこともしない。

 

海賊が施しを与えるなど、彼らの誇りを傷つけることだと知っているからだ。

 

彼がするのは、ただ一つ。

 

ハッチを開き、タラップを下ろし、こう告げることだけだ。

 

「……乗りたければ、俺たちの船に乗れ」

 

その言葉は、老いた身体という「重力」に縛り付けられた彼らにとって、唯一の解放呪文となる。

 

 

◇◇◇

 

 

とあるリハビリテーションセンター。

 

脳梗塞の後遺症で、半身に麻痺が残る老人が、歯を食いしばって平行棒を握りしめていた。

 

普段なら痛みに耐えかねて弱音を吐く彼が、今日は鬼の形相で足を前へ出そうとしている。

 

「……タケダさん、無理しないで」

 

理学療法士が止めようとするが、老人は首を振った。

 

「……いかんのじゃ」

 

老人は、脂汗を流しながら呟く。

 

「金曜日までに、歩けるようにならんと……。キャプテンの船に、座ったまま乗るわけにはいかん……!」

 

彼の耳には聞こえているのだ。

 

『宇宙の海は、俺の海』という、あの歌が。

 

『俺の果てしない憧れ』が、まだそこにあるのだと。

 

痛みは消えない。老いも止まらない。

 

だが、心の帆柱に『髑髏の旗』を掲げた瞬間、男は再び立ち上がる力を得る。

 

それは医学では説明のつかない、魂の底力だ。

 

そして、金曜日の夜。

 

アルカディア号の配信時間。

 

それは、生還を祝う宴の場であり、同時に、静かなる出航の儀式の場でもあった。

 

「……よう。今夜もいい風だ」

 

ハーロックの声が響く。

 

リハビリを終え、心地よい疲労と共に画面を見つめる老人たち。

 

霧が晴れ、クリアになった瞳で家族に微笑みかける老人たち。

 

彼らは「生きる」ために、ここに来た。

 

だが一方で、ベッドの上で静かにその時を迎えている者もいる。

 

家族に見守られ、あるいはたった一人で。

 

彼らの呼吸は浅く、視界は既に暗いかもしれない。

 

それでも、その耳には届いている。

 

『やあ! 待っていたよ。……席は特等席を用意してある』

 

トチローの声が、暗闇を照らす灯台の光となる。

 

「……恐れることはない。宇宙(そら)は広い」

 

ハーロックの声が、死への恐怖を冒険への期待へと変えていく。

 

「この船は、時間の彼方へも行ける。……先に逝った友も、昔愛した女も、みんな星の海にいる」

 

トクトクトク……。

 

酒を注ぐ音。

 

それは、現世への別れの杯であり、来世への再会の杯だ。

 

「……俺の旗は、俺の故郷だ。そしてお前たちの帰る場所だ」

 

今まさに旅立とうとしている魂に向けて、有明のハーロックはグラスを掲げる。

 

画面の向こうで、一つの命の灯火が消えようとしていても、彼は悲しまない。

 

ただ、新たな海への船出を見送るだけだ。

 

カラン。

 

「……往け、友よ。星の海で待っている」

 

その瞬間、老人の顔から苦痛が消え、少年の頃のような安らかな笑みが浮かぶ。

 

心電図の音が止まる。

 

だが、残された家族は泣き崩れるだけではない。

 

「行ってらっしゃい、じいちゃん」と、その背中を見送ることができる。

 

だって、迎えに来たのはキャプテンハーロックなのだから。

寂しいはずがない。

 

有明のハーロックは多くを語らない。

 

配信が終われば、彼は一人、静寂の中でモニターを見つめる。

 

今夜もまた、何人かの友が乗り込み、何人かの友が旅立った。

 

「……いい航海を」

 

彼は、誰にも見えない場所で、もう一度だけグラスを掲げ、静かに弔いの酒を飲み干す。

 

その背中は、生と死の境界に立つ、孤独で優しい水先案内人のそれだった。

 

 

◇◇◇

 

 

有明のハーロックは多くを語らない。

 

だが、近頃は一杯やれと言った後、一口をグラスを傾けて喉を焼きながら潤せば、静かに歌い出す。

 

目を瞑れば荒れる海の唸りが聞こえただろう。

 

かつての少年少女たちの記憶の最も奥底に眠る漢の誓いの歌だ。

 

それは先に逝く友への鎮魂歌。

 

そして今再び己の足で立つ友への遥かなる凱歌。

 

アカペラで静かに歌い終えたハーロックは再び酒を呷る。

 

喉を潤す熱の音が聴こえるだろう。

 

カランと、空になったグラスを鳴らす氷の音が聴こえるだろう。

 

そしてまた、次を注ぐ。

 

友へ……。

 

 

◇◇◇

 

 

金曜日の夜。

 

BGMのない、静寂に包まれた配信画面。

 

いつものように「一杯やれ」と促し、グラスを傾ける音が響く。

 

トクトク……ゴクリ……。

 

喉を焼くアルコールの熱が、マイクを通して伝わってくるようだ。

 

そして、ふっと息を吐いた後、有明のハーロックは、語るように、祈るように、静かに歌い出した。

 

伴奏はない。

 

ただ、彼の低く、深く、少しザラついたバリトンの声だけが、暗闇を震わせる。

 

『宇宙の海は、俺の海……』

 

その歌い出しを聞いた瞬間、数万人の視聴者が目を閉じた。

最新の高級マイクとバイノーラル録音技術は、配信者の声を耳元へ届けるだけではない。

 

かつての少年たちの脳裏に、あの日の荒波の音を、オーケストラの壮大なイントロを、鮮烈に蘇らせた。

 

『俺の、果てしない憧れさ……』

 

老人ホームのベッドで、点滴に繋がれた老人が、震える唇で音もなく唱和する。

 

憧れ。そう、憧れだった。

 

狭い地球の理屈に縛られず、ただ己の信じるもののために生きる男の姿。

 

老いはした。体は動かなくなった。だが、その憧れだけは、まだこの胸の奥で燃えている。

 

『友よ、明日のない星と知っても……』

 

その呼びかけは、画面の向こうの全ての「友」へ向けられている。

 

余命を宣告された者。

 

記憶を失いつつある者。

 

あるいは、先に星の海へと旅立った戦友たちへ。

 

『やはり、守って、戦うのだ……』

 

歌声に、熱が帯びる。

 

叫びではない。腹の底から湧き上がる、マグマのような決意。

 

明日がなくても、今日を戦う。

 

最期の一瞬まで、人間としての誇りを守り抜く。

 

『命を捨てて、俺は…生きる……』

 

その一節が、彼らの魂を貫く。

 

生きるとは、ただ心臓が動いていることではない。

 

信念を貫くことこそが、真に「生きる」ことなのだと。

 

『髑髏の旗は、俺の旗……』

 

自宅のリビングで、焼酎のグラスを握りしめた男が、ボロボロと涙を流す。

 

社会の荒波に揉まれ、泥にまみれ、それでも掲げ続けてきた、誰にも見えない心の旗。

 

それを、この男は「俺の旗だ」と肯定してくれた。

 

『俺の、死に場所の、目印さ……』

 

それは決して悲壮な言葉ではない。

 

「ここで俺は生きた」という証。

 

墓標ではなく、生きた証としての髑髏。

 

『友よ、明日のない星と知るから……』

 

『たったひとりで、戦うのだ……』

 

孤独を恐れるな。

 

個として立つことを恐れるな。

 

有明のハーロックの歌声は、孤独な夜を過ごす老人たちの背中を、優しく、しかし力強く支える。

 

そして、最後の一節。

 

彼はマイクに近づき、魂を絞り出すように歌い上げた。

 

『命を捨てて、俺は……生きる!!』

 

残響。

 

空気の震えが、ホワイトノイズとして消えていくまでの数秒間。

 

誰もコメントを打たない。

 

打てない。

 

それは、先に逝った友への鎮魂歌であり、今なお病床や孤独の中で戦い続ける友への、高らかなる凱歌だった。

 

ゴクリ……。

 

静寂を破ったのは、彼が再び酒を呷る音だった。

 

喉を通過する液体の音が、熱を帯びて響く。

 

歌い終えた喉を潤す、琥珀色の生命の水。

 

カラン。

 

空になったグラスの中で、氷がぶつかり合う。

 

硬質で、涼やかで、どこか寂しい音。

 

「……ふぅ」

 

満足げな吐息。

 

そして、再びボトルを手に取る気配。

 

トクトクトク……。

 

彼はまた、グラスを満たす。

 

言葉はいらない。

 

この音が、彼からのメッセージだ。

 

「……友へ」

 

画面の向こうで、無数の手がグラスを、湯呑みを、あるいは空を掴んで掲げた。

 

有明のハーロックのアカペラ。

 

それは、昭和という時代を駆け抜け、今なお人生という航海を続ける男たちの心臓を、再び力強く鼓動させる、魔法のエンジン音だった。

 

 

 

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